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この暑さの地獄にも、男の渇ききった躯からは、一滴の汗も垂れ落ちなかった。
一両日の間、ほとんど飲食をしていなかったが、疲れを見せずに脚を動かしている。 生まれ育った故郷が、ここにまさる極暑の地点であるから、過酷さに順応できる躯をもっている。だがそれにもまして、意志の力が働くところが大きかった。 周囲の景観は、砂の地面にまばらな植物が生え、彼方に奇岩が連なる、岩の砂漠。 旅人は、辺りに転がる岩石の、風に浸食を受けた部分から、方角を知り、目的地へ向かって迷いなく進んでいく。 遙かに見える岩山の上から、一匹の豹が、旅人の行くさまを見つめている。
やがて、時間は経ち、暑さは少し弱まりを見せはじめた。 そぞろ歩く男の背後から、夕陽が照りつける。固まり始めた血のような色の。 トーガを纏った男の影が長く伸びてゆく。 岩山の方では、すでに豹はどこにもいない。 倦まず休まず、さらに距離を進んでいった。 その足元で、小さく風がつむじを巻き、ひゅるるる、と唸りを上げる。 またしばらく歩いてから、不意に旅人は脚を止めた。
先刻まで風に紛れていた、微かな気配が露わなものになった。 彼は振り返って、遠くからゆっくりと距離を詰めてくる人物を認めた。 気配を隠していた時と違い、今は、大胆不敵。山羊皮の水筒を傾けながら、砂漠の民とおぼしき風采の男が、鷹揚に保を進めてくる。 ここは、悪意の砂漠、カーンの入り口。如何なる部族の民がいても、不思議はないと思った。 「もうじき、砂嵐が来る」 目元を隠す布を押し上げながら、その男は短く告げた。
「……その警告をするために、後を尾けてきたのでもあるまい」 「まぁな。用件は他にある。おぬしが、『黒く灼ける陽』の族長ダーリエンが四男、アジハルに間違いなければ」 旅人、アジハルは相手の面を睨んだ。 「俺の名を知るお前は」 「『揺らめく炎』一族の戦士、プラユーン。おぬしへの刺客だ」 聞いて、彼の瞳孔が伸縮し、白目に血管が走る。 瞳に尾行者の顔が映り、その表情は不敵に頬笑んでいる。 「不意を打とうと考え、地形を探していたが、嵐は間近に近づいて、暇もなくなったようだな。真正面からのやり合いになりそうだ、腹が座るものさ」 「…………」 「わが族長は言ったよ。禍々しき『黒く灼ける陽』の血、けして後の世に受け継がせることのないようにとな」 「俺も、お前を。お前らを、探していたのだ」 「ほう……」
「悪意の砂漠」カーンに暮らす者たちを、アレクラスト大陸の人々は、一括りに砂漠の民と呼ぶ。 だが、彼ら全体が一つの共同体に属しているわけではなく、文化や習俗が近似している砂漠の民のなかにも、部族分けは歴然と存在している。 むしろ、過酷な環境のなかで、地勢的に暮らしやすい場所を巡り、部族同士の抗争は頻発しているといえた。 「黒く灼ける陽」と「揺らめく炎」の争いは、彼らの祖父の代から続けられている。深刻な対立、一切の交流がなくなったことは、信仰や、価値観の相違を生み、同じできごとに対する認識すら、お互いで変わるような運命を、二つの部族にたどらせた。
アジハルはかつて、彼らの神マルドゥクの力を借り、長年の敵に対して力を弱める一方の部族を盛り返そうと、聖杯と呼ばれるアイテムの探索に奔走していた。 だが、顕現したマルドゥクの力が、彼らを救うことはなかった。その日、「黒く灼ける陽」は、「揺らめく炎」の侵攻によって亡んだ。彼とその妹、ただ二人を除いて、部族の民は根絶された。その事件のかげに、とあるエルフの暗躍があったことは、双方の部族が知る由もない。
「われらの恨みの深さがわかるか」 ゆっくりと言って、相手の瞳を直線に見据えた。 プラユーンは些かも動揺するところを見せず、その冷えきった視線を受ける。 「敵の事情を思いやることは、一族の女でもせん。ましてや、我は戦士である」 彼はそれを聞いて、ゆるく笑みを洩らした。しかしそれは、相手の言葉を歯牙にもかけないために出る笑いとは、明らかに印象が異なる。 「なるほどな……。それも腑に落ちる」 「ほう。……おぬし、意外に沈着だな。すでに従容と、さだめを受け容れるままか」 『揺らめく炎』の戦士は、腕を組む。
『黒く灼ける陽』の生き残りは、静かにかぶりを振った。 「いや。こんなときに、ふと、部族の戒律をひとつ、思いだしたのだ。『目には目を、歯には歯を』貴様のところでも同じようなものがあるようだが」 「おお。ある」 「この徳律がいうのは、復讐を抑制せよということだ。怒りに身を任せることを厳に戒めている。だから、この場合にもその意にならうべきかと、考えていた。……激情のためにやりすぎることなく、自分がされたのと同じ事をするだけで、相手を許してやれ。先人はそう語る」 わずかな沈黙があった。 「……それで?」 「ぐっ、くくく、そうさ」 唸るような声を立てた。 喉に突き上げてくるものをこらえきれない様子で。 「オレがされたのと同じことをしてやるともだ……貴様たち、『揺らめく炎』の全員を、黒炎の中に投げ込んでくれる!!」 続いて、怪鳥のような声が口からほとばしった。 身に纏ったトーガを風に翻らせ、アジハルは敵に躍りかかっていた。 低い態勢から、恐るべき脚力で地を蹴る。間合いが一息のうちに詰まる。長く反ったカタールの刃が、アジハルの伸ばした手の先で光った。 その矢のような一撃を、プラユーンは身体をひねってかわす。 アジハルは身体が無為に泳ぐまえに、素早く地に手をついて受け身を取り、頭から一回転して立ち上がった。 腰を落としたまま、素早く振り返り、敵たる「揺らめく炎」を睨みつける。 プラユーンは唇をめくり上がらせ、笑う。 「ふふん、予想していたぞ。立ち上る巨大な殺気は隠しようもない」 「オレの背後で、数百の亡霊が怨嗟の声をあげているのだ。貴様に向けてな」 「何もきこえんさ。それよりおぬし、身体はなんともないのか」 アジハルは気づいたように、右の二の腕を見た。そこに、ごく小さな切り傷があり、赤黒く変色した血が盛り上がっていた。 「すれ違いに付けたか、見事な腕だな。だが生憎、オレに砂漠の毒は通じん。多少、塞がるのに時間はかかるが」 「おもしろい」 プラユーンは、右手に握った小さな短刀を砂の上に捨てた。 そして腰に手をやり、小降りの円月刀を、しゅらりと鞘に滑らせ、抜き放つ。最後の残照が刃の上で輝いた。 「では、真っ向からだ。……お命頂戴ぃ!!」 そして、早駆けをする。 迎え撃つアジハルの足先で、砂が大きな窪みをつくった。 「長年、待ったあぁ!!!」
「はっ!!」「うむっ」「ごおおおおおお」「せい」「とう」「だだだだぁっ」「ぐう」「はっ」「」「甘いっ」「むう」「でりゃ」「死っ」「まだまだぁ!」「思いしれ!!」
小半時も打ち合ったころ、プラユーンは肩で息をしていた。飛びずさり、彼我の距離を取ると、腰に結んだ水筒を取り上げ、先を口に含む。 「どうした、もう終わりかっ!」 「焦るな……、そっちに余裕がない証拠だぞ」 アジハルは黙殺し、再び地を蹴り、躍りかかる。 その瞬間、彼の目の前に巨大な火焔が現れた。プラユーンの口から、それは吹き付けられていた。 「むう!?」 彼はとっさに独楽のように回転をはじめ、身に纏う服に火がつくのをふせいだ。 「貴様ぁ」 そこに来た円月刀の衝撃を、カタールで受け止めた。 「しぶとい奴め」 彼が押し返し、再び両者は仕切り直す。
「あいや」 「せや」 「なんと」 「はっ」
「いざぁっっっ」 「死いねえええええ!!!」
「は」 「ぐぬうぅぅぅ」 「どりゃ」「とう」 「堕ちよ凶星!」
「うぉっ」 「この程度かぁ」 「そうりゃあぁぁ!」 「!」 「覚悟!」 「あの世で仲間が待っておるぞ」 「ぐばっ」
「!」
「貴様の苦痛の全ては、同胞への餞よ!」
「は」「あとぅっ!!」 「覚悟っ」「させるかあ」
日が暮れ、夜空に星が瞬き始めるまで、対立する二つの部族の闘いは続いた。
「砂嵐が…!」
おたがいに、満身創痍という状態であった。 横薙ぎに吹き付ける突風が、瞬きするごとに激しさをまし、アジハルはついに地に倒れ伏した。 敵の姿も、砂煙に紛れて見あたらない。 おそらく、プラユーンも強風に巻き込まれたものだろう。 この嵐がいつまで続くものか…… アジハルは砂に顔を埋め、思った。
「時を貸してやるだけだ。いずれ、命をもらう」 憎むべき敵の声だと、耳をすますが、届いてくるのは風の唸りだけである。 彼はそのまま、意識を失った。
◇◇◇◇ 夜が明け、再びの、灼熱の砂原──。 二頭の駱駝が、アジハルの身体の上に積もった砂を踏んだ。 駱駝にまたがった初老の男は、ようやく気づいたように、地に降りた。そして、砂から露出している顔に近寄り、死んでいないなら、気付けをしようと試みた。
彼が目を開けると、その瞳には虚ろが映っているばかりであった。
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