錆びた黄金−5−
( 2002/08/29 )
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作者
松川彰 タルノ
登場キャラクター
同上
◆ 医者と盗賊 ◆
トレルは盗賊ギルドの一室にいた。トレル…正しくはトレリノール・ロックフィールドという男である。チャ・ザ神殿の近くで治療院を営んでいる若い男だ。つい数日前、自分のところに麻薬を使用されたらしい患者が運び込まれてきたから、と報告に来ていた。
「どうやら、ガールフレンドがその男に手料理を食べさせたらしいんだが……道ばたで売られていた“魔法の粉”とやらを、料理にいれたらしい。相手の心を自分のもとにつなぎ止める魔法がかかっていると言われて、信じたらしいな。……若い女性の考えることはわからんよ。……ああ、その男? 中毒とまではいってない。ただ、麻薬自体が強力でね。治療には少し時間がかかるかもしれんが」
報告の時の台詞はこうだった。それを受けたギルドの人間も、さほど珍しいことではないと頷いたにとどめた。だが、今はギルドの目から逃れた麻薬ルートを摘発しようと何人かが動いてることも、報告を受けた人間は知っていた。だから、数日の時を経てその情報はドゥーバヤジットに渡ったのだ。
そしてそれと時をほぼ同じくして、ドゥーバヤジットの直属の部下から別の報告がもたらされた。
「トマトがどうのと言いながら、ヤクを売ってくれと治療院の周りをうろついてた男がいたようですよ。その治療院ってぇのが、ロックフィールドで。……ご存じですかい?」
そう言われて、ドゥーバヤジットは頷いた。そう、『ご存じ』なのだ。
「ふん…。てめぇでヤクを売っておいて、ルート摘発の動きがあるからってんで、慌てて自己保身かい。そうだよな、自分とこに患者が運び込まれた、こりゃてぇへんだなぁんて自分から言い出せば、てめぇに疑いはかかりにくいわな。……よう、トレル先生よぉ。あんたんとこは、ギルド御用達の治療院てぇわけじゃねえが、うちの若いモンも何人か世話になったことはあるらしいなぁ? よくもまぁ今まで綺麗に隠してくれてたもんだぜ。医者ならクスリの扱いはお手のモンってわけかい?」
ギルドの奥まった一室で、ドゥーバヤジットはトレルにそう問いかけた。
「私は関係ない。報告の義務は済ませたはずだろう」
「そうかい? 随分と噂になってんだろ。てめえの治療院の周りでヤク中のイカレ野郎どもが騒いでいるとか、裏取引があるらしいとか。……火のねぇとこに煙が立つかい?」
「噂なんてものが、時には人為的に操作されるのを一番知ってるのは、盗賊ギルドではないのか!? 私を問いつめるよりも先に、私のところに紛れ込んできた、その『客』とやらを捕まえたらどうだ!」
「ああ、てめぇんとこにクスリ買いに来たやつな。……そうそう、そいつの居所も先生なら知ってんだろぉ。もったいぶらずに教えてくれや。んん?」
それが、ギルド捜査の攪乱を目指した、麻薬組織の幹部が企んだ罠の1つであることを、ギルド側はまだ気が付いていない。麻薬を買いに行った手下は十分な働きをしてくれたようだ、と、組織側が満足していることも。
ドゥーバヤジットの発した問いは、これまでに彼の部下から何度も発せられていた。そしてそのたびにトレルは首を振る。知らないものは答えようがない。組織側の罠だと告発を試みたこともある。だがその証拠がない。
だが、証拠がないというのは、逆の意味でも言えることだ。トレルが組織側の人間であるという証拠がない。既にトレルを捕らえてから2日以上経っている。いつまでもこのまま、というわけにもいかないことは、ドゥーバヤジットが一番よく知っていた。
「………センセイも強情だなぁ。ま、いいさ。そろそろ時間切れなんだ。あんたにばっか、かかずらわってる暇ぁねぇんでな。家に帰してやるよ。ただし。あんたに付いてる札は灰色だ。当然、見張りがつく。もちろん…文句なんかねぇよなぁ?」
その夕方。ドゥーバヤジットは1枚の羊皮紙を持って、トレルの自宅を訪れた。
「……ほらよ。
モールドレ
を……麻薬を分析したのが書かれてらぁ。あんたが麻薬組織の人間だってぇんなら今更かもしんねぇけどよ。それならそれで、今更あんたにこれを渡してもこっちの懐は痛まねぇってわけだ」
「……麻薬組織の人間じゃなかったら?」
問いかけたトレルにドゥーバヤジットが笑う。
「ははっ! それならいいじゃねえか。あんたは患者を報告してきた。その患者の治療に使える。……だろ?」
ふん、と鼻を鳴らし、それでもトレルはその羊皮紙を突き返すことはしなかった。それを見て、ドゥーバヤジットがかすかに笑う。
「なぁ。センセイ。あんたぁギルドのこと胡散臭く思ってんだろうけどよ。そうさ、確かにギルドだって麻薬と無関係じゃねえ。だからって、ギルドがなけりゃ、麻薬はもっとひでぇことになってるさ。なくならねえんだよ、麻薬ってぇヤツは。
…オレぁ、オラン産まれオラン育ちだぁ。ここじゃ、きっちりギルドが仕切ってる。けど、随分とむかぁし…ギルドが麻薬への手ぇ緩めた時期があったんだな。ちょうど、オレの婆さんが若かった時代によ。オレの婆さんは娼婦だった。体売るのが辛くてクスリに手ぇ出したのか、それともクスリを買う金欲しくて体売ったのか。そりゃ知らねえよぉ。鶏と卵の例えと一緒さ。そのうちどっちが先かもわかんねえで、ただ、どっちもやめらんなくなってた。…らしいんだな。オレぁお袋から聞いた話だ。……ま、よくある話でね。ガキが出来ちまった婆さんは、クスリ欲しさにてめえのガキも売り飛ばしたよ。てめぇの腹痛めたガキよっかクスリのほうが大事なんだ。……それがヤク中さ。
売られたのぁオレのお袋だ。ひと買いから逃げて、行き着く先は娼婦。珍しくねぇ。その頃ぁ、ギルドの力が弱かったのか何なのか…娼婦の扱いなんざひでぇモンだったらしい。あたしゃあのババァにとっちゃクスリより下の存在だった、なんて。恨み続けて、結局は性病でおっ死んだよぉ。……おっとと、泣き落とししてるわけじゃねえぜぇ? ま、オッサンの戯言だと思って聞き流しな。
…なぁ。人間ってなぁ、負けっちまうんだよ。そりゃ、強いヤツもいるさ。でも、全部が全部、強いわけじゃねえ。クスリに逃げる奴もいるんだよ。国やギルドがどんなに強く規制したって、結局裏でクスリは流れる。………だとしたらよ。……そう、だとしたら、だ。せめて、それが取り返しのつかねえことにならない程度にコントロールする存在があってもいいんじゃねえのかい。ギルドがクスリを管理するようになって、クスリで死ぬヤツぁ減った。死ぬようなクスリはギルドが許さねえからな。ギルドが娼婦連中を管理するようになって、性病で死ぬ娼婦が減ったのとおんなじさぁ。うちらの管轄下にある店は、娼婦の定期検診とやらをやらせてっからな」
そこでふっと言葉を切って、ドゥーバヤジットはトレルを見つめた。にっと、口もとを笑みの形に歪めて続ける。
「…だからよ。ギルドってなぁ必要なんだよ。組織がでかくなりゃ、いろいろと弊害もあるがな。けど、組織には力が必要だ。あんたも、こんなとこで治療院なんざやってると、冒険者の知り合い多いだろ。そん中にゃ盗賊だっていんだろ。そいつらぁ、おおっぴらに自分が盗賊だっていうかい? ギルドに属してるって言うかい? 言わねえさなぁ。言えねえんだよ。……それでもなんで、ギルドになんか属してると思う? 抜けるのがコワイってんなら、最初から入らなきゃいい。そうじゃなくたって、駆け出し程度なら抜けたって見逃すさ。追っかけて制裁加えるほど、オレたちゃ人手が余ってるわけでもねえし、駆け出しに制裁が必要なほどの情報が渡ってるわけもねえ。抜けねぇのは…知ってるからさ。他人におおっぴらに言えなくたって、ギルドが確かに必要なんだとな。
なぁ、ところで…知ってっかい? どっかで聞いたんだけどよ。純粋な金属ってなぁ錆びねぇモンらしいぜ。金属が錆びるのは当たり前…ってんじゃない。何かがその中に混じってっから、錆びるんだとよ。国もおんなしだぁ。こんだけ人が集まりゃ、純粋になんぞなれやしねえ。だとしたら、錆びる部分をコントロールできたほうが良くねえかい? だから、オレらの知らねぇところで、錆びる要素ってぇのを作られちゃマズイのさ。
若い盗賊どもが、ンなことをどこまでわかってて、こんな商売やってんのかぁ知らねぇ。けどせめて、オレぁそいつらをうまく使ってやらにゃならんだろ。……衛視どもは『違法だから』ヤクを取り締まる。けど、オレたちゃ、理由を知っててルートを潰す。…最低でも、今回関わったヤツらにだきゃ教えられりゃいいがね」
そう言って、ドゥーバヤジットは立ち上がった。
あんたにゃ見張りつけとくからな、と、そう言って玄関へと向かうその後ろ姿にトレルが囁くように言う。
「……確かにな。そう、確かに、あんたの言っていることは事実だ。悔しいが、紛れもない事実だ。……だからといって、仕方がないと諦めるわけにはいかないのだよ。医者も、衛視も後手にしかまわれない。病気になってから、事件が起きてから必要になる職業だ。だからと言って病気になるのを、事件が起きるのを仕方がないと諦めれば良いのか? 違うだろう? 私達は病気の知識を教え、予防をし、あるいは、事件が起こらないよう防犯をしていく。そして、すこしでも病気が、事件が減れば意味があるだろう?」
その言葉にドゥーバヤジットが振り向く。振り向いたその目を真っ直ぐに見つめて、トレルが言葉をつなぐ。
「少なくとも、私は諦めるつもりがない。目の前で起きている出来事が過ぎ去っていくのを待っている気もない。……それだけは言っておく」
「……ふん、好きにしな。協力するなら良し。邪魔するなら潰すだけだ」
◆ −記憶− 茶色 ◆
ねぇ…ローズ。…ローズ・アデン。君は、私の心の中にいる女性に似ているような気がするよ。ああ、トーマスもジェイコブも同じようなことを言っていたかい? はは…そうだね。その女性は、私たち3人にとって救いの女神だ。
森の中で、恐怖に包まれていた私たちを黄金の色で救ってくれた。信じられるかい? ほら…この籠に入っている麺麭があるだろう? こんな白くて柔らかい麺麭じゃない。もっと濃い色で…堅い麺麭だ。なのに、あの時の私たちには金色に見えたんだよ。……彼女は、自分だって空腹だろうに、喉も渇いているだろうに…それでも、私たちに与えてくれたんだ。今から思えば、彼女だってまだ若い。成人してそんなには経っていないだろう。…そう、まだまだ心細かったと思うんだよ。なのに、私たちを気遣ってくれた。まだ危ないと思われる場所に、私たちのために走って行ってくれた。……私たちは子供だったよ。気づかなかったんだ。彼女もまた飢えていたのだろうに…とは。彼女もまた心細かっただろうに、とは。
アデン。私たちは……彼女の名前を聞くことすら忘れていたんだよ。
あの時の安らぎ。あの時の満ち足りた気持ち。私は……それをもう一度味わいたかった。恐怖も警戒も怯懦も…何もかも忘れて、たったひとつの幸せに漬かってみたかった。心を押さえつける留め金を外してくれるものが欲しかった。あの時のひとかけらの麺麭のように。
私は、それを麻薬に求めた。私の作り出したブラウンケーキはそれを与えてくれると思った。あの薄茶色の粉末が。
以前…そう、私とトーマスが魔術を修めるために1人の老魔術師に師事していた頃だよ。学友とでも言える人間が何人か…うん、多くはないけれど、いたんだ。そのうちの1人がね、魔術の勉強のつらさ、そして家からのプレッシャーに耐えかねて、麻薬に手を出してしまった。心の弱い男だったんだね。麻薬から抜けられずに苦しむ友人に、私ともう1人が手を差し伸べた。もう1人というのは…ああ、もう名前も忘れたけれどね、今は三角塔の導師になっているはずさ。
薄汚れた部屋に閉じこもって、瞳孔の開いた目で闇を見つめて、饐えた…甘い体臭が漂う部屋で蛆(うじ)の涌いた毛布にくるまって震えていたその友人を、今、導師になっている男は麻薬なんかやめろとひどく殴った。そして、私は格安で麻薬を譲ってあげた。……ねぇ、私とその導師と…どちらが彼にとっては本当の友人だったと思う? 彼が路地裏で無惨な死体を晒したのは、それから程なくのことだったけれどね。
………ねぇ、アデン。私は……どこで間違ってしまったんだろうね。
◆ 狂宴 ◆
彼が“逆巻髪”と呼ばれるのは、その渦を巻いたような奇抜な赤髪が所以だ。もっとも、思い返せば、昔はこんな髪型はしていなかったような気がする。その男、バルバは、いつも通り、安い薬を打ったあとの気だるさを感じながら、家の壁にもたれかかっていた。日が暮れようと、こんな街には、刺激は何もありはしない、と彼は思った。
彼は仕事中で、その家にいる者達を見張っている最中だった。
だがそのうち退屈し、去年の夏のことを考えた。その時彼は、ギルドの依頼で、チェリオという男が守る“兎”を、頭を砕いて殺した。その血の赤さが、いつもほしがってる強い薬、“トマト”の色に似ていたことを思い出す。その時は気分が悪かったが、今となれば思い返しても全然応えなかった。それどころか、あの鮮烈な朱のイメージが、今の重いまぶたを開いてくれるような気がする。
「お、出てきたね」
やがて見張っていた家からは、カーナと、それに連れ添って赤毛の女性が出てくる。バルバは身を起こし、二人の尾行をはじめた。
バルバは赤毛の女、エルメスの姿を見ているうち、ふと、自分の恋人のことを思い出した。エルメスは彼女に面差しが似ていたのだ。
その女性とはギルドの同胞で、とても仲が良く、何度も一緒に仕事をした。あるとき仕事が失敗して、恋人も一緒にとらわれ、彼女は自分の見ている前で、敵の男たちに代わる代わる犯された。その果てのない陵辱の後、彼女は自らの喉を裂いて自殺してしまった。その最後の場面を彼はずっと覚えている。それを忘れるためにと、トーマスという男からトマトを与えられ、バルバはそれで命を救われた。自殺をせずに済んだ。
心の傷を癒そうとするとき、トマトは極上の味になる…。この幸せを誰かにも教えてやりたい、彼はそう思った。
バルバは粘つく視線で、前を歩く二人の方を見た。唇を軽く舐めると、ゆっくりと歩を早め、カーナとエルメスとの距離を詰めはじめた。“逆巻髪”彼は、理性を失ってはいなかった。失っていたのは、欲望を満たすための理性をのぞく、全てだった。ゆえに、本物の狂人であった。
「うぐっ!」
「あっ、エルメスが…」
腹部を押さえて、暗い路地に、エルメスは倒れ込んだ。腕をぶらぶらさせながら、“逆巻髪”が近づいていく。
「頑張るねぇ〜。その子を守ってさぁ」
寝間着姿で立つカーナは、状況がよく理解できない様子だったが、おぼろに相棒の危機を感じているらしい。閉じ忘れの口の端は、不安げに下がっていた。彼女の背後で、一匹のはしぶと鴉が、落ち着きなく頭を巡らしている。
バルバは、エルメスを見下ろして言う。
「まだ抵抗するのかい。その娘は友達なんだろうけどさぁ、こんな状況だよ。君は女の子だし、逃げてもいいんじゃないのかな。自分の身まで大変なことになるよ」
「ふざけるな、オマエなんかにカーナを……」
その強い目を見て、バルバは、ぴくりと眉を上げる。何かを了解したように、ほぉ、と呟いた。
「そっか、そうなんだ。全く君らは……はしたないなぁ〜〜」
バルバは頬を緩ませ下卑た笑みを見せた。
時間をさかのぼること、約一日。カーナとイエメンが出会った晩である。
オランから街道を少し行った先の、宿場町。その役場の牢屋の中であった。
「つくづく、私はこうした立場に縁があるようだ」
両頬に傷のある長髪の男が、冷たい床に座り、苦々しげに笑う。牢の守衛が、がなり声を飛ばした。。
「何をぶつぶつ言ってるんだ。ここから出たいなら、早く罪状を認めることだ。財布をすったのはお前なんだろう」
「ふん、私ではない。それは貴様らがちゃんと調べをつければわかることだ。思わぬ足止めだが、付き合ってやろう」
「そんなこと言って、逃げ出すなよ」
「脱獄はできるが、しない。変な濡れ衣は懲り懲りだからな」
バリオネスはそのまま肩を丸め、座っていた。この分では、オランに帰り着けるのは何日もかかりそうだった。退屈しのぎに、オランに残してきた使い魔の鴉の感覚を通して、街の様子を見る。やがて、友人であるカーナを発見し、その様子を眺めて愉しむ。プライベートまでのぞくと、発見される危険があったが、今の彼女は大男と話していて、こちらに気づく風もない。
しばらく、のぞき見を続けてから、彼は顔をしかめた。
「……全く、白鷺の奴、妙なことに巻き込まれて。しかし、のんびりしていられなくなった。早いところ脱出するしかないな。またぞろ、疑われ続けるのだ。やれやれ」
夜が更けるのを待って、彼は開錠の呪文を唱えた。
床に倒れていたイエメンは、悪夢にうなされていた。
『もうトマトは作らない』その言葉が頭に響く。
「なんでなんだよ…トーマス」
そう呟いた時、彼は、自分の身体の上にかかる重みを感じた。薄く目を開くと、そこに彼の思い人、カーナの姿があった。
「ああ……戻ってきてくれたんだね」
赤い唇がにっこりと笑い、彼女は口づけしてきた。トマトの味だ。横を見ると、七本残った瓶のうちの一つが開けられていた。だが、そんなことはどうでもいい。今が気持ちいんだ、そう彼は思った。
「あげるよ全部…カーナさん」
今夜で全部使い切ってしまおう。燃やしつくしてしまおう。
首を起こすと、“逆巻髪”バルバがいた。赤毛の女を羽交い締めにして、にやにや笑っている。今夜の宴には、彼も参加希望らしい。
「ねえ、イエメン。困ったことに、カーナとエルメス、この子たちは愛しあっているんだ。ということは、極上のトマトを味わってもらえる方法があるよね。この娘たちを酷い目にあわせ、そしてお互いを思う哀しみにトマトをすりこんであげるのさ。そうしたら、コレのほんとうの美味しさをわかってもらえるし、第一、僕たちのことをもっと愛してくれるよ。いい思いつきだと思わない?」
イエメンは、カーナの身体に太い腕を巻き付けながら、にやりと笑った。
「HAHA……そいつぁ素敵だぜ、バルバ」
「決まりだね。じゃ、エルメス。君も景気づけしとこうね」
赤い液体の入った小瓶を振りながら、笑いかけた。
“トマト”モールドレを含まされたエルメスは、その強烈な刺激に、しばらく気を失っていた。
にわかに意識が戻ると、服を脱がされていて、身体のあちこちが痛むことに気づく。見ると肌には何かで打たれた後や、歯形の跡がついている。朦朧としながら顔を起こすと、目の前には常軌を逸する光景が広がっていた。
辺りにはモールドレが点々と赤い染みになって散らばっていた。半裸の男二人は、服もぼろぼろなカーナと共に、蛇のように絡み合い、のたくっている。その場所に、濃いもやのように漂っているものは、お互いへの粘つくような甘えである。その甘えというものが濃縮されて、汚い色の蜜が滴っているかのような、そんな風景。男同士も口づけし、絡み合っていた。彼らの肌には熱く滴るトマトで、紋様がえがかれている。お互いを鞭打って(エルメスは聞いた「このバンダナの味は格別だろう!」)傷をつくり、またそれを舐め合っていた。気分が悪くなり、口を押さえた。
何故か、鴉が目の前を舞っており、エルメスは幻覚かと疑ったが、それは違った。まもなく、イエメン達によって窓の外に追われていった。
カーナが、両の手首と足首を後ろに縛られ、床に転がされた。
「イエメン、あんた、クサってるよ」
カーナは、にわかに意志のある目で大男を見上げる。
「ああ……でもそれが、なんていい匂いがするんだろ」
再びとろりと目尻が下がった。イエメンは両の掌を上に、背を反らして満面の笑みを見せた。
エルメスは、そんな相棒の姿を見て、怒りに皮膚が総毛立つのを感じた。
「おっ、その子も起きたみたいだなあ」
「これで楽しみも増えるというものだねぇ。さあ、こっちへおいで」
口の辺りを真っ赤にして、二人はエルメスににじりよる。
「すぐに何もかも忘れさせてあげるよ」
だが、エルメスはもはや冷静に、身体の利きを確かめ、自らが庇護する者を奪い返す隙をうかがう気でいた。彼女は溺れない女だった。甘えると見せかけることはできるが、強かさを捨てない、猫の気性を持つ。エルメスは山猫の目で、男たちをにらんだ。
「夕陽は…何処…」
カーナはうつろな目で呟いた。宴が一息つき、イエメンが、新たな遊びのための道具を取りに行くと言って、地下に消えたあと、彼女を襲ったのは強い寂しさであった。今の彼女は、自分の信頼を寄せられる人が近くにいないと、言いしれぬ不安を覚えるようになっていた。幼い頃、その人は母だった。赤い色は、母につながる、懐かしい夕陽のイメージ。今はそれが麻薬に変わったが、それでイエメンと繋がれるなら、彼女には構わなかった。そのイエメンが、今はここにいない。
この場には、彼女の好きな人がもう一人、エルメスがいた。だが、そのエルメスは今、“逆巻髪”に抱きつかれ、身体を縛められている。よく見れば、“逆巻髪”の身体は、黒い焼けこげた煙を上げていたが、それには注意が向かなかった。それよりも、奴がエルメスを抱いていることが問題だ。麻薬に溺れていた時には忘れていた感情が、にわかにカーナを襲っていた。
「アイツ……許せないよ……」
彼女は手首を結ぶ紐が緩んでいるのを幸いに、即座に縛めを解き、腰の短剣に手をかけた。バルバに向けて、それを投げる。短剣は背中に刺さり、“逆巻髪”は声もなく倒れた。
「あれぇ……リッフィルじゃないか」
カーナは、薄く微笑んで、魔術師の知人の、両の頬に傷のある顔を眺めた。リッフィルと言う名前は、この男の通り名の一つだ。
「来てやったぞ。ここにいた一人は成敗された。もう安心だぞ」
「よかった…でも、もういいのよ、イエメンは友達だから。酷いことしないでね」
リッフィルであるバリオネスは、それに答えず、微笑んだ。掌でカーナの頬を撫で、その唇に指をあてる。カーナが目をうっとりさせた時、彼は叫んだ。
「吐け!!」
バリオネスはカーナの唇の中に指を突っ込み、その喉の奥を掻いた。たまらず、カーナはえずき上げ、胃の中にあったものを吐き出す。血のような色の胃液が、床を汚した。
「お前は騙されている。吐いて、正気に戻れ。さて、あの大男が戻ってこないうちに、逃げるぞ」
バリオネスは懐から拳大の石を取り出す。床に置かれた石は、呪文の詠唱とともに、石の人形に変わった。
その人形にエルメスをおぶらせ、自らはカーナを担ぎ上げた。
「慣れたものだ、こんなことは」
彼は外に駆け出した。
「おいおい、バルバぁ、お前一体、何しやがった? オレの大事なものはどこに消えちまったんだ? ちょっと席を外したら、もう、砂漠のようじゃねえか。夢を見ていたとでも言うのかあ」
戻ってきたイエメンは、身体をペイントした半裸のまま、収まりつかずに地団駄を踏み、両腕を振る。傷を負って床に倒れるバルバを指さしながら、目を剥き、恐ろしい剣幕でまくしたてた。
「僕にも判らないよ……イエメンん」
地団駄を踏む足が、“逆巻髪”の身体に落とされる。壁や調度品を殴りつける棍棒が、彼に向けて振り下ろされる。そのたび、どん、どんと、鈍い音が響く。
「ア゛ァ? 早く言えよう、あ、あの野郎はなんだ、どんな余興だったんだ? くそっ、吐けったら」
「だから…知らないんだよ。本当だ、イエメン、それより」
バルバは、薄目を開けて、すがるような目で彼を見上げた。
「トマトを……一口。お願いだよ、イエメン。おねが」
ばきっ、という音がし、彼は永遠に沈黙した。
イエメンはすうっと棍棒をバルバの頭から持ち上げた。その瞳は透明で、は虫類のようだ。
「HAHA。カーナァ……今度は、二度と逃げられない身体にしてやんぜ」
棍棒の先についたものを舐め、イエメンは、びくびくと背筋を痙攣させるのだった。
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