せせらぎたちの 行方-3-
( 2001/10/17)
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作者
入潮丸
登場キャラクター
ダウリガンガ、リヴァース
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真っ白い刷毛で空をなぞったような雲が、さらさらと空に散らされている。
水絹の雲といったか。大気を漂う水の精霊が、風乙女と交わる際に、このようになる。大気に漂うすかな水の匂い。もうすぐに、天候が崩れてくるだろう。
「午後は雨になりますねぇ。」
空を見上げていると、ダウリガンガが呑気な声で言ってきた。
天気を読む術も心得ているらしい。
エルフを説得するよいアイデアが浮かぶまでの時間を無駄にしたくないと、二人は周辺の地形の測量を行うことにしていた。
「あれだけのことを考えているのなら、最初からエルフたちにちゃんと説明しておけばいいものを。そうすればあそこまで激怒させることなく、もしかしたら今 夜の雨しのぎぐらいにはあずかれたかもしれない。」
森の妖精たちの憤慨と、その後の熱弁に完全にやり込められてしまったことを思いやって、リヴァースは恨めしげに言った。
「 最初にもっともらしいことを並べ立てておいて説得しても、いざ、実行の段階になり、生活の場が破壊されるのを目の当たりにすると、必ず、感情的な議論が巻 き起こります。それよりは、最初に反対の感情を煽れるだけ煽っておいて、次にその感情を静めるだけの論理を呈するほうが、説得としては有効です。自分がそ の感情を押さえるだけの納得をしたのだから、という、割り切りが生じますから。後々のけれんが少なくてすむ。
それが先ほどの問いに対する、答えです。」
にぃまりと含み笑いをするダウリガンガに、リヴァースは鼻白んだ。
「それは納得のいくやりかたかもしれないが。これからどうやって彼らの怒りをなだめるつもりだ。」
「そこが問題ですねぇ。反対されることは予想してましたが、正直、ここまで激情を煽るとは思ってませんでした。このまま、燃え上がったところに理屈を持ち こんでも、冷ますどころか、油を注いで怒りの火に焼かれてしまう。命が危なくなるだけですねぇ…どうしたものか。」
リヴァースの質問に、うぅむとダウリガンガはうなった。
「先を見据えるのは結構だが、一歩先のやり方もちゃんと考えておけよな…」
憮然として、リヴァース言った。
「まぁ、時間がたてば感情は冷めるでしょう。時間が解決をしてくれます。多分。」
ダウリガンガは、そう呑気に返す。
「……それは悠久の時のあわいで生きる、エルフの得意文句だ。」
知ってか知らずか、もしかしてこいつは、自分などよりよほどにエルフらしいのではないか。そう思いながら、リヴァースは呆れた。
『空 への梯子』と異名を取るだけあり、クロスノー山脈の尾根伝いは非常に急峻な地形である。へばりつくように進まないとならない、絶壁のような個所も多い。そ こを、 カモシカの足でも持っているのかと思うほどに、ダウリガンガはするすると危なげなく歩いていく。足が短いせいで重心が低く、バランス感覚がいいのだ。リ ヴァースは気がつくといつのまにか距離をあけられてしまっていた。 川沿いの、今にも崩れそうな急斜面をゆくダウリガンガの足は軽い。
ごつごつした岩の上を白波を立て、陽光を反射しながら流れている川は、このままクロスノーの谷あいを走り、タラントの脇、ラバンの東をぬける。やがて、イ スター河と呼ばれる大きな川になる。この川は、さらに北へ流れ、バク河と合流し、大河となる。そして、冷たい泥の海と呼ばれる巨大なデルタの湿地を構成し て、最後に、プロム湾へ流れ込む。
予定では、溜め池は、この辺りでは集落が水没するほどの大きなものであるが、流域が限られているので、そのイスター川の流水には、ほとんど影響しないとい う。
ダウリガンガは、水の量を測るといっては、ためらい無く、服のまま冷たい雪解け水の流れる川の中にざぶざぶと入っていき、川の形や流れる時間を量る。土の 質を調べるといっては、おもむろに穴を掘り出す。
賢者の塔で純粋栽培されたモヤシかと思いきや、とんでもない雑草だった。
足場が悪くバランスを崩したり、ぬかるみに足を取られたり、苔むした岸に滑ったりと、リヴァースのほうが無駄な動きが多く、恨めしそうに、すいすいと先を ゆくダウリガンガを睨むのだった。
ダウリガンガは、巻尺の他、振り子のような錘がついて、傾けると目印までの角度がわかる器具、四分儀などを用いて、正確に、山の形や目標の木、沢の位置、 高さなどを、地図に記入していく。そのたびに、地図には、わけのわからぬ曲線や記号が増えていく。立体にあるものを平面に落とすためには、様々な工夫が凝 らされる。彼以外にこの地図を読みこなすのは不可能ではないかという、不可解な図面が出来上がっていく。
何度も川を挟んだ急峻な谷を、行ったり来たりし、川の近辺の地形を詳しく測った。どこから崖になっているのか。その位置は川の水面からどれぐらいなのか。 洪水の痕跡はどうか。水の流れの速さはどれくらいか。水位は。 それらを求めて、道無き道をはいずる。
川をせき止める堰の位置を決め、それから、大体の水量を測る。付近の地形を、水平面と縦断面の双方を書き出す。そうして、どこからどのあたりが没するのか を描き出すのである。これだけで相当な作業量になる。きちんとやろうと思ったら1年はかかるだろう。
「他の場所に溜め池を作ることはできないのか? もっと上流とか、森よりも下流とか。いかようにも代替案はありそうなものなのだが。」
地図を覗きこみながら、リヴァースはたずねる。バサリと、ダウリガンガは別の巻物を広げた。先ほどのよりは、範囲の広い地図である。やはり、いくつもの書 き込みと複雑な曲線に彩られており、一目見た限りではどの記号が何を指しているのかわからない。川を示すらしい一本の、木の枝のようにいくつも分かれた太 い線を指で伝いながら、ダウリガンガは説明する。
「上流に作れば川の流域がもっと限られます。それだけ、溜まる水の量が少なくなる。貯水池としての能力は格段に落ち、水を調整する機能が弱まります。それ では、人手と時間を費やす意義が無くなる。
また、ここより下流は、雨は少ないですが、肥沃な大地が広がっています。赤土が分厚く堆積しているのです。そこは、農地には適していますが、堰(せき)を 支える大地の力が非常に弱い。そうすると、深くまで杭を打ち、堰も膨大に太くしなければなりません。堰を作るための手間と人手と費用が非常にかさむ。それ どころか、地盤が弱いと、大雨などで大量の水が溜まったときや堰が一杯になって越流が起きた時、地面が堰を支えることができなくなってあっけなく崩壊する ことがありえます。そうすると災害は、自然に起こるものよりもいっそう酷くなる。
この川の流域は何度も歩いて往復しましたが、谷が狭くなり、岩盤が出てしっかりと堰を支えてくれる、この当たりが一番、適しているのです。といいますか… ここ以外は不可能だといってよいでしょう。」
難しいものだ、とリヴァースは嘆息した。
「でなければ最初から、気難しいエルフにこんな交渉を持ちこむことは考えませんよ。私も実は、エルフの森を潰すのだけは避けたかった。けれど、上の判断で す。半ば命令ですね。どうしようもない。机で書類を回している方々は、なかなか、現場の苦労を慮ってくれません。」
「なら、どうして引き受けたのだ? 嫌な仕事なら止めればよい。」
「仕事ですからね。それをやり遂げるために自分をやりくりするのもまた、仕事のうちです。それが、責任というものです。
…責任に対する思いというのは、計り知れないもので、人間が持って生まれた重要な性質の一つです。愛に匹敵する大きさだと思います。それが、赤膚鬼や犬頭 鬼と違う、人間の性です。
そして、いかに過程に嫌なことがあっても、責任を果たし終えたときというのは、非常に嬉しいことですねぇ。それは一つの快楽です。」
のんびりとした口調の中に、強い意思をうかがわせながら、ダウリガンガは言う。
「 ―― などというふうに申しますと、格好良く聞こえますがねぇ。ほんとのところは、最初は、こんなややこしいことが待っているとは思わなかったのです。人間の村 ならば税を集めたり土地の台帳をつくったりする関係、ほぼ全てが網羅されていますが、何処にあるのか知られていないエルフの集落も多いもので。
けれど、これでやめた、では、あまりにやるせないではないですか。やっぱり、一度始めたからには、やり遂げてみたいじゃぁないですか。
これまで考えてきたことが、どこまで、違った価値観と渡り合えるか。試してみたかったのです。」
旱魃で父を亡くし、水害で母は死んだ。兄弟は散り散りになった。身体が弱かったダウリガンガが、このまま砂漠のはずれの荒地で育つとは思われなかった。親 族たちの判断で、彼は、西のタイデルからやってきた街の商人の元に預けられることになった。商人は遊牧民の皮製品を運び売買することを生業としており、盗 賊に遭い途方にくれていたところ、ダウリガンガの父に救われた恩義があった。チャザの信仰篤い商人は、恩には恩をもって報いよとの教義にそぐうよう、彼を 大切に育てた。
商人は彼に学を施した。商人にとってはやがて自分の商売を手伝えるようにとの猶予期間のつもりであったが、もともと、静かに考えにふけりながら周囲の事象 を観察するのが好きであったダウリガンガにとって、勉強は楽しいものだった。知識の神の学問所にて頭角をあらわした彼は、国への人脈を強化したい商人の強 い勧めもあって、やがて役人に推挙された。厳しい試験をくぐり、彼は、土木計画を行なう部署に配属された。
彼にとって、国という単位の巨大な力 で行なう公共の人間活動は、新鮮であり、心踊ることだった。どうあがいても敵うことがないと思っていた、自然。それに人間は有史以来、魔法と知恵と力で対 抗してきた。それを組織できる側に立つことは、そこに生き甲斐を見出せる大きな意義のあることだった。
とはいえ、その後、順風満帆に宮仕え人生を満喫してきたわけではなかった。周囲にとって異邦人である彼は、他者の嫉みに晒されることも多く、人間関係には 苦労をした。いくつかの仕事をこなしたが、ある水工事の設計の仕事で、ミスをした。高低差の計算を間違い、貴族の館に汚水を逆流させてしまったのだ。
結果、このような異郷の調査に追いやられることになった。溜め池や潅漑の計画は、妖魔や危険動物の徘徊する野山を詳細に調査せねばならず、その必要性は大 きいながら、誰もやりたがらない。しかし、もともと、街生まれではなく、荒地を駆け巡っていた彼にとっては、むしろ願ったりの左遷だった。測量や地図の製 作に関しては素人だったが、岩や丘や木や水の流れといった自然の事象を、数字に直したり、恒久的に持ち得る紙に落としていく作業は、楽しくてたまらず、す ぐに技術を吸収していった。
仕事に対する彼の思い入れは、「天職」というファリスにある教えを彷彿とさせた。革屋、靴屋、武器屋、農民、商人、貴族、王族。世俗の者達も聖職者たち も、それぞれが神から与えられた任務で、人間たちは、それを果たす為の責任を持つ。その大きさに応じた富や財産、階級を、責任を果たした時に、恩寵という かたちで受け取る。世界にもはや直接介入することはない神が、人間に付与したステムだ。誠実に仕事を果たした者ほど、受け取る物は大きくなる。彼は満足感 という恩恵を何よりも大きく受けていた。
全てのことを自分たちで自給自足するエルフには決して無い考え方である。
周囲に濃い湿気が漂っていた。話をしながら谷沿いに歩いているあいだに、霧が降りてきている。じっとりとした大気の中に、水の匂いを嗅ぐ。峡谷の地形柄、 一年中湿度が高いのか、周辺には、春であるのに、驚くほどにたくさんの茸が、とりどりに生えていた。
日は傾き、辺りには闇霊が、帳を開こうとしている。
そのなかに何かを探すように、リヴァースが地面を注視し始めた。
何かあるのかと訝しんだダウリガンガに答える。
「盲の病が進行しつつある友人がいる。とあるエルフにそいつの話をしていたら、それに効く、光の精霊の力を孕んだ茸があるということを教えてくれた。…詳 しく聞いたのだが、湿気の多い特定のところにしか育たないらしく、なかなかな見つからない。」
闇の精霊の力が強まり、盲いゆく眼に、光を取り戻す効果があるという夜光茸。その情報をくれたのが、太陽の名を持った妖精、ソレイユという者だったのは、 何かの暗示だったかと思わせてくれた。しかし、そう簡単にそれを手に入れることは叶わなかった。一説には、マエリムの深い樹海の中にしか生えていないとも 聞いた。
濁ったほうのケルツの眼を思い起こす。ムディール出身のどこかけだるげな風情を持つ詩人は、時折、人の頭の中を射抜くような浸透性を持っている独特の視線 を泳がせ、人をどきりとさせる。あの光を失わせるのは多くの者にとって惜しいことである。ただ、そう思っていた。
オランを離れてからもうずいぶんたっていた。今ごろどうしているだろうか。出立の挨拶もろくにしなかった面々の顔が、不意に脳裏に映し出された。
「食べられる茸もたくさんありますねぇ。今夜は香りのいい食事ができそうです。少し水気が多いのは気になりますが、この辺りで野営にしましょう。」
一日中、急峻で歩きにくい道なき道を分け入って、上り下りしていたので、思った以上に疲れていた。疲労で、目の前に鉛がゆれているように感じる。
夕餉の糧を捜していると、ぽつぽつと、水滴が落ちてくる。遅い雨がやってきた。既に相当の距離を歩き、足は棒のように強張っていた。ダウリガンガの言葉の 通り、装備を下ろし、枝の陰になり少しでも水を防げるところにテントを張る。樹の根がごつごつとしているのはこの際やむをえない。テントの革の膜は、水気 を含んでずっしりと重くなる。
なんとか雨をしのぎ、炎が消えそうになるのに気を付けながら、遅い夕食とする。茸は森の滋養を含み、非常に香りが良く食べ応えがあった。
「この森を水に沈めると、エルフだけではなく、美食家にも反対されそうですねぇ。」
などと、舌鼓を打った。
ダウリガンガは水気にインクが流れないように気をつけながら、この日の踏査を纏めていた。
地図をたどり、地形を見て、印のあるところにメモを作っていく。
「立ち退き先としては、ここより上流の南側か、支川を辿った東のほうか、あるいはもっと適したところがないか、いくつかを候補として挙げる準備をしないと いけませんねぇ。そちらのほうにも足を運んでみないと。結構忙しいです。」
エルフの拒絶にまったく動じていないのか、先に対しては楽観的であるダウリガンガの言葉だった。
「木を切らなければならないのはどうしてなんだ?」
おそらくそれが、移転の次に解決させねばならない問題だろう。エルフにとっては最も重要なことだ。
測定した水の早さや川の断面の形、崖の高さといったデータをやり取りしながら、リヴァースは尋ねる。
「溜め池に木が浸かると、木が枯れます。死んだ木は淀みの原因となり、池の水質を悪化させます。池に沈む前に伐採し、家具や家の材料、薪などに用いたほう がずっといい。…あ、しまった。」
枝から大粒の水滴が落ち、羊皮紙が濡れる。
「…それが一番の問題だな。エルフにとってもっとも許し難い点だろう。極端なたとえをすると、自分の家族に、どうせ殺されるなら、皮をはいで傘にして、骨 は杯にして使おうか、と言われているのと同じようなものだ。」
過激なリヴァースの言葉に、ううむ、とダウリガンガはうなった。しかし、木を切ることを了承させないわけにはいかない。何かエルフを説得できるアイデアが 必要だ。
「…代替案になるかはわからんが、切る木と同じ本数の樹を、別の場所に指し木したらどうだ? 場所と苗木を提供すれば、まだ、なんとかなりそうだが。」
「それは一案ですね。できれば、果物や、水の病に効き目のあるズルカマラなど、商品価値がでるものがいいのですが。」
「そこまでいうと、贅沢だろうな。
同じ木をそのまま挿し木する、というほうが、エルフにとっては受け入れやすいことだと思う。まぁ、話し合ってみる余地はあるだろう。」
「そうですね。伐採する全ての木から植樹を行えば、まだ救いとなるでしょう。いずれにしても、相当な量になるでしょうから、場所をどうするかが問題です ね…」
そういってダウリガンガは再び地図を広げた。
協力をするとは言ったものの、エルフの移住に関しては、未だ、リヴァースは釈然としないものを感じていた。理屈では納得しているが、認めたくないのはやは り感情である。エルフへの同情をしているわけではない。もっと単純な根底にあるもの。それをなだめるように、熱心に地図を読むふりをして、違和感を振り 払った。
ふと、苔むした足音に、黄色い小さな花が咲いているのに、リヴァースは気を留めた。
「春橙花だ。…こんなところにも咲いているのか。」
リヴァースはしゃがみ込み、そのこじんまりした花びらに、そっと指を伝わせた。
遠くを懐古するような切なげな表情を見て、ダウリガンガは動きを止めた。
その小さな植物は、濃い湿気の立ち込める、気温の低いところでしか花をつけない。香りはさほど良くはないが、体内の水の精霊の働きを良くし風邪を予防する ということで、エルフ達に栽培されていた。土に含まれる水の量や日当たりが少し変わるとたちまちに枯れてしまう敏感な花でもあり、世話をするのが難しかっ た。
「せっかくだから、摘んで行きますか。」
「いや、いい。押し花で持っているし。…旅の途中で知り会ったエルフにもらった。」
ソレイユという者の事だった。人の世に出てきて半世紀ほど経た妖精だ。世慣れている風情ながら、深く太いエルフの根を持っていた。ああいう者がいるなら、 人間とエルフの交わりも良いものだと思わせてくれるが、その境地に達するまでに相当の軋轢と苦悩を経たものであろう含蓄を色濃く持っていた。
彼を見て、人間とエルフの交流に展望を持つのは簡単だ。か、よくよくに話を聴いてみると、それを健やかに行なうことへの難しさばかりが認識された。困難を 経た者を見て希望を持つのはたやすいが、自分が実行するのはもっと難しいことだ。
リヴァースの故郷のノミオルの周辺でも、エルフ達は春橙花の花びらを浮かべた茶を飲んでいた。
自分が小さい頃は、花を咲かせようと躍起になって世話をしていた。いくら毎日水をやり雑草を抜いても、猿に根を荒らされてしまったり、霜がついて枯れてし まったり、虫にやられたりして、ちっともうまくいかなかった。
周りのエルフ達は特に何をしているわけでもないのに、うまく花を開かせていた。
これを咲かせられたら、エルフ達に認めてもらえる。誉めてもらえる。分身の木の樹冠を頭に載せて祝う祭りにも、参加させてもらえるかもしれない。…そんな 他愛の無い想いを抱いていた。
一度だけきれいに花を咲かせられたときはとても嬉しかった。これで仲間にはいれるかな、と思った。
報告しようとして戻ってきたときには、誰かに千切りとられてしまっていた。
卑しい荒くれの人間の男に足を開いた、ふしだらな女の、子供。
混ざりモノ。
それが常について回っていたレッテルだった。
「……あなたは、一言もエルフの言葉を口にしていませんでしたね。」
親に捨てられた子供のような表情を不意に浮かべたリヴァースに、ダウリガンガが言う。
「エルフの言葉を話していたのは、ほんの子供の頃だけだったから。その頃は…どもりがひどかった。言いたいことが何も言えなかった。何を言っても周囲から 否定されると思っていた。エルフたちの言葉は…自分をその時の子供に、否応なく戻してくれる。何も言えなくなる。」
自分のなかのエルフの部分は、怯え、人の顔色を伺うだけの、未だに、ちっぽけな子供でしかなかった。
言葉は人の性格を作ることがある。たとえば、共通語ではやたらと友好的なのに、東方語に切りかえると高圧になる者がいたりする。場所や状況が変われば性格 が変わる場合がある。言葉は、その場所を特性付けるのに顕著なものだ。その言葉によって各々を話していた頃の性格が出てきたりする。
ただ、どの言葉を口にしていても、本質は変わっていない。エルフはそこにいるだけで、言い表せないやるせなさの対象だ。
エルフの非難の文句が、頭に焼き付いていた。
人間全般への批判だとわかっていながら、それが、自分に対して向けられたものだと、心のどこかでみなしてしまっていた。
鉄面皮でも被っていないとやりきれなかった。受け流している振りをしていても、言葉の刃は突き刺さってきていた。
それは、子供の頃にもっとも恐れていたものだった。
否定されること。誰にも受け入れられないこと。それが一番、嫌なことだった。
シニカルな装いなど、問題をあきらめ、格好をつけるための手段に過ぎない。それを矢面にして最初から逃げていた。…他でもない、エルフから。
幼い頃から、決してエルフに反抗することはなかった。彼らは絶対だった。彼らに溶けこめなかったのは、混ざり汚れた自分の血のせいだと思っていた。自分の 価値観のもっとも深い根となっているものは、やはりエルフのものだ。ずっと彼らに受け入れてもらいたいと思っていたから。受け入れられようと振舞ってきた から。
そんな自分と向き合うことから、逃げていた。自分と対立することを避けていた。彼らと敵対することは、ぼこぼこに穴のあいた脆い自分の土台に、さらに穴を 穿つことでもあるから。
ダウリガンガへの協力の申し出は、そんな自分に対する宣戦布告でもあった。
ぱちぱちと、炎は、音を立てて、爆ぜていた。
「…何かいます。」
ダウリガンガが暗闇に目を凝らす。
考えに沈んでいたリヴァースのほうは、気配に気がつくのが遅れた。腰の曲刀に手を遣り、しゃがんだままいつでも飛び出せるように振り向く。
シュッ、と空を切る音。
二本の矢。もともと当てる気のない威嚇だったのか、一本は手前に突き立ち、もう一本外れた矢がテントに穴を穿つ。
貴重な雨露避けの装備を傷つけられ、思わずリヴァースはムッとする。
「質問に答えろ。さすれば危害は加えない。」
声の方向の暗がりに視線を凝らす。それらしい影はない。風霊に乗せた声か。
「エルフか。…何だ。わざわざ威嚇などせんでも、隠すことはなにもない。」
先ほどの集落のエルフの中でも、剣呑な意見を声高に口にしていた者と同じ声だった。 嫌味たらしく、共通語で答える。
「まだ、森の肥料にはなりたくありませんねぇ。あと、50年ほどしたら嫌でも自然に土に返りますので、それまで、待っていただけませんか。」
とぼけたことをダウリガンガが言った。
「ふざけるな。姉をどこへやった?」
森に危害を加える者どもに制裁にきたかと思いきや、意外な言葉が振りかかってきた。思わず2人で、顔を見合わせる。
行方不明にでもなっているのか。そう尋ねると、二月程前から、掻き消えたようにいなくなったということだった。
彼は、森の外からの闖入者が、浚ったのだと信じていた。
「そ の頃は、タイデルの町でエールをのんでおりました。私達がこの森についたのは、昨日今日のことですよ。たとえいなくなられたのが今日だったとしても、ずっ とつかず離れずについてきたのならご存知でしょう。観測に忙しくて、エルフの方を襲ったりする暇なんて、どこにもありませんでしたよ。」
ダウリガンガが、困った様子で、声のするあさっての方向に答える。
行方不明者が出ていたということに、エルフたちの警戒心が強すぎることが得心した。 話を持ち掛けるにしても、タイミングが悪かったらしい。
しかしこれは、好機にも思われた。エルフ達の集落に何か問題が起きているのなら、それを解決すれば、何かの取り掛かりになるかもしれない。
半月のあいだ、音沙汰がまったくないというのは、たしかに事件だった。
「山の尾根を超えたタイデルの側には、古代王国の都市があり、未発掘の遺跡もあるという話です。その辺りに何か関係しているのでは。なんでしたら、協力さ せていただきますよ。」
遺跡と聞いて、リヴァースは、この冒険とはもっとも遠そうな男が、荒くれ事に興味があるのかと、意外に思った。
地形調査の途中に、埋もれた小さな研究所を発見したことがあるらしい。そのときは、護衛兼荷運び兼調査補助の冒険者と共に行動しており、彼らに引きずら れて、肝心の調査どころではなくなってしまった。
「ピ ルカさんというかわいらしい草原の妖精の方がいましてねぇ。セキレイのようにまた、声が通りの良い方なんですよ。家族と別れてるのが寂しいのか、非常に人 懐っこい方で。彼女の作ってくださった山菜鍋がまた絶品でねぇ。妖精の方々が、皆あのような方なら、助かるんですけれどねぇ。」
そういうことを言っている場合でもないだろう。放っておくとその時の遺跡探査の苦労話が始まりそうだったので、さすがにリヴァースは遮った。
「…そんなことはどうでもいい。」
案の定、置いていかれた形のエルフの声が、苛立ちを含む。
「雨が当たって寒いだろうに。出てきたらどうだ?こちらもそろそろ、テントに入りたい。」
雨は大粒になり、枝を伝って流れ落ちてきていた。春とはいえ濡れるとかなり冷える。
2人ののんきな様子に毒気を抜かれたのか、エルフはあっさりと姿を表した。
テントはといえば、穴のあいたところが丁度悪く、枝から滴った水が直接入りこんでいて、中はぐっしょりと湿っていた。
上流のほうに石灰質の岩が土手になっていて、侵食がちな地形があり、雨がしのげる洞窟ある。そこへいこうかと、ダウリガンガは提案した。地図からそこま で読めるのかと聞くと、この当たりは数年前から何度も歩いているので良く知っているとのことだった。
月も星も光の届かない闇夜。森の中は、目を閉じているのか開いているのかわからないような闇である。ランタンに火を入れる。
エルフの若者は、イジュマーという名だった。不信感はまだぬぐえないのか、警戒を露にして、腰にかけた細剣から手を離さない。人攫いの疑惑は晴れたかもし れないが、ふたりが、森を破壊しに来た闖入者であるという認識に変わりはなかった。彼らが好き勝手な行動に出ないかの見張り役をかってできたようであっ た。
ふたりは、イジュマーの姉のことをあれこれと尋ねた。地形調査はしばらく続く。通常、人が分け入らないところにも赴くので、なにか見つけられるかもしれ ないと伝えた。
彼は姉とは、10年ほどしか年が離れておらず、双子のように育てられたとのことだった。寿命が長い分、エルフの生殖は盛んではない。同じ集落に同世代に エルフが生まれることは本当にめずらしい。彼ら姉弟は、それだけいっそう、仲良く育った。
三人が入れそうな洞窟は、すぐに見つかった。急流で崖が滑りやすくなっているこの当たりは、森に住むエルフもめったに来ることはなかった。彼はその洞窟 の存在を知らなかった。湿気のほかに、鼻をつく黴臭い匂いと、かすかな腐臭が漂っていた。
訝しく思い、リヴァースが内部を覗く。精霊の視界では、大した物は見えない。いびつな植物の気配がする、という程度のものだった。
ランタンの火をかざすと、そこは、恐ろしいほどに茸が密集していた。先ほど彼らが食べたのと同じ種類のものが、足元、壁、天井全てを覆わんばかりに、 びっしりと生えていた。
三者、顔を見合わせる。しばらく逡巡した後、中に入る。
洞窟の中はさほど大きくはない。天井は高いが、すぐに、行き止まりに当たった。
「これは…布?」
不意に、茸の生える地面に違和感を感じて、 灯りをかざす。それは、茸に埋もれて色あせてぼろぼろになった、確かな、衣服だった。イジュマーがそれに手を伸ばす。
ごそり…。かさついたものが、何かからそげ落ちる感触。
「…っっ!!」
それは死体だった。既にからからに干からびている。確認しようとすると、乾燥した皮が剥がれ、白い骨が露出する。おぞましいことに、それにびっしりと隙間 なく、枯れかけた茸が密生していた。死体を糧として。
既に時間がたち、養分が吸い取られきっている。
イジュマーがくぐもった悲鳴を上げた。
「姉……さん……。なんで、なんで…こんなことに…」
かろうじて原型を止めている部位である、髪の、色と長さから、彼は確信した。
ガタガタと震え嗚咽の声を漏らした。自分の分身とも言える肉親。この瞬間に、彼らの永きに続くはずの道程の輪が立ちきられた。もの言わぬ躯。魂のない有機 物。存在感の喪失。うそだ、嘘だ…。目の前の現実を否定する。痙攣する腕で、自分の肩を抱きしめる。胃の中のものが込み上げてきて、イジュマーは蹲る。
「出よう。」
この閉鎖された空間の中で、彼の驚愕と悲しみの慟哭を聞いてはられなかった。無理やりイジュマーの手を引っ張って、洞窟の入り口付近まで戻る。
その時、前方で、もこり、と、何かが動いて盛り上がった。
茸の塊。ぼろりと、数個、崩れおちる。のろのろとした動きで、こちらにやってくる。
「……なっ!!」
二本足で立っているが、曲がった背中、ひょろりと長い手。
大小の茸に全身をみっちり隙間無く覆われた猿だった。
「うあぁぁァァアァァ!!」
イジュマーが叫んだ。腰の細剣を抜き放って、爆ぜる。この魔物が、姉を殺めたのに間違いはなかった。
ダウリガンガたちに対して、一人で脅しをかけようとするぐらいであったので、イジュマーはたしかに、訓練された剣の腕を持っていた。感情に我を忘れてい ても、細剣の描く弧は、鋭い。
しかし、猿は思ったよりも身軽で、逆に、長い手の一撃に、エルフの身体が飛ばされる。態勢を崩しながら、イジュマーは細剣を薙いだ。茸の合間に剣が食い こむ。ぶわりと、胞子が飛ぶ。黴臭いものが洞窟の中に立ちこめた。
茸の生えた手が、イジュマーを弾き飛ばした。見かけからは想像もつかない恐ろしい力だ。膝から地面に叩きつけられ、右足がぐきりと、いやな音を立てる。 さらに猿は、白い喉を締め付けてくる。エルフはもんどうりをうって逃れる。
激しい動きに、がくん、と猿の顎が揺れる。だらりと、目玉が垂れ落ちた。
不死生物の気配は感じない。あくまで生きているモノだ。
それでも、そのおぞましさに、背筋があわ立ち、うぶ毛が逆立つ。ダウリガンガが後ずさる。
「ダウリ、離れろ!…
<l>樹霊よ、しなやかなる蔦よ、拘束の綱となり、そいつの動きを封じよ…植物そのもののごとく。刹那の緑に彩れ…</l>」
これ以上危害を加えさせまいと、周囲の樹木の精たちの気配に瞬時に同化しながら、リヴァースは精霊を操る呪いを唱える。洞窟を覆っていた緑の蔦がうね り、猿の手足に忍び寄り、絡みついた。
そのあいだに、ダウリガンガは、ほうほうのていで距離を取る。自分は、このような場合は何も役に立たないことを彼は知っている。
蔦はそれ自体が意思を持った生物のように、猿に、絡みつく。しかし、茸に覆われた猿の力は、驚くほどに強かった。ぶちぶちと、しなやかな茎が、樹液を散 らしながら、引き千切られようとする。解けるのも時間の問題だ。
足元のランタンに踵が当たる。炎の耀さが、イジュマーの目に飛び込み、肉親を奪われた怒りの感情と共振した。動こうとすると、右足に激痛が走った。
考える前に、火霊の意思と共感する。森の妖精に忌まれるものである、その力を求める。
「<l>サラマンダよ、巨人の憤りの心を受け次ぐものよ。お前の猛き炎の舌持て、あのおぞましき存在を焼き尽くせ…!</l>」
エルフが破壊の力を用いた。
ランタンの窓から、火とかげが飛び出して、拘束が半ば解けている猿を覆った。きな臭い匂いが立ち込める。
さらに、ダウリガンガが、ランタンの油のストックの瓶を、茸の塊に投げつけた。
ばちばちと、炎がうねり、弾ける。
かえって、リヴァースのほうが、炎の精霊を用いることを躊躇った。森の中で火霊を用いることは、禁忌以上に、恐れることだった。
地霊に命じ、石つぶてを浴びせる。茸の傘が飛び散る。
数度の魔法による攻撃の後、やがて、有機物の焦げる匂いを漂わせながら、猿は動かなくなった。
肩で息をしながら、3人は流れる汗を吹いた。
げほっ、とせきこんで、身体に降りかかった胞子を振り払った。
「あれはなんだ。遺跡から抜け出してきた、古代の化け物か…」
イジュマーは蒼白な唇をかみ締めながら、震える声で言った。かつて姉だったモノの崩れる感触が、手に残っている。
「あれも、自然の産物です。」
返し、ダウリガンガは言いきった。
「お そらく、ファンガス、という、『植物』でしょう。私の記憶と賢者の分類が正しければ…ですが。あれも、森に自然に生きる、植物です。詳しくはわかりません が、猿は養分とされていただけで、あの茸が、本体だったのでしょう。寄生虫のようなもので、宿主を転々としながら、生きているのでしょうね…」
あらゆる生物は、捕食するため、身を守るため、繁殖するために、他の生物を殺める。それは生物の前提だ。あらゆる命は、他の命の犠牲の上に成り立つ。
植物も、刃のような鋭い葉や、棘をつけ、他を傷付けて身を守る。動物を捉えて餌にするものもあれば、ファンガスのように、生きた動物に襲いかかる凶悪な ものもある。
一見、ただ無害にそこに存在しているだけのように見える木々も、大地の養分を吸い取り生きている。その養分は、生き物の骸から来ている。
イジュマーは、足を酷く捻挫していた。そのまま独力で動くのは不可能だった。
昼間の激しい行動と、先ほどの魔法の酷使で、リヴァースも疲れはてていた。
洞窟の傍、茸の群生から離れたところで、なんとか止みはじめた雨のしのげる木陰に移動した。そこで夜を明かすことにする。
姉の無残な様を目にしたイジュマーは、しばらく、言葉も持てなかった。悲しみというよりは、現実の拒否感に苛まれていた。
こうなると、時間が癒すしかないというのは、よくわかっていた。肉親を失う悲嘆は、そのものと同じ時間と感情を共有してきた者にしか、わからない。
「どんな姉だったんだ?」
失われた痛みを和らげるのは、懐古である。リヴァースは話しかける。
しばらく黙り込んでいたが、イジュマーはぽつりぽつりと、話を始めた。
「姉は…一日一日、何かの楽しみを見つけるのが上手だった。私が、何でもないと思っていたことでも、いいものだと感じている人だった。香草の葉の形が可愛 いといっては微笑み、お茶の色が良く入れられたといっては自慢した。
手先が器用で、家のものを造るのが上手だった。麦藁や稲から、小物や籠、屋根や壁まで作っていた。一度始めるとすごい集中力で、誰が話しかけても返事しな くなった。
中でも、ロープを編むのがうまかった。樹皮を煮て、繊維を取り出す。樹皮は剥がされてもやがて再生する。幹が傷ついてもそれを覆い隠して成長する。暑さに も寒さにも耐えながら。樹皮のようになりたいと、言っていた。
人に料理を食べさせるのが好きで。いい茸が生えているところがあると、言っていた矢先、だった…」
取り止めのない話を続ける。変わらぬ毎日の話。それは不意に途切れたとき、彼は黙り込んだ。1000年の不変の意識を持つエルフたち。命に対する尊厳が大 きいだけに、それが失われた時の戸惑いは計り知れない。
捕食しされるのは自然の計らい、という言葉で、片付けられるものではない。
「明日から、樹皮を紡ぐのは、お前の役目か。二別れの若枝。一本は地に返り精霊となった。残されたほうは、傍らの分まで、陽光を浴びながら、上を向いて伸 びる枝でありつづけなければならない。精霊に還ったほうは、気楽でいいな…。…今宵はただ、雨に濡れんことを。」
リヴァースは目を閉じながらいった。
森の妖精の独特の死生観の感覚は、ダウリガンガには理解できない。彼自身はファリスの信者であり、行いに応じて、死後の行き先があると信じていた。
しかし、身に近しい者を失う時の感情は、皆に共通しているはずだ。彼は、自身の話をはじめる。
「 私は…父が好きでした。
厳しい人で、子供の頃、羊の背中に乗って遊んでいたら、その左前足を追ってしまったことがありました。父は激怒しました。羊やヤギは人間が生きるためにそ の命をささげてくれる大切な生物だ、勝手気侭に傷付けるとは何事だ!と、皮のベルトで何度も叩かれました。それから数日、塩スープ以外の食事をさせてもら えませんでした。
カップの水を飲むときも、前部飲み干すと怒られました。必ず少しだけ残し、それを足元の地面に振り撒かねばならない と。水も大地も、ともに大切なものだから、必要最低限の水を使い、残りは少しであっても大地に返しておくのです。そうすれば、大地はいつか苦しくなったと きにお返ししてくれると教えられました。また、飲み干さない、尽くさない事で、全てを一人占めすることの愚を禁じ、ものの有り難味をより大きく感じること を、学んだ気がします。
また、父は、厳しさの中の優しさを持っていました。私の靴が小さくなり穴だらけで汚れて、鼻がひん曲がりそうなほど臭くなっていたのを知っていて、こっそ りと新しい靴を買っておいてくれました。けれど、すぐには渡してくれず、集落の学校で、算術のテストで一番になったときにはじめてそれを、寝間の横に置い ておいてくれる。そんな人でした。
父は、集落の人や旅人にはとても親切でした。家を訪れる人はみな神様の使いだといって、水が無い時 も食べ物が無い時も、もてなしていました。食事が足りない時は、今日は精霊が折り合わないとか言って、まず自分のものを分け与えていた。家にはいつも、家 族以外の誰かが居たような気がします。
悪い水を飲んで病で父が死んだときは、家族が皆途方に暮れました。
我々は、死人が出た家に、家畜を送って弔いとします。子供が死んだら鶏、大人が死んだらヤギが羊、という具合です。そして、死んだ人がとりわけ立派な人物 だった場合は、牛が送られます。牛は何よりも貴重な家族の財産です。牛を送るということは、家をあげてその人のためなら命を分け与えられるという、何より も誠意のあるその印なのです。
父には、牛が7頭、送られました。おかげで、家族は命をつなぐことができた。それ以上に私は、本当に誇らしかった。牛たちが、父の信念と生き様の証しに見 えた。
それから私は故郷を離れましたが、父の息子に生まれて本当に良かったと思いました。そのときのことは一生、忘れられません。父があって私があります。父に 恥ずかしい生きかたは出来ません。」
そこまで話して、ダウリガンガは一息を入れる。
「イジュマー。今夜はあなたにとって悲しみの時間となるでしょう。けれど、夜が明けたら、周囲にとっても本人にとっても、不本意に生を途切れさせてしまっ たあなたの姉の魂が、あなたと一緒に育ったことを心から良かったと思えるような、そんな在り方をしてください。」
イジュマーは答えなかった。ただ、かすかな嗚咽と、鼻水をすする音が聞こえてきた。
リヴァースのほうは、二人の話に聞き入りながら、じっと無言だった。
不意に、ダウリガンガはその半妖精のほうを向き、小さい声で言った。
「 リヴァース…そして、あなたのほうは…自分自身を誇らなければならない。あなた自身を、誉めなければならない。充たされることがなかったあなたの土台の空 隙は、あなた自身で埋めなければならない。イジュマーは悲しみと喪失を糧にできるでしょう。しかしあなたは、過去からはなにも、養分を得ることができな い。少なくともそう、あなた自身が思っている。だからそう、飢えているんですね。」
熱のない淡々とした、彼特有のくぐもった声が届く。それゆえにいっそう、言葉が突き刺さった。
何も返すことができなかった。ただ、
「嫌な奴だ。」
とだけもらし、唇を噛んだ。
「…ところで、どうでも良いのですが、さっき夕餉に食べた茸って、何を養分にしていたんでしょうかねぇ…。………。……。」
彼の意味したところは、可能性は少ないこととはいえ、あまりに不謹慎なことだった。
イジュマーの顔が憮然とする。気まずい沈黙が流れた。
「…お前、言わなければいいことをわざわざ口にする奴だとか、墓穴堀りだとか、よく言われないか?」
おぞましい発想に、リヴァースは胃をさすりながら、湿ったテントの中で、毛布に包まった。
疲れすぎて眠れないということはあるものだ。先ほどの化け物が、体だけではなく、再び襲い掛かってこないとも限らない。水に濡れて身体が冷えていたのもあ り、目がさえて寝つけなかった。
「なぜ、あんな魔物がいきなり現れたのだろう。これまではあのような事は無かったのだろう?」
疲れすぎて眠れないということはあるものだ。先ほどの化け物が、体だけではなく、再び襲い掛かってこないとも限らない。
闇に視線を漂いながら、まだ起きている気配のダウリガンガに尋ねる。
暫し思考の海を漂った後に、彼は答えた。
「あ くまで私の考えですが。今年はここに限らず、西部全体でことの他、雨が多い。特にこの当たりは森林が多く、下流の乾燥地帯と違って、水の精の力が強く、霧 が濃いところですので、晴れて乾くことが例年に比べてごく少なかったのでしょう。また、侵食により石灰岩が削られできた谷でありますので、地形が変わりや すい。侵食が激しく、先ほどの洞窟のようにことさら湿気が溜まりやすい場所ができてしまったのが、影響したのではないでしょうか。」
「複雑だな。自然のまま、というのはなんてややこしいんだ、と思う。変わらないものなんてありやしない。水と炎と、地と風と、光と闇と。あらゆる力が、頭 が痛くなるぐらいに相互作用をしあっている。…何が起こるかだなんて、予想できやしない。」
ダウリガンガの言葉を噛み砕いて、リヴァースは首を振った。
「私たちの仕事は、その無限に多様な自然と、うまく付き合っていくことです。」
「よくやるよ。一つ一つの精霊を相手にしているほうが、よほどに楽だな…。」
いいながら、リヴァースの心には、一つの解答が湧き上がってきていた。
物質界における精霊使いの役割。
かつて自分は、精霊使いとしての素質は、いかにその精霊への本質に共感し同調できるかである、ということを教わった。そして、その通り、精霊と会話する時 は、あたかも、そのつかさどる事象に同化するように、存在を透明にしていた。
精霊の力を、精霊界から紡ぎ出して物質界に送り届ける役目の妖精たちにとっては、それでよいのだろう。そして、その在り方でいけば、あるがままの自然を歪 めることは、精霊たちに居心地の悪さを強いることで、最も忌むべきことだ。
精霊の力が混さった状態、互いに相互作用しあう状態が、物質界における自然である。水や風の精の力をはらんだ大地は、土壌が脆弱になり、その上の支える力 を失う。大地の力を溶かし込んだ水は清らかさを失い濁るし、風の力を受けた水は波となって荒れ狂う。
そして、純粋な精霊の力を内包する自然は美しいものだが、それは、多くの場合、生き物を拒む恐ろしい世界でもある。
物質界において、自然は、常に、混ざった形で、時に互いを弱め合い強め合いながら、存在する。 物質界の精霊たちはあまりにも複雑に絡み合っている。
物質界における精霊使いは、この混ざりきった精霊たちの巣くう自然を相手にしなければならない。精霊魔法といえば、その中から、分化されうるものをほんの 少し取り出して紡ぎ出しているに過ぎない。
妖精界において精霊の力を紡ぐ妖精たちは、純粋な精霊を扱っているわけであるから、基本となる接し方がまったく違うといえる。エルフたちは、この、妖精界 における精霊使いの在り方を踏襲していると考えられた。
物質界では、自然と自分たちを区切り、自然に対抗しつづけることが、生き物の宿命である。
そこにおける精霊使いの在り方は、妖精たちとはまた、違ったものではないかという漠然とした考えがあった。
エルフたちは、精霊と本質が近く在るわけであるから、精霊使いとして入り口に達するのは早い。しかし、物質界において本当に巧みに精霊たちと接しているの は、むしろ人間のほうではないか。一角獣の森にすまわう伝説の精霊使いであるドルイドも人間だ。
それは、混ざり合い相互に作用する精霊と、その恵みを受けながらこの世界にそぐうように自分たちの在り方を試行錯誤してきた人間であるからこその、力では ないのかと思われた。
自然を退けようとする生き物たちの行いにより歪められる精霊たちの力を解放していくこと。歪みを避けるのではなく、それを在るうるものとして受け入れるこ と。その上で、破壊に行きつかぬように、複雑に絡み合った精霊たちの力と人間たちの作用を、調和させていくこと。
神により世界を託された人間たちと、自然にすまわう不安定な混じった精霊たちの掛け橋となること。
それこそが、物質界における精霊使いの役目ではないかと、思った。
自然は常に、調和した状態でそこに存在している。ただ、世界は安定していないので、時にそのバランスが乱れる。それが周期的で把握しうるものならば単に季 節と呼ばれ、不規則で破壊の形をとるのならば、災害と呼ばれる。100年に一度、大災害があることはよく知られているが、それは、精霊たちが溜めこんだ歪 が発散していることだ。
ダウリガンガの行おうとしていることは、人間が都合をよくするために、人為的に、自然の調和を乱すことである。しかし、もともと、物質界の精霊は乱れてい る。それが物質界の自然だ。それをそうとして非難するのではなく、乱れた調和による結果を受け止め、見定め、破壊の形とならないように、精霊たちの力加減 を見、聴き、嗅ぎながら、ベターな方法を見極めていくこと。人間の活動と精霊たちの在り方の妥協点を推し量ること。
たとえば、溜め池にお いても、水の流れが滞って澱みが生まれないように、全ての水が健やかに流れるように、水門の位置を決めることや、流れ込んで堆積する土砂を取り除けるよう にすることなど、精霊たちの状態を肌で感じながら提案していくこと。人間と精霊、双方にとって持続しうる解答を見つけ出していくこと。それが、物質界に求 められている在り方ではないのか。そう思われた。
精霊使いの在り方を模索するような本質ではそもそも、良い精霊使いになれるものではないといわれている。悩みは精霊の本質から外れた物質的なものに由来す るからだ。しかし、自分にとって理屈は自分の性質を、心の置き所を決定付ける大切なものだ。理屈によってずっと自分を作ってきたから。意義や在り方という ものへのこだわりと、解答が、必要だった。理論と本質は、相補的なものだ。理屈が感性を創るのなら、それもまた、精霊使いにとって必要なものだ。感受性 は、思想を経るごとに、鋭くなる。
そして、精霊魔法が使えることが重要なのではない。大切なのは、あまたの精霊たちの相互作用を感じ、読み解いていって、なにが、自然と生き物にとって、最 善の在り方なのか、その糸を手繰り寄せていくこと。精霊と物質界の主役たちをつなぐ掛け橋となること。
神官にとって、奇跡の行使よりも、日々、人々を良き在り方に導く教義のほうが、よほどに大切であるのと同じことであるのだ。
そして、精霊たちの本質を知るのは、目的ではない。・・・それは、手段だ。
基礎的で不可欠なことであるが、たとえどんなにその本質に近づいて精霊になっても、この世界に益するところはない。何故なら、ここは、物質界だから。自分 は、物質界に生きる者だから。
「朝がきて、埋葬をしたら、イジュマー…もう一度、森のエルフたちと、引き合わせてもらえないか?。」
リヴァースは言った。
今度は説得できる。正面から立ち向かう。…その意思を込めて。
ダウリガンガの顔が、暗闇のなかで、ほころんだ。
しかしエルフから返答は無かった。
眠っているのかと、イジュマーの様子をのぞきこむ。
エルフは、寝転びながら声を殺して、じっと何かを耐えていた。彼の肌はじっとりと湿っている。
「足が痛むのか?」
見ると、彼の腕には、もそりとした小さなものが、いくつか、生えついていた。
「………! 」
目を凝らしたダウリガンガの顔が、驚愕にゆがむ。
それは、茸だった。
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