錆びた黄金−3− ( 2002/07/06 )
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作者
松川彰 タルノ
登場キャラクター
同上



◆ 魔神の舌 ◆

「ああ…あんたの女は……そうそう、シーリィ、だっけ。いい女だったよね。僕も見たよ。ただ、僕が見た時はただの肉の塊だったけど」
 小柄な男が肩をすくめた。
 工房“魔神の舌”。数年前に猟奇事件の舞台となった工房に、今は人はいない。それでも数週間前までは、この工房を買い取って新たに商売を始めていた人間はいた。だが、人々の脳裏から事件の記憶が消えないうちは、商売は成り立たない。火の入らない鍛冶工房。その店の裏手。そこは通りを行き交う人々の目から隠される場所だった。
 “逆巻き髪の”バルバというのが、小柄な男の名前だ。それに相対する影がもう1つ。背は低くないが、痩せぎすの…どちらかというと貧相な体格の男だった。だが、どうでもよいのだろう。彼はその体格ではなくて、指先で勝負する。頭と指先を使って仕掛けた絡繰りで。
「ねぇ。“絡繰り”リッチィ。忘れたふりをしても駄目さ。君は知ってる。そして僕も知ってる。……そうだろう?」
「何のことだい。俺ぁ知らないね。俺は、“甘味屋”のオッサンに言われた通り、イエメンに伝言を運んだだけだ。伝言の内容だって…いや、そりゃ台詞はわかるさ。けどよ、俺ぁその意味がわからねえ。そして……いまさら、てめぇが女の名前を出してくる意味もな」
 “絡繰り”の目に粘質の光が宿る。光というには澱んだ…単なる光沢にしか見えないような光が。


「ああ、そんなに尖らないでよ。いいじゃないか。……僕とあんたは…そう、似たもの同士ってヤツなんだよ。知ってるかい? トーマスもイエメンも、そして“甘味屋”も。彼らは愛を知らない。だけど誰よりも知ってるのさ。ちょうど…そう、この工房の前店主のようじゃないか。“魔神の舌”なんていう怖ろしげな名前をつけた店主は、本来はちょっと神経質なだけの夢見がちな男だったのさ。いつか魔神の舌をも断ち切るような剣を作ってみせるなんてうそぶいてね。あはは、夢だよ、夢。くだらない。壊れるのを待つだけの、ヒビの入った硝子細工だ」
「…その続きなら俺だって知ってるさ。きっかけは知らねえが、店主はヤクに手を出した。しかも、当時の最悪の麻薬、ブラウンケーキだ。俺だって知ってんだ。ブラウンケーキは人間の体を壊す。体の丈夫なヤツは、先に頭の中身が壊れる。ブラウンケーキでラリったヤツの頭を割れば、中身はどろりとしたピンク色の液体だってな。……工房の店主は、桃色の脳味噌で夢ぇ見たんだ。穢れない少女の生き血で剣を鍛えれば、究極の魔剣が作れるなんてな」
 そこで言葉を切って、“絡繰り”は工房の裏庭を見渡した。幾つかの盛り土。そしてそれを掘り返した跡。旺盛な生命力を誇る雑草に覆われていても、あまりにも不自然な土の形は一目瞭然だ。
「クスリなんて、みんな夢を見たくて使うのさ。工房の店主は剣を愛して、それ以外のものを切り捨てた。……トーマスとイエメンは何を愛して何を捨てるんだろうねぇ? とりあえず、僕とあんたは失格なのさ。……そうは思わない? だって、僕たちはもう愛する者を喪っている。僕たちはもう硝子細工どころじゃないのさ。砕け散った硝子の欠片でしかない。靴の底で踏みにじられて、それきりだ。……ねぇ? それでも僕は笑っていられるよ。クスリがあるから。君がギルドを裏切ったのも、硝子が砕けたからだろう? ……ギルドは夢を見せてくれやしないんだ。ギルドはいつだって僕のお気に入りのものを取り上げる」
 “逆巻き”がにこりと笑う。ひょっとすると自分が考えているよりもこの男は幼いのかもしれないなどと、“絡繰り”は思ってしまう。だが、思い直す。数年前までのこの男は違った。もっと年相応の覇気を持った男だった。ブラウンケーキを摘発しようとしたギルドの一員として働いていた頃は。
「あの頃は……まだ未完成だったな」
 いくつかの主語や目的語をはぶいた“絡繰り”の台詞は、それでも“逆巻き”には正確に伝わったようだ。
「ああ、そうだね。僕のルシアがトーマスに捕まった時は。そして、僕がヤツらにクスリを飲まされた時は。2人ともクスリを呑まされて、僕を椅子に縛りつけたその目の前で、トーマスはルシアの服を引き裂いた。何人も何人も……ルシアは何も言わなかった。僕はクスリに浮かされた脳味噌で、もうやめてくれと…涎と一緒にそんな台詞を垂れ流していた。あの時はモールドレは未完成だった。ついでにブラウンケーキも底をついていた。だから…だからさ、僕はブラウンケーキの味は知らないんだ。ルシアも知らなかった。
 ……それでも僕は感謝してるんだよ? 知っていたかい? 多少、麻薬を使われたって、そこから抜けられる。僕は抜けたよ。ただ、僕がクスリと闘って…そしてその闘いが終わる頃、ルシアは自分の闘いを放棄した。自分の喉を自分で切り裂いてね。………綺麗だったよ、あの時のルシアは。あんたのシーリィの最期と、どっちが綺麗だったろうね? 綺麗な綺麗な…あんな綺麗なものを見たのは生まれて初めてだった。そして、それと同時に僕は壊れた。救ってくれたのはクスリさ。“甘味屋”が売ってくれる甘いクスリさ。……そう、僕は感謝しているんだよ。クスリがなけりゃ、僕は生きてなんかいない」


 繰り返し、揺れる記憶。封じ込めたはずの思いと記憶。決して開けまいと誓ったオルゴールが自分の隠れ家には飾ってある。“絡繰り”は頭を振った。開けちゃいけない。シーリィのために作ったオルゴールを。シーリィの歌に合わせて奏でたかったオルゴールを。自分がどうして未だにそれを捨てずに持っているのか、それはもしかしたら、忘れるためだったのかもしれないと思う。いつか、そのオルゴールの蓋を開けても自分が自分でいられる時を待つために。麻薬と共に緩慢に流れる時をはかる、それは自分の中にある大きな砂時計のようなものだったのかもしれない。
「俺には……関係ない」
 それだけをようやく呟く。
「そう? それならそれで構わない。ルシアがいなくなって、僕は麻薬に救ってもらった。癒してもらった。シーリィをなくしたあんたは何に救いを求めるのかと思っただけなんだ。そして、トーマスとイエメンは…ついでに言えばもう死んだガデュリンも。何を求めていたのか、知りたいなと…そう思っただけなんだ」
 “逆巻き”の言葉に、“絡繰り”は首を振った。
「俺は知りたくなんかねえな。これから“甘味屋”にイエメンの様子を報告しにいかなきゃならねぇ」
「……そう。“甘味屋”にねぇ。………うん、気を付けて行っておいでよ。ひとつ教えておいてあげるから。……ギルドはあんたに目をつけたよ。知ってるだろう? エルウッドのことを。そう、あんたが彼の資料室を荒らしたんだから知っていて当然だ。気を付けて。エルウッドは…間抜けじゃぁないよ? 僕はこれからイエメンのお気に入りを連れ戻す。赤毛の彼女だよ。お互い、生きていたらまた会おう」
 もちろん、“絡繰り”は知っていた。ブラウンケーキ摘発時の資料を荒らすことで、今回のモールドレへの摘発が遅れるように…せめてその時間を稼げと“甘味屋”に言われて、仕方なくやったことではあったが、自分が相手にしたエルウッドという男は、無能にはほど遠い男であることを。

 『生きていたら』と。“逆巻き”はそう言った。“絡繰り”もそれに頷いた。
 だが、2人が再び顔を合わせることはついになかった。


◆ 甘い甘い菓子のような夢を ◆

「ハハッ! 冗談じゃありませんよ。私の……この私の資料室だ。許してなんかおくものですか! ハハッハハハハッ! …目的はわかってます。ブラウンケーキとモールドレはつながっているから…だから、ブラウンケーキの時の資料を見つけられちゃマズイんですよ! ですが…ねぇ、“手長”の旦那。一度は調べられたものだ。もう一度調べられないと…誰に言えますか? ええ、調べますよ。あの時には調べきれなかったガデュリンの過去! そしてトーマス…そう、トーマス・ブギーマンだ!」
 ひどく上機嫌のように見える。だがそれはエルウッドにはいつものことだ。上機嫌というヴェールで、彼は全ての感情をその下に隠す。そして誰もそれに気づかない。見破れはしない。
 荒らされた資料室の片隅で、羊皮紙を握りしめて、エルウッドが笑う。それならいい、と“手長”と呼ばれたドゥーバヤジットが頷く。
「オレぁその間に、違うセンをまとめなきゃならねぇ。カーナの様子がおかしいって、見張らせといた“三つ指”から連絡があったもんでね。………たかが小娘とはいえ、うちの大事な駒だ。ヤク漬けにでもされたんじゃたまったもんじゃねえ。本当なら、商売モンを使うわけなんかねぇんだ。しかも…あの最低で最悪の麻薬をな。トーマスのトマト…モールドレって言ったかい。腐った黄金だとか死んだ黄金だとかってぇ意味だったなぁ? 裏で流通してる値段を知ってるだろ? 遊びで使えるようなクスリじゃねえ。マリファナや阿片程度なら、ギルドで鍛えてる人間がそうそう中毒になんかならねえんだよぉ。だから…だからまだ大丈夫だと思ってたんだが……ちぃとばかり様子が変わってきたようなんでね」
 不機嫌そうに舌打ちをして、ドゥーバヤジットは資料室をあとにした。残されたエルウッドが、握りしめていた羊皮紙の切れ端を床に捨てる。どうせもう役になど立たない。
「目論見が外れたのは、イエメンが予想外な行動をとったのか、カーナが予想外だったのか……それともモールドレの組織全体が予想外なのか、ですね。ハハッ! くだらない。ヤク中の頭がマトモだと思うほうがどうかしてる! もちろん、そのことに気づかなかった我々も!」
 上機嫌のヴェールの下で、エルウッドの目が光った。


 資料室の扉に内側から鍵をかけ、書棚に埋め尽くされた部屋をぐるりと見渡す。端にある机と椅子。その椅子に腰をおろし、目の前の机にどかりと両足を載せる。普段ならこのような真似はしない。人が見ていようと見ていまいと。
「………この資料室に近づける人間、近づいた人間…そして、資料の意味をわかっている人間。ブラウンケーキを摘発した時の面子は…」
 幾つかの顔をエルウッドは思い出していた。


 7年前、オランに流行したブラウンケーキ。その名前は、麻薬の形状からついたものとされていた。摘発にかかった当初は。薄茶色の粉末は、火に炙ると茶色の液体になる。まるでカラメルソースのような。そして、ギルドからの依頼をうけて分析した薬草師は、報告書につけくわえた。そこで初めて、ギルドの人間は名前の本当の意味を知ったのだ。…液状化したブラウンケーキは、まるでケーキのような甘さを持っていると。
 だから、粉のままよりも液状にして使う人間たちがほとんどだった。甘い夢を見せる、甘いクスリ。それまで他の麻薬を使っていた者たちがブラウンケーキに溺れていった。頑健な精神と肉体を持つはずの冒険者さえも、数人は使ったらしいとの報告がある。
 そしてブラウンケーキの報告書は、悲惨な事実を綴り始める。ブラウンケーキは他の麻薬よりも幸福感が強い。そして肉体への害も強い。まず目立つのは、全身に現れる黒い痣。そして、破壊される視神経。『溶血作用ってなぁ何だい』と、今よりも少しは髪の毛があったドゥーバヤジットが薬草師に尋ねた。薬草師曰く、身体の中でブラウンケーキが血を溶かしてしまう…と。血が血として成り立たなくなる。それと同時に、下手をすれば内臓までも溶かされてしまう。もともと、全身に現れる黒い痣も、皮膚の下で出血がある証拠だと。脆くなった血管が血の流れを支えきれずに破れて、皮膚の上からはその血の跡が痣に見える。黒く見えるのは、血がすでに腐って黒ずんでいるからだと。…そんな薬草師の報告を聞いて、摘発にあたった人間たちは一様に眉をひそめた。
 ブラウンケーキを作っている人間がガデュリンという名前であること。そして、ガデュリンが、幾人かの子供達や麻薬中毒者、精神異常者などを集めて“壁のない家”と呼ばれる隠れ家を作っていたこと。その2点が知れると、あとは早かった。それらを知るまでに、少なからず犠牲もあったが、それでも最終的にはギルド側が勝利を収めた形になっている。ブラウンケーキは在庫の底が尽き、販売ルートも作製ルートもことごとく潰された。そして、主謀者と見られていたガデュリンは、自身が集めた患者たちに殺された。覚悟の自殺だったという意見もある。ガデュリン自身が“壁のない家”に火を放ち、自らの退路を断った上で、殺されていたのだから。
「私は救いたいのさ。癒したいのさ。……その昔、私たちが“黄金”に癒されたようにね。苦しみを取り除く薬を…至上の愛を感じられる薬を…っ! 愛していたよ。私は、全ての患者を愛していたよ」
 ガデュリンが炎の中で叫んだ言葉を、エルウッドは今もまだ覚えていた。


「……“逆巻き”が、あれより少し前に恋人を亡くしましたね。一度は、組織側に捕まって、麻薬を飲まされて…それでも更正したはずですが……いや、それこそ甘い夢ですか。そして……そう、もう1人」
 痩せぎすの男の顔をエルウッドは思い出した。ブラウンケーキ摘発時のメンバー。そして、数ヶ月前からギルドには姿を見せなくなっている男。それが、先月、ひょっこりと姿を見せた…と。確か受付に座っている男がそう漏らしていたはず。
「………………“絡繰り”ですか。ならば、向かう先は常闇通りのカラクリハウスですね。…ハハッ! 私の資料室を荒らした人間が、そのままで済むと思ったら大間違いですよ!」
 机から足をおろして、そのままその足で机を蹴り倒す。数枚の羊皮紙が薄暗い資料室に舞った。
「そしてトーマスもですね。“ブギーマンおじさん”。ブラウンケーキの時にも、名前だけは出ていた。そして最後まで名前だけしか出なかった男。調べますよ。……そう、意地でも」


◆ −記憶− 黄金色 ◆

 ──ぱきり。
 小枝を踏む音がした。目に入るもの、耳に入るもの、肌に触れるもの…全てが恐怖に満ちていたその時の私たちにとって、それさえも恐怖だった。だが、小枝を踏みしだいて私たちに近づいたのは、1人の若い女性だった。若い…とは言え、子供の目から見れば十分に成熟した大人だ。どうやら、森の中を歩いていた最中に村の異変に気が付いて、それからは私たちと同じだったらしい。長い金色の髪は乱れ、汗で額に張り付いている。
「君たちも…逃げてきたの?」
 乱れた呼吸を整えながら、彼女は私たちの前にひざまずいた。
「村は……大変なことになってるみたい。ゴブリンの群れも見かけたわ。多分、妖魔の襲撃だと思うんだけど……君たちの家族は?」
 問われる言葉に、私たちはただ首を振った。乾ききった舌が上手く動いてくれなかった。
「大丈夫。……大丈夫よ。他の大人たちを探してくるから、君たちはここで待っていて。………ああ、おなかがすいているのね?」
 そう言って、彼女は、手に持っていた小さな袋から、ひとかけらの麺麭を差し出した。
「お昼の残りで…森の奥まで薬草を届けに行った帰りだから……。ごめんね、ひとつしかないの。君たち3人で分けて。水も、少しならここに入ってるから…」
 皮の水袋をジェイコブの手にのせ、小さな麺麭を私の手に載せて、彼女は立ち上がった。
「じゃあ……ここで待っていてね。大丈夫よ、他にも人はいるはずだから」
 随分と走ったように思えたが、立ち上がる彼女を追いかけた視線の先には、まだあの焔色が見える。恐怖の色だ。
 私たちが返事も出来ないでいるうちに、彼女は走り去った。
 ひとかけらの麺麭。小麦色のそれを、私たちは3つに分けた。そして、皮の水袋に入っている水もひと口ずつ飲み下す。
 たったひと口ふた口の麺麭。ぬるくて皮の匂いが移った水。普段であれば、ひどく貧しいものとして目に映ったろう。だが、その時の私たちには紛れもなく豊饒の恵みであった。生ぬるい水は、生涯で口にするどんな飲み物よりも喉に染み渡った。堅くなったひとかけらの麺麭は、同量の黄金にも勝る恵みだった。焔色が届く闇のなか、小麦色のそれは私たちの目には黄金の色に見えたのだ。
 私たちは、つかの間の休息を得て、ほんのわずかな安堵を抱えて、3人で身を寄せ合って浅い眠りについた。
 ………そして、彼女は戻ってこなかった。




  


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