柊
( 2002/05/10)
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作者
magisi
登場キャラクター
イオ、ホリーぺティオール
おそらく、どこか遠くの方で燃え残った焚き火の中の炭が焼け爆ぜるような小さな音がする。
そうでなかったとしたら、獣か何かが酷く緩慢な動作で小枝を踏みしめている音―――そのいずれかだ。
不自然な事に、足より下になってしまっている己の頭を持ち上げようとすると、体のあちこちが悲鳴をあげる。
その体の持ち主は、その悲鳴に対して敢然と無視を決め込むことにして、不恰好に這いつくばりながら、
なんとか頭と足の位置を元あるべき順位に持っていってやる。
辺りの風景がまともに像を結んで視界に入るようになり始めた今、何を先置いてもせねばならない事が一つあった。
その作業は、ほんの一呼吸の間で終わった。もっとも、その呼吸はたっぷり息を吸って、胸内の苦々しさを全て
吐き出そうとする長い長い溜息と共に行われるものだったから、普段の呼吸時間に比べたら余程長い時を
要したのだったが。
「くそったれ」
溜息と共に吐き出した一言で今自分が置かれた状態を導いた全てに対して(もちろん、自らへの自責の念も)
の怒りを吐き出してしまうと、当座、やらねばならない事を頭に思い浮かべようとした。
考えるために脳を動かそうとすると、鈍く頭に痛みが走る。
覚醒と共に、痛覚まで起き出して来たらしい。どうせなら、お前は眠ったままで良かったのに。
とりわけ背中が酷く痛む。何かに、押し付けられているようだ。鈍い痛みを訴えつづける頭を無理矢理巡らして、
丁度肩甲骨の下辺りを苛み続ける原因を睨みつけてやることにした。
目に飛び込んできたものは生い茂った柊の茂みだった。どれもこれも立派に育ち誇らしげに枝を天に向け
ている。全ての葉が上を向いているのは、日の光を奪い合おうとしているからなのだろう。
そこまでは別段、どうということはなかった。強いて言うなら、こんな棘の葉の上でなくとも、例えばすぐりの
木のようにできるだけ柔らかく受け止めてくれるものが下にあったならさぞ良かったろうにと思うばかりだ。
しかし、木々の棘は自分を守るためのものであり、他者を助けようとしての物では無い・・・責めることなど
できやしない。
柊は、赤く熟した小さな実を鈴生りにつけていた。
―――柊の実が成る場所に足を踏み入れると、ろくな事が無い。
何時からだったろうか。そんな験じみた物が自分の中に確実に根付いていた。馬鹿馬鹿しいと思う側ら、
それでも無視しきれない。現に柊の実る場所にはもう数年以上足を踏み入れてなかったはずだ。
確か、前はその葉に着衣の一部をひっかけられて、珍しい獲物を狩り損なった。1月近くも追いまわした後
だったというのに。それなのに、今の自分ときたら旺盛な生殖力をあらん限り発揮し、
たわわに子孫を実らせたその木に抱かれているのだった。冬を越した濃い緑の葉と芽生えたばかりの黄緑の
新芽、そのどちらも一人の男の命を救ってやった事に、満足そうに反り返っているかに見えた。
もう一度、溜息をついてから、その男は改めて自分の置かれている場所を見やった。
男の体が置かれている場所といえば、とても人が足を踏み入れられる場所ではなかった。
切り立った岩肌の中程に、茂った柊の塊。恐らく、芽吹いた幾らかの木が次々と種子を落として一族を
繁栄させてきたのだ。つまるところ、コイツらは皆親族なんだろう。
そのちくちくと痛い有り難い枝葉の網を通り抜けてしまえば、目測ではとても及ばないはるか下に落下するだけだ。
下を向くと、眩暈がする。仕方なし、男は上を見上げた。
全ての色彩が浮かべられたような頃合の空は例え様も無く美しかったが、間もなく闇が訪れる事実を
如実に物語っていて、希望を抱かせる材料にはなり得なかった。
夜の訪れを自覚すると、途端恐怖心もこみ上げてきた。流石に、獣などの心配は無いだろうが、柊が熟す季節は、
初春。
それなりに暖い地方とは言え冷えが充分に命に関わる季節であることに間違いは無かった。
男は、これ以上無いぐらい細心の注意を払って背を起こした。これ以上ちくちくとやられ続けるのは御免だった。
捲れあがっていた外套をすっかり体の下に敷いてしまう。これで何とか一つだけ問題が解決した。
もう一度上を見てみる。今度は、空ではなく、此処に来る前に自分が居た場所をだ。
自分を5人ぐらい継ぎ足したら多分手が届くんじゃないだろうか?その場所は、おおよそそれ位上にあった。
周りには足がかりになりそうな岩の窪みが幾らでもある。よじ登っていく事も、不可能ではなさそうだった。
男が、全くの健常な時であれば。
男は、若かったが、今の自分の身でその行為を行えばどうなるか判らない程無知でもなかった。
折角柊が救ってくれた身をもう一度谷底に転落させてやる程の勇気も持ち合わせてはいなかった。
ここで3度目の溜息をつきさえしなかったら、きっと驚きはもう僅かぐらいは少なかったに違いない。
どんな微かな足音であれ、静寂に包まれたこの場所で野伏の耳がそれを聞き逃す筈は無いからだ。
柊が、気配に向けてざわりと喜びの声を上げたようだった。
「運が良かった、悪かった。どっちだと思う?」
「少なくとも、悪すぎる事は無かったかな」
驚きを無理矢理押し込む事に成功した男は、突如崖の上に現れた人影に答えた。
自分より僅かばかり高い声。大した大きさでは無いと思えるのに、辺りによく響く。そもそも、此処から上までは
それだけでかなり離れているのだ。だから、男の方は半ば叫ぶように答えを返したのだった。
男の返事に、崖上の人影はしばし思考を廻らせている様だった。
「この場所が我等の領域だという”印”は見なかったのか?」
「判っていたし、拙いとも思ったが、こちらに逃げてこなかったら今ごろ落盤でぺしゃんこだった」
またしばし、時が過ぎた。空の色彩が、青から赤に勢力を譲っている。
男は、胸中に不安が膨らんでいくのを感じた。崖の上の人影は、間違いなく森の民。そして彼らは自らの
領域を踏み越えられる事を極端に厭う。故に、森の中に踏み入る時、森の民の”印”を見損なうことは
野伏には決して許されない事だった。見損なうような下手をするはずが無い。
しかし、判っているにも関わらず、どうしても領域侵犯をせねばならない非常事態というのも、極々稀では
あるが、起る事がある。・・・なにしろ、今がそうだ。
唐突な落盤まで、誰が予想できよう?無我夢中になった時、逃げる方向まで考えられる人間なぞそうそう
いるもんじゃない。必至に逃げ出している真っ最中に、今の位置に転落してしまったのだった。
男にとってありがたいことに、崖上の森の民もそう考えたようだった。
「聖なる棘の葉の母が、お前を助けた。ならば、私もその意思を尊重しよう」
そう告げると、森の民は彼の持つ銀糸の髪を束ねて小指ほどの太さにしたような綱を男の目前まで垂らして来た。
男は、それなりに長身で、痩せすぎても居なかった。常人が見たなら、その細く美しい綱に命を預けるなど
とんでもないと必至に引き止めただろう。
しかし、男は最小限の物だけを身に帯びると躊躇う事無くその綱を手にとり幾重か腰に巻き、崖を攀じ登り始めた。
幸いな事に、男は酷い打ち身や切り傷をいくつかこさえただけで、骨に至るような負傷を負ってはいなかった。
たっぷり時間をかけて、男は崖の上まで這い上がり、地面に大の字に転がって喘いだ。森の民は、皮袋に入った
水を差し出してくれた。
「助かった。すまない」
「感謝なら、聖なる棘の葉の母に」
男は、皮袋の中の水を少し飲み込んだ後、もう少しその水を使ってもいいかどうか森の民に聞いた。
その水が、素晴らしく澄み切ったままで、未だ清涼な流れの小川にあるかのように思えたからだった。
森の民は自分が持っていた手荷物の中から布を取り出すとその水で湿し、男に手渡した。
「流れにあった者が、でき得る限り熱を抑えてくれるだろう。本来なら流れから切り離すのは心苦しいが」
「感謝するよ。ありったけ」
男は言葉通り、惜しみなく感謝を心に浮かべ、自らの傷口を拭っていった。清涼な水に拭われるたび、
痛みまで引いていくようで心地いい。
森の民は、男が作業を終えるまでの長い時間を黙ったまま見守っていた。
彼も、また若い男だった。森の民の中ではという事だが。おそらく、成熟の年から100年もは過ぎていないだろう。
男が一息つくと、彼は自分が集落の外を見回る役目にある者だと言う事を男に告げた。人間の言葉を学んだのも
そういう役職に就いている為だった。それから、自分が持ち出した銀糸の綱を指差して訪ねた。
「よく、信じたな」
男は、それを聞くと破顔した。夜風に転じ始めた空気の流れが男の髪を揺らがせる。最初、森の民にそれが
血にそまり、すでに手におえないほどの重症を頭部に負っているのではないかと思わせた、赤毛だ。
夕日に映え、なおさら紅に染まっている。
―――聖なる棘の葉の母は、この男の髪の色に、自らの子を見止めたのかも知れない。
「ある種の葉脈を寄り合わせた銀色の綱が恐ろしく強いものであることは野伏なら大抵が知っている。
それが、森の人の手によるものなら、疑う余地なぞ欠片も無いさ」
男は、人好きのする笑みを浮かべたままもう一度礼を言った。
「できれば、命の恩人の名を知らせて欲しい。俺は―」
「言う必要も聞く必要もない」
凛とした強い口調に、男は一瞬たじろぎ、数度瞬きを繰り返した。
「人間に、我が名を告げるつもりもなければ、人間の名を知る必要もない。私は、お前を聖なる棘の葉の子と呼ぶ。
お前は、私を森人とでも呼べばいい。私は多くの同胞と一つであって、一人であるから」
男は、頷いた。相手がそう呼べと言った以上、それが彼の名だ。そして、呼ぶといった以上、それが自分の名。
それから、共に一夜を過ごした。男は、崖から這い上がってくる為に初春の夜を過ごす為の道具を全て
崖下に置いてきてしまっており、森人に頼るしかなかったからだ。しかし、二人とも森での生活には
手馴れた物で、枝葉を使って風や夜露を凌ぐ方法には長けていた。
男にとって、火を使うことを禁じられたのは非常に辛いことだったが、此処は森の民の領域であって
これ以上彼に迷惑をかけるのはなおさら御免だった。
長く短い夜を過ごす間、二人は幾ばくかの話に興じた。たとえ種族は違っていても、二人とも若い男であることに
違いは無く、どちらも引けを取らない年相応の好奇心を持ちえていた。
また、彼は森人にしては驚く程人や森の外への感心を持っていたのだった。
―――いずれ、外に出てみたい。人の街へも下りてみたいね。
眠りにつく寸前、つぶやかれた希望にみちた彼の言葉が男の耳にずっと残っていた。
早朝の静寂は、突然訪れた殺気に簡単に打ち破られた。
荒々しい獣の唸り声を聞きつけた二人は素早く背を合わせあうと辺りに注意を飛ばした。
「5匹」
「いや、6だ。一番後ろに頭が引っ込んでる」
みすぼらしい毛皮を纏った狼の一団だった。冬を乗り越えたばかりで腹を空かせている。
おまけに、出産、子育てを始める、獣が一番厄介な時期だ。
気を引かず、通り過ぎるのを待つというのはとうてい無理な話だった。狼の目には自分たちは肉切れにしか
映ってはいまい。
「これを!」
森人の青年は、自らの弓と矢筒を男に手渡した。男の手には短い山刀しか用意することができなかったからだ。
男は、手早く腰に矢筒を結わえ付けながら自分の長弓を崖下に置いて来たのを後悔した。
森人の弓は美しく精緻であったが、軽い。
何時もの手ごたえの無さに多少の心もとなさを覚えながら、男は一団の中で一回り図体の大きな狼に狙いを
つけ、放つという一挙動を森人が息を吐く間の内にやってのけた。
「駄目か」
舌打ちが辺りに響く。森人の弓では、矢張り威力に乏しい。一矢で射止めるには遠く及ばなかったようで
喉元を貫かれた狼は狂ったように吠え声を上げる。
それが合図になったように周りを取り囲むように環をなして距離を狭めてきていた獣たちは男と森人を
腹に収めるべく踊りかかってきた。
男は、もう一矢を当面向かってきた奴に浴びせると矢の変わりに利き手に山刀を構えなおそうとした。
その僅かの間に、先陣を切っていた狼が地を蹴った。獣は、必ず喉笛を真っ先に狙ってくる。
男は焦らず、山刀を喉元に持ち上げ、刃に噛み付いてきた狼の口を切り裂いた。
しかし、これが間違いだった。飛沫いた狼の赤黒い血液が男の目に飛び込んでその視力を奪う。
とっさに、弓を持ったままの方の腕を持ち上げ、男は喉元をかばった。
―――まいったな、腕一本つかいものにならなくなるかもしれない。
何故か悠長に、そんな事を考える。しかし、瞬き3回を繰り返して視力を取り戻しても、
その腕に獣が喰らいついてくる事は無かった。
自分のすぐ足元の岩盤に大きな穴が穿たれており、一団のうち2匹が足をとられたらしい。
「彼らの眠りを妨げるのはこれっきりだ!」
森人の言葉で、男は彼が何かしら大地に働きかけたのだと理解した。彼が、それを快く思っていないことも。
精霊の意思は宿る物に向いている。容易く別の物に引き寄せてはならないものだと、昨夜彼は語った。
彼の意識が此方に向いたのを感じ取ったに違いない、一団の頭が彼の方に跳んだ。
これ以上、彼に迷惑をかける訳にはいかない。心良くない思いをさせるのも、まっぴらだ。
男は、素早く弓弦を二度鳴らした。
頭をつぶされた集団というのは、たとえそれが何であろうとも、脆い。
残された狼はあっけなく森の奥へと逃げ去っていった。
青年たちは、顔を見合わせて互いの無事を、互いに向けて感謝した。
彼らは、何時までもこの場所に留まっている訳にはいかなかった。二人とも、それを承知していた。
森人は、自らの荷物の内、男が山を降りるのに必要にかられるだろう物を貸し与えた。
「返せるあてが無いぞ」
そのまま持っていけと、渡されたままの美しい弓の弦を外しながら男がほんの少し罰の悪そうな
声を出す。
「無い物には与えろというのは、我等全ての考えだ。気にする所じゃない」
森人の答えはあっさりとしたものだった。確かに、森の民は物に執着しない。
それでも何処か渋っている男に、森人は笑みを向けた。
「ならば、何時か私が人の街まで受け取りに行く。何時かね」
若い森人は、いい切欠が出来たと言って笑った。男の耳に、昨夜の森人の言葉が蘇る。
弓を眺め眇めしていた男は、それに細く鋭い刃で刻まれたものを見出した。
その男の目線に気がついたのか、森人はほんの一瞬狼狽を見せ・・・すぐに笑顔に転じた。
「不公平だな」
「全くだ」
二人の青年は、顔を見合すとさも愉快そうに声を立てて笑った。それから、どちらからともなく
手を差し出した。
「ホリーペティオール。母の衣とその身をつなぎとめる者」
「イオ・イダスだ。聖なる棘の葉の子っていうのも捨て難いが」
実の所、流麗な森人の言葉で綴られたその名が、男に読み取れた筈は無いのだったが、友の名を
互いに知らないなど、不都合極まりない。偶然が、必然的に切欠を与えてくれたのだ。
森人は、それに乗っただけ。
二つの種の青年は、もう一度笑みを交わすと、自分たちの領域へと歩を進めていった。
―――熟れた柊の実を見て、それを疎むなんてもうできっこないな。
柊の子と呼ばれた男は声を上げて笑った。
なにしろ、そんな事をすれば自分を嫌う事になってしまうのだったから。
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