ブラウニーの夢 ( 2002/08/17 )
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ラス



■ 8の月 1の日 ■

 あの時、カレンは少し訝しげな顔をしたな、と。唐突に思いだした。
 まだ全部は終わってないが、掃除と修理を済ませて、ブラウニーが守る家へと引っ越してきた夜のこと。修理を終えたばかりの古い寝台に潜り込んだ瞬間だった。
<オマエ、いつも、外にシェイドの力が強くなったら家からいなくなった。どうして、まだいるんだ>
 ブラウニーが俺に尋ねてきた。どうして、と尋ねるブラウニーの気配が、訝しんでいるようだったからかもしれない。あの時のカレンの表情を思いだしたのは。

 何日か前、宿のカウンターでカレンと話をした。ブラウニーがまだ時々混乱しているようだから…と話すと、眠っている間に襲われたらどうすると聞き返された。
「だとしたら、ブラウニーにそこまで信用されなかった俺の負けだ」
 そう言った。
 冗談でもそんなことを言うなとでも言いたかったか、そうじゃないとしたら真意を図りかねているような。相棒はそんな顔をした。
 精霊は、本来は物質界のものを傷つける意志なんかない。完全に狂ってしまわない限り、多少混乱することはあっても、それはあくまでも、こちら側の理解で言えば警戒とか様子見といった感じのものに留まる。
 人間も亜人も含めて、人は人を傷つける。物理的にも精神的にも。そして、傷つけられないために防御する。防御の結果が、相手を傷つけることにもなりかねない。けれど、精霊に関してはそういった理屈は成り立たない。防御する必要がないからだ。人は物質界に留まるしかないが、精霊はこちら側の世界で何かあれば精霊界に還るだけだ。どこよりも安全な逃げ道を持っている者が、その場所に留まるために危険を冒すことはない。
 だから……ああ、こう言えばカレンはあんな顔をしなかったのかもしれない。
「俺はブラウニーを信じているから」
 と。
 警戒している相手に警戒して立ち向かうのは、時と場合によっては有効だろう。盗賊として、街の仕事をする時にはそういったことも必要になる。だが、精霊相手には警戒は必要ない。むしろ、こちら側の警戒をひとかけらでも感じさせてしまえば、精霊は決して心を開いてはくれないから。

<おまえともっと一緒にいたいと思ったから、俺はここに住む。おまえは時々、俺にチェストの引き出しや掃除中の木桶なんかも飛ばすけど…それでも、俺はおまえに怒らなかっただろう? 外にシェイドの力が強くなったら、こっちの世界の生き物は眠る。サンドマンの力を受け入れる。俺がこの部屋で眠ることが気に入らなければ、おまえの力で枕を取り上げればいい。どうしても、俺がこの家に住むことが気に入らなければ、俺が眠っている間に、チェストを飛ばしてもいいし、枕元に置いてある…このダガーを飛ばしてもいい。それで俺が逃げ出すと思うなら、試しても構わない。…おまえがもしも、俺を追い出そうとしても、俺はおまえを怒らない。今まで、何をやっても怒らなかったように、これからも何をやっても怒らない>
<オレ…時々、いろんなコトがわからなくなる。そうなったら…>
 ブラウニーの姿が歪む。
<大丈夫だよ。俺がおまえを信じてる。おまえは俺を傷つけない。俺は…おまえたちの意志を感じ取る者だから>
 カレンに答え直す代わりに、俺はブラウニーに答えた。


 翌朝。
 いつも目が覚める時間よりも、随分と早い時間に目が覚めた。朝の陽射しが、鎧戸の隙間から寝台に射し込んでくる。
 目が覚めて、まず驚いた。
「…………すっげぇ。……こんなに熟睡したのって…ものすげぇ久し振り……」
 夏用の薄い毛布を掴んだまま、思わずしばし呆然とする。雑音がないことは、こんなに深く眠れるのかとあらためて驚いた。そして、自分がいる場所を確認して、更に驚く。
 部屋の中は、何ひとつ動いていない。実を言えば、多少の覚悟はしていた。チェストやダガーが飛んでくることはないにしても、引き出しくらいは飛んでくるかと思っていた。扉や鎧戸の開け閉め、クローゼットの扉のがたつき。そんなものくらいは当然だろうと思っていた。そして、それを覚悟した上で、それでもいいと思って、ここで眠った。どちらにしろ、ブラウニーには俺を傷つける意志はないはずだから。
 それでも、自分の熟睡加減を考えれば、夜中に物音ひとつ立たなかったのだろう。いくら安心しているとは言え、扉の開く音やクローゼットががたつく音に目が覚めない自分ではないだろうと、自信はあるから。
<……ブラウニー。いるんだろ?>
 気配を探りつつ呼びかける。
<シェイドの力、弱くなった。だから、オマエもこの家にいる。それはフツウのこと>
<そうだな。そして、おまえはいつでもこの家にいる。それも普通のことだ。でも、さっきまでは? 夜の間じゅう…外にシェイドの力が満ちている間も、俺はここにいた。おまえ、それはイヤじゃなかったのか?>
<ワカラナイ。けど…眠ってる者は、家を壊さないから。それに、オレ、思いだした。こっちの世界の者は、シェイドの力が強くなると、サンドマンを受け入れる。そして、ウィル・オー・ウィスプの力が強くなると、サンドマンを追い返す>
<ああ、そうだな。おまえが思いだしてくれて、俺も嬉しい。…ありがとう。よく眠れたよ>
 一歩…いや、かなり前進したんだろう。そう思うと、笑みが漏れる。だらしなく緩んだ頬を慌てて戻そうとした瞬間に、思いだした。…そうだ。別に誰も見ちゃいないんだ。


■ 8の月 10の日 ■

 いちばん遅くまでかかっていた、台所の修理が終わった。そしてキアにやらせていた掃除も終わった。
 キアが帰っていった後に、ふと思い立って、台所に立ってみる。家の裏には小さな井戸があるから、そこで水を汲んできて瓶(かめ)に満たす。そして、かまどに火を入れてみようと火口箱を取り出すと、いきなりそれを手から叩き落とされた。
<……ブラウニー? どうした?>
 手の甲をさすりつつ聞いてみる。
<火。火は燃える。家の中の樫の木が燃える。だから駄目>
 家の中の樫の木? ああ、内装に使ってる木材か。……なるほど。一理ある。
<そうだな。取り扱いを間違えればそういうことにもなるな。大丈夫だよ。気を付けて扱うから。それに、ウンディーネの力を感じるだろう? すぐ近くにウンディーネがいる。もしもサラマンダーが走り回っても、彼女の力で止められる>
<ウンディーネ……サラマンダー……>
<そう。おまえの仲間たちだ>
 火口箱を拾っても、今度はブラウニーは何もしなかった。
 燃えさかるサラマンダーの様子を、ブラウニーが不思議そうに見守ってる気配がする。もちろん、今までだって、台所は使っていなくても燭台やランタンは使っていた。それでも、台所で火を使うというのが、ブラウニーにとっては生活の象徴のひとつなんだろう。
<今日は、材料の用意がないからな。茶を淹れるだけにしておくか。明日の夜には、おまえに俺の相棒を紹介するよ。そして、ここで料理をする>
<リョウリ…? キャク…?>
<そう。家に住む人間が、毎日毎晩、眠って起きて掃除して…そして、食事を作って、客を招いて。おまえも、随分と前にはそういう生活を経験していただろう? おまえがまだ混乱する前は>
<オレが……コンランする前…?>


■ 8の月 14の日 ■

 夜が更けてから、ふとブラウニーが思いだしたように聞いてきた。
<シェイドの力、強くなった。今日は、リョウリしないのか?>
 聞かれて、そういえば…と思い出す。夕方、外から戻ってきて、居間でうたた寝して……たしかにメシは食っていない。ただ、食欲がないのも事実だった。かすかに寒気もするのは…やばいな、夏風邪でもひいたか。
<いや、今日はいい。少し早いけど、このまま寝るよ>
 ブラウニーにそう答えて、そのまま寝室に引っ込んだ。
 宿にいれば…いや、そうじゃなくても、風邪をこじらせたりなんかしたら、カレンあたりが有無を言わさず治療院に引きずっていくだろう。そしてトレルが嬉しそうに薬を持ってくるんだ。そんなのはごめんだ。

 そして、夜中。夢でも見てたのか、それともその時すでに目が半分覚めていたのか。よくわからないが、ひどく喉が渇いていたような気がした。息苦しさと暑さでうっすらと目が覚める。
 そこへ。
 ざば、と水が降ってきた。たとえば、外が嵐で、きっちり閉めたはずの窓の鎧戸を破って雨風が飛び込んできたとか。どっかで雨漏りしていて、前日の雨が屋根裏を伝って落ちてきたとか。そんなんじゃない。桶1杯分の水をいきなりぶっかけられたような感じ。
「……っ!?」
 慌てて起きあがる。今度こそ本当に、しっかりと目が覚めた。自分の上半身と寝台がずぶぬれなのを確認。……………なんで?
<………おい。ブラウニー。おまえ……今、何かやったか?>
<オマエ、ウンディーネを求めてた。だから、連れてきた。………ダメだったか?>
 …………え?
<俺…何か、精霊語で寝言でも言ってたか?>
<コトバにしては言ってない。でも、オマエはウンディーネを求めてた。違うか?>
 …違わない。たしかに、喉が渇いていた。暑くて寝苦しいのと、自分の体の中のサラマンダーが妙に活発になっていて、冷たい水が欲しかった。
 言葉にしたわけじゃないのに…と、そう思いかけてふと気が付いた。
 じゃあ、自分は?と。
 例えば、真夏の真っ昼間、体力と気力がいつもより落ちていると、人ごみに酔う。自分の力が制御できなくて、辺り構わず精神の精霊の気配を拾ってしまう。明確な言葉を発していないはずの精神の精霊たちの気配に囲まれて、無意識にそれを読みとってしまう。制御しようという気力さえも塗り込められていく。
 物質界にいて、精霊界を感じることの出来る者。それが俺だ。そして、ブラウニーは逆なんだろう。精霊界に繋がりながら、物質界の力で……家と住人という存在があって初めて力を持つ。だとしたら、ブラウニーも…自分が守る家の住人の気持ちを感じ取るのか? 言葉にしなくても?
 ……そうだ。考えれば当たり前だろう。ブラウニーが生まれる家の住人が全て精霊使いなわけじゃないんだから。何の能力も持たない、ごく普通の人間たちがごく普通に生活する場で、ブラウニーは生まれる。そして、その家と住人を守る。住人たちの言葉が…いや、言葉よりもその思いがブラウニーには伝わる。だからこそ、ブラウニーは家を守る。
「は……ははっ、はははっ」
 そうか、そういうことか。
<どうした? オレ…間違えたか?>
<いいや、間違ってない。ああ、やり方は少し間違えたな。少しだけ。それでも、おまえは間違ってない。おまえは…俺を住人として認めてくれた。……そうだろう?>
<ジュウニン…家に住む者は、家で眠って起きて食事をする。家を守るために掃除をして、ニンゲンたちが使い続けることで、家を長持ちさせる。だから…だからオレも、それを手伝う。そして、家に住む者が何かを求めれば、オレはそれも手伝う>
 自分に向けて確認するかのように、たどたどしくブラウニーが精霊語で呟く。
<思いだしたか。……もう大丈夫だよ、おまえは。きっと次は間違わない>
 そう言うと、ブラウニーは何だか嬉しそうに頷いた。
 ああ…そういえばまだ夜中だな。寝直すか……って、どうやって? このずぶぬれの寝台をどうにか…いや、それをどうにかする前に、自分だ。水をかぶったせいか、寝る前よりも寒気がひどくなってる。……ヤバイって。
 とりあえず、着替えて髪の毛を拭きながら、隣の寝室に移ることにする。もしこれで次にまたブラウニーが間違えたら…居間の寝椅子で寝るしかねえか。
<なぁ、ブラウニー。次に俺がウンディーネを求めたら、せめて水差しか何かに入れて持ってきてくれ。台所にあるから>
<わかった。オレ、もうひとつ思いだした。サラマンダーが強い時にはウンディーネ。だから、オマエの中からたくさんサラマンダーを感じたからウンディーネ連れてきた。ニンゲンの体の中は、精霊のバランスが崩れると良くない。オマエ、病気なのか?>
<病気ってほどじゃねえよ。風邪ひいただけ>
<ソウカ…。それならいい……>
 ふい、とブラウニーが気配を消した。………どうしたんだ? 俺が風邪ひくと何か不都合が……ふぇっっくしょんっ!!


■ 8の月 15の日 ■

 夢を見た。
 ……んだと思う。眠っていたはずなんだから、それは夢なんだろう。
 場所はこの家だった。中年の、髭を生やした男が鎧戸の修理をしていた。そして、その男に声をかける女性。男よりも少し若い。おそらくは、男の妻なんだろう。笑顔でそれに応えて、男とその妻は、居間で茶を飲み始めた。降り注ぐのは、秋の柔らかな陽射し。窓にかけられている淡い色のカーテンがかすかに揺れていた。
 セピア色の濃淡しかない夢。音も聞こえない。ただ、柔らかく穏やかな気配が伝わってきた。
 ──グローリー、と。
 どこかから声が聞こえたような気がした。精霊の言葉で。
 そうして、思いだした。グローリーというのが、この家を建てた人物の名前だったことを。
 それなら、この夢はブラウニーの見せる夢なのかもしれない。
 小さな男の子が、扉を開けて居間に入ってきた。妻がそれを立ち上がって出迎える。そして、椅子に座らせて菓子と茶を出している。息子なんだろう。10才にはなっていないと思われる男の子。口に入れようとした菓子をぽろりと零して、両親に笑われている。
 これがブラウニーの…この家の記憶か。

 そう思ったところで目が覚めた。目覚めて、あらためて気づく、頭痛と寒気と息苦しさ。あぁ…やっぱ、昨日水を浴びたのが悪かったか。とりあえず、これ以上悪化させないようにおとなしく寝ていよう。
 そこへ、ブラウニーが姿を現した。
<さっきの夢は、おまえが見せたのか?>
 聞いてみる。
<オレの記憶。その頃はまだ、オレは生まれてなかった。でも、この家が生まれた時から、オレの種はそこにあった。芽が出る前のことも、オレは覚えてる。全部は覚えてないけど、オレはこの家の空気は好きだった。こんな家があるなら、精霊界から来てもいいと思った>
 ブラウニーが宿る家は、大抵古い家が多い。建てられてから、物質界の時間でだいたい50年以上経つと、ブラウニーが力を持つとされている。
 ブラウニーが宿れるだけの力を、家そのものが持ってから、初めてそこでブラウニーが宿るのかと思っていた。…いや、そういうこともあるんだろう。ただ、このブラウニーは違った。家と共に育ったんだ。そして、40年…50年…力を蓄えて、この家で形を成した。
<オマエは、この家を、グローリーと同じように大事にしてくれると言った。だから、グローリーがどんな風にここで暮らしたのか、知っていて欲しいと思った>
 ああ、それならちょうどいい。今日は一日、寝台に潜り込んでいようと思っていたところだ。ブラウニーが言葉に出来ないことを、夢として見せてくれるならそれもいい。
<頼むよ。…ああ、少し待っていてくれ。猫に餌と水をやってくるから。それが終わったら、おまえが覚えていることを見せてくれ>


 さっきの場面とは違う場所が、夢に出てきた。子供が庭で遊んでいる。そして、母親がその近くで洗濯物を干している。突風にあおられたシーツを受け止めようとする母親、その光景を面白がってシーツを引っ張ろうとする子供。それを笑いながらたしなめようとする母親。
 そしてまた場面が変わる。セピア一色だった夢に、わずかに色がつき始めた。画家がキャンバスに色を載せるように、少しずつ少しずつ…色が加わっていく。それは、ブラウニーの記憶の鮮明さなのだろう。父親が両手一杯に抱えている葡萄。その赤紫色だけが色鮮やかになっている。匂いに惹かれたか、子供が父親に駆け寄る。バランスを崩した父親が、抱えていた葡萄を廊下に落とす。艶やかに磨かれた廊下は、葡萄の色に染まっていた。苦笑しながらそれを掃除する母親。困ったように立ちつくす父親と子供。丹念に丹念に…汚れを落とす母親と、それを手伝う子供。掃除を終えた廊下に、父親がミルクを垂らす。そして、モップで丁寧に磨き始めた。次に入れ替わった場面では、廊下はもとの艶やかさを取り戻している。
 場面が変わるごとに、子供は大きくなっていく。そして、両親は年老いていく。
 穏やかだった家の風景が、ある時哀しみの色に染められた。息子は、もう子供とは言えない年になっている。おそらくは、20才より幾らか前か。この頃になると、全ての記憶に色がついている。そしておぼろげながら、声も聞こえ始めた。
 断片的に聞こえる会話を拾うと、どうやら父親が亡くなったらしい。馬車の事故のようだった。泣き崩れる母親を支える息子。その日から、扉を修理するのも、廊下をミルクで磨くのも息子の仕事になった。そして、父親が使っていた書斎に花が絶えることはなかった。
 そして、息子が結婚する。今度は、母親の代わりに若い妻が掃除を担当し、書斎は息子が使うようになっていた。若夫婦に子供が出来る頃には、家の中に満ちていた寂しさはほとんど消え去っていた。
 母親が病気で倒れる。時折、夢の画像が乱れるのは、ブラウニーの心が乱れているからか。闘病の末、母親が世を去る。それと同時に、夢についていたはずの色が失われた。またセピア一色の夢に戻る。そして、夢の登場人物も、若夫婦と幼い子供──今度は息子ではなく娘だが──の3人だけになる。
 穏やかで柔らかな風景。幾ばくかの寂しさが時折、織り込まれる。けれどそれは、切れた糸を結び直して布を織り続けるようなもの。糸が結ばれれば、織物は続く。手触りのいい毛織物のように。日向に干した綿のように。織られる柄は平和な日常だ。何の変哲もない日常。ただ、この家に住まう者たちは…そしてブラウニーも、それこそが何にも代え難いものだということを知っている。
 オランの片隅の小さな家。目立った事件などあるわけもない。小さな出来事の積み重ねが、家族の歴史であることを、この家に住まう者たちは知っていた。それだけだ。


 ……ふと、目が覚めた。飼い猫のクロシェに餌をやった時に、自分で用意していた水差しから、水を一杯飲む。
<ブラウニー。おまえが、住人の病気を気にしていたわけがわかったような気がする。おまえ…グローリーの妻のことが気に入ってたんだな>
<この家に住むニンゲンで、オレが気に入らないニンゲンはいなかった>
<おまえがはっきり覚えているのは何代目からだ?>
 ブラウニーの夢だけを見ていれば、何年経ったのかはわからない。子供が育っていく様子で、幾らか推測がつくだけだ。
<何代なのかはわからない。グローリーの息子の娘が二人目の娘を生んだ頃だ>
 息子夫婦に娘が生まれたのが、確か息子が20代後半の頃だから…と、指折り数えようとした時。ブラウニーがいきなり、目の前まで移動してきた。
<…なんだよ。びっくりするじゃん>
<オマエ、病気か? オマエの中、昨日よりもサラマンダーの気配、濃い>
<だから、ただの風邪……>
<グローリーの息子も病気で、この家からいなくなった。オレの記憶がはっきりしてきた頃。オレがこの家で、ニンゲンたちを手伝えるほどの力を持った頃。息子の娘が二人目の娘を生んだ頃。グローリーの意志を継ぐ息子を、オレは助けたかった。けど、オレは何も出来なかった。息子の娘は、ここじゃなくて隣の隣の家に住んでいたから、息子の世話をしていたのは息子の妻だけだった。オレも手伝いたかったのに。この家に住むニンゲンを守りたかったのに。オレは…何も出来なかった。オレは家もニンゲンも両方守りたかったのに…!>
 ……精霊に、肉体的な意味で触れられないことが、こんなにも残念だと感じたのは初めてだった。頭を撫でる代わりに…頬に触れる代わりに……抱きしめる代わりに、何をすれば伝えられるのか。精霊に初めて触れてから、40年近く経っている。精霊使いとしての腕を聞かれれば、自信があると…そう答える。なのに、こんな時、俺は何も出来ない。
<ブラウニー、俺は……>
<息子の娘は、息子が病気でこの家からいなくなった後、この家に引っ越してきた。夫と二人の娘も一緒に。そして、息子の嫁は別の家に住んだ。4人家族になったこの家の住人たちも、今までと同じように、家を守ってくれた。だからオレはきっと救われた。誰も、廊下の板を張り替えなかった。誰も扉を取り替えなかった。寝台もチェストもクローゼットも鎧戸も塀の煉瓦も。みんなみんな、グローリーがこの家を造った時のままだった。オレも、ニンゲンたちを守った。なのに、二人生まれた娘のうち、下の娘が病気になった。まだ小さかった。オレは、その子も助けられなかった。オレは家を掃除出来る。洗濯物を濡れないように片づけることも出来る。台所で暴れそうになったサラマンダーをウンディーネに助けてもらって静かにさせたこともある。けど…なぁ、どうしてオレはニンゲンたちを助けるコトが出来ない? あの時のオレはまだ若かったからか? でも、今もオレはオマエを助けられない>
<……ブラウニー。大丈夫だ。俺はおまえに助けられてる。外からこの家に帰ってくると、ほっとする。おまえがこの家を守ってくれているおかげだ。それだけで十分に助けられている。それに、今だって夢を見せてくれただろう? あんな風に、静かで穏やかな夢を見ながら眠れるんなら、それは本当に十分過ぎるほどだ>
 ブラウニーの持っている力は、幻覚を作り出す力だ。眠りの精霊に支配されている者の夢に介入できるわけじゃない。だから、俺が見ていた夢は、多分、現実と夢との中間に位置するもの。それでも、ブラウニーに告げた言葉に嘘はなかった。
<………ホントウに?>
<ああ。本当だ。だからきっと、俺と同じように、今までの住人たちもおまえに助けられていた。おまえが守るこの家の空気が好きだから、みんな、この家を守ろうと思った。誰もこの家を壊さなかった。病気になるのはしょうがない。人間は年をとれば弱くなる。子供も、大きくなる前は弱い。病気になって命を落とすのはおまえのせいじゃない。そして、助けられないのはおまえだけじゃない。おまえが見せる夢も、そしておまえがこの家を守ることも、住人を手伝うことも。おまえにしか出来ないことだ。…それがおまえの力だろう? そしてそれがおまえの誇りだったはずだ>
 この家を紹介してくれた婆さんから、この家が人手に渡る直前の理由だけは聞いていた。グローリーのひ孫に当たる娘二人のうち、姉娘のほうがこの家に残って結婚したが、子供が生まれる頃にその夫が借金を作ってしまったらしい。身重の体では働けず、かといって夫の稼ぎだけでは借金返済にはほど遠く。だから、その借金を返すためにこの家を売った。それが確か15年前。
 幾つかの扉や窓が古くなっていることと、部屋数が少ないことで、買い主はこの家を取り壊そうとした。そしておそらくは、それに抵抗したのがこのブラウニーだ。
 それ以来、ブラウニーは臆病になっている。自分が家族を最後まで見守れなかった無念さと、宿る場所が壊される不安と。それまでの住人たちを助けられなかったことも負い目になっているんだろう。それでも狂わずにいられたのは、これまでの代々の住人…グローリーの血筋の者たちがこの家を愛したからだ。そして、この家で最期を迎える時も、この家を去る時も、恨み辛みを残さずに、ただ静かに受け入れたからだ。
<おまえは、自分を誇っていい。おまえはこの家に住む者たちに救われてきた。そしてそれ以上に、この家に住む者たちはおまえに救われてきた。俺も含めて>
 頭を撫でる代わりに…俺は全身でブラウニーの気配を受け入れた。本当なら、遺跡の奥なんかで精霊力のかすかな異常を探る時でもないと、ここまで自分の感覚を解放することなんかない。精霊力の全てを感じ取ろうとすれば、あらゆる感覚にあらゆるものが触れてくる。それは心地よいことでもあり、同時に濃密な波のような気配に息苦しくなることでもある。
 それでも、俺が自分の全てを解放することで、ブラウニーが俺を感じてくれるなら、それは抱きしめる代わりになるかもしれない。一切の拒絶がそこにないことをブラウニーに教えてやれるかもしれない。
 俺の、不安定な力であっても、それは力だ。ブラウニーが、精霊界と物質界の狭間で…その精霊界寄りの場所で戸惑っているなら、同じ狭間で、その物質界寄りの場所で俺はそれを出迎えよう。
<………………オマエ。ラストールド。オレ、オマエの名前覚えた>
 ブラウニーが、喜びの気配を返す。ありがとう、救われた…と。声にならない気配が届く。そしてそれは、俺も同じ気持ちだった。


■ 8の月 16の日 ■

 目が覚めたのは昼頃だった。そばに人の気配がなければもっと眠ってたかもしれない。
「……起きたか」
 俺の顔を覗きこんできた相手を認識して、少し驚いた。
「カレン? ………なんでここに? っていうか、いつからここに?」
「ついさっきだ。昨日の夜、ギルドで集まりがあったろ。エディが中心になって企画した飲み会。おまえも声かかってたはずなのに来なかったなと思って…」
 無表情にぼそぼそと呟くカレン。
「ああ…そういやそうだっけ、今思いだした」
「忘れてたのはそれどころじゃなかったからだろ? なんだかんだ言って、おまえ、エディのことは嫌いじゃねえくせに、連絡もなしでフケるとは思わなかったから。それで、一昨日の昼間に会った時、顔色悪かったなと思いだして」
 そう言って、懐から合い鍵を取り出して見せる。
「それで、様子見にきたのか。…いや、ちょっと風邪気味だっただけで、もう熱も下がったから…」
 起きあがろうとしたら、額からびしょびしょに濡れた布が滑り落ちる。………俺、こんなもん載せて寝てたっけ? ああ、そうか、カレンが……。それにしても、濡れすぎだろう。もう少しくらい絞れば…と思いかけた時。
「ところでおまえ。布で頭冷やして寝てるのはいいけど…もう少しくらい絞ったらどうだ。枕まで……」
「え? おまえじゃねえの?」
「はぁ?」
 すっとぼけてる顔……じゃないな。マジで驚いてる顔だ。ってことは……。
「…ブラウニー、か」
 思わず笑みが漏れる。
「なんだ、まだブラウニーの躾終わってなかったのか」
「いや。すげぇ進歩だよ。桶1杯分の水かけられるのに比べたら、相当の進歩だ」
 くすくすと笑う俺に、ふぅん、とひと言だけ返して、カレンは納得したようだった。
「ま、おまえがいいならいい。……ところで、どうせメシ食ってないんだろ。食えるなら何か作るか?」
 言われて、つい聞き返す。
「……誰が?」
「俺が」
「……………」
「なんだ、食欲ないのか?」
「……いや。そうじゃなくて。えぇと……準備だけしてくれ。味付けは俺がする」
「おまえ、それ…なにげに失礼」
 に、と笑ってカレンが部屋を出ていった。
 …そりゃそうだろう。味音痴の男に料理を全てまかせるなんて無謀な真似は出来ない。
 とりあえず着替えるか、と、寝台から立ち上がった時、足元にさっきの布が落ちる。拾い上げて、寝台の横にある低いチェストの上に置く。
<ブラウニー。ありがとう。……助かった>
 笑みの気配が返ってくるのと同時に、家全体に穏やかな気配が満ちたような気がした。それはきっと、気のせいなんかじゃない。




  


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