邂逅
( 2001/12/20)
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作者
松川彰
登場キャラクター
ラス、カレン、マックス、レスダル、アンジェ ラ
「…あれ…はっ…!」
夕陽の光の1つを、黄 金色の体毛を介して自らの瞳に感じ取りながら、アンジェラが鋭く囁く。先頭にいたマックスが、それを小さく手で制した。動くな、と目で後ろの全員に合図し て、草原へと視線を戻した。目立たぬように、小さく指を立てる。細めた瞳の先にリュンクスをとらえて、距離を目測する。
(矢は届くだろう。だが…魔法となると難しいはずだ)
マックスが持っている長弓は恐るべき射程の長さを誇っている。あらゆる武器のなかでも、もっとも遠くの敵を捉え得る武器だ。その射程は、ほとんどの魔法 をも凌駕する。
(そう…矢なら届く。だが、それだけで仕掛けるわけにもいかない)
今はまだ安堵できる。リュンクスが持っている恐るべき能力の1つに、岩をも透かし見るというものがある。だが、事前にレスダルが調べたものを聞く限り、 リュンクスが見ることの出来る範囲は限られているらしい。自分の目測距離と、レスダルの知識を信じるならば、今、自分たちが立っているここは、リュンクス の透視範囲から外れている。
風を読む。追い風であれば、矢を放つ助けになる。が、獣を狩る時には追い風は禁物だ。追い風があるということは、す なわち風上であるということ。風下にいる獣に、自分たちの匂いを気取らせるわけにはいかない。野生の動物である以上、音と匂いには敏感だろう。エルフや フェアリーなど問題にならないほどに。
(幸い風下だな。……どうやって移動する? 最低でも、魔法の効果範囲に入らなくては…)
攻撃を しかけることが可能になる範囲まで近づくこと。それが一番の難関であることは、何度も繰り返された議論のなかでも全員が認めていたことだ。普通、気配さえ 殺せるならば、近づくことは可能だ。最接近する必要はないのだから。魔法が届く範囲にまで近づくことができるなら、それから後の戦闘は必然的な要素が濃く なっていく。だが、今回の相手はリュンクスである。あの黄金の獣。一行の眼下に広がる美しい草原のなかにたたずむ、草原よりも美しい獣。落ちかかる夕陽に 照らされてなお、独自の色合いを失っていない金色の毛並み。
草原を移動するならば、草をかき分ける音がする。人間がいる、と少しでもその可能性 を感じさせた次の瞬間には、リュンクスは走り去るだろう。こちらに向かって襲いかかってくれるならまだしもだ。だが、リュンクスは本来、人間を狩りの目的 にすることはない。自身が狩りの目標にされることはあっても。
(奴は何をしている…? 狩りの途中か?)
油断なく周囲へと目を走らせながら、リュンクスはゆっくりと移動していた。夕陽の射すこの時刻。獣たちも食餌をする可能性は高い。
背後で待つ一行にと、マックスは視線を移した。事情がよくわかっていないらしいヒィルリィレンも緊張の面もちでそれを見守る。精霊語でラスに言い含めら れたか、それとも周りの空気を感じ取ったか。
「レスダル。梟は起きてるな?」
問われてレスダルがうなずく。本来、夜行性である梟は昼のあいだ活動することはない。だが、時間的にもそろそろ目を覚ます頃だ。真昼でなくて助かった、 とマックスが小さく息をつく。
「荷物はここへ。……どうせ逃すつもりはない。長引かせるつもりもない」
幸いにも雨雲は遠い。置き去りにした装備を濡らす危険性はないだろう。荷物に詰め込んである燻した肉を狙う獣はいるかもしれないが、獲物を見つけること は困難だったことを考慮すれば、その可能性も低い。
「ラス、カレン…行くぞ」
自分の他には足音を殺せる人物はこの2人だけだ。2人とも山中での行動は不慣れとはいえ、足運びに関してはたたき込まれているはず…それを考慮しての人 選である。
マックスは手早く装備を確認すると、草原のなかに身を沈み込ませた。ラスとカレンが無言でそれに続く。
「合図があるまで待機…とは言え、もどかしいわね…」
視線で殺せるものなら、とアンジェラが草原の中の獣を睨みつける。獣に恨みなどない。むしろ美しい獣だと思う。だが、弟ウォレスのためにその命は必要だ。 だからこそ狩ることを決めて、街を出てきた。今更迷う気持ちなど欠片も残っていない。透視能力がないだけ、国王暗殺のほうがまだ楽だわ、と心の中で小さく 呟いた。
3人が草原に身を潜ませる。それを確認して、アンジェラも待機状態に入る。その場を支配するものは、緊張した空気。張りつめた糸が頬を切り裂いても不思 議はないほどの緊迫感。
杖を握って立つレスダルに視線を移す。その行為すらも、音を立てないようにと気遣いながら。
レスダルの額を汗が伝う。それには気づかない様子で、レスダルは杖の握りの部分をハンカチで拭っていた。湿ってなどいない。それでも、万が一にでも杖を取 り落とすことがないように、と。古代語魔法を発動させるその杖は、つややかな光を返している。濡れた光ではない。むしろ濡れているのは、レスダルの手のひ らだろう。それに気がついて、レスダルは自分の手のひらを拭った。そして、額を。
その様子を見ながら、アンジェラは遠い昔の戦場を思い出していた。傭兵として、戦場を歩いていたあの頃を。
有無を言わせず緊張は高まっていく。肉食の羽虫が、アンジェラとレスダルの吐き出す息に…そして汗にひかれて、すぐ近くを飛び交う。だが、その羽音はア ンジェラの耳には届かなかった。
汗を拭うレスダルの姿が別のものに見えた。戦場で、敵の騎馬突撃に備え、塹壕で身を潜める己が思い浮かぶ。隣で伏せていた傭兵仲間が神経質そうに剣の握り を布で拭っていたのを思い出す。『剣を落としちゃ命も一緒に落とすからな』と囁いて笑っていた。それに応えて笑おうとした自分の耳には、重い馬蹄の響きが 轟いた。
静謐な夕暮れの草原で、それでもアンジェラの耳は馬蹄の響きを聞いたような気がした。それがただの錯覚に過ぎないことは自分が一番わかっていた。
マックスたち3人の準備が出来たのを見計らって、レスダルは使い魔を近くの枝から飛び立たせた。そしてそのまま、少し離れた草原へと着地させる。
がさり、と草が波打つ。リュンクスが瞳を上げる。じり、とその前脚が動いた。五感を共有した梟が感じ取るその視線を受けて、レスダルの背筋に冷たいもの が走る。握り直そうとした杖が滑る。それをどうにかこらえて、使い魔へと指令を出す。
リュンクスはまだ動かない。梟が飛び立つ。同時にリュンクスが跳躍する。が、その爪は梟をとらえることはなかった。距離が遠すぎたのだ。それをわかって いただろうに、それでも敢えてリュンクスは跳躍していた。その様子を見て、アンジェラが眉を寄せる。
「………子育て中、ということかしら」
「その可能性は高いわね。マスターもそう言っていたし…」
梟の眼でとらえたリュンクスの動きを感じつつ、レスダルがうなずく。
止まれ、とマックスの腕がラスとカレンの動きを制する。梟の動きとともに、足音をできるだけ殺して動き始めていた3人は、リュンクスが跳躍した直後に 走った。そして、今、再び足を止める。リュンクスが跳躍した方向も幸いして、距離は十分に詰まっている。
マックスが弓を準備しつつ、ラスに目で合図する。それを受けてラスが無言でうなずいた。本来なら、今から囁こうとしている呪文を使うには少し遠い。それ はわかっている。けれど、近づくのが困難な以上は、自分が持つ力でそれをカバーするしかない。
矢がつがえられる。ヒィルリィレンが持ち帰った枝で作った矢だ。精度は劣るかもしれないが、それはぎりぎりの射程ならの話である。魔法が届く距離まで近 づいた今となっては、十分に信頼できる矢だ。
ひきしぼられていく弦。草の波のなかで、片膝立ちになってマックスは狙いを定めた。普段であれば、少年の輝きを残すその茶色の瞳も、今は獲物を狙う狩人 としてのそれになっている。
すぐそばでラスが精霊に呼びかける声すら、マックスの意識には届いていないかもしれない。鏃(やじり)の向かう先にいる黄金の獣だけがその意識を占めて いた。
ノームに呼びかける声。それに応えて、リュンクスの足元で土塊が盛り上がった。それと気づいたリュンクスがたじろぐ。その隙を逃さず、マックスは矢を 放った。
「………ち! わりぃ…!」
直後、ラスが鋭く囁いた。その前にカレンは動いている。魔法をかけ、矢を放った今となっては身を隠す意味はない。
立ち上がって、同時に抜き取っていた細身のダガーをリュンクスに投げる。少し遠いが、届かないことはない。
足止めをしようとしたラスの精霊魔法から逃れて、リュンクスが振り返る。マックスが放った矢は後ろ足を射抜いていた。矢と魔法が放たれた場所をリュンク スが認識したと同時に、その耳をダガーがかすめていく。
リュンクスの瞳の色が変わった、と…そう見えたのは錯覚だろう。尾根を照らす夕陽がその瞳に射し込んだに過ぎない。それでも、その瞳には怒りが浮かんだ かのように思えた。
草をかき分ける音がする。振り返ったマックスの目に、走り寄ってくるレスダルとアンジェラの姿が映った。ヒィルリィレンも薄い羽根を揺らめかせながらそ の後ろに続いている。
自身に傷をつけられた以上は反撃するだろうと思われていたリュンクスだが、一行の予想に反してその身を翻した。
「襲って…こない?」
追いついて、槍を構えながらアンジェラが呟く。
「逃げていくわね」
自身は草むらに身を沈めたまま、梟の視覚を借りて確認したレスダルが言う。アンジェラが振り向いた。
「追いましょう。幸い、マックスが足を傷つけたわ。魔法があれば、足止めは可能なはず」
「足止めはする。……獣ごときに魔法やぶられたなんて、恥ずかしくて街に戻れるか」
リュンクスの動きを視界に入れたまま、ラスが舌打ちと共にそう呟く。獣、とは言え、相手は普通の獣ではない。幻獣と言われるリュンクスである。ごとき、 と言い切るにはいささか難のある相手だ。
「だが…動きが少し妙じゃないか? 足をやったのは確かだろうが……かなりふらついているぞ。…普通の矢だろう?」
カレンがそう問いかける。マックスが当然だとうなずいた。
「当たり前だろう。薬なんか使うものか。…………そうか。偽傷だ」
「ギショー? なんだ、そりゃ?」
問いかけたラスにマックスが手早く説明した。
「鳥 にも同じ行動を取る奴がいる。……子供のいる場所が近いぞ。いいか? ある種の鳥は、雛が襲われそうになった時に、親鳥がそれをかばう。そして、わざと傷 ついた振りをして、よたよたとその場から去るんだ。そうすれば、それを狙った獣は、親鳥を追いかける。十分に距離がとれたところで、親鳥は飛び去る。それ を偽傷という。リュンクスの子供がすぐ近くにいる証拠だ」
「追わないってことかしら? すぐ目の前に傷ついたリュンクスがいるのよ!?」
槍を手に、今にも走り出しそうな様子でアンジェラが言う。悲痛な響きを帯びたそれをマックスがおさめた。
「より確実にいくなら、子供のほうだろう。巣そのものがあるとは考えにくいが…子供は確実に近くにいる。猫科の動物は特定の巣を持たないことも多い。とく に、こういった草原ならなおさらな。狩りをしながら、子供を連れ歩くのが普通だ」
「確証は? より確実に、という言葉はこちらも言いたいことだわ」
「今のリュンクスを追っても、リュンクスはまだ十分に俺たちに対抗する力は残しているだろう。それでも、あの行動をとると言うことは、子供がごく近いとこ ろにいることを示している」
よたよたと立ち去るリュンクスを見て、マックスは確信していた。確かに矢は刺さった。だが、たった1本の矢。そしてカレンのダガーは耳をかすめただけ だ。黄金の毛並みをところどころ真紅に染めてはいるが、リュンクスの動きに支障が出るほどの傷とは思えなかった。
「それでも駄目だったら……血の跡を追えばいい。この近くに子供がいるなら、逃げてもいつかは戻ってくる」
歩き去るリュンクスからは目を離さずにカレンが呟く。
「………わかった。そうしましょう。……ああ、ヒィルリィレンは向こうで待っていてもいいのよ…って、伝えてくれるかしら?」
苦笑混じりにアンジェラがラスに言う。それを受けていくつかの精霊語をヒィルリィレンと交わしたラスが肩をすくめた。
「魔法が使えるから、手伝わせて欲しいってよ」
「樹を助けたお礼というなら、帰り道にも妖精界を通らせてもらうのだし…構わないのよ?」
「俺 もそう言ったよ。でも…なんだか、妖精界にはしばらく帰りたくねえってよ。俺たちを通らせたことがバレたのかもしんねえな。帰り道にも使わせる約束をして たけど、それをかなえてやれそうにないから、手伝わせてくれって。どっちにしろ、ヒィルリィレンは癒しの魔法を使える。手助けしてくれるならありがたいっ てもんじゃねえの?」
ラスとアンジェラの会話の様子を、ヒィルリィレンは少し哀しげな瞳で見つめていた。交わされる共通語はわからなくても、先刻自分が言った言葉をラスが伝 えてくれているのはわかる。
それを横で聞いていたレスダルも、複雑な表情でヒィルリィレンを見つめた。人間たちに好意的な妖精たちは多い。だが、交流を望まない妖精たちも同じだけ多 い。物質界に生きる人間たちと、妖精界で生きる者たちと…接点が少ないのは当然のことだ。多分、ラスの推測通りなのだろう。もともと彼女からの依頼をされ た時にも、彼女が妖精界で孤立しているのかもしれないとの印象は受けた。人間たちをよく思っていない妖精たちに、彼女がしたことが知れたとしたら……。
「……癒し手が増えるのはありがたいことだわ。行きましょう。今は時間が惜しい。……そうでしょう?」
それ以上、ヒィルリィレンに問うことはせずにレスダルが微笑んだ。
立ち去るリュンクスが、血の跡を点々と残しているのを認めながら、5人はあたりを見回した。だが、うかつに動いてはマックスの動きの邪魔にしかならな い。
「さて……どこから探すか…」
リュンクスが歩いてきた方向を考えれば、ある程度の推測は可能だ。足跡を追うことも。だが、子供が自力で移動しているなら困難さは増す。
「………マスター。右だ。小さい岩が出てるだろ? あの近所にいる……と思う」
確実とは言えないけどな、とラスが呟く。なぜそこまで限定して?とマックスが目で問う。ラスは肩をすくめた。
「形や大きさまではわかんねえ。けど、あまり大きくない『生きてるもの』があそこらへんにいるってことがわかるだけだ。………ただし、俺じゃ近づけねえけ どな」
すでに諦めたはずだ。何度も思って、何度も諦めた。自分には技があるからいいだろうと思っていた。けれど、やはり羨ましい。マックスはそう思わずにいられ なかった。精霊使いの視覚は、温度を捉える。生きているものの気配を捉える。思わず溜息が出そうになる。が、それは後回しにする。今は、狩りの最中だ。
「そうか……有り難い助言だ。確認してくる」
だからみんなはここで待っていてくれ、と言い残してマックスが動き始める。音を立てないように、風上にまわらないように、細心の注意を払って。
いくつかの足跡がマックスの目に映る。リュンクスのものだ。そして、二周りほど小さな足跡もある。しかも…真新しい。
(……ん? 小さなほうは…2匹分…か? 普通、大型の獣は一度に1頭しか子供を産まないはずだが……双子、ということもあり得るか。珍しいな)
音もなく草むらに伏せてマックスが見回す。揺れる草の合間に見えたのは兎だ。
(兎…か。確かにあまり大きくない『生きてるもの』だな)
間違いではないが…と、内心で苦笑を漏らしつつ、マックスは視線を動かした。それと同時に、兎が怯えたように跳びはねる。
(……なんだ? 俺は動いてないぞ…?)
兎は何に怯えたのか、と目をこらす。揺れ動く金色が目に入った。警戒するようにあたりを見回しながら、それでも目の前の兎に小さなうなり声を上げている ものがいる。
(………いた…っ!)
金色の猫科の生き物。先刻、ラスが言った小さな岩のすぐ脇に伏せている。子供とは言え、成獣になると人間の倍近い体長になる獣だ。今でさえ、普通の猫よ りも十分に大きい。大きさだけで言うなら、大型の犬に近いだろう。
(1頭しか見えない…か。もう1頭は逃げた可能性も高いな。だが1頭いれば…十分だ)
音と気配を殺して、マックスは片膝を立てた。矢をつがえ、ゆっくりと弦を引き絞る。
ひゅっ。
風を切る音を残して、矢はリュンクスの仔へと向かっていった。
続いて聞こえてきた、小さな悲鳴を耳にして、離れた場所にいた残りの人間たちがそっと息をつく。
「……やったわね。あとはとどめよ。行きましょう」
晴れやかな…だが、まだ油断はしていない表情でアンジェラが一行をうながす。彼女の足が草波を一歩踏みしめた時、ヒィルリィレンが進み出てきた。共通語で 交わされている会話はわからない。が、レスダルに以前聞いた話と、ラスから聞いていた話とで、今は獣を狩りに来ていることくらいはわかっていた。先刻、矢 と魔法を放った黄金の獣を狩るらしいということも。
「子供を…殺すの?」
槍を構えて歩きだそうとしているアンジェラに、しばし何かを言い募ったあとで、言葉が通じないことに気がついたか、精霊語でそのひと言だけを口にした。
「それがどうかしたか? 俺たちの目的は知ってたはずだろ?」
邪魔はするな、と目で知らせつつ、ラスがそう告げる。
「…… 嘘! やめてやめてっ! まだ赤ちゃんじゃない! さっきの、おかあさんでしょ? あの子供を守ろうとしてたおかあさんでしょ!? おかあさんのほうにし とけばいいじゃない! まだ追えるよ。あなたたち、魔法も武器もたくさん上手に使えるからきっと大丈夫だよ! だから赤ちゃんは殺さないでよ!」
ヒィルリィレンの悲鳴じみた叫びが響き渡る。
「……何を言ってるの? この子…」
眉をひそめてレスダルがラスに問う。同じような内容の言葉を、まだ叫び続けているヒィルリィレンに閉口しつつ、ラスが肩をすくめる。
「ガキを殺すなって言ってるだけだ。……気にすんな。行こうぜ、アンジェラ」
「わかってるわ」
アンジェラの返答に躊躇はなかった。ヒィルリィレンの叫びは、彼女には意味をなさない。たとえ並べ立てられる精霊語を解することができたとしても、彼女 は眉1つ動かさなかっただろう。
「どうして!? ねえ、どうして!? 赤ちゃんは駄目だよ! 殺さないで…殺さないでよ…! あたしだって…殺したくて殺したんじゃないんだもの…っ!」
何かあったな、と先刻から勘づいてはいた。意志の疎通に使うことも可能だとは言え、もともと精霊語は普通の言語とは違う。普通の言語よりも、単語は少な い。誰かに何かを説明するには適した言語ではない。だが、ニュアンスと言う点では違う。言葉に含まれる意味の他に、それにまつわる感情のほうを時には優先 的に伝えることもある。普通の言語よりもそれは伝わりやすい。溜息をついてラスが口を開く。
「おまえが言いたいこともわかる。けど、それはおまえの事情だ。俺たちの事情じゃないし、アンジェラの事情でもない。口を出すな。……見たくないなら立ち 去ればいい」
「だって聞こえるじゃないっ! 声が聞こえるじゃない! 命の精霊さんがいなくなるのがわかっちゃうじゃないっ!! あたしの手の中で消えてったみたい に!」
「……ねぇ、どうしたの?」
ヒィルリィレンの様子を不審に思ったレスダルがラスに問いかける。ラスが小さく溜息をついた。
「なんだか…要領を得ないが…こいつが妖精界に居づらい理由ってのもそのへんにありそうだ。昔、不注意で誰か…多分、小さな子供を目の前で死なせちまっ た。不注意そのものの原因もどうやらこいつだ」
「そう………」
レスダルの脳裏に、息子の顔がよぎる。ある事件をきっかけに、オランから追放されてしまった息子。まだあどけない瞳をしていた息子。助けたかった…追放 にされた時は、命さえあるならそれで…と納得したつもりでも、息子に会いたいと思う気持ちは決して消えはしない。
「…何をやってる!? こっちに来い! 親が戻らないうちに始末をつけるぞ!」
マックスの声がした。見ると、マックスは剣を抜いてリュンクスの仔へと近づき始めている。先刻、放った矢は獣の腹を貫いている。だがまだ息はある。そし て、先ほどから悲痛な叫びをあげて、親を呼ぼうとしているのだ。
それに応じて、アンジェラが走る。残りの人間もそれに続いた。走っていく一行の背中を見て、ヒィルリィレンが息をのむ。
「…待って! 待って待って! まだ生きてるよ!」
流れる涙を拭いもせずに、ヒィルリィレンは背中の羽根を動かして、リュンクスのもとへと急いだ。だが、アンジェラたちのほうが一歩先に到着する。
「マックス! 獣はどこ!?」
槍を構えたアンジェラがマックスに問う。同じように剣を抜いているマックスが草の波から突き出た小島のような岩を指さした。
「あの岩の手前だ。致命傷じゃないが、さっきの矢は深く刺さってる。ろくに動けはしないだろうが…子供の悲鳴に親が反応すれば、親と戦う羽目になる。そう なる前に…急ごう。……油断するなよ。子供とは言えリュンクスだ。牙も爪も鋭い」
「わかってるわ」
アンジェラが進み出た。一歩…また一歩と歩みより、獣の間近にまで近づいていく。
子供であっても、毛並みの美しさは成獣と変わらない。むしろ、親よりも柔らかな風合いで、美しさを増しているかもしれない。その毛並みを血で染めて、リュ ンクスは弱々しげな視線をアンジェラに向けた。消えつつある生命の精霊の力。だが、弱りながらも、獣はアンジェラを睨んだ。怒りと憤りの視線をアンジェラ とその後ろのマックスに向けて、獣がうなり声を上げる。
「…援護は必要か?」
アンジェラの背後に近づいて、カレンが尋ねる。鞘から抜きはなった短剣を手に、アンジェラとマックス、そして弱りかけた獣とを交互に見ながら。
「大丈夫、必要ないわ」
そう応えたアンジェラのすぐ横で、マックスが口を開く。
「いや、手があったほうが早く済むだろう。カレンはここで一緒に…っと、そうだ。ラス、レスダル、そっち2人は親のほうを警戒しててくれ。いつ戻ってくる かわからん」
「わかった。援護が必要になったら声かけてくれ」
ラスが応じる。その隣でレスダルは、梟を飛び立たせて、上空からも監視を始める。
「行くわよ、2人とも!」
アンジェラが槍を振りかぶった。どすり、と鈍い音が響く。くぐもった獣の悲鳴。武器を振るう人間たちの短い気合いの声。武器が風を切る音は、必ず、鈍く 濡れた音を伴った。風にのって、血臭が届き始める。
弱った獣はほとんど抵抗できなかっただろう。牙を剥いても、爪を立てても、それは人間たちには届かずに終わった。生命の精霊が、力をなくしていく。
「きゃぁぁぁぁっっっ!!」
ヒィルリィレンが高い声を上げる。
「どうしてっ! ねえぇっ!? どうしてよぉっ!!」
精霊語で言うことにすら、気がまわらなかったのか、フェアリー語で泣き叫びながら、ヒィルリィレンがラスにつかみかかる。だが、その細い腕にいくら力を 入れても子供の遊びほどにしか感じない。至極簡単にラスがそれを振り解く。振り解かれたその腕をレスダルが支えた。
「あなたの気持ちもわからなくはないわ。でもね、アンジェラには…彼女には、それ以上に大切な命がかかってるの。……共通語で言っても通じるわけなかった わね」
それでも、ヒィルリィレンの腕を放すことはせず、レスダルが小さく溜息をついた。錯乱から、忘我の状態へと変わりつつあるヒィルリィレンは、ただレスダ ルを見つめ返すだけだ。
「……よし。急いで腹を割くぞ」
マックスの声が聞こえる。その言葉は、戦いが終わったことを示していた。3人とも、額にうっすらと汗を浮かべてはいるものの、息は切らしていない。傷も 見あたらない。ほぼ一方的な戦いであったことは想像に難くなかった。
「…あったわ! リグニア石…っ!」
アンジェラが声を上げる。血にまみれた彼女の手のなかに、小さな琥珀色の石が握られていた。
「ウォレス……ウォレス……これで…あの子は……」
アンジェラの声がくぐもる。
そこへ、ヒィルリィレンが駆け寄っていった。忘我の状態から醒めた直後に、レスダルの腕を振りきって。腹を割かれ、むごたらしい姿に変貌したリュンクス の仔を見下ろして、そこに膝をつく。
「どうしてっ!? どうして……っ!」
言葉は通じない。それでもヒィルリィレンが泣き叫ぶ。その口調と表情に非難の色を感じ取って、アンジェラがヒィルリィレンをにらみつけた。
「殺 すな、とでも言うのかしら? 馬鹿言わないで。……何のためにここまで来たと思ってるの? 親だろうが仔だろうが関係ないわ。私にはリグニア石が必要な の。私に……私の弟には。安っぽい感傷なんか迷惑なだけだわ。自分の命すら賭けてもいいと思う相手を救うためなのよ!? リュンクスの仔ぐらい、100頭 だろうと殺してみせるわよ!」
リグニア石を握りしめて、アンジェラはそう言い放った。その剣幕に、ヒィルリィレンがたじろぐ。意味はわからずとも、伝わるものはある。確かに。
「…… 言い争いなら、別の場所に移動してからにしてくれ。親がいつ戻ってくるかわからんのだぞ。ほとんど消耗はしてないとは言え、望んで戦いたい相手でもなかろ うに。……まぁ、普通なら、死んだ子供にそこまで執着する獣はいないがな。鳴き声で確認して、子供からの返事がなければ諦めることのほうが多いが、万が一 ということも……」
マックスが溜息をつく。が、ヒィルリィレンには伝わっていない。
「わかんない! あたしにはわかんない! ……だって…あなたに何か大事なものがあるのは…それはわかるけど…でも、この仔はおかあさんにとって大事な命 だったよ…。おかあさんが、命を賭けても救いたいと思ってた命だった!」
ようやく思い出したのか、精霊語で放たれたその言葉を、ラスが要約して伝える。そろそろうんざりしてきた、という表情を隠しもせずに。
「そんなの……理由になんかならないわ。少なくとも私にとってはね」
冷たく言い放つアンジェラをなだめるかのように、カレンがその肩に手を置いた。
「アンジェラ…わかってるから。だから俺たちはここまで来たんだから。………ラス、ちょっとその妖精に伝えてくれないか?」
通訳をすることにはもう諦めたのか、さして言い返しもせずにラスがカレンの言葉の先を促す。それにうなずいて、カレンはヒィルリィレンを見つめた。
「誰 にとっても…大切な何かはある。知らない誰かの命でも、別の誰かの大切な命だ。命を賭けても守りたいとか、救いたいって気持ちは誰にでもある。……確か に、無益な殺生は好まないし、それは罰せられて当然の行為だとも思う。けど、今回のことが無益な殺生だったとは俺は思わない。アンジェラとその弟には必要 なことだった。冷たく言うなら…命を賭けても守りたいものなら、守りきってみせればいい。少なくとも、アンジェラはそれを決心してここまで来たんだ」
カレンが、ヒィルリィレンの反応を窺うかのように、いったん言葉を切る。その視線を受けて、ヒィルリィレンはうつむいた。唇をかみしめる彼女に、カレン が更に言い募る。
「君 にとっては…神という存在は意味のないものかもしれない。けど、俺は信じてる。今日、ここでリュンクスに出会わせてくれた神の導きを…。それはリュンクス にとって…そして、君にとっても不幸な出会いだったかもしれない。誰かの幸運の影には別の不運が存在することも多い。だからといって、幸運を勝ち得た者を なじる権利は誰にもない。たとえば…守りきれなかったことを…それだけの力を持たないことを…君なら責めるか? ヒィルリィレン? 責めないだろう? 守 れなかった者を責めずに、守ろうと動いた者を責めるのは……それはただ、相手に慈悲を求めているだけだ。自分が守ろうとしていた命を捨てて、別の命へ慈悲 をくれ、と…そうやって、駄々をこねているに過ぎない。だから、君がいくら責めようと、俺たちは謝る言葉は持たない。その必要がないからだ。……俺たちを 恨んでいいのは、君じゃない」
ラスがヒィルリィレンに伝えるのを見ながら、カレンは息をついた。……これは、説教なんかじゃない、と。神官の説 教なんかじゃない、ただ、自分の考えを押しつけただけだと。それでも、口先だけの言葉ではない。慈悲を…と、そう願う者の気持ちはわかる。痛いほどに。だ が、本物の慈悲は、人間が持つ力じゃない。想像し得ぬほどに強大な力を持った存在だけが、それを持っている。
「……そうね…そうだわ……」
ラスの背後で呟かれる声。ヒィルリィレンではない。杖を握りしめたレスダルだった。アンジェラの依頼に応えた者たちのなかで、ただ1人、自身を冒険者と名 乗らない彼女。それでも、学院の書庫でばかり過ごしているわけではない。冒険者の世界を知っている。だからこそ、最初にマックスに『大丈夫だな?』と聞か れた時にうなずいた。人と獣を対等に扱ったりなどしない、と。だが、気づかされた。冒険者たちは、戦いのなかで獣や妖魔…そして、時には人間すらその手に かけることがある。命、と言う点では、確かに対等なのだ。どの命も、誰かにとっては最優先されるべきものだから。最も対等であり、同時に最も対等でないも の。少なくとも冒険者たちはそう思っている。だからこそ、戦う。奪われたくなければ守れ、と戦う。
目の前で、年端もいかぬ少女のような妖精が泣き叫んでいるのを見て、胸が痛んだ。彼女が言った台詞をラスから聞いて、自分の息子を思いだした。あの一 瞬、流されようとしていた自分がいたことを認めて、レスダルは杖を握る指に力を込めた。
「あ たしは……あなたに許される必要はないよ。だから、あたしは、あなたたちが嫌い。赤ちゃんを殺す人なんて嫌い。………でも、約束は果たすよ。約束を破るの はいけないことだから。……帰り道の代わりに、あなたたちの手伝いはする…。これから…山を下りるんでしょう? 最初に会った…あの場所まで一緒に行く。 あの樹を助けてくれたお礼に…あなたたちが途中で怪我をしたら、命の精霊さんにお願いする。でも…あたしはあなたたちのことは嫌い」
唇をきつくかみしめて、それでも涙は見せずにヒィルリィレンがそう言った。
「……気の済むようにしろ。自分がやりたいことをやればいい。逃げても怒らねえから」
『赤ちゃんを殺す人』と表現された中に、ヒィルリィレン自身をも含まれていたことは感じ取っていたが、あえてそのことには触れずに、ラスがヒィルリィレ ンにそう告げた時。
── キュオォォォ…ン…
長く尾を引く獣の声が聞こえた。親が立ち去ったと思われる方角からだ。梟の眼で見ても、その姿は確認できない。いらだたしげにレスダルが杖を握りしめ る。
「……どこにいるの? ヴィンスの目でも見えないわ」
「陰に隠れてるんだろう。さっきの子供の悲鳴で近くまできて…子供が生きているかどうかを確認している声だ。返事がなければ…諦める可能性は高いだろう が…」
それでも緊張した様子は崩さずにマックスが呟く。
── キュルォォォ…ン…
細く高い…幼い声がすぐ近くで応えた。
「…し…まったっ! 近くにいたのか…っ!」
「どういうこと!?」
先ほど、リグニア石を取り出した獣の死骸をその視界に納めつつ、アンジェラがマックスに問いかける。持っていた剣を鞘に納め、再び弓を手にとりながら、 マックスが口早に答える。
「子供だよ! もう1頭いたんだ! ……足跡は見つけていたが、あの1頭を見つけた時には近くに見あたらなかった。てっきり逃げたものと……。今更、逃げ られんだろうな。用意しろっ! 来るぞっ!!」
最後の言葉を、残りの全員に投げかけて、マックスは矢をつがえた。
夕陽を浴びて疾走する獣は、美しかった。瞳に浮かぶ光は紛れもなく怒り。1度目の邂逅の時は、その瞳に浮かんだ光は定かではなかった。怒りかもしれないと も思った。だが、今の瞳を見ると、先刻の光はまだ生やさしいものとしか思えなかった。燃え立つような、という形容がこれほどに当てはまる瞳もあまりない。 “空の草原”と呼ばれる、美しい草波を蹴って、リュンクスは牙を剥いた。
リュンクスの仔から取ったリグニア石を腰のポーチへと大切に納めて、アンジェラは槍を構えなおした。カレンも短剣を構えているが、武器を使うには距離は まだ遠い。
「っせぇいっっ!」
気合いの声とともに、マックスが矢を射る。だが、全速力で疾走するリュンクスの体毛をかすめたに過ぎない。舌打ちを漏らす間もなく、2本めの矢をつがえ る。
「……ラスっ!」
カレンが短く叫ぶ。足を止めろ、と言う意味だろう。そしてそれは、呼びかけの言葉だけで正確に伝わっている。
「まだ遠い! レスダル、ヒィルリィレン、下がれ!」
ラスが2人の腕を引く。
その直後、リュンクスが残りの距離を跳躍した。
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