友人(後篇)( 2001/09/10)
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作者
タルノ
登場キャラクター
アジハル、プラユーン




アジハルの身体の傷はほぼ癒 えた。自律がかなうように精神も回復したところで、彼は家族の元を去る必要を感じ始めた。
その日の夕刻、サマディと共に、灌木の枝打ちをしている時、腹づもりを明かした。
「主人やお前に、これ以上の迷惑をかけるつもりはない」
それは、サマディの叔父であるウラットが、快復したアジハルの去就のことで、周りに愚痴を言うことが多くなったことを言っているのだった。
「残念だな…折角、友達になれると思ったのに」
手で短剣を弄びながら、サマディは答えた。
バシッと音を立てて、灌木の枝を落とす。
「お前と私とは、共同体や価値観が異なっていながら、お互いを受け容れて、よい関係を築けたと思う。だが、それも、抗いがたい運命の前には、引き離されて しまうな。……ああ、俺も、残念だ」
「キョウドウタイとか、運命とか…。わっかんねぇよ。おいらのこと考えてくれんなら、ここにいりゃいいじゃんか!」 
少年は、短剣を地面に投げつけ刺す。
腰を浮かして飛び起きると、黄昏の濃い方向に向かって走り出した。
「…………」
アジハルは無言。



うわあああぁぁ!!
──突然耳に、サマディの鋭く短い悲鳴が届いた。
「……!! サマディ! どうしたあ────」
彼の落とした剣を拾いあげ、風のような速さでその後を追った。

駆けつければ、サマディが流砂に足を取られていた。尻餅をつき、渦の中心に引き寄せられていく。アジハルは、目を見張った。
地下に水脈があっても、この辺一帯の粒の粗い砂は、この様に流れを早くして引き寄せられないはずだ。
だが、そうした知識を思いだしたからではなく、アジハルの身体は猶予せず動いた。彼自身の本能に眠っている、戦士の勘が危機を告げている。彼はサマデイを 助けるべく走った。砂の中に何かがいるのだ!
砂煙をあげて、地下から巨大な二本の角が姿を現した。
躊躇いなく、地を蹴って跳躍し、すり鉢状に開いた穴の中心に向かって飛び込む。
勢いがつきすぎた両脚が跳ね上がり、宙で身体が回転する、だが、それがかえって態勢の安定を生んだ。ダガーを両手に支え持ち、アリ地獄の怪物の、上顎の間 に狙いを定めた。そのまま、落下。

地響きのような、化け物の断末魔が聞こえている。腕には痺れが残り、躯の傷はところどころ破れ、出血していた。だがアジハルにとって、それらの感覚の全て が、今は気にならなかった。
刺激された戦士の本能が引き金になろうとしていた。脈打つ躯に呼応して、凍り付いていた記憶に血が通い、色鮮やかに蘇ってくるのがわかった。自らが、長く 果てしない戦いの歴史に生きていたことを、想い出す。
目を腫らしながら、砂を滑って、少年がこちらに駆け寄ってくる。その顔に、かつての同胞や家族の顔が重なってみえた。
記憶が渦を巻いて彼の頭に戻ってくる。
全て想い出した。
「ウ、ウオオォォ」彼は静かに咆哮を上げた。
『黒く灼ける陽』の戦士、アジハル。それが彼の存在の全てを規定する、聖なる、称号。
少年を腕に抱き、その髪をわし掴む。
俺は『黒く灼ける陽』のアジハル……。
俺は、俺が、俺こそが。いつまでも頭に木霊し続けた。


◇◇◇
空の星がひとつ、またひとつ、濃藍の空に溶けるようにして消えていく。
静謐な朝の気配の中、窪地に天幕がひっそりと立っている。
薄明の中、アジハルは床から身を起こした。

記憶を取り戻したことは、同時に、アジハルを苛烈なる宿命に引き戻した。
自らの部族が『揺らめく炎』によって鏖殺され、奪いつくされた記憶。最後の日の光景が、あの時のままに色づいて、脳裏に蘇っていた。
そして……過失とはいえ、同胞たちに止めを差したのは彼自身である。その償いとしても、これからやるべきことは、決まっていた。
復讐という文字がどこか暗やみの中で燃えていた。そう、何故今まで気づかない。自分の周囲には苦しみうめく同胞たちの霊がいて、苦痛を相手に報いよと、の べつ囁きかけているではないか。憎き敵を、根絶しにすることが、己に課せられた使命。
もう、ここにはいられないとわかった。
昨晩、記憶を取り戻してからすぐ、旅支度を済ませておいた。
布で仕切られた部屋の二つ向こうには、憔悴しきった少年が、深い眠りの底にいる。彼には何も言わずに去るつもりだった。会えば引き留められる事になろう。
彼は天幕の入り口に立って、薄明の世界を見渡し、これから目指す場所を思った。
──だが、家人には一言あってもよいかもしれぬ。とくに、主人には世話になった。
そう思い、彼は踵を返した。

「ん? よう。そんな格好して、どこに行くんだ」
ウラットが起きていた。朝食の最中らしく、堅く焼きしめたパンをバターに浸けて口に運んでいる。
一呼吸した後に、ここを去る旨を告げ、これまでのことに対して感謝の辞を述べた。
「出ていく? ふぅん……。別にここにいたっていいんだぜ。お前、甥っ子を助けてくれただろ。これからもああして護衛として役立ってくれりゃ、俺も文句い わんぜ」
邪魔者扱いから態度は一転していたが、腹積もりは決まっている。
「ちぇっ、まあ、いいさ、行けよ、お前。……だいたい俺、物騒なのは嫌いなんだよね。剣振り回す奴が近くにいると、落ち着かねぇってもんだしな」
アジハルは、軽く頭を下げ、彼のそばを通り過ぎようとした。その耳に、続いてのウラットの呟きが届く。
「俺らはもう、『揺らめく炎』の人間じゃねえんだから」
どくん、と心臓が大きく脈打った。
アジハルは動揺も露わにして、弾かれたように相手の顔を見た。
「そなたら……が、『揺らめく炎』だというのは……?」
問いかける声も、ひび割れていた。


指先を濡らし、食事を続けながら男は説明をはじめた。
今でこそ商人をやっているが、もとは『揺らめく炎』の部族民であること。
部屋の壁に掛かった曲刀が、アジハルの眼にはいった。

「ま、待てええぇ!?」
ウラットの口の端からパンがこぼれる。
目の前の男は、剣尖を前に、無言の圧力で、にじり寄ってくる。
「てめぇ一体、何のマネだ!」
「『揺らめく炎』、お前たちに、わが部族は滅ぼされた……」
アジハルは多く説明しなかったが、数少ない言葉は、ひとつひとつが鉛のように重い情感を伴っている。ウラットの肌は粟立つ。

「お、俺らを恨むなんて筋違いだろ。お前、色々言ったからって、俺に変な恨み持ってんじゃねえだろうなあ! お前の命を助けてやったんだぞ!? この恩知 らずのサイアクが!」
だが、黒い衣服を纏った男は、あっさり答えた。
「ああ、それについては一言もない。私も、かような事実は知りたくなかった。……それにつけても同胞たちの魂の安らぎのためだ。『揺らめく炎』を殺さね ば、俺が今生きている意味もない。……死んでくれ」
「ふ、ふざけんなよなァ! あんな殺し屋どもと一緒にされるのもかなわねぇ、俺たちは断じて無関係だぞ! 冗談じゃねぇぞ、こんちくしょう」
アジハルはそれを黙殺し、ひとこと呟く。「覚悟してもらう」
ウラットは、相手をなじり、罵り続ける。今の状況が無体なものにしか思えないのだ。悪口雑言の矛先は、いきおい、今も砂漠に暮らす、自らの血族にも向けら れていくことになった。

アジハルはそうした、部族の「血」を否定する相手の態度が腹立たしかった。恩恵を受けていることの自覚も、自然に生じる責任を背負う気も、目の前の男には まるでないと知り、露骨な苛立ちをおぼえていた。
この男が今、武器を取って自分に立ち向かってくることを、心のどこかで期待した。

「う…ど、どうも、殺してごめんなさいね。一人残さず、なんて全く、なんてひどいことするんだろうね……あいつらって全く、信じられませんよ」
なぜ、そう思ったのかはわからない。
だがこの男の弁を聞いているうちに、憎き敵でありながら、あのプラユーンらを、弁護してやりたくなった。民族の伝統と同胞の安寧を護るために、何百年も我 らと戦いつづけた、彼らを。

「貴様は、誰のおかげで…生まれ、育ち、今こうして生きていられるのだ。誰の働きがあったからだ。それを考えたことはないのか」
「誰のおかげって…今の暮らしも、財をきずいたのも、ほとんど、おれ一人の力だぜぇ……。あ! そうそう、ここで命を見逃してくれる、あんたのおかげだ!  なっ」
「貴様ァ────ッ!!!」
だん、と地が揺らぐほどに、床を踏みしめた。
敷布は一箇所が陥没して足が埋まる。
「ひ、ひいぃぃ!」

「待たれい」その時、制止の声が掛けられた。
鰐に似た、瞳孔の広がった眼を声の方に向ける。
ブブーを身に纏い、家長、ボンサフンがそこにいた。
「アジハル……お主。『黒く灼ける陽』の者であったか」
アジハルは襟を正すように、直立し、家長の方に向き直った。
「一年前の復讐……か?」
この家長は、事件のあらましを知っている様子であった。
「そのとおりだ」
ウラットは腰を抜かして、尻餅をついていた。ボンサフンは、ゆるゆると首を振る。その眼は、わが子に物ごとを教え諭す親のような目になっていた。
「復讐の不毛さがわからぬか。報復は、益少なく、新たな報復を生むのみだ。あれほどまでに酸鼻を極めた、二つの部族の長年の戦いを見て、お主は何も学ばな いのか」

「主人、血の恨みは血によらねば、購われることはないのだ。犠牲となった死者の魂が報われぬのだ」

「その思いこみが、二者の間の溝を広げるのに、大きく役を買ったのだな。二つの部族は、持てる信仰こそ違ったが、他の面で、差異はなきに等しい。元もと は、一つだったのじゃ。儂は哀しい、なぜ歩み寄ることが出来ないのだ」

「主 人。今更、何を言っても遅すぎよう。我らが、仇敵のことを僅かでも思いやれる時が来るとすれば、長く続く復讐の連鎖に、互いに倦み疲れる時をおいて、他に なかったろう。だが、そんな時はもう来ない。なぜなら我らは滅ぼされたのだから。恨みは落ち着くどころか、骨髄に至っている。あとは、お返しにお前たちを 滅ぼし尽くし、それで全ては終わりだ」
重い沈黙がおりた。
「ははっ。できるかな」
「何」
「お主に、復讐など…儂ひとりとて、殺せんよ」
「どういうことだ」
ボンサフンは目尻に皺を作り、復讐者の顔を見た。
「アジハルよ、お主にとって、同胞たちの霊のために戦うことが、全てに優先されるのだな」
「そのとおりだ」
「ならば、何故その記憶を無くしていた」

ざ……。
風が顔に吹き付けられたように、血の気が引くのを感じた。
「知れたことだ。仇敵との戦いの最中、つむじ風に巻かれた、その衝撃だ」
「本当にそうかな。最後まで、その記憶だけを忘れていたというのは、お主自身心の底で、それを想い出すことを拒んでいたのでは」
「馬鹿なことを」
「お主は本心では、復讐など望んでおらん」
「馬鹿な……」
「自 分を偽るな、アジハル。人はものごとを忘れるのだ。身を焦がすような恨み、身を削るような深い悲しみでさえも、いつかは薄れて消えていくものじゃ。そし て、心は、別に安らぎを求める。儂には見える…お主が宿命をよそに、孤独な身の上を苦痛に感じていることが。友人が欲しいとな」
「黙れ! 黙らねば、舌を切り取るぞ」
「聞け、アジハル」
家長は、心を見透かすような視線を、彼に向けた。
「お前に孫が……サマデイが殺せるというのか」
「……!!」
考えぬようにしていたことを、真っ向から突かれた。


「のう、アジハル…儂のほうには、お前を受け容れる用意があるぞ。息子と相容れぬなら、エレミアに住まいもあてがおう。矛を収めてくれぬか。儂はお主を気 に入っている」

「思いこみに操られるのはやめなさい、誰もお主を責めたりせぬ。そうじゃ、『黒く灼ける陽』の者たちの霊を、ともに慰めよう、約束するぞ」

「おお、もしお主が復讐を諦めるなら、その決断は子々孫々まで語り継がれ、讃えられることじゃろう。こっちに来るのだアジハル。今ならまだ、引き返せるは ずだ」

アジハルは棒のように立ちつくしていた。ボンサフンの言葉を聞きながら、彼の思いは、遙か地上にある一点に飛んでいた。
そこは井戸だった。その底でむずかる赤ん坊は、もう誰かの眼に止まったろうか。
どこか安全な場所に連れていかれただろうか。
──だとしたら、自分は引き返せるのか?
今にも、膝を前に折らんばかりの衝動が、彼を襲っていた。
俯いていた顔を上げ、目の前の老人を見る。
その顔には微笑みがたたえられている。知らずのうちに、こちらも穏やかな気持ちになる笑みだ。長い間、家長の顔を見つめ、何かに縛られたように、動かな かった。
彼の瞳が、小さな揺らぎを見せた。
「ご主人」
ぽつりと呟いた。そして、一歩、二歩、彼我の距離を詰めた。
お互いに手を伸ばせば届く距離まで、歩み寄った。
「うむ…」
「貴方を、一つの意味で尊敬する」
間をおいて、言葉を続けた。
──仲間を、家族を護るために、そんな詭弁を並べているのだからな。

刹那、家長の顔が、驚きに歪んだ。目の玉にも汗が浮かぶようだ。
「くわっ」
一声発すると、アジハルに抱きついた。
アジハルは、ほとんど動かなかった。
血泡が、家長の口から零れた。その背中からは、濡れた刃が生え出、その右手からは、黒光りする短剣がこぼれ落ち、地面に転がり渇いた音を立てた。
ボンサフンの身体は、少し痙攣したあとに動かなくなった。
静寂が支配した。

全ては夢物語だ。
主人の取った行動は、容易に理解がおよぶ。やはり、それが正しい。
記憶を無くしていたそのことも、おそらく、同胞たちの霊が、少しの間、身体と精神を休めるようにはからってくれたのだ。そのことに過ぎぬのだ。
自分の現実は、どこまで行こうと、黒く灼ける陽のアジハルのものだ。そこから離れることは望まぬし、また出来ないことなのだ。
「ひぃやああああああ」
冷たい沈思は、ウラットの甲高い叫び声で破られた。
鰐の目線が、またたくまに彼をとらえた。


部屋を仕切る布がゆっくりと横に引かれた。
サマディは、暗い部屋に、波打ちうねりを巻く布の中に埋もれるようにして、死んだように眠っていた。歩み寄り、その寝顔を眺める。右手には、家人の血を 吸った刀が握られている。柄を握る手に力を込め、また緩めた。
無言のまま、サマディをうちまもる。
そのうちに少年は、寝言を呟いた。言葉の中には、自分の名前も含まれていた。
「…俺とお前は、友達……」
知らずのうちに、頬を涙が伝いはじめた。
黒いトーガを纏った、死に神のような男は、喉に声を詰まらせ語りかける。
「友達にはなれそうもない、だが……」  

あるいは、
「あるいは、これも同じほど強い絆といえるかもしれぬ」
「お前と俺は、これからずっと、同じ立場だ。…そうなったのだ」
──追って来い。
黒い影は、消えるように、その場を去る。
どんな夢を見ているのか、寝床に横たわるサマディの顔には、様々な感情が折り混ぜられ浮かんでいた。


◇◇◇◇
広大な砂漠の中を、点となって進む影がひとつ。
「む……」
プラユーンは砂丘の上で足を止め、空を見上げた。
あけぼのに岩陰から這い出てから、初めての事だった。
部族の群へ戻る旅路、正午前でまだ大分と気温が低いのは助かるが、空模様がおもしろくないと思った。日蝕でも起こったかのように、不気味な気配をたたえて いた。
「さて道中、無事に済むとよいが。身体も治りきってはおらんし」
彼は空を睨んだまま、背負った荷を地面にずり落とすと、やおら両手を前に持ち上げた。
ぱぁぁん。
合掌肉を打つ音が、辺りの空気を震わせた。
指先で、印が作られ、魔よけの詞が紡がれはじめる。

その後集落に辿り着くまで、彼に迷いは見られなかった。






  


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