彼女の心配
( 2002/05/11)
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作者
タルノ
登場キャラクター
メイプルランス、ミッチェル
壁を境にパダの町並みは、その様を変える。瓦礫が積まれ粉塵が舞 うなかを、海千山千の荒くれ者がうろつく「外側」に比べ、その壁の内側には、穏やかな町並みが広がっていた。通りを行く人の足取りは落ち着き、周囲を警戒 して歩く者は少ない。
北西にある通りの一番奥まったところに、その酒場はあった。
夕べの風に揺れる看板の上に、黒のペンキで描かれた文字は──「猫の六芒亭」。
◇◇◇
酒場の厨房の中である。
繕いの跡のある、よれたスカーフで頭をすっぽり覆い隠した女が、つま先で立ち、棚の上の砂糖の壺を下ろそうとしていた。それをする途中で、彼女は、ぽつり とつぶやいた。
「あ……横のに、あたってしまいましたぁ」
塩、砂糖、蜂蜜など、調味料の入った壺や瓶が、みごとな将棋倒しで、コトンコトン、倒れていった。最後のコルク瓶は、その真下で煮えていた鍋の中に落ち る。麹を含んでいたので、数秒、中身を熱せられて、それは蓋を飛ばす。飛んだ蓋は、反対側の壁にあたって、そこにかけられた木べらを落とし、その下にある 棚の上の、網かごを爆発させた。ゆっくり宙を舞った林檎は、ちょうど近くの椅子で、煙草を片手に本を読んでいた、赤毛の女性の頭の上に落ちた。
彼女は、かくんと下がった首をゆるゆる起こし、まなじりのケイレンする切れ長の目をのぞかせた。その名前は、ミッチェルという。当年三十一才になる、この 酒場の女主人である。
彼女に睨まれ、手にしていた砂糖壺を取り落としたスカーフの女は、頬に手をやり、ひっと小さく息を飲む。
「あっ、ああ…、う、うらめし〜い……」
「うらめしいのは、こっちよ! メイプル、あんたって子は、どうしたらこんなにできるの?」
その彼女、本名はメイプルランス。彼女はかぶっていた頭巾をめくって、その素顔を見せた。眉と目は柳の枝の角度に垂れ下がり、血の気の無い唇は、たえず震 えを発している。
「す、すいませえん」
その様子を見、ミッチェルはため息をつく。
「まあ、いいわ。まったく、もう少し、落ち着いて行動しなさいよ〜。じゃあ、はい。片づけましょー。厨房の整理が終わったら、表のメイクも残ってるしさ」
「ほんとにごめんなさい〜」
メイプルは、頭を下げつつ、食器棚の横面に立てかけてある、ホウキをつかんだ。「うう、なんか取れないですぅ」
ホウキの先は、棚の裏に潜り込んでいた。メイプルが力を込めて引き抜くと、食器棚はぐらりと揺れ、一気に前のめりになり──
どがしゃっ、という轟音が、猫の六芒亭の厨房内に響き渡った。
「メイプルっ!!」
「ごめんなさい、ごめんなさい〜…ミッチェルさんがお腹の中ではすごく怒ってると思うと、怖くなって、つい、周りが見えなくなって」
「誰も怒ってないって……。もう、慣れてるじゃない。あんたって子は本当、退屈な日常に、緊張感を運んでくれる子だわよ。でも、早くその癖なおしてもらわ ないとねー」
「はい、放浪の旅のとちゅう、すんでのところで、この店の前の路上に自縛する霊になりそうだったところを、せっかくお店の店員に雇って頂いたのに……申し 訳ない限りですぅ」
「うん、だからさ、落ち着いてやればいいのよ。見たところあんた、いつも何かに怯えてるみたいだけど……だから失敗が増えるんでしょ」
「はい、じつはわたし、いつも心配してるんです〜…。いつ、ミッチーさんに見捨てられて野垂れ死んだり、働いている途中に事故が起きて死んだりするかっ て、とても怖いんですぅ…もうアホほど…。痛いのや寒いのや、苦しいのがすごく嫌で、もしそうなったらって想像して、不安になります。それに実際にわた し、危険な目によくあいますし」
「事故って、あんたたねぇ。ただ普通に働いて生活してりゃ日々は過ぎていくだけで、なんも起きないわよ。痛いのや苦しいのって、子供みたいだわねー。死ん だときは、死んだときって、もっとあきらめ持ったら」
「うう……でも……でも。それに言うのも恥ずかしいですけど、じ、実はわたし、目標……ユメがあるんですう。大陸中をまわって、不幸の歌を歌い みんなの心を感動させるというユメが……」
「はぁっ、なに…?」
「ええ、そのユメが大事なせいで余計、いまお仕事をクビになったり死んだらと考えたら、もう、医者がさじを投げるほど、こわくて不安になるんです。う、う らめしひ」
女主人の顔に、汗の筋が一つ流れる。
「へえ、それが夢なのか……。そういや確かに、あんたの声って気分の落ち込んでいる時なんかに聴くと、けっこう魅力的ね。まぁ、あんたの気の病みも、なか なか手強そうだわ」
「全くすいません」
「とりあえず泣くのはやめなさい」
「うう……ありがとうございます〜〜」
「あんたも、もっと前向きな考え方できれば、元気はつらつとした人になれそうなのにさ。人生への執着や、生きる張り合いって、やっぱ、大事なことと思うか らねー。ま、いいでしょう。それじゃ、ちょっと休んでから、仕事再開〜」
◇◇◇
割れた皿の散乱する床を、慣れた手つきで掃き清めていくメイプルだったが、彼女はふと主人の服装を目にして、手を止めた。
「あれ、そういえばミッチェルさん、ちょっと変わりましたねぇ」
「何が?」
「おめかし。この前までは、そんな上等な生地の服は、着てませんでした〜〜。髪の毛だって、綺麗です」
「えぇ、私だって、お洒落れする時ぐらいあるわよ?」
だが、口調に自然さがない。顔色はあきらかに茹で上がっていた。
「まえは、手の空くこの時間、だいたいお酒を飲んで、昼寝してしまっていたじゃないですかー?」
「────」
「わかりました、あの人ですね…?」
「なんのことかしら?」
「最近、いつもこの時間にお店に来る、お客さんのことですう。確かお名前は、ハイデンさん」
メイプルランスは、相変わらず哀しげな目をして、遠慮がちにそう言った。
「……あら〜、直感のするどい子ねぇ。でも、それがどーしたの? あたしだって、ちょっと人生、気合い入れてみようって気になっても、べつに悪いことじゃ ないでしょ」
ミッチェルは指摘に動じず、打たれ強い所を見せようとしているらしかったが、その目線はそれ、口元は引きつっている。束ねた髪をかきあげながら、続けて彼 女はまくしたてた。
「いや、確かにね。もうなんていうか、形は店の主人とお客さんなんだけど、すでにお互いの胸うちでは、密会で会う恋人同士、みたいな形に感じている、はず よ。恥ずかしいわねえ」
「…………」
「誰もいない夕刻のこの時間に来て、彼は紅茶を一杯頼むわ。私はそこお皿に角砂糖を二つ添えるの。あたしが近くに腰掛けて、『葡萄パンでもどうですか』、 と尋ねると、彼は言うのよ、『いや、十分』……そう、十分なの。あっ、もっ、たまらないわあぁ!」
「…………」
「だからここ片づけたら、後は夜まで寝こけてもらってていいのよ、メイプル?」
「ええ、そういうことなら、わたしは何も口出ししないです〜。厨房に籠もって、割れたお皿の数を勘定しておきますから」
そう言うと、メイプルランスは再び、床に散乱する皿を片づける作業に戻った。
しかし、だしぬけにその手が止まり、陶器の欠片が、がちゃんと音を立てる。彼女の顔色の悪さが増した。
「ああっ! だ、駄目ですぅ!!」
「は?」
「今日は、そのひとに会うの、よした方がいいです! 世の中のバイオリニズムが、う、運勢が〜……」
「ちょっと、なんの話よ」
「ミッチーさん、三の月の生まれでしたよね〜。あたしは十二なんですけど」
言いながら、彼女は前掛けの下から、幾つかの羊皮紙の束を取り出す。
「いいですかぁ、よく聞いててください〜。『今週、五の月三日から十日の、獅子鷲座の運勢は最悪です。とくに恋愛運は目もあてられず、異性と会っても会話 は寒くなるばかりです。今まで築き上げてきた良いイメージが、間違いなく崩壊することでしょう』こ、これが、今日のミッチェルさんですぅ」
指で懸命にその書き付けを示しつつ、彼女は哀しそうに女主人の顔を見上げた。
「バッ──カじゃないの!? 運勢なんて!!
「ひっ、ひい!!」
「そ、そんな簡単に切って捨てない方がいいですよう〜、この街でも、占いってよく当たるって評判です。わたしも毎週、<首なし騎士の>占い婆 のところへいって、運勢を教えてもらってるんですぅ」
「なんであたしのぶんまで?」
「主人の不幸はあたしの不幸ですからぁ…。毎週、チェックしているんですぅ。今までだって、ほぼ当たってると思ってましたぁ」
「そんなの気のせいよ!」
「あ、わたし、他の占い師の出した結果も、持ってるんですけどぉ…。……やっぱりほら、今週、恋愛運だけは、みんな悪いって言ってる。<魔術禍 >ダバも、<ランタン娘>ミモザも同じ結果を出してます。えへ、これってどうなんです〜?」
「それって、
あんた
が調べたからじゃないの!?」
「ご、誤解ですぅ! 決まっていたことをお知らせしてるだけですぅ」
思わぬ反撃にとまどう。
「ミッチーさん、けして悪いことは言わないので、聞いてください〜……。今日で週は終わるから、今日は、今日だけは、どうか無茶をやめてください〜。ミッ チーさんふられて、不機嫌になったら、絶対にとばっちりがきて、わたしなんか、即クビ、もしくはいぢめの対象になるんですからぁ、ううっ……」
しばらく黙っていたミッチェルだったが、やがて、ふっと小さくため息をついて、口を開いた。
「メイプル、あんたも、かなしい子ね。そんな妄言に惑わされ、毎日びくびくしながら生きて……。でも、あたしみたいに普通に生きてごらん。占いなんて、本 当に関係したことじゃなくなるから。全ては人の意志しだいよ」
「意志〜…」
「ええ……そうよ? 周りからの影響なんか、微々たるものだわ。あなたも詰まらないことは忘れて、早くお皿を片づけておいて。あたし、店内のメイクしにい かなくちゃ」
顔を上げないメイプルだったが、床についた手が、ぎゅっと拳に握られる。
「……わかりました。ミッチーさんが、未知のとばりに覆われた、世の中の得体の知れないシステム相手にも、敢然と立ち向かう勇気でいらっしゃるなら、わた しも、それに殉じる思いですぅ〜……」
「……そうして」
しかし、メイプルランスの勇気が持続したのは、ただの数秒であるらしかった。彼女は、長髪をだらりと垂らすと、手で口元を覆って嘆きはじめる。
「うっうっ、今日を我慢するだけでいいのに……なにごともなく過ぎれば、明日からは元通りうまくいって……」」
ところが、変化は起きた。ミッチェルの、出て行こうとする足取りが少しずつ緩慢になっていったのだ。「……でも」彼女は戸口の前で歩みを止めた。
「本当に、今日を我慢するだけでいいの?」
◇◇◇
「ねえ、それじゃあ、どうやって、デートをかわせばいいわけ? このお互いの暗黙の了解の内になされる、素敵な逢瀬を中止することも仕方なくなる、正当な 理由はあるの?」
「ええそれはやはり、風邪ということにでも。それだったら、いちんちふつか、店を閉めるだけですみます〜」
「……店を閉めなきゃいけないの!?」
「ひっ。それが、説得力ですから……。あたしだけでお店、やれないですぅ。今日を無事にやり過ごすための、仕方のない代償です〜〜」
ミッチェルはひとしきり何事か、ぶつぶつ呟く。店内のほうで、からんと、カウベルが鳴るのが聞こえたのは、ちょうどそのとき。
「あ。いらっしゃったみたいですねぇ……」
早く応対に出なければならなかった。
「んもう、わかったわ。じゃあ、メイプル。あんた、ハイデンさんにそう言って、帰ってもらってね。あたし風邪だから、店を閉めることにしたって」
「はいですぅ〜、もし失敗したらミッチーさんに殺されそうで緊張するけど、うそを疑われないように、がんばりますぅ」
急がなければならないが、しかしミッチェルの胸を一抹、不安が掠める。
「……はい、じゃあテストよ、やってみて。あたしを彼だと思ってね、受け答えを」
腹を見せた指をメイプルの方に向ける。
「……こ、こんにちわ。このたびは、すいません、ハイデンさん。実は……ううっ、ミッチーさんが、ミッチーさんがぁ……」
「──やっぱ、あたしが自分で断り入れるから、いい」
きびすを返して店内に向かおうとするミッチェルだったが、そこに金切声が飛んだ。
「だ、駄目ですぅ!!!」
メイプルランスが、後ろから腰の辺りに派手にタックルを食らわせる。「がふっ」
「そんな、整えた綺麗な格好して、風邪もないもんですぅ。そんなことしたら、すぐ見破られて、もっと悪い事態になります〜…。ほら、ちゃんと髪を乱して。 もっこう…老けて弱ったかんじに……」
パン粉も使って、手早く逆化粧をほどこす。ミッチェルは歯を軋らせてそれに耐え、怒りの表情をたたえて歩き出した。
出際、ミッチェルは一度だけ振り向く。するとそこには、メイプルが胸をなでおろして立っている。彼女のそんなカオを、女主人はまだ見たことがない。
「これで安心ですぅ♪」
「やかましわっ!!」
◇◇◇
後日談。この時にミッチェルが、弱った顔を見せて心配されたのがきっかけで、二人の婚姻は早まったそうだ…。禍福はあざなえる縄のごとしとは、まことよく いったものである…。
”魔術禍”ダバ・マレフィキウムの記録帳より
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