手紙( 2001/10/10)
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作者
R
登場キャラクター
リック




「この子、シールって名前に したの」
「へぇ」
 言われた方の気のない返事に、言った方は小さな頬を膨らませて……

…………

「金のためだったのさ」
 意識がぼんやりして視界がゆっくりと揺れていた。飲み過ぎていることくらい自分でも分かる。分かるのに、それでも彼は酔いたかった。
「大きな借金があった。俺はそいつを返さなきゃならなかったんだ。だから俺は故郷を出た……冒険者になったんだ。なのに……」
  リックが空にした杯をテーブルに放り出すと、大きな手が代わりの杯を彼の前に置いた。彼と席を同じくしていたドーガだ。彼は、こういう時どうするのが一番 なのかを知っていた。リックは迷わずに出された杯を手に掴み、一口含む。喉が焼けるような強い酒だった。普段の彼ならむせて吐き出しちまうだろうが、酔い で全ての感覚が鈍った体は難なくそれを受入れる。杯を置いて大きく息を吐き出すと、視界が一層大きくぐにゃりと歪んだ。
「吐き出したほうがいいぜ、酒の力を借りてでもな。俺じゃ役に立たない。……馴染みの女にでもぶちまけなよ」
 ドーガがそう言ったのは自身の経験からだった。この痛みはやり過ごすしかないものだということを知っていたし、彼自身、いつもそうやってやり過ごしてい るのだ。そしてそれだけ言い残すと、自分の出来ることはこれまでとばかりに席を立った。
 残されたリックは濁った意識の中で考えた。吐き出せばいいのか? そうすりゃ俺は、この苦しみから逃れられるのか?
 テーブルの上に視線をさまよわせる。ドーガが残していった杯の他は空になった杯が並んで、いくつかは倒れている。そして一枚の羊皮紙。
 こいつのせいだ! イゾルデがリックの故郷から彼にもたらした一枚の羊皮紙!
 酒が足りない! リックはもう一度さっきの酒を喉に流し込む。
「ちくしょう!」
 杯を放り出しながら彼は叫んでいた。背後から、ドーガが出ていった扉が閉まる音が聞こえてきた。

…………

「やあ、リックくん」
 言われた方は、危うく階段の最後の一段を踏み外すところだった。二階の部屋から、朝食を食べるために下の酒場に降りてきたところに、エレミアへ帰ってい るはずの幼馴染の姿を見付けたのだから。
「実はねえ、これからまた旅に出るんだけどね。その前にちょっとキミの顔が見たくなったのだよ」
「て……、いや、その前に、いつの間にこの街に戻ってきてたんだよ?」
 こんな一言であっさり動揺を誘われるのがリックの未熟なところだが、さりげなく重要な部分まで流されようとしてるのを見過ごすほどではない。慌てて引き 留める。
「大丈夫、この街に着いたのもほんの二、三日前。でも、最初から通り過ぎる予定でね。もう少し先まで行ってみたくて」
 このまま東の国々を見てまわるのだと言う。
「よくやるよ。もう若くない……あだだだだっ!」
「そーゆー失礼なことを言うのはこの口かな? 相変わらずだねえ、キミは」
 リックの言葉を遮ったのは、彼の口の端にかけられたイゾルデの指だった。
 そんな具合の軽い遣り取り(正確にはイゾルデがリックを一方的に遣り込めてただけだが)が一段落したところで話の本題に入る。
「それで、出発前にキミに渡すものがあってね」
 そう言って鞄を探るイゾルデを、リックはいぶかしげに見る。
「……何を持ってきたんだ?」
「ちょっとね、お土産を」
 最初に出てきたのはホシナツメだった。彼らの故郷であり、砂塵の国と呼ばれるエレミアはその風土から、ほとんどの食べ物は保存が利くように干物にされ る。ホシナツメもそうやって出来たものの一つだ。
「リックくん、好きだったよね?」
「……忘れた」
 次に取り出したのは短剣。エレミアは職人の国という顔も持つので、これもまた特産品というわけだろう。どんな名工かとリックは鞘から外し、息を呑んだ。
「銀製かよ」
「まあ、キミなら使うことないだろうけど、お守りみたいに思っててよ」
 イゾルデは気楽にそう言うが、銀製の短剣は決して安いものではない。リックは短剣にまじまじと見入り……ふと、見てはならないものを見てしまった気がし た。
「なあ、イゾルデ姉。こいつは……」
「なにかな?」
「……いや、なんでもねえ」
 リックは見なかったことにした。エレミアの職人たちによって作られる刀剣類には、その品質保証の意味も兼ねて刻印が入れられている。が、彼がその時見つ けた刻印は、どうみても馴染みのあるエレミアのそれではなかった。
 後日、リックはそれがラムリアースのものだと知り、イゾルデの行動力に唖然とするのだった。
 そして、イゾルデが最後に取り出したものが……
「これは?」
 リックは受取ったそれをひらひらさせながら眺める。折りたたまれた羊皮紙。どう見てもこれは……。
「手紙」
 イゾルデの短い答えにリックの表情が微かに強張る。ふっと表情を緩めて「そんな顔しなくても平気だよ」と言ったりなど、イゾルデはしなかった。手紙が リックの予想通りのものだと言うことを確信していたからだった……。

…………

  農耕や狩猟に従事する者たちに最も多く信仰されるのが大地母神マーファであるが、その慈愛の女神としての一面は、時に生活に窮した者に、おそらくマーファ 神にとって不本意だろう解釈をさせてしまう。布教のために小さな農村や町に住むマーファ神官の元へ子供が捨てられるのだ。
 リックの記憶はそこか ら始まる。彼もそうして捨てられた子供の一人だった。彼が捨てられたその村にはマーファ神殿はなく、布教のために住み込んでいた一人の神官もまだ若く、子 供を育てることはできなかった。そのため村の中に引き取り手が求められ、子供のいない一組の夫妻が幼いリックを育てることになる。この夫妻がマーファの教 えに敬虔だったことが幸いだったが、捨てられた子供にとっては不幸中の幸いでしかないのかもしれない。
 平穏のうちに月日は過ぎた。そしてリックはイゾルデに出会う。

「冒険者?」
 草原に寝そべりながら、リックは隣で同じように横になっているイゾルデに聞き返した。
「そう。お父さんが精霊使いって言ってね……んー、簡単に言うと魔法が使えるの。それで、その娘のワタシにもその才能があるみたいでね」
「イゾルデ姉も魔法が使えるのか?」
「あはは、まだ無理。でも、そのうち使えるようになったら冒険者になって……」
 イゾルデはそこで言葉を途切らせた。視線がどこか遠くを見ているようだ。
「なって、どうするんだ?」
 未来に思いを馳せるイゾルデに、お構いなしに先を促すリック。雰囲気がぶち壊しである。どうしてこう気が利かないかなあ。イゾルデがそう思ってため息を 漏らすことは、少ないことではなかった。
「人それぞれだよ。大きな冒険をして吟遊詩人の詩になるような有名人になるとか、古代王国の遺跡から宝物を掘り出してお金持ちになりたいとか……」
「ふうん……」
「あれ、気のない返事。興味なかったかな?」
 意外な反応だった。男の子なら飛びついてくるだろうと思ったのに。
「いいや。俺も冒険者になろうかな……」
 反応とは正反対の言葉に、イゾルデはしばし驚いた表情を浮かべるが、すぐに、にやりと笑う。
「そうか、リックくんはワタシと一緒に冒険をしたいのだね?」
「違う!」
「あ、冗談なのに、そんなに力一杯否定されると傷付くなあ」
「う、いや……」
 そう言いながらもイゾルデは楽しそうに笑っている。からかわれたことに気づいたリックは不機嫌になってそっぽを向く。
「金を稼げるなら……」
 ぽつりと呟いたその言葉を、イゾルデは聞き逃さなかった。すぐさまリックの後ろ頭を叩く。
「なにすんだよ!」
「なに、じゃないでしょう」
 振り向いたリックのすぐ前にイゾルデの顔があった。
「まだいじけた考えを持ってるね、キミは。そんな理由で冒険者になりたいって言うのなら、お断り。わたしの憧れの冒険者をキミの逃げ道になんてして欲しく ないからね」
 リックは何も言い返すことなく、いや、言い返せずに目を逸らす。
「どうして解らないかな? ”そんなふうに”思ってるのはキミだけだよ。いいかい、リックくん」
 イゾルデは両手でリックの頭を挟み込んで無理矢理自分の方を向かせる。
「誤解したままだと、いつか絶対に後悔するよ」
 リックは口の中でもごもごと何かを呟いたあと、声に出してはこう言った。
「解った……、悪かったよ」
 おそらく、イゾルデに強要されたから無理矢理で解ろうと言葉にしただけで、心の底から解ったわけではないだろう。そもそも、すぐに解るようなことならば 最初から彼が悩むこともない。ゆっくり解ってもらうしかない、今はこれで十分だろう。それにしても……
 イゾルデはリックの頭を挟んでいた両手を放し……その手で今度はリックの頬をつねる。
「それにしても、リックくんは言葉遣いがなってないなあ。知ってるかい、ワタシの方がキミより年上な上に女なんだよ?」
 何か言い返そうとしたものの、結局、何も答えずに目を逸らしてばかりというリックの反抗的な態度を見て、イゾルデはついさっきまでの表情とはうって変 わって、くすくすと笑い声をこぼす。ふと、遠くから駆けてくる人影が視界に入ったところでようやくリックの頬を解放した。
「少なくとも、あの子はキミのことを慕ってるんだからね」
 誰の事を言っているのか、リックにはすぐに分かった。彼が”そういう”考えを持つようになったきっかけとなった存在……
「それじゃ、シエラちゃんがお迎えが来たことだし、そろそろ帰ろうか」
 シエラ――リックの”妹”は、彼らに向かって一生懸命に手を振っていた。


 さらに数年後の”ある出来事”がきっかけでリックの元に現れたのが……
「この子の名前考えたよ」
 シエラは、飽きもせずに箱の中で眠る小さな生き物を見つめながら、傍らにいるはずの兄――リックに話し掛けた。しかし、いつまで経っても返事は返ってこ ない。おかしいなと思って顔を上げると、やっぱりリックはそこにいる。
「お兄ちゃん?」
「どうかしたか?」
 明らかにさっきの言葉を聞いていないリックの様子に少しむっとしてから、それでも箱を抱えて中身をリックに見せ付ける。箱の中にいるのは、まだ小さいリ スの子供。
「この子、シールって名前にしたの」
「へぇ」
  言われた方の気のない返事に、言った方は小さな頬を膨らませて抗議の意思を示す。可愛い名前をと一生懸命考えたこと、自分の名前に似せたこと、気付いて欲 しいのにまるで何も言ってくれない。でも、すぐに諦める。シエラは兄がすでに自分を見ていないことに気付いたのだ。小さなため息が漏れる。
「イゾルデ姉さんに会えなくなってから、ずっとこうなんだから……」
 ”ある出来事”以来、イゾルデは家に閉じ篭りきりで、リックの方からも彼女の家を訪ねることはなかった。何があったのか、シエラは知らない。ただ、あの 日に家に帰ってきたリックが連れて帰って来たのが、この小さなリスの子供――シールだった。
 シエラは箱の中で眠るシールの頭を指先でそっと撫でた。小さなリスが眠ったまま耳だけ動かして反応する様子を、嬉しそうに眺める。
「お兄ちゃんがあんなだから、君の世話はわたしがしてあげる。よろしくね、シール」

 それから暫く後、イゾルデはリックに再び会うことなく村を去る。二人が再会するのは10年近く後、この村から遠く離れたオランの街のある酒場でである。 お互い、冒険者となって……。

…………

「聞いたよ。キミがどういう理由で冒険者になったのか」
 手紙が彼の育ての親からのものだということを、リックはすぐに悟った。間違いようがない。イゾルデが故郷から届けてくれたそれの送り主は、他には考えら れないのだ。
「誤解に気付いたのは良かったけど……」
 イゾルデはそこで言葉を切った。続きを言うまでもないことは、リックの様子を見れば分かる。
 遅すぎたね。言わなかった言葉をイゾルデは心の中で付け加えた。だから言ったんだよ、いつか絶対に後悔するって……。
 しかし彼女にとっても、それがこういう形で表れることは想像すらつかなかった。

…………

 日はすでに、西に大きく傾いている。リックは、目の前に建つ柵を見上げていた。だから、いつの間にか足元に近付いてきたそれが鳴き声を発するまで気がつ かなかったのだ。
「おまえか」
 彼の未来の相棒となるそのリスは、しかし、リックが捕まえようと伸ばした手をするりと避けて走っていってしまう。実は予想通りの反応なのだが、それでも 害した気分を表情に乗せたまま、リスが逃げた先に立つ人物に顔を向けた。
「あいかわらずシールに嫌われてるね、お兄ちゃん」
 逃げてきたリスを両手で抱え上げながら、シエラがそんな兄の様子を笑っていた。
 
 森に妖魔が逃げ込んだ。

 隣村が、山から降りてきた妖魔の一団に脅かされ始めたのが半月前。街で雇われた冒険者の一団がその村を訪れ、退治に乗り出したのが数日前。そして、そこ で逃した数匹が森の中に逃げ込んだという知らせがこの村に来たのが昨日だ。
 逃げた妖魔たちは冒険者たちが狩り出してるということだが、さすがにすぐ近くまで妖魔が来ているとなると安心できない。この村は、森側の道を塞ぐように 柵を築き、見張りを置くことに決めた。

 柵は、リックが寝ている間に完成したようだ。と言っても、彼はただ寝ていたわけではない。
 柵の高さは彼の背よりも高い。その時は、補強用のロープを通すために支柱の一本に上っていた。そして……
「落ちてこのザマだよ」
 リックは不機嫌な顔のままだったが、それは自分がドジを踏んだこと思い出しているせいであって、今はシエラの肩に落ち着いて彼をバカにしたように見てい る(リックにはそう見える)リスのせいではないはずである。
 この時の一人と一匹の関係はとても相棒同士と言えるものではなく、シエラを間に挟んでようやく中立という程度のものらしい。
  本当にドジだった。柱から落ちたのは、持っていたロープを誰かにいきなり引っ張られたせいで自分の失敗ではない(と思っている)。だが、そのまま無様に地 面に叩きつけられて意識まで失ってた。あの程度の高さから落ちたところで、怪我をしない程度の身のこなしは身に付いているはずなのに、だ。そのせい で……。
「怪我とか大丈夫なの?」
 話を聞いて、さすがに心配そうな表情になるシエラ。彼女は兄の事故の知らせを聞いて、家を飛び出してきたくらいなのだ(大したことなかったので、その知 らせ自体が届くのが遅かったのだが)。
「見ての通り、なんてことねえよ」
 リックは妹の心配のしすぎを笑い流すように軽く言ってのけた。多分に演技なのだが、それでも妹を安心させるには十分だったようだ。シエラの顔いっぱいに 安堵の表情が広がる。
「よかった……、父さんたちも心配してたんだよ」
 しかし、シエラの何気ないその一言で今度はリックの表情が変わる。
「心配ね……」
 シエラは、唐突に不安感に襲われた。兄のその表情を何度か目にしたことがある。そういう時はいつも、たった今も含めて、兄が遠くなったように感じるの だ。不安が現実になることへの恐れから、シエラは手を伸ばしてリックの腕を掴んでいた。
「帰るんだよね、お兄ちゃん」
「ああ……、帰ってろ。俺はまだだ。今夜の見張りがあるからな」
 シエラに目も向けず、掴まれた腕も振り解こうとする。それでもシエラは懸命にしがみついて離さない。
「見張りは代わってもらったんでしょ? だって、怪我……」
「平気だから戻してもらう。どうせ今夜代わってもらっても、明日になるだけだからな」
「明日にして今夜は帰ろうよ。みんな心配……」
「うるさい!」
 叩きつけるような声と共にシエラの手を強引に振りほどく。だが、シエラの表情を見てすぐに後悔したらしい、今度は語調を和らげて、なだめるように言っ た。
「だから、怪我はねえから心配しなくていい。代わってもらうのも悪いから、今夜このまま残るだけだ。……帰ってろ」
 さすがにばつが悪そうにしながら、俯くシエラの肩を軽く叩いてリックはその場を離れた。
  彼女には分からない。どうして兄は頑なに自分を拒絶したのだろう? 怪我が平気だからと言っていた。明日に持ち越すのが面倒だからだと言っていた。代わっ てもらう相手に悪いからと言っていた。違う、きっとどれも言い訳だ。それらの理由を口にする前に、すでに兄の態度は変わっていた。
「帰ろうか、シール」
 相変わらず肩に乗っているリスの頭を指先で軽く撫でて、そのままその腕で目元を拭った。「きっと、うるさく言ったのがいけなかったんだよね。お兄ちゃ ん、しつこいのが嫌いだから……」

「いいんだぞ、今日は帰っても」
 男は、怪我をした当番の代わりに今夜の見張りをするはずだったのだが、当の怪我人が復帰したのでお役御免となったところだった。
「落ちたのも俺のせいだし」
 彼が、ロープを引っ張り、リックを支柱の上から落とした犯人だった。責任を取る形で代わりを名乗り出たのだ。
「いいんですよ、怪我もせずに済んでますし」
 素っ気無くリックは言う。
「まあ、おまえがそう言うならいいが……」
 男は窓の外に顔を向ける。少年の妹の背中がとぼとぼと離れていくのが見える。
「心配して、迎えに来てたんだろう?」
「心配ね……」
 相手の聞く耳を持たない様子に、男はため息を吐いた。年相応の反抗期とでも思ったのだろう。彼はリックの境遇を知らないのだから仕方がない。もし知って いれば、別の言葉をかけていたことだろうが……。

 孤児だったリックに妹がいるはずがない。シエラは、彼の育ての親の間に、彼が引き取られた後に生まれた子供だった。シエラはそれを知らず、リックを実の 兄だと思っている。リックも知らずに済めば良かったのだが、当時すでに物心の付いていた彼にそれは不可能だった。

  その夜、妖魔は現れた。数匹のゴブリンが柵の前に押し寄せた。軽く脅せば逃げ出すだろうという、村人たちの目論見は甘かった。妖魔たちは追い込まれてい た。食べるものもなく森の中を逃げ惑った妖魔たちは食料を欲していたのだ。そこで彼らは”奪う”ことにした。村人たちの抵抗など、彼らを追い込んだ冒険者 たちに比べれば脅威には感じていなかった……。

 柵を越えてくる前に弓で一匹、槍を伸ばしてさらに一匹を仕留めたが、その間に残りは柵を回りこんで村に入ってきた。
「逃げるぞ!」
  誰かが叫んだ。すでに村人たちは村外れを流れる川の向こうまで避難している。隣村へ、冒険者を呼ぶための報せも走らせた。後は、最後まで残った彼らがそこ まで逃げればいい。村は荒らされるかもしれないが、それも冒険者たちが駆けつけて来るまでだ。朝までには全て片付くはずだ。

「兄を知りませんか!」
 誰かが橋を渡ってくるたびにシエラは懸命に声を上げて訊ねていた。
「どいてろ、怪我人だ!」
 別の誰かがシエラを押し退ける。倒れそうになるのをなんとか耐えたシエラの肩から、耐えきれなかったリスが地面に落ちる。
「ごめんね、シール」
 シエラは手を伸ばしてリスを両手で抱え上げた。一安心したところで、さっき橋を渡ってきた人たちを追いかける。兄の姿は……ない。シエラは再び橋の袂に 戻る。
 村から近づいてくる人影は見えない。それを見て、村人たちは妖魔たちが来ないことに安堵していたが、シエラには不安が増すばかりだった。後悔しはじめて いた。あの時、兄を怒らせてでも、泣きついてでも家に帰らせていれば良かったと……。

「ちくしょう……」
 リックは憎々しげに呟いた。一軒の納屋に彼は隠れている。壁に背を預けたまま左膝を立て、右足を投げ出している。彼には、これ以上逃げることはできな かった。怪我をしたのではない。”怪我をしていた”のだ。
  支柱から落ちた事故の後、気絶から目が覚めた時から右足に違和感は感じていた。それが今は、確実な痛みとなって現れている。この右足を引き摺って村外れま で走ることはできそうにない。彼は賭けた。村に入ったゴブリンはわずか数匹。暫くすれば、隣村から冒険者たちが駆けつけてきて、やつらを片付けてくれる。 それまで隠れていればいいのだ。
「走っても逃げきる前に捕まるのがオチだしな、この足じゃ……」
 リックは足手纏いな自分の右足を睨んだ。足には自信がある。怪我さえしてなければ逃げ切るくらいわけないはずだ。
――怪我さえしてなければ?
  右拳を握り締めて地面に叩きつけようとするが、物音を立てるわけにはいかない。感情の昂ぶりを抑えるために、握った拳を口元に運んで歯を立てた。そもそ も、怪我した足を引き摺って、やらなくてもよくなった見張り役を買い戻したのは誰だった? 自業自得だ。くだらない意地を張った代償がこれじゃないか!

  自分が育ての親たちの実の子供じゃない。リックが最初から知っていたその事実が、重く感じられるようになったのは幾年か年を重ねてからだった。おそらく、 この事実だけであれば彼がここまで意固地になることはなかっただろう。しかし、ここにはもう一つの要素があった。育ての親たちの間にシエラが生まれたこと がそれだ。
 あの時、シエラはリックに言った。
「父さんたちも心配してたんだよ」
 嘘だ! 彼は信じなかった。本当の両親じゃない彼らが、表面はともかく、本心から自分の心配なんかするはずがない。事故に遭ったのが実の娘のシエラじゃ なくて良かった、と、そう思ってるはずだ。リックはそう決め付けていた。
 だから彼は、帰ろうと言ったシエラの言葉を頑なに拒絶した。本気で心配なんかしてない相手のために帰ってやる必要なんかないんだ、と。

  外から無遠慮な足音が聞こえてくる。今、村の中をこれだけ堂々と歩く生物は一つしかない。ゴブリンが近づいてきている。リックは小さく舌打ちして手元を確 かめた。小剣が一振り……、といっても、村の倉庫に置き放しにされていたものを今回の騒ぎで引っ張り出してきたものなのでぼろぼろだ。そしてベルトに差し た愛用の短剣が二本、こちらは十分に磨き上げてある。
 短剣の一本を引き抜く。壁から背を離し左足を踏み出し、痛めた右足でひざ立ちになる。ここに入って来るかどうか分からないが、来るなら戦うしかない。そ して勝たなければ自分が殺されるだけだ。
 右手に短剣を構え、じっと入り口を睨む。足音は真っ直ぐにこの納屋に近づいてくる。そして、戸が軋んだ音を立てながらゆっくりと開かれた……


 柱から落ちたとき、リックは地面が急速に近付いてくるのを視界に入れながら、考えていたのはどうやって怪我をしないように地面に降りよう、ではなかっ た。あの時も、彼が考えてたのは両親の事だった。もし自分がこのまま落ちて怪我をすれば、彼らは心配するだろうか?
  そう考えたのはほんの一瞬だった。だが、その一瞬の後に彼は地面に叩きつけられたのだ。 この時に負った怪我が全ての元だった。怪我を知りながら、帰るの を拒絶し見張り役を引き受けた。心配させたかったのだ。親たちが自分のことなんかなんとも思っていないと”誤解”していたから。

 そうだ、昔、イゾルデ姉が言ってた事だ。俺の”誤解”だって……


 リックが意識を取り戻したとき、彼の周りには父親がいた。母親がいた。だが、シエラの姿はそこにはなかった。
 妖魔の襲撃があった夜、リックはなんとか生きているうちに保護された。だが、傷は深く、生き延びるためには神の奇跡を必要とした。だが、神の奇跡を頼る には多額の寄付を用意しなければならない。農村の一家庭がそれを用意するには、娘の身売りしかなかったのである。
  シエラを領主の屋敷の下働きに出し、その給金を前借りして神殿への寄付に当てた。彼の両親は、みなしごの自分を助けるために実の娘を売ったのだ。リック は、この時になってようやく自分の誤解を思い知らされた。この上ない形で。そしてそれは、後にイゾルデが心の中で指摘したように、遅すぎた。


「シール」
 リックの呼びかける声に、リスは耳をぴくりと動かすだけしかしなかった。ベッドの上に丸くなっている。ベッドの主はもちろん、帰ることのないリスの主人 である。自分の主人がいなくなったのがこの人間のせいだと理解しているのかもしれない。
 ごめん、とも、すまない、ともリックは言わなかった。代わりに一呼吸置いてこう言った。
「おまえの飼い主を取り戻す」
 前借りした給金の分を返せばシエラを取り戻すことができる。リックは決意していた。この借金は自分の命を買った金だ。だから、自分が稼ぎ出さなければな らない、と。
 言葉を理解できたのかどうかは分からないが、この時、リスは顔を上げた。伺うようにリックの顔を見上げている。
「一緒に来るか?」
 ここが、リックの冒険者としての出発点であり、未来の相棒に手を差し伸べた最初だった。

…………

「結局、果たせなかったな、おまえとの約束……」
 リックの両手は土に汚れていた。そして、彼の目の前には石を積んだだけの小さな墓が立っている。
 取り返せるはずだった彼の妹は、数年の間に彼自身の手によって取り返せない場所へ連れ去られてしまった。リックは相棒を、彼の本当の主人に再び逢わせる ことができなかった。そして、妹に相棒を返すことも……。
 リックは短剣を鞘から抜いて、石に相棒の名を刻んだ。「seel」と。
「じゃあな、シール」

…………

 シエラをもう取り戻せないことは分かっていること。それを諦め、リックを責める気はないこと。そしてリックに――「我が息子へ」と記して――シエラのこ とを気に病むことなく自分の道を歩め、と手紙には綴られていた。
 帰って来い、とは書かれていなかった。例え書いたとしても、帰らないことは分かっているのだろう。帰る気があったとしても、帰れるはずがない。だから彼 らは、息子を苦しませないようにしたのだろう。

 リックは手紙を切り裂いて捨てた。もう十分だった、自分の過去と……、自分の失敗と向き合わされるのは。






  


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