旅人の唄(前) ( 2002/07/28 )
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作者
T-Z
登場キャラクター
ロス



寒空の下凍えながら、家の大きな暖炉を思う。
干からびた黒パンを齧りながら、家の温かい晩餐を思う。
家を出て、良かったと思う。
                伝承歌謡/旅人の唄


 ロスが家を出ると言った時、本気で止めてくれたのは、ポローニアと、義母だけだった。そこだけは、と、ロスは思う。神に感謝しなければいけない。
 義母に―ロスは母と呼んだ事はなかったが―行くなといわれただけで、ロスの魂の半分は故郷に縛り付けられた。他の人間からも止められていたら、住み慣れたこの城と荘園を去ることはできなかっただろう。故郷、カッパーフィールド伯領ローバは美しい土地だったし、ロスの義母に対する愛は、実母に対するそれよりも強かったからだ。

 実の所、ロスは実母の事をあまり覚えていない。三歳の時に死んでしまったからだ。実母は、ローバの小作農の娘で、ある一時期、カッパーフィールド伯の城に奉公していた。よくある話で、彼女は、他の娘の十倍の手当と、大きな腹を抱えて帰ってきた。当主、(その当時は次期当主、だった)アルサスのお手がついたのだ。
 普通なら、それだけの事だ。だが、実母は逝くのが早すぎた。アルサスは伯爵の名誉を守り、(ちなみに私生児を持つ事は不名誉でもなんでもない)ロスを自分の城へと引き取った。里子に出ていたロスが、五歳の時だった。
 だから、ロスは、苗字を持っていない。アルサス・カッパーフィールドの息子ではあったが、カッパーフィールドの姓を名乗る事は許されない。彼は、私生児なのだ。
 五歳の子供は、五歳なりに、孤独を覚悟していた。里子に出ていた叔父夫婦はよくしてくれていたが、ロスが孤独であった事には変わりなかった。まして、お城では、と五歳なりに考えた。
 予想は、間違っていなかった。いや、それどころではなかった。アルサスの正妻、マイラの、厳しい躾けの日々が始まったのだ。礼儀作法、家の宗教であるファリスの教え、剣や乗馬のたしなみ・・・。
 なぜ?と、ロスは思った。マイラが自分を憎む理由など、ないはずだ。彼女には、自分より二歳下の息子、嫡男セリーシャがいたし、アルサスがロスの母に手を出したのは、婚約前だ。
 理由のわかることなら、耐えれただろうと、ロスは振り返って思う。しかし、理由の知れぬマイラの厳しさに、ロスの心は挫けた。いつしか、ロスは裏山の、誰にも知られぬ小さなほら穴に時々逃げ込むようになった。特に、つづり字の勉強は苦手で、二回に一回は裏山に逃げ込んで、そのたびにマイラから半時ほど小言を言われた。

 ロスが九歳になった年の事だった。その日も、つづり字の勉強から逃げ出したロスは、困っていた。雨が、降っていたのだ。ローバでは、(ローバに限らず、このオランという国では)大雨は、夏の風物詩だった。オランの国家政策には必ず、夏の治水の話題が出てくる。雷が鳴り、大風が吹く中で、ロスは帰れなくなってしまったのだ。
 めきめきと、どこかで木の折れる音がした。風が、老木の枝を手折ったのだろう。と、稲光が顔を照らし、雷鳴が鳴る。身をちぢこませながら、ロスは、「近い。」と呟いた。ロスの予想通り、雷の落ちた場所は、近いと思われた。
 顔を伏せ、洞穴で小さくなっていたロスは、ふと、顔をあげた。洞穴の近くに大人の人影があった。
「誰?」ロスは聞いた。「助けにきてくれたの?」
人影は近づいてきた。マイラだった。頭からぐっしょりと濡れて、スカートのすそには泥がはねて、ところどころほつれている。一言、言った。
「帰りましょう。」
(知られていた。)と思った。ここに逃げ込んでいるのを知られていた。そうでなければこんな所に来れるはずがない。思わず、ロスは返していた。
「いやだ。」
マイラが一歩近づく。ロスは、叩かれると思って実を硬くした。マイラの手は、。ロスの肩にやさしく置かれた。
「あなたは」マイラは言い聞かせるように言った。「騎士になるの。」
「?」
「騎士になれば、日向の人生をおくれるのよ。王から、名字を賜る事もできる。あなたが私生児と知っても、誰も文句を言わなくなるわ。」
「だから、そのための勉強が必要なの。お願い、もう逃げないで。あなたのために、私ができるのは、それぐらいしかないの。・・・ごめんなさい。」
この人は、ここを知っていた。知っていて、見守っていてくれた。誰もが、父さえもが自分に無関心な城の中で、この人だけは、傍にいてくれた。
ロスは、答えるかわりに、抱きついた。この人は、母だ、と思った。



  


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