錆びた黄金−4−
( 2002/08/29 )
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作者
松川彰 タルノ
登場キャラクター
同上
◆ 引力 ◆
人は本当に楽しいとき、愉快な時には、睡眠を取らなくてもすむという。
精神の精霊への負担が少なくなれば、あとは適度に身体を休めるだけで良くなる。その朝、裏通りを歩くイエメンは、カーナとの出会いの夜から一睡もしていなかった。それでいて疲れたそぶりをみせず、その額は香油でも塗ったようにてらりと光っていた。前夜までと違って自信にあふれ、口の端に楊枝をくわえ、肩で風を切って歩いた。彼が向かっていたのは、「錆びた黄金」という名前の雑貨屋だった。
“恋人”チェリオとクーナは、ともに盗賊ギルドのメンバーだ。彼らは日用品を求めに、この日「錆びた黄金」に来ていた。チェリオのほうは浅黒い肌に長い手足を持ち、二つ名が示す通りの、かなりの色男。ギルドに所属する娼婦らの護衛を主に任されている。一方のクーナは草原妖精の女の子だが、よほど似つかわしくないことに、知的でクールな性格であった。クーナが、チェリオにとって護衛の対象というわけではなく、二人はギルドメンバー同士であることのほかに友達の間柄だった。一見すると凸凹でも、彼らはうまの合う者同士であった。その二人が、ここで、偶然にイエメンと出会った。
彼は、店の奥からのっそり出てきたのである。
「君たち、悪いがこの奥には行けないんだ。店長が、急に具合悪くなってさあ。もう店も閉めるらしい。何か買うなら、代金、そこのカウンターに置いといてくれってよ。おれは店員じゃないが、知り合いなんで確認できるから」
唇の端を上げてにやつきながら、いかつい大男が言う。その目はどこか、落ち着きがない。そして、見下ろす視線が威圧的だった。早く出て行け、というような。チェリオは、クーナが買うものを選んだのを横目に「わかった」と、手首に巻いた財布の紐をほどいた。
「ああ、ちょうどだな。それじゃもう、表に出なよ。看板を下ろすから」
その作業が終わると、イエメンは軽く手を上げ、早々と去っていった。
「クーナ、今の男、匂わないか?」
「……あの男か? 確かにちょっとヘンだけどな、怪しいって程でもないだろう。誰しも多かれ少なかれ、ヘンなところを持ってるさ」マーブル形の飴をころりと口に入れながら言う。
「ヘネカと来たら、この間作ったカレーに何を入れてたと思う? 何の影響なのか知らんが、食べる方の…」
「いや、あの男一人のことだけじゃないよ。この店の噂、覚えているだろう?」
しばらく両目をまたたいて、クーナはぽむ、と手を打つ。
「後を尾けてみる。クーナ、つき合ってくれないか?」
夜通し街をさまよって、すでに朝が来ていた。なお、軽やかな足取りで駆けながら、“白鷺”エルメスはハザードに面した河原を走っていた。彼女の相方を探して。
「全く…あいつ、どこにいるんだろ。しかものこのこ一人で、みるも怪しげな男についていくなんて。お嬢ちゃんか!?」
毒づきながら橋の上に目を移したとき、エルメスは驚き、急停止する。
「げ、ちょっ……! 何してるんだ、そんなカッコで!」
「うふ、あ、エルメスだ…。何、驚いてるのぉ?」
彼女の視線の先にいたカーナは、純白の絹の、しかし所々に血のように赤い染みができたドレスを身にまとい、薄明の中で艶然と微笑んでいた。足取りはふらふらと定まらず、うつろな目でエルメスを見ている。
近寄ったエルメスは、今にも倒れそうなその身体を支えた。奥歯が軽く軋む。
「何があったのか聞かせて貰うよ……全く……」
そのころ“恋人”チェリオとクーナは、大男、イエメンを尾行して、彼の住まいと思われる屋敷に戻ったのを確認したところだった。家の中に侵入するかどうかの判断を迫られていた。
「とんだ金持ちじゃないか……」
「せっかくここまでついて来たんだ。やつの素性をしっかりと確かめておこう。よし、チェリオ、潜入するぞ」
人間と草原妖精の影は裏口に滑り込む。扉が静かに閉められた。
屋敷の中は奇妙に生活感がない。調度品は綺麗に配置されたまま、しかし埃をかぶり、朝の物憂い光の中にたたずんでいる。
廊下を忍び足で進み、居間の中に入り、そして、一つの扉を見つける。周りの風景の中でそれは異質だった。扉には赤い塗料で「イエメンのアトリエ」と書き殴られている。頻繁に出入りがあるらしく、立て付けが悪くなり、扉の端が浮いていた。
部屋に入った彼らは、息を飲んだ。
「うわっ……」
「アトリエ」の正面の壁一面には、下腹のふくらんだ女性──妊婦の絵が描かれていた。
驚いて立ちつくす二人の背後に、人影がふらりと立つ。振り向くと、そこに顔色の悪い、痩せぎすの男がいた。
「んやぁ、あんたら、何用でいるんだい? オレぁここの居候みたいなもんで、リッチィってんだが」
チェリオが何か言葉を探し、言おうとしたのを、男は軽く制した。
「マ、なんでもいいが、あんたら間の悪い所に来たな。とばっちりがいくかもしれねぇぜ……。イエメン坊の癇癪のな。ヒ……ヒ」
部屋の床には穴があき、そこには地下へ続く梯子がかかっていた。やがてそこから巨体をずるりと引き抜き、イエメンが姿を現す。
「なんだ、あんたたちぃ。こんなところまで、何の用だい?」
何かあったのだろうか。先刻とだいぶ雰囲気が変わっていた。目を赤く腫らし、口を尖らせ、こちらを睨んでいる。
「あんたから何か盗めると思って……」
「なるほど……」
クーナが唐突に、壁の絵を指してみせる。
「この趣味の悪い絵は何なんだ?」
「おれが描いたんだよ。安らぎと幸せの具現としての、妊婦さんたちの絵さ」
「こっちの妊婦の顔は、どうみても、男だけどな?」
「芸術だもの、現実に忠実ってわけじゃないよ。幻想とか夢、願望が入るものさ」
そんな会話の中に、リッチィが割って入る。
「イエメン坊、トーマスからの伝言だぜ。もうトマト作りはやめたってよ。こりゃ、そのままの意味だ。これからは我慢を覚えなよ、ヒヒ」
そう告げた後、風のような速さでリッチィが去った。”恋人”チェリオはイエメンの顔を見る。こめかみに血管が浮かび上がり、口の端から泡が吹き零れていた。
「クーナ!」
チェリオは素早くクーナの手を取り、アトリエを飛び出した。二人の後を追いかけて、奇怪な咆哮が響いてくるのだった。
ふいにカーナは閉じていた目を開け、むくりと寝台から身を起こした。そばで濡れた布を絞っていたエルメスが、驚いて手を止める。
「わっ、起きたのか、カーナ。まだ横になってた方がいいよ」
厨房で料理を作っていたピルカも、お玉を片手に駆けつけてくる。
「すぐお粥つくるから、待っててね」
「お粥……?」
カーナは、首を振った。
「嫌ぁ……もっと濃厚で、美味しいものがいいの」
そう言うと彼女は、自分の紅を塗った唇を舐めた。そして、何かに気づいたように笑う。
「あッ、ここに、塗られたんだった……美味しいの、こんな所に残ってたぁ」
カーナは一心に自分の唇を舐めはじめた。エルメスとピルカは、呆気に取られて彼女を眺める。
「馬鹿、口紅なんて舐めるもんじゃないだろ……おい!」
「うわっ、カーナってば、舌がすごいよ!?」
彼女は舌に手の甲を擦りつけ、そこに乗り移った紅色を見て、うふ、と笑った。ぼんやりとした表情で、すでに暗い窓の外を見た。
「ああぁぁ。もうこんな時間。いかなくちゃ……イエメンの所に戻らなくちゃ」
カーナは寝台から降りた。看護する二人の言葉に耳を貸そうとはせず「アトリエに戻る」という言葉を繰り返すのだった。エルメスは大きく息をついた。そして眉間に皺を寄せ、顔つきを変えた。
「ピルカ、ここはあたしに任せて。カーナをこんなにしたのがどいつか、あたしが確かめてきてやる」
◆ 兎の名前 −1年前− ◆
『あんた……名前は? ないの? じゃ、あたしがつけてあげよっか』
『そうだね、カナリア、なんてのはどう? ああ、たいして意味なんかないわ。あんたの金の巻き毛が…ふわふわしててね、昔飼っていたカナリアに似てるなぁなんて』
『ねぇ、こんなとこ…イヤでしょ? 一緒に逃げよっか…』
『そうね、あたしもね、子供がいたのよ。だけど、その子供はそんな風には呼んでくれなかったから……ふふ、なんかくすぐったい呼び名…』
……………あ…さん…。
部屋の扉を叩く音で、アデンは眠りから覚めた。薄布一枚をまとった姿のままで、扉を開ける。そこに立っていたのは、“恋人”と呼ばれる男だった。その男はまだ若い。おそらくはアデンよりも。
彼が本業とするのは、兎と呼ばれる、ギルドに属する娼婦たちの護衛役だ。もちろん、全ての兎に護衛がつくわけではない。護衛をつけられるほどの娼婦は多くないし、“恋人”はそんな上玉を間近で見ながら、決して商品には手出しの出来ない立場というわけである。浅黒い肌と、大柄な筋肉質の体。武器を扱う技術。彼はそれらを使って、娼婦たちを護る。
「…ああ、チェリオ。もう仕事に行く時間だった?」
「そうだ。…だから迎えにきた。支度は出来ていないのか?」
「待ってよ。もう少し。……女の身支度には時間がかかるの。いそがしいんだから邪魔しないでね」
言葉の内容ほどには急いだ風もなく、アデンは身支度に取りかかった。チェストの上から銀細工のアンクレットを手に取り、かちりと捻って輪を外す。足首に嵌めてからもう一度かちりとそれを戻す。一度ならず迷ったあとに、結局、真紅のドレスを身にまとう。ごく淡い栗色の髪が、ふわりと背中に落ちた。指輪、首飾り、梳いた髪にさす真珠の髪飾り。そして白粉と口紅。肌の白さを強調するように、下瞼から目尻へと紅を引くのは、娼婦に独特の化粧法だ。
「………まったく、あんたは極上の“兎”だとつくづく思う。俺が今まで護ってきた相手の中じゃ一番だ」
薄布一枚で、化粧もろくにしていなかったアデンを見てさえ、チェリオはそう思っていた。そして、目の前でアデンが変貌していく様を見ると、それはより一層強まる。
「そう? しっかり守りなさいよ。それがあんたたちの仕事でしょ」
「ああ、わかってるさ。……今日の行き先はいつものところでいいんだろ?」
「そう。サヌアトール家。最近はそこにしか行ってないでしょ。ほとんど専属だもの。……いちいち確認することじゃないわ」
はいはい、と、チェリオは小さく肩をすくめた。高慢な物言いをされても、それがアデンであれば不思議と腹は立たない。別の娼婦についていた時は、こんな女を護りたくなんかねぇとギルドに言って配置換えをしてもらったこともあるのに。なのに、アデンだけは別だ。
「……魅力…ってやつか。“飼い主”の前でもあんたはきっと変わらないんだろう。あんたは媚びを売らなくても“餌”がもらえる」
チェリオがそう呟く。真っ白な毛皮のショールを手にしたアデンが振り向いて微笑んだ。
「そうでもないわ。ただ、媚びを売りたくなる相手なんてそうそういないのは確かね。でもね……いくら媚びを売っても手に入らないものもあるのよ。あんたがその剣で…その拳で守れないものがあるのと同じ」
そろそろ行くわよ、と、アデンが先に立って外への扉を開けた。その背中を追いながら、チェリオが問う。
「……なんか、欲しいもんでもあるのか?」
「ないわ。……ないわよ。…………どうせあたしは……黄土くらいしか生めやしないからね」
だから望んでも無駄なのだ、とは。口にしなかった。
──おかあさん…。
眠りから覚める前に聞いた声が、もう一度アデンの脳裏に響いた。
『カナリア。今日で最後よ。あんたはあんな場所にいちゃ駄目。“壁のない家”なんかにいちゃ駄目。あたしが逃がしてあげるから…だからあんたは飛び立ちなさい。籠の外で歌う術を覚えなさい』
サヌアトール家からまわされた馬車が、玄関の外に待っていた。慣れているとはいえ、この手回しの良さに、チェリオは少なからず驚く。チェリオは、アデンの過去をほとんど知らなかった。娼婦の過去になど興味はない。幸せな状況だったならば、娼婦という職業についているはずもないのだから。ギルドにとって…そしてチェリオにとって、アデンは“高い餌代をもらってくる兎”。それだけだ。
──もしもチェリオが聞いていたら、アデンは答えただろうか。
自分が昔、ブラウンケーキの主謀者だったガデュリンと愛し合っていたことを。子供を欲しがるガデュリンのために…それでも、自らには子種がないガデュリンのために、別の男に…ジェイコブ・ブギーマンに抱かれて子供を産んだことを。そしてその出産の時に一度死んでいることを。
一度死んでから蘇り、そして、ブラウンケーキに侵された身体を治療するための薬が出来るまで…と魔法で眠らされていた。精霊魔法による深い深い眠りの下で時間は過ぎていった。自分がそうやって眠っている間に、ガデュリンは死に、産んだはずの子供はどこかへ隠された。それは全て、トーマス・ブギーマンのやったことだと…もしも問われれば答えていただろうか。
それからの人生は、アデンにとっては意味のないものだった。トーマスが何故、ガデュリンのもとから自分の死体を盗み出したのか。そして、蘇生の魔法…高価なその魔法の援助を得るために、貴族に取引を持ちかけて、そうして今、モールドレの利権のほとんどが貴族の手に渡っているのは…。何故、トーマスがそこまでして自分を生き返らせたかったのかわからなかった。
だが、アデンにとっては意味がない。アデンが生き返った世界では、すでにガデュリンは死んだ後だったのだから。自分が産んだはずの子供はどうなったのか、それはトーマスに何度聞いても教えてはくれなかった。ガデュリンもいない…そして、子供にも会えない。ならば、自分が生きていることに何の意味があるだろう。
ただ、トーマスの満足のためだけに。
トーマスが、ガデュリンに対して抱いていた、憎しみと愛との端境に位置する感情のためだけに。
いつ死んでもいいと思っていた。何もやりたいことなどなかったから。自分で自分を殺す気力さえなかった。ただ、トーマスの言葉に従うだけ。トーマスの差し出す麻薬は、ガデュリンのことを忘れさせてくれる。
だからこそ、トーマスの差し出す薬を受け取っていた。
だからこそトーマスを憎んでいた。
ガデュリンのために子供を宿すことが出来ないなら、自分の腹にある、女としての機能などいらないと思った。だから、トーマスが勧める手術を断らなかった。カナリアを見ていると、自分が産んだはずの子供を思い出す。性器をごっそりと切り取った腹の手術跡が、しくしくと痛むような気がする。
その全てを、チェリオは知らない。
そしてまた、アデンも知らない。トーマスも、その兄のジェイコブも、ガデュリンと同じようにアデンを愛していたことを。
いや、知っていたのかもしれない。…それでも、アデンが愛するのはガデュリンだけだった。
◆ 傷痕 ◆
「惜しいことをした、と…そうかい? “かんみや”。くつくつ……あんたは愉しみ方が一途だ。私はね、花を育てる愉しみと、それを手折る愉しみと…両方を愉しんだだけさ。ああ…でもどうせなら……そう、そうだね、おまえの言うとおりかもしれないね。惜しいことをした。そう…どうせなら、私自身の手で手折るのも良かったね。くつくつ……。ただね。ガデュリンが7年前に燃やした“壁のない家”を、せっかく作り直したのに……あそこからアデンは1人盗んだだろう? ぐつくつ……私から何か盗もうとするなんて…」
黒い右目と青い左目で、トーマス・ブギーマンは笑った。
「どちらにしろ…済んだことだな。そう、もう1年も前のことだ。去年の…そう、暑い盛りだったなぁ、トーマス。“逆巻き”にアデンを殺らせた。西瓜みたいだったと、大喜びで“逆巻き”は帰ってきたっけ。…ああ、思い出してもおかしいよ、あの時のことはね」
トーマスと差し向かいに座る“甘味屋”が笑う。2人の間に置かれた卓の上には、真紅のワインが2杯。頷きながらゴブレットを手に取ったトーマスが、白いテーブルクロスの上でゴブレットを傾ける。滴り落ちる鮮血のようなワイン。広がる紅い染みを見て、笑みの形に頬を歪める。
「あの時は、まだ実験段階だったモールドレを“さかまき”に味見させてやったんだったね。ご褒美に、ね。“さかまき”も可哀想な男だよ。そう…かわいそうだ。ギルドなんかの言うことを聞いていたから、“さかまき”の大事な大事なルシアは死んでしまった。あのまま生きていれば、極上の愛が味わえたのに。ねぇ。そう思うだろう? “かんみや”? “さかまき”も、“さかまき”の大事なルシアも。あのまま2人でここに留まれば、本当の愛が手に入ったよ。黄金色の愛がね。……愛には試練が必要だ。ルシアはそれに耐えられなかった。“さかまき”は…」
「“逆巻き”は一度は逃げた。でも戻ってきたろ? トーマス、あんたのもとに。助けてくれと嘆く“逆巻き”をあんたは助けてやった。ブラウンケーキ摘発の時の“逆巻き”と、アデンを殺した時の“逆巻き”は別人だ」
「そして、今の彼のほうが幸せそうに見えるね。……くつくつ。ねぇ、“かんみや”、麻薬は薬なんだよ。そう……癒すのさ…くつくつ…」
濡れて、わずかにランプの光を照り返す紅い染みは、火に炙ったモールドレを思い起こさせた。精製した段階では薄紅色の粉末でしかないそれは、火に炙ることで真紅の液体に変わる。そして、液体にすることでモールドレは甘みを得る。粉のままのモールドレを鼻から吸うほうが摂取方法としては簡単だし、そのほうが、薬の効果が出始めるのも早いはずだ。なのに、モールドレを使う人間は、その甘みを欲するのか、ほとんどが火に炙って液体にしてから飲み下す。蝋燭の上にスプーンをかざす儀式は、彼らにとっては神聖な儀式なのかもしれない。
──そんなことをふと考えて、“甘味屋”は小さく首を振った。
(…馬鹿な。神聖な儀式などであるものか。所詮は麻薬じゃないか。快楽にふけるために、中毒者はいろいろなものを差し出す。この俺の手から薬を受け取るために、必要な代価。モールドレは今までの麻薬よりも数段、値段が高い。それは……ひょっとしたら俺の最後の良心……いや、そんなわけもねえな。モールドレを火に炙るのが神聖な儀式でなんかないのと同じ。値段をあげることで、少しでも手を出しにくく…なんて。くだらない)
「……“かんみや”、どうした?」
「いや、アデンのことをね。考えてたんだよ」
“甘味屋”の返事は、その場しのぎだった。それを2人ともわかっている。わかってはいても、それは確かに、トーマスの気に入る話題だった。
「アデン……いい女だったね。…そら、アデンが連れ去った娘がいたろう。アデンのことを母さんと呼んでいた…くつくつ…おかしいねぇ、アデンの腹からはとっくに、性器をごっそりと切り取ってあった。大きな傷痕が、アデンの腹にはあったはずだ。どうせ、役になんか立ってないんだから構わないって…アデンはそう言ってたねぇ。そんな女が母と呼ばれる。……不思議だね、麻薬ってぇのは…くつくつ」
「アデンが連れ去った娘の行き先は、手下に調べさせてるよ。もうすぐわかるはずだ。……あんた、ご執心だったろう?」
「ああ……“かんみや”、おまえは有能だ。そう、確か名前はカナリアだったね」
「イエメンの次は…カナリアかい? あんたが作り直した“壁のない家”には、他にも子供達がいたのに…あんたはカナリアがお気に入りだった。アデンが連れ去るまではね。そこには、薬の実験に使う子供たちや頭をヤられた患者たちを詰め込んでいたはずだ。子供を集めるのなんか簡単だった。あの家の存在は俺たちにとっても便利なんだからね。たった3日分のクスリ…そのためにヤク中は子供を売る。俺たちに直接、この赤ん坊とクスリを交換してくれと持ちかけるヤツだっている。……カナリアもその1人だったね。あの子を売りに来た女は…ああ、もう忘れたね、どんな女だったのか。ただ、あんたが払ったカナリアの代価は5日分のクスリだった。高いのか安いのか、俺にゃわからんがね。
……そういえば、“絡繰り”に伝言を頼んでいたじゃないか。イエメンにもうトマトは作らないからって。あれは、イエメンを追いつめるためかい? イエメンを……あんたは切り捨てるのかい?」
……切り捨てられるのかい、と。そう聞くのはやめた。それでも、トーマスはその意味を正確に理解している。
「イエメン……可愛いイエメン。くつくつ……私は彼を捨てやしないさ。捨てられないもの。“かんみや”、あんたも知ってる。イエメンは……ガデュリンの黄金を受け継いでいるんだから」
「そして、イエメンは、アデンの息子でもあるんだから……だろう?」
“甘味屋”の言葉に、トーマスは眉をぴくりと動かした。
「………“かんみや”?」
「……ああ、済まない。失言だったかい? でも、あんたがガデュリンの全てを手に入れたがったのは事実だろう。麻薬とイエメンとそしてアデンを。俺にゃわからないよ。あんたはガデュリンのもとからアデンの死体を盗んできた。イエメンを産み落とす直前にこと切れたはずのアデンを。その頃からすでに手を付けていたモールドレの開発をちらつかせて、貴族に金とコネを出させて、アデンの死体に蘇生の魔法までかけた。そして、アデンを治療する薬が出来るまで、と、眠りの魔法をかけさせた。
………あんたは、アデンを愛してたんだと思った。なのに、あんたはアデンを麻薬漬けにして、結局は殺してしまった。それは…」
「それは。……それは、おまえには関係ないことだろう? 好奇心は災いを呼ぶよ…ぐつくつ……」
“甘味屋”は小さく肩をすくめ、そして口を閉じた。
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