風鈴の音 ( 2001/08/12 )
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作者
松川彰
登場キャラクター
ラス,ラシェジ,セシーリカ



参考資料:「子守歌」 「そして往く雲」 「雲の行き着く先は」

◆          ◆          ◆



 何日か前の話。
「え〜…っと、これ、お詫びなんだけど……お昼ご飯にどうかと思って」
 栗色の髪を肩先で揺らしながら、セシーリカが微笑んだ。確かに時間だけを考えるならば、昼食なんだろう。少し前に、チャ・ザの鐘が正午を告げていた。だが、俺にとっては朝食かもしれない。鐘の音で、浅い眠りから覚めたばかりだから。
 詫び、というのは、セシーリカの猫のことだ。ショウという名前のその雉猫は、俺のところにいる雌の仔猫を気に入ったらしく、ちょくちょく遊びにきている。そして、昨夜はどんな遊びをしたのか知らないが、シーツや枕まで爪で引き裂かれていた。
「………え? 食い物…?」
 おまえが作ったのか、という台詞は辛うじて呑み込む。
「今日のは大丈夫だよ。私の得意料理だから」
 にぱっと笑う半妖精の少女。以前に一緒に遺跡に行った時のことを思い出した。おまえにだけは食事当番はさせない、とあの時俺は叫んだような気がする。
「得意料理……ね。んじゃま…ありがたくいただくか。ちょうどメシはまだだったしな」
 得意と言うからには、それなりに自信があってのことだろう。少なくとも、パダに行く途中で作っていた、シチューによく似たものよりはまともなはずだ。
 包みを開いて、中身を見つめたあと、わき上がる幾つかの疑問を抑えられなかった。
「………これは…なんだ?」
「え? 見てわかんないの? 食べたことない? 粉ふき芋だよ」
 足もとでじゃれつくショウを抱き上げながら、セシーリカが笑う。
「ああ…そう。そうだな。オランでは粉ふき芋を弁当に使うのか? 西じゃあまりない習慣だけど…」
「うーん…どうだろ? ま、いいじゃないか。私の得意料理、食べてよ」
 得意料理……粉ふき芋に何か特別な技術は必要だっただろうかと思い返してみる。それでも、あまり細かいことを気にするのは年寄りくさいとか所帯じみてるとか、またしてもそういうことを言われかねないので黙ってることにした。………ただ、あと1つだけ聞いてみたいことがある。
「セシーリカ? この芋は………普通とは違う芋なのか? それとも包丁が手元になくて何か…そう、斧を使ったとか?」
「ううん、普通のお芋だよ。普通の包丁使ったし。なんで? ……ああ、形? ちょっとね……歪んじゃった。お芋って剥きにくいんだもん。それに、お芋1つにつき、ひとかけらしかとれないしね」
 ……………ちょっと待て。今一瞬…くらっときたぞ。芋1つでひとかけら……ああ…誰だっけ。昔、誰かが似たようなことを言って……。


 そして今日。ふと同じ台詞を思い出した。
『芋って不経済だと思わないかい、ラストールド?』
 真剣な顔でそう聞いてきたあの男に、俺が聞き返したんだ。
『……どうしてだよ?』
『だって、1つにつきひとかけらしかとれないじゃないか。それと…いつも不思議に思っていたんだけどね。私が作る料理と、おまえが作る料理と…同じ材料で形が違うのはどうしてだろう? どうしておまえが剥いた芋には角があるんだい?』
 どうして、と。それはこっちが聞きたかった。芋なんて普通は、剥いてから3つか4つに割るものだろう。もちろん、まるごと使う時もあるが。とにかく、剥いた芋を4つに割れば、角が出来るのは当然だ。
『芋が不経済かどうか、と言うなら……多分、不経済なんだろうな。父さんのような使い方をしていれば、の話だけど』
 もう、30年も前にエルフ語で交わされた会話。
 窓辺から、ちりんちりんと澄んだ音が響いてきた。シルフたちが戯れてる気配。東を回る旅から帰ってきた友人の土産だ。風鈴、と言うらしい。ムディール版のウィンド・チャイムというわけだ。
 この音色があればオランの夏も少しは過ごしやすかろう、と。戦士であるその友人、スカイアーは笑っていた。
 そうだな。そうかもしれない。涼やかな音色は、鬱陶しい暑気を少しは紛らわせてくれる。オランで過ごす夏は3回目を迎えるけど…未だに慣れない。照りつける陽射しを石畳が跳ね返す。そして、石畳に吸い込まれた熱は夜になっても消えないで残る。そして翌日に持ち越していく。ガルガライスほど乾燥していないこの土地は、街を流れるハザードのせいで湿気も十分にある。ハザードが豊かなおかげで、水不足にならないで助かると土地の人間は言っていた。それでも、石畳が作る温度にその湿度が加われば、鬱陶しいどころじゃないことになる。
 タラントは……涼しかったよな。


 ちりん。
「ああ…シルフが遊んでいるね。いい風だ」
 家を出て、2人で散歩をしていた時だった。かすかな高い音とともにシルフが通り過ぎていった。
「父さん? 今の音は?」
「多分、ウィンド・チャイムの音だろう。エルルークが幾つかコレクションしていたからね。今の音は…銀のウィンド・チャイムかな。ここからだと少し離れてるけど……気まぐれに音を運んだんだね。彼女たちらしい」
 そう言って微笑む親父。だが俺は思わず渋い顔になっていたらしい。
「おや、どうしたんだ、ラストールド? ………ああ、エルルークの名前を出したことが気に入らなかったのかい?」
 笑いを含んだ声に、今更違うとも言えずにうなずいた。エルルーク…本当はもっと長い名前だと聞いた。だが、おまえがその名を呼ぶ必要はないと教えてくれなかった。親父とは古くからの友人らしいそのエルフは、俺がこの森に来てからずっと、俺の指導役でもある。
「あいつ…しつこいんだよ。昨日なんか、説教だけで3時間だぜ? 光の精霊と、戦乙女に触れることが出来てるのに、闇の精霊を呼び出せないのはどういうことだ、って。それだけで3時間。どういうことだなんて、俺のほうが聞きたいってのにさ」
「ああ、なるほど。……でも、説教が長引いたのは、1時間経った時点で、おまえが逃亡を図ったからだと聞いたよ?」
 咎める気配は欠片もなく、親父が微笑んだ。
「1時間経って、エルルークが席を外したから、さすがにもう説教の続きはないだろうと思って…。そうしたら、まだ終わってないって追いかけてきてさ。結局、北の丘で捕まった。おとなげないよな、俺を捕まえるのにわざわざノームに足掴まえさせるんだから」
「ノームなら怪我しなかったろう?」
「そういう問題じゃないだろ」
 言い返す俺に、親父が呆れたように小さく肩をすくめた。
「そういう問題だよ。こないだはエントを使われて、木から落ちて怪我して帰ってきたじゃないか。よりによって東の森の杉の木に…あれはこの村でも一番と言っていいほどの高さがある木なんだからね。…あんなところまで登るおまえもおまえだけど、そこから落とすエルルークもエルルークだ」
「それは…俺とエルルークとどっちに呆れてるんだ?」
「どっちもだよ。おまえたちは…なんて言うか…似てるのかもしれないね。意地っぱりなところが。………ところで、ラストールドは幾つになった?」
「なんだよ、いきなり。…今年の秋が来れば14才だよ。もうすぐ、ここに来て10年だ」
「14か。……ここに来て10年。おまえが初めて精霊と触れてからなら6年。私たちエルフから見れば、驚くべき成長の早さだよ。気にすることはない。ゆっくり学べばいいんだ。精霊は逃げないからね」
 そう言って微笑んだ親父。
 そう。精霊たちは逃げない。
 でも……感情を司る精霊たちから逃げたのは……それから7年後の親父のほうだった。


 ちりん。
 酒場の扉が音を立てた。ここの扉には、高い音を出すドアベルが仕掛けられているらしい。店の名前は…何度か見かけたが、俺には読めない。誰かに聞けば教えてくれるだろう。西方語の名前がついた店だ。店員に聞いてもいいし、西方語が本来の母国語だという知り合いは多い。
 そう、今、俺の目の前にいる男に聞いたっていいはずだ。店員と西方語で談笑していた戦士。スカイアーに。それでも何故か、俺はそれを問うことはしなかった。そして別のことを聞いた。

 ──目が覚めれば、現実を目の当たりにして傷つくことがわかっていながら、それでも“彼”を引き戻そうとしてる自分は……ひどい奴だろうか、と。

 タラント産の白ワインは甘くて軽い。そのなかでも一番軽いものをと頼んだ。でも、この程度の酒でさえ、“彼”ならグラス1杯で酔うだろう。“彼”が作るヘタクソな料理は、それでも西の味がした。エルフの好む味付けよりも、かなり濃いものだ。今、酒場に漂う香りと似た香りが、2人で住んでいた小さな家にもよく漂っていた。
 懐かしい…のだろう。多分。だからこそ、西の酒と料理を出すこの店に足を運んだ。
 ついさっき、西方語で挨拶をしながらオロトが同じテーブルについた。共通語なら訛りが残るこの男も、西方語でなら訛りはないのだろう。出身は西の部族だとしか語らない、褐色の肌の偉丈夫。
 それでも、俺が返した挨拶は共通語だ。西方語は覚えなかった。つまらない意地だった。タイデルで生まれて…そのままそこに留まれば、いつしか西方語は覚えただろう。両親と交わされる会話は共通語が主だったが、それでも西方語を覚える機会はあったはずだ。だが、それよりも前にタイデルを離れて…そしてエルフ語を覚えさせられた。共通語、エルフ語、精霊語、古代語。これ以上の言葉なんかいるものか、と。相手に合わせるだけの言葉ならいらないと…。だから未だに俺が知っている西方語は、罵倒語といくつかの日常会話だけだ。そう、この店の名前さえ読めない。
 オロトと…そして、別のテーブルに居合わせたらしいセシーリカと、スカイアーと。ああ…この顔ぶれは良くないと思った。この顔ぶれと、西の料理の香り、そして手元にあるタラント産のワイン。季節のせいで少しばかり寝不足の頭。少し前に、精神を病んだ知人と治療院で顔を合わせていたせいで、引きずられかけてる俺の中の精霊たち。それに、風鈴の音で思い出した、ウィンド・チャイムの音とそれにまつわる幾つかの会話。それらはきっと良くない組み合わせだ。
 ──油断してしまうから。


 ちりん。
「このゴブレットは良い音が鳴るね。陶器だけど、随分と薄く作られているみたいだ。南通りの市で買ったのは先月だったかい?」
 真っ白なゴブレットに、ワインを注ぎながら親父がそう聞いてきた。俺は返事をしなかった。“南通りの市”があるのはタイデルだし、このゴブレットは俺が生まれる前に、親父とお袋が買ったものだ。
「このシチューはいい味だよ、ミリア。それに…このエスカベージュは、鱒かい?」
 それは俺の名前ではなくてお袋の名前だと。その料理を作ったのは、ミリアではなくてラストールドだと。いつも言えない言葉を、その時もまた呑み込んだ。
「ああ。近くの湖で獲れたからって…売りに来た人間がいたものだから。ここにいると、魚料理は久し振りだな」
「ここに、って…嫌だなぁ、魚なら市場に行けば手に入るじゃないか。……ああ、でも君と旅をした頃に海沿いの街に行ったことがあったね。あそこに比べれば、確かに新鮮な魚は少ない」
 タイデルなら市場はあっただろう。ここに…エルフの森にはないけれど。俺は未だに海を見たことはないと…今の親父に言っても無駄なんだろう。それに、そう告げることでその幸せそうな微笑みが崩れるのなら、俺はそんなもの見たくはないから。
 確かに、多少はミリアと似ている。瞳の色は同じだ。半妖精であることも。親父はきっと、間違えているわけじゃない。そう信じているだけなんだ。俺がミリアだと……遺跡で死んだ自分の妻だと、そう信じ込むことで、自分を保とうとしている。哀しそうな瞳をしたレプラコーンが親父の奥に見える。これがぎりぎりなんだと、これが精一杯なんだとレプラコーンが俺を見つめる。
「………… かまわない、それで
 レプラコーンに向けて囁いた精霊語が親父の耳に届いたのか、親父の瞳がふっと揺らぐ。
「……ん? 何か、言ったかい? ラストールド」
「いや、何も」
 平気そうな振りばかりが得意になっていく。エルフの森に来て16年…いや、17年目か。


 ちりん。
 酒場に新たな客が訪れたらしい。
 ……そうだ。森から出て17年目だ。
「私に賢しいことは言えぬ。学殖がないのは己が一番よく知っている……だからこれだけしか言わん。ラス、お前自身の善意を信じろ、とな。無明の闇の中に手掛かりなどあるものか。最後に確かめられるのは己自身だけだ」
 俺の問いに、スカイアーがそう答えた。いっそ、善意であるなら迷わないのかもしれない。亡くした妻を今でも想っている親父を現実に引き戻すことが…よかれと思ってやるのなら。彼女がいなければ、世界は色を失うとまで想っていたのだろう。でも現実に彼女はいない。なら…そんな現実は嘘だと。親父はそうやって逃げた。自分に現実を認識させる、感情の精霊たちに背中を向けた。
 それでも認めろというのは、俺のわがままなんだろうか。
「私も、言いたいことを言わせて貰うならば……貴方の嘆く姿は見たくないんですよ。ま、友人としてね。いや、どのようにしても後悔しなければならないのかもしれません。ならば、『取り戻す』ことのできる後悔を、選んで欲しいです」
 善意であれ、わがままであれ、とる行動が同じなら結果は同じかと…そう思いかけた俺の耳に届いたオロトの声。
「なんていうか……たとえがわかりにくいかも知れないけど、間違った建て方で建てた家は、早かれ遅かれ、いつかは倒れてしまうと思う。そこになんか住みたくなかったと言われたとしても……だからって、家を壊してしまうことは、わたしには出来ない。恨まれて、辛く当たられて。もう一度壊れていく家を見ながら、生きて行くしかできないかも知れない」
 迷いつつ囁かれたセシーリカの言葉が、何故か無性に羨ましかった。俺も多分そのことは知っている。だから引き戻そうとして、だから迷ってる。羨ましかったのは…セシーリカのまっすぐさだ。それを壊してしまうことは自分には出来ないと…そう言い切れる彼女の強さ。
 このまま、たとえば100年、150年。放っておけば、親父がどうなるのかはわからない。でも、それだけの時が過ぎれば、俺はこの世界にいない。冒険者なんていう稼業をやっているからには、いつ死んでもおかしくないのだから。たとえ冒険者をやめたとしても、森の民と自分とでは残された時間が違い過ぎる。無理矢理に引き戻して…それでも、その引き戻した張本人がそばにいてやれるのは、たったそれだけの時間でしかないんだ。
 それでも、多分…選ばずにはいられないんだろう。選択肢が1つしかないのなら、とれる行動は2つだ。選ぶか、選ばないか。


 きっかけは、オランに来てからの知人の1人だ。ウォレスと言う名のその魔術師は精神を病んでいた。ウォレスの姉、アンジェラの依頼で、俺も、リュンクスを狩りに行くというその仕事に参加した。リュンクスが持つリグニア石という琥珀色の石は、精神の病に対する特効薬となる。そうして持ち帰ったリグニア石を使って治療を進めるなかで、精霊使いとしてその治療にも参加してほしい、と依頼された。他人が持つ、精神の精霊に触れることはあまりしたくないのが本音だった。普段、そこいらにいる精霊ならば触れることは出来る。感じることも。それをすることには、さほどの労力もいらない。ただ、他人がもつ精神の精霊たちを読みとろうとすることはそれとは違う。触れようと思って触れられるものでもない。感情を読む、ということだけならば、盗賊として培った、表情を読む技術のほうがよほど役に立つくらいだ。
 ウォレスの中で複雑に絡み合う、感情の糸を選り分ける。リグニア石の助けになるように、と。頭痛とか吐き気とか、そういったものを少なからず感じ取りながら、それでも、それよりも厄介なのは、ウォレスを見ていると親父を思い出すことだった。
『報酬はきちんと払うわ。あなたにとっては仕事ですものね』
 疲れたような顔で、それでも微笑んで見せるアンジェラに、俺が言った。
『現金じゃなくてもいいさ。……もし、余っていたら…そのリグニア石を。それでいい』
『ええ……幸い、石は2つ手に入れたから……でも、いいの?』
『ああ。レドか…それともアーヴディアか…売りつける先の心当たりはあるから』
 そう言って、俺は笑った。
 治療院の片隅で交わされた会話。
 そして、俺の目の前に今あるのは、小さな硝子の小瓶。琥珀色の粉末が入った小瓶。
 これを……森に送ろうか、と思った。精霊使いとしての力ならば、俺よりもエルルークが適当だろう。そして…治療がうまくいきそうなら…少しでも希望が見えそうなら…俺自身が森に帰ってもいいと思った。
 少し前に、従姉妹のラシェジと話した時には、50年後ならと言った。俺が精霊使いとしての力をつけてからなら、と。でも、手元にリグニア石がある以上は、俺の力がなくても可能だろう。
 スカイアー、オロト、そして…セシーリカ。泣き言を聞かせたけど…それでも結局、俺は選ぶらしい。目の前にあるたった1つの選択肢を。選んだ結果がどうなるのか…それは、選んだ後にしかわからないから。目の前にある硝子の小瓶が…その中にある琥珀色の粉末が、選べと…そう言っているような気がした。
 あの日、酒場で強がってみせたように…俺は選ぶ。そしてその後に親父がどう思うのかは…それは親父に任せる。俺が息子だったことを残念に思うか誇らしく思うか。……それでも逃げたいならもう一度逃げればいい。俺は追うことはしない。


 小瓶を手に、俺はラシェジが泊まっている宿へと足を向けた。森に送るとしても、俺の名前は出さないほうがいいだろうと思ったから。ラシェジが偶然手に入れたものを、一応は血縁である俺の親父に送るなら筋は通ると思ったから。
「ラスか。ちょうどよい。いや、つい先ほど…空豆のスープを作ってみたのだが。どうせおぬしのこと。オランの暑さに辟易して、ろくに食事もしとらんだろう。持っていこうかと思っていたところだ」
 子供のような笑みを見せて、幼い風貌のエルフが振り向いた。幼く見えるとは言え、年齢は俺より200も上だ。
「いや、今日は……頼みたいことがあって」
「まあ、そう言うでない」
 ラシェジの笑みに、どことなくぎこちない雰囲気を感じた。何故なのか、理由はわからなかった。
「………何か…」
 あったのか、と聞きかけて、やめた。最近は、いろいろと油断しすぎている。俺がラシェジの雰囲気を感じ取ったように、ラシェジも俺のなかの何かを感じ取っているのかもしれない。だとしたら、おまえこそと突っ込まれることは避けたい。
「少し、待っておれ。下の厨房に鍋を置いてある。さっきまで厨房を借りていたのでな」
 そう言って、ラシェジが部屋を出ていった。
 少しばかり手持ちぶさたになって、とりあえず、手近な寝台に腰を下ろす。あまり上等とは言えない寝台だが、普段から野宿に慣れているラシェジにはどうでもよいことなのだろう。
 巡らせた視線の先に、数枚の羊皮紙が映った。書きかけの手紙なのか、それとも何かの覚え書きなのか。それだけなら別に目に留めはしない。ただ、エルフ語で書かれたラストールドという文字が目に入らなければ。
 俺の記憶が正しければ、それはタナトゥーシャの文字だ。親父の従姉妹、タナトゥーシャの。俺が森を出てくる時に、親父のそばにいてくれると約束してくれた彼女の。俺が混ざりものだということを気にせずにいてくれた数少ないエルフの1人。
 気がついた時には、その羊皮紙を手にとっていた。タナトゥーシャが綴るエルフ語を目が追っていた。ラシェジが戻ってきた音すら耳には届かなかった。
「…………読んだか」
 小さな…ひどく小さな声でラシェジが呟いた。感情を窺うことのできない声で。
「……俺の…目にとまるようなとこに置いといたのはあんただ」
 読み終えた羊皮紙を、机の上に戻しながら俺が振り向く。
「ああ、そのとおりだ。……賭け、であったやもしれん」
 厨房から持ってきた鍋をことり、とそばの卓に置いてラシェジが呟いた。そのまま、顔を上げて俺の目を見つめる。
「おぬしが読むなら…それはそれで良いと。読まぬならそれもまた良いと。我には、それをおぬしに渡すべきか否か…選べんかったのでな」
「…………くそったれが」
「ああ…そうだな。だが、いつかは知るはずのこと。多少、早いか遅いかの違い。………そうであろうが」
「………ああ。ああ、ああ。その通りだよ、それが今だったってだけの話だよ!」
 何にいらついてるのか、自分は。それがわからなかった。暑さのせいなのかもしれないし、ラシェジの…奇妙にいたわるような視線かもしれないし、羊皮紙に連ねてあった文字の内容なのかもしれない。ひょっとしたら、懐にいれてある、琥珀色の粉末が入った小瓶のせいかもしれない。しばらくウォレスと一緒に過ごしたせいで、自分の感情の精霊たちも影響を受けてるのかもしれない。
 ……どうでも…いいことだけどな。


<ラストールドへ>
 この手紙をおまえが目にしているかどうかは、ラシェジに委ねた。だから、目にしているとすれば、ラシェジがおまえに知らせることを妥当としたのだろうと思う。受け止めるだけの強さがおまえにあると。
 ああ…これは言い訳だな。ラシェジのせいにするつもりはない。そして、今更、言葉を飾るつもりもない。私が悪かった、と要らぬ謝罪で誤魔化すこともしない。エルルークもそれは同様だと言った。だから、近況を知らせてきたラシェジに送る返事の中に、おまえ宛てのものを託す。
 言葉を飾らずに、知らせよう。事実のみを。
 サーヴァルティレルは…おまえの父は、現実世界へと戻ってきた。己の意志で。ただし、記憶はない。
 ──記憶がない、というのは語弊があるかもしれない。無くしたのは、80年分ほどの記憶だ。…そう、おまえの母、ミリアと出会ってからの一切を。今の彼は、ごく普通に暮らしている。森から出る前の…おまえの言うところの「頭の固いエルフ」のように。そして、他の何人ものエルフにありがちなように、半妖精を忌み嫌っている…そういうエルフになっている。
 ラストールド。おまえが森を出て行くときに、エルルークはおまえに言った。おまえの顔立ち、青い瞳、何よりも半妖精であるという事実。それが亡き妻を思い起こさせるから、おまえがそばにはいないほうが良いと。だからおまえはここを去った。だが、今の状況を思うならば……サーヴァルティレルのためではなく、おまえのために、おまえは彼に姿を見せぬほうがいい。私は、おまえが傷つくのを見たくはない。
 私がこれを言うのは筋違いかもしれんが……サーヴァルティレルのことを恨まないでやってくれ。
 半妖精を忌み嫌うことで、彼は自分を守ろうとしているのだ。妻と息子…2人の半妖精のことを忘れるには、そうまでして自分から半妖精という存在を遠ざけるしかないのだと…そう気づいてやってくれ。
 済まない。私とエルルークの力不足だ。………慰めにはならぬかもしれないが…これだけは伝えよう。サーヴァルティレルは…エルフとして生きている。自ら封じた幾つかの記憶の他は、正常だ。一切を忘れることで、彼はようやく戻ってこられた。
 それと、おまえの母の形見である幾つかの品は私が預かっている。必要ならば送る。
<白き宿り木の森にて:タナトゥーシャ・トゥリス・ティア・ヴォージュ>



 君がいなければ生きてゆけないと…親父はミリアにそう言った。でも、ミリアは現実にどこにもいない。……それなら、忘れるしかないのか。最初から出会わなかったことにすれば、生きていられる。存在そのものが最初からなかったのなら。そして…俺の存在は、ミリアにつながっている。ミリアがいなければあり得ない存在。だから……だから、親父は…。
「おぬし宛ての手紙だ。……おぬしが持ち帰るがよい」
 一度は戻した羊皮紙を、ラシェジは俺の手に押しつけてきた。懐かしいタナトゥーシャの文字。母国語だと言っても差し支えないほどに馴染んだエルフ語。
「あんたも…これは読んだんだろう?」
「ああ…その手紙そのものは読んではおらぬが…我へ宛てた返事のなかに、内容を示唆するものはあったのでな。事情は承知しておるよ。……して? おぬしがここへ来た用事とは?」
 話題を変えようとしたのかもしれない。口調をわずかに変えて…ともかくも変えようと試みて、ラシェジが聞いてきた。ちっとも変わってなんかいない話題を。
「いや。……もういい。………用事なんかもともとなかった。そういうことに………しといてくれ」
 声が震える。何も考えたくない。
 選ぼうと…そう決めた矢先に、選択肢を取り上げられた。……受け止めるだけの強さ? 知るか、そんなもん。受け止めることに強さなんか要らない。ただ、受け身であると……自分からは何も動かないと……それは強さなんかじゃない。どんなふうに消化しようが、言葉は言葉でしかないし、事実は事実でしかない。
「ラス……いや、ラストールド。サーヴァルティレルが……憎いか?」
「………なんでだよ」
 唐突に投げられた問いに、馬鹿みたいに問い返す。
「サーヴァルティレルが、おぬしの母と過ごした時間、そしておぬしと過ごした時間。その全てを忘れて、彼は生きている。そうしなければ生きることさえ出来なかった…彼の弱さが憎いか?」
 無表情に問うラシェジに………一瞬、答えられなかった。
 憎くは…ない。恨むつもりなどない。いっそ、憎むことが出来るのなら楽なのかもしれない。全ては親父のせいだと、例え間違っていることを知っていてもそう言えるのなら。憎しみとか恨みとか…そういったようなものに、全てをなすりつけてしまえるのなら。
「憎んで、済むことなら。……………それでも、親父が忘れたものの幾つかは俺が覚えてる。タナトゥーシャも覚えてる。エルルークだって忘れていないだろう。それなら……十分だ。だから…憎まない。そのかわり……忘れてなんかやらない。俺は死ぬまで親父を覚えてる。親父と…そしてお袋と過ごした時間を覚えてる。今の親父が半妖精を忌み嫌ってたとしても…それでも、俺は望まれて生を受けた半妖精だと…そう信じてる」
 憎くはないと…それは本当だろうか。恨んでなどいないと。本当に何の迷いもなく言い切れるのだろうか。口にしている自分が一番わかっていない。それでも口にすることは出来る。そう言って、自分すら騙すことはできる。それに、幾つかは多分本当だ。 
 どうあがいても、俺には忘れることなんて出来ない。それなら…絶対に忘れてなんかやらない。会うことはかなわなくなったけれど…それでも。
「おぬしは……なるほど。やはり少しは大人になったらしいな、我の従兄弟どのは」
 ラシェジがかすかに笑んだ。
「………いつまでも、あの頃みたいなガキじゃない。とりあえず…ガキじゃない振りが出来るくらいには、大人になった」
 そう。ガキじゃない振り。何でもない振り。声と手が震えるのを意志の力で抑え込むことも。泳ぎそうになる視線を見栄だけで誤魔化すことも。
「たまには吐き出すことも肝要であろうが……我に向けて吐き出すのはおぬしの矜持が許さぬか。………それも良い。他にいくらでも適役がおろう。仕方なかったとは言え、おぬしは森を出た。冒険者として生きることを選んだ。その時に…すでに我の手からは放れておる」


 そうだな。森を出た。そしてもう帰るつもりはない。帰ろうと…一度は思った。リグニア粉末を手に入れたことで、そう考えた。今でも…ひょっとしたら、今でも可能性はあるのかもしれない。見た目は普通に生きているとは言え、一部の記憶を封印した状態が自然であるわけもない。それならリグニア粉末で親父は全てを思い出すのかもしれない。エルルークと俺が、親父の精神の精霊を誘導すればあるいは……。
 ……本当に? 俺は本当にそんなことをするつもりなのか? 選ぼうと思っていた、ただ1つの選択肢は否定された。俺が選ぶより先に親父が選んだ。エルフとして生きると。半妖精のことを忘れて、親父はエルフに戻った。そうすることでしか、彼は生きられなかった。それが……答えだ。今更、リグニア粉末があったところで…選びなおさせたところで、答えは決まってる。
 ラシェジの問いがふと頭に浮かんだ。
『サーヴァルティレルが憎いか?』
 それは………。
 ぽん、と。
 いきなり肩を叩かれた。
「ラスさんっ! ちょうどよかった。そっちの宿に行こうと思ってたんだ」
 振り向いた先に笑顔が映った。栗色の髪の半妖精。大地母神の奇跡を伝える少女。いつの間にかラシェジの宿を出て、通りを歩いていたことにさえ、彼女に肩を叩かれるまで気づかなかった。
「……ああ、セシーリカか」
「うん。……どしたの? なんか…顔色悪いような…?」
 覗きこんでくるセシーリカに苦笑を返す。
「いや。何でもない。日陰だからそう見えるだけだろ。……んで? 何か用だったのか?」
「用って言うか……こないだの粉ふき芋がさ、不評だったみたいだから。っていうか、粉ふき芋持っていったって言ったら、義兄さんに笑われたから。あらためてお詫びの品を持ってきたの」
 小さな包みを手にしてセシーリカが笑う。
「…………お詫び? ……まさか、食い物か?」
「そうだよ。今回はクッキー」
「いや……気持ちだけでいいや。食欲ないし…っていうか、甘いモノ嫌いだし…」
「大丈夫。塩っぽいから」
 こともなげにそう言って、ほら行こう、と先に立ってセシーリカが歩き始める。

 宿に着くと、俺たちのあとを追うようにしてオロトが入ってきた。手には何やら包みを抱えている。
「HELLO! ラスさん…ああ、いましたネ。セシーリカさんも一緒ですか。ちょうど良かった。市場で良い材料が手に入りましてねェ。私、料理トクイなんですよ。暑さに弱いお2人にと思いまして」
 快活に笑う、褐色の肌の男。差し出した包みをほどき始める。
「オロト……まさかまた『水かきのある何か』だとか、そういう…」
 眉をひそめる俺の横でセシーリカもオロトの手元を覗きこむ。
「私も虫とかはちょっとイヤだなぁ…」
「大丈夫ですヨ! 市場で普通の材料を買いましたから」
 俺とセシーリカの視線を受けて、オロトが材料の説明をしようとした時。
 ばこん。
 宿の厨房で聞き慣れない音がした。
「きゃぅっ!!」
 それとほぼ同時に、聞き慣れた悲鳴。
 何事だ、と厨房の入り口を振り向いた時、そこからカイが出てきた。紫がかった髪を、今はひとつにまとめている。厨房での作業のためだろう。俺と同じ部屋で暮らしてる、半妖精の少女。
「………おまえか。何やってんだ?」
「あ……ごめんなさい。あの……ラス…最近、元気ないみたいだから……何か…元気になるお料理でもと思って……でも…失敗しちゃって……」
 どんな失敗なのかは…とりあえず言及しないことにした。思わず小さな溜息が漏れる。
 ふと気づくと、オロトとセシーリカとカイと…3人の視線が俺に集まっていた。溜息が苦笑に変わる。
「んじゃ…とりあえず、オロトの料理とセシーリカの塩クッキーと……カイもどんな料理かは知らねえが、とりあえず出来てはいるんだろ? 持ってこいよ。まとめて食うから」
 森を出て、得たものは確かにあると思った。なら、そういうものを失わないために、“何でもない振り”をするのは、そう悪いことでもないような気がする。
 けどそれは、口に出せば怒られるのかもしれない。それでも、この不可思議な料理たちを口にすれば、ラシェジの問いはしばらくの間は忘れていられるだろう。
 ちりん。
 2階から、風鈴の音が響いてきた。




  


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