錆びた黄金−9−
( 2002/08/29 )
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作者
松川彰 タルノ
登場キャラクター
同上
◆ 刻まれた名前 ◆
「おお、来たな、イエメン。私の可愛いイエメン」
トーマスがイエメンを出迎えた。貴族の別荘街のはずれにあるアジトである。そして、トーマスの傍らには金色の巻き毛を持った幼い少女がいた。
「トーマス…お、おれに用があるんだろ?」
「ああ、そうさ。イエメン。私は…おまえのパパが残した秘密を知りたいのさ。…くつくつ…おまえは知っているはずだね。ガデュリンが残した“黄金”を。ガデュリンは全てを手に入れたんだ。富も知識も…女もおまえも、そして……あの日の黄金も。なぁ、イエメン。私はおまえを愛しているんだよ。だからおまえも私を愛しておくれ。愛を返しておくれ。そして…ガデュリンの残した黄金を」
ぐつくつとくぐもった声で笑いながら、トーマスはイエメンを呼び寄せた。
「そ、その女の子は…?」
「ああ、これかい? これは、カナリアと言ってね。今、私が気に入っている女の子なんだ。素質があるんだよ、この子には。おまえも知っているはずさ、全ての皮を脱ぎ捨ててしまいたいほどの愛を。相手の全てを、奥歯で噛み砕いてしまいたいほどの愛を。この子にはそれを味わう素質がある。そこで黙って見ておいで」
にしゃり、と笑ってトーマスは立ち上がった。右手には口の開いた小瓶。縛られて怯えているカナリアに近づいて、笑いかける。
「……カナリア。ああ、そうやって怯えた顔をするものじゃないよ。互いに愛を与え合うのに、そんな怯えも恐怖も無用のものだからね。…ジュースをあげよう。甘い甘い、お菓子のように甘い飲み物だ」
恐怖に声すら飲み込まれて身をすくめたカナリアの腕をとらえ、背けた細い顎を掴む。無理矢理に開けさせた口に、トーマスはモールドレを流し込んだ。しなびた指でカナリアの唇を閉じさせ、顎を上向かせて嚥下させる。ごくり、とカナリアの白く細い喉が鳴った。唇の端からわずかに流れ出たモールドレを、トーマスは舌先でべろりと舐め取った。その感触に、カナリアは頬を歪め、叫びをこらえる。だが、その表情はすぐに違う種類のものへと変化を遂げた。
ざらついた舌で頬を舐められる嫌悪すらも容易く凌駕する、それは恐怖と驚愕。舌先に残る甘い痺れ。そしてそこから喉へ胸へ腹へ…そして全身へ伝わる嘔吐感と浮揚感。背骨のひとつひとつから羽根が生え始めるような…それでいて、まるでその羽根が内側を向いているような。
顔をしかめ、そしてすぐに震えだしたカナリアの体をそのまま床に転がして、トーマスが立ち上がる。
「イエメン? おまえも味わうかい? 私と共に…このカナリアの肌を食い千切るかい? ただし…ただし、だよ、イエメン。ガデュリンの黄金のことを…おまえが確かに私を愛している証をここに」
「……覚えてるよ。そう、ガデュリンパパがおれに残したものを…お、おれは持ってる。知ってる。でも、でも駄目だ。今はまだ…カ、カ、カーナさん、を。ここに連れてきてくれ。トーマス…カーナさんと引き替えなら、お、おれは何だって渡す」
痙攣し始めたカナリアの体から、目をそらしてイエメンが呟いた。
薄暗い視界。頭蓋骨の中で脳が痺れていくような感覚。ブラウンケーキの後遺症が…その揺り戻しが来ている。さっきまで波1つ立たなかった、イエメンの中の杯。血を満たしたそれは、今は激しく揺れ動いている。だが、炙ったモールドレのようにねっとりとした液体は、杯の縁を乗り越えられない。乗り越えられないからこそ、さらに激しく揺れる。いっそそれならと、最後の一滴を求める。
──駄目だ。駄目だ。カーナさんが来るまでは。
おそらく、それこそが恐怖という名で呼ばれるものだったのかもしれない。モールドレに溶かされた恐怖は、砂漠の砂のようにイエメンの心を満たしていった。そして、その砂さえも飲み込む波。羊水のように温かい海。その海を象る名を、イエメンは呼んだ。
──カーナ…さん…。
部下がカーナを連れてくるはずだ。そして、カーナと会わせさえすればイエメンはガデュリンの黄金を教えてくれる。ならば…今は無理に聞き出すこともない。
そう思って、トーマスはカナリアに視線を移した。幼く華奢な体をモールドレが侵していく様をじっと見つめた。
──カナリア…金糸雀。アデンが連れ去った娘。
(…全く。何て女だ。私はこの娘が気に入っていたのに。それを知りながら連れ去るなんて。ああ、アデンも結局は私の愛を分かっていなかった。アデンが望むものは、私は何だって与えてやったのに。ガデュリンの姿を求めて泣き続けるから、それを忘れられるようにとモールドレを与えた。子供が欲しいと嘆くから、そんなことを思い煩わなくて済むように女の機能を切り取ってやった。子供に会いたいと呟くから、カナリアや他の子供たち…“壁のない家”に集めていた子供達に会わせてやった。
……愛していた。愛していた愛していた。柔らかい栗色の髪も。モールドレに澱んで溶けていく水色の瞳も。薬が効き始める時に、眦(まなじり)を染める化粧よりも朱い火照りも)
──そしてトーマスは思い出す。ガデュリンとジェイコブと共に見たあの日の黄金を。
(ガデュリン…あんたは言った。あの日の黄金を見つけたと。アデンのことだったんだろう? あの日…村が燃え落ちたあの日、私たちの前に現れた救いの女神。そう、確かにアデンは彼女によく似た面差しだ。なのに……どうしてだ。アデンが死んでから…正確に言えば、あんたが『アデンは死んだ』と思ってから、あんたは言い出した。あの日の黄金を見つけたと。あんたは持っていた。何でも持っていた。私が持っていないものを何でも。アデンも、その息子も、富も知識も何もかも。なのに、その全てを捨て去る寸前になって、見つけただなんてうそぶいて。ああ…小さい頃からさ。あんたにはいつでもかなわない)
──トーマスの視線の先で、カナリアの体が震える。白い肌の上に、汗が珠を結び始める。
(何故だ。何故なんだ。あんたは…アデンに子を産ませるのに、ジェイコブを相手に選んだ。私だって良かったはずだ。私とジェイコブは、同じなんだから。あんな……あんな役立たずな小心の男よりも、私のほうがずっとずっと、ふさわしかったろう。アデンの相手に。あんたの息子の父親に。でもな、私はあんたを越えるよ。あんたの息子は私の言いなりだ。そしてあんたの女だったアデンは私が殺した。一度は死んだアデンを私は呼び戻した。そして、再びその命を奪った。……これで、完璧だろう? 与えて、奪う。私はアデンを支配したんだよ。ガデュリン、あんたがひざまずいた相手を、私はねじ伏せた。…それに、邪魔をするジェイコブももういない。そして、あんたが見つけた、あの日の黄金を手に入れれば…私はあんたを越えられる)
──卓の上に載せてある林檎のパイに、蝿が1匹近づいてくる。鬱陶しそうにトーマスは、それを手で払いのける。
(羨ましかったよ。ガデュリン、あんたのことが。何故自分には子を残す権利が与えられないと、あんたは嘆いたけれどね。私にしてみりゃ当然さ。あんたは何もかも私より優れていた。1つぐらい、なくたっていいだろうに。……左右の瞳の色が違うことで、いつでも奇異な目で見られていた。同じものだったはずなのに、ジェイコブの瞳の色は奇異じゃないんだ。ジェイコブの他には初めてだった。私を普通に認めてくれた奴は。だから、あんたと一緒にいた。邪気のない笑顔とか嘲りを含まない声とか振り払うことのない手とか。私にとって麻薬っていうのは…そうだね、あの笑顔と声と手をあんた以外の人間から得ることだったんだ。それは同時に、あんたじゃなくてもいいという証明だろう? 私自身が、あんたがいなくても生きていけることの証明だ。
私がいたのにジェイコブを選んだガデュリン、私がいたのにアデンを愛したガデュリン、私がいたのにイエメンにキスをしたガデュリン、私がいたのに………自分自身を終わらせる時でさえ私の手を必要としてくれなかったガデュリン)
──陽が、傾き始めた。
◆ 盗賊たち ◆
“ぬっぺら坊”──ディスガイズが使える魔術師。そしてトーマスの部下。その存在にギルド側が気が付いたのは、カーナを治療院から連れ去られてからのことだった。
トーマスたちのアジトと目される場所は、オラン郊外、貴族の別荘街のはずれにあった。平屋建ての、あまり新しくはない建物である。
ドゥーバヤジットによって集められた手勢は少なくはない。ピルカやクーナ、クォーツ、“三つ指”を含めた幾人もの盗賊たち、そして同行したリッフィル。少し遅れてエルウッドとトレル、エルメス。
「ハハッ! やられましたよ! 敵にはどうやら変身の魔法を使う部下がいるようです。私にばけて、治療院からカーナを連れ出したようです」
エルウッドからその報告を聞く前に、ドゥーバヤジットは事情を悟っていた。これまでにも、治療院に閉じこめたはずのカーナに麻薬をこっそり届けたのが、“三つ指”だったという目撃情報もあった。それと同じ時に、“三つ指”がドゥーバヤジットと行動を共にしていたという事実がなければ騙されていたかもしれない。
だが、その解答は、ドゥーバヤジットたちが、周囲にある林からアジトの入り口を見張っている時にもたらされたのだ。エルウッドの顔をした男がカーナを連れてアジトへ入っていったのを彼らは見たのである。そして、アジトへ入る直前、男の顔がのっぺりとした風貌に変化を遂げた。
おそらくはディスガイズの魔法…と、断定したのはその場にいたリッフィルである。
連れ去られたカーナを追ってきたミニアスが駆け寄ってきた。
「カーナに会いにいこうとしたら、エルウッドが連れ出したのが見えて……あれ? なんで、あんたここにいるの? カーナの様子が変だったから、とりあえず追いかけてきたんだけど…」
「そりゃラッキーな判断だ。ここの荒事に参加して生き残りゃあ、多少は報酬も出らぁな。ギルドからな。報酬がいらねぇんならこのまま帰れ。そうじゃねえなら……裏口にまわりな。ちょうど2〜3人、そっちにまわしたところだ」
ドゥーバヤジットの返事に、一瞬迷い、それでもミニアスは駆けていった。ただし、裏口ではない。彼女の駆けていった先は裏側にある窓のひとつである。
そこへ、“恋人”チェリオも合流する。
「おめぇは何を追ってきた?」
面白がるようなドゥーバヤジットに、チェリオが肩をすくめた。
「アデンの娘……カナリアを。どうやらトーマス・ブギーマンと思われる男に連れ去られたんで、追ってきたらここに。中に何人いるかわからねえし、どうにかしてあんたたちに連絡しようかと…そう思ってたら、ここに集まってるのが見えたんで」
「そのガキは、中に入ってからどのくらい経つ?」
「ああ……半日は経ってない。アジトの周りを調べてみたんだが、傭兵らしき男たちは全部で10人から12人と言ったところだ。会話も幾つか漏れ聞いたが…どこかの貴族に雇われたらしい。男爵がどうのと言っていた。……心当たりは?」
チェリオに聞かれて、ドゥーバヤジットが笑う。
エルウッドを介して、“風上の”ネイと名乗るパダの女盗賊から聞いた情報だ。そして、アデンの行き先だった、サヌアトール家からの絡みで掴んだ情報とも一致する。つまりは、トーマスに援助…いや、トーマスと『共生』している貴族、クレンツ男爵だ。
「ま、貴族方面は、オレらじゃ手出しできねえ。そりゃあ、上層部にやってもらうさ。“黒爪”の旦那にな。……よっしゃ。そろそろ行くぜぇ。あのイカれジジィ、カナリアとかいうガキにも何やってっかわかんねえからな!」
その声にうなずいて、それぞれがそれぞれの武器を手に立ち上がる。
「……勘違いすんなよ、てめえら。どこぞの神殿の説法場で聞くような、正義だの倫理だのが動く目的じゃねえだろぉ? 『違法だから』ヤクを取り締まるのか? 違うだろ? 自分たちが何のために動くのか……わかっちゃいねえヤツなら、今からでも家ぇ帰んな」
短剣を手にしたまま振り向いて、にしゃりと笑ったドゥーバヤジットに盗賊たちがうなずく。
「目の前で、人が死ぬのを見たのは初めてじゃない。でも…あの人…“甘味屋”にあんな死に方させたのは、麻薬だと思うから。ギルドの役割っていうのも、あたしは分かってると思う。分かってると思うけど、あたしはあの人にあんな死に方をさせた麻薬とトーマスを許せないと思った。あの“甘味屋”って言う人は…本当ならそんなに悪い人じゃないと…そう思ったから」
そう言って、ピルカが唇を引き結ぶ。その肩に手をかけて微笑んだのは、同じ草原妖精のクーナだ。
「あたしも同じさ。ギルドっていう理屈で動けるならまだ楽かもしれないけどね。それでも、ここまで来たんだ。あたしも付き合う。……あたしも、ピルカと同じものは見た。もう二度と見たくないと思ったのも同じだ」
「私は理屈ですよ。ハハッ! “手長”の旦那。あなたが言うギルドの存在意義。私はそれに骨の髄まで漬かった人間ですから。私にとっては仕事です。カラクリハウスで部下を3人も死なせて、このままこの地位に留まれるとは思っていません。ハハッ! 何らかの処分がされるまでは付き合いますよ!」
笑うエルウッドに肩をすくめたのはクォーツだ。
「俺は……理屈も何も、成り行きだな。手伝えと言われたから手伝う。俺は、ギルドに属してる人間だ。それだけさ。だってよ、細かい事情、俺はまだ聞いてねえんだよ」
「成り行きと言うなら、俺もたいして変わりはしない。でも、アデンの残した遺言は、せめて俺が聞いてやらなきゃ…アデンが守りたかったカナリアはせめて、さ」
低い声でチェリオが呟く。
腰から細剣を抜きながらアジトを見据えるエルメスが小さく息をついた。
「あたしは……理由なんかいると思う? 今更? カーナはあたしの大事な相棒だ。……許すもんか。“手長”の旦那、あたしは鍵としちゃまだまだだ。けど、剣なら多少は扱える。危ないから引っ込んでろなんて言葉は聞きたくないよ。あたしは、あの時…イエメンのところにカーナが戻っていった時に、引き留められなかった。殴りつけてでも、縛り付けてでも行かせちゃいけなかったのに。だから…どんなに危ない場所だろうと、あたしは今度こそあいつを助けに行くんだ」
いつもなら快活な笑みが刻まれる緑色の瞳に、今は固い決意の色が宿っている。
「……引っ込んでろなんて言わねえさ。好きにしな。ただし、死ぬなよ。ギルドから葬式代は出ねぇからよぉ?」
ドゥーバヤジットが笑う。
大剣を手にしたトレルは、頷かずに、それでもドゥーバヤジットに笑い返した。
「私はあんたたちとは目的は違う。だが、関わったなら結末は見届けたいし……それに、今なら助かる命がまだあのアジトの中にはあるだろう? カーナは私の患者だよ」
「そしてイエメンも患者にしてもらおうか。…カーナを助けたいのは私も同じだが、カーナがもしも薬とは無関係に…イエメンがカーナの心に何らかの位置を占めているのなら、私はイエメンも助けたい。酔狂でもいいさ。私はもともと、伊達と酔狂で生きている男でね」
トレルと同じように盗賊ギルドとは無関係な魔術師、リッフィルがそう呟いた。
「さて…んじゃ、パーティ会場へ行くとするかい」
ドゥーバヤジットのその言葉と共に、全員がアジトへと向かった。
◆ 錆びついた夢 ◆
「なぁ…どうしてかなぁ。“かんみや”は私の愛に応えてくれた者の1人だと思ってたんだよ。でも、どうして、“かんみや”が死んだと聞いて、涙も出ないんだろうねぇ。……うん。まぁ…ふぅむ……確かに、これから先は“かんみや”がいなくても仕事は困らないけれどねぇ。そういうことじゃなかったはずなんだが…」
独りごちて、トーマスは小さく首を傾げた。先刻、カーナを連れてアジトへやってきた“ぬっぺら坊”がもたらした情報だ。首をわずかに傾げたまま、数瞬、動きを止める。が、思い直したように、脇にある卓の上から食べかけの林檎パイを取り上げた。
「まずは…食事だね。いろいろと忙しくて食べる暇もなかった。……イエメン。おまえも食べるかい? ああ、可哀想に。哀れなイエメン。それはブラウンケーキの後遺症だな。そうか……やはり治療しきれなかったか。おまえには幾つもの薬を試したんだけどね。もう目はほとんど見えていないんだろう?」
卓の向こう側にゆらりと大きな影が立ち上がる。
「ト…トーマス……おれは…」
イエメンの首筋に浮かぶ黒い痣。光を失った瞳。
「…どうした、イエメン? おまえのお気に入りはちゃんと連れてきてあげたろう? しばらくそこで待っておいで。カナリアの唇に、今、紅をさそうと思っていたところなんだ。それが終わったら、おまえとおまえのお気に入りの時間だよ」
そう言って、トーマスは目の前の少女の体に視線を向けた。すでにモールドレを飲まされているカナリアの体に。
「カナリア…私の金糸雀。ああ、綺麗だよ。ぐつくつ……待っておいで。もうすぐだ。トマトはもうすぐ効き始める。綺麗な肌に赤味が差してきたね。見たい…見たいよ、金糸雀。金色の小鳥。私の……黄金。もうすぐだ。…綺麗にしてあげる」
ひくひくと痙攣する小さな子供の体を左右の色が違う瞳で見つめながら、トーマス・ブギーマンはうっとりと夢見心地に呟いていた。
林檎パイの最後のひと口を飲み下し、指についた蜂蜜をぺろりと舌先で舐め取る。
「さて…イエメンよ。聞いてくれるかい? あのな。……私はおまえを愛していたよ。ガデュリンの残した黄金のためだけにおまえを大事にしたわけじゃない。愛してたんだよ。おまえも、ジェイコブも、“かんみや”も。分け隔てなく。私は全ての者を愛していたんだ。まことに、愛こそ、人が生きるのに必要なものだな。おまえもそう思うだろう?
なのに……哀しいことに、私の真摯な愛に応えてくれる者は少ないよ。本当に……人間というものは愚かだよ。些細なことを気に懸けて、相手の愛を信じられなくなる。警戒、過剰な防衛、抵抗、怯懦……無用なんだよ、そんなものは。そんなものがあっちゃ、愛は成就しない。本当の……極上の愛なんか味わえやしない。そうだろう? そう思うだろう? 私自身にはいつだって何の問題もないんだ。なのに、ガデュリンは私を残して死んだ。アデンは私を愛さなかった。ジェイコブは私に怯えた。私ほど愛の深い人間なんかいやしないのに」
「ち、違う。そうじゃない…そうじゃないんだ。そ、そうだ…おれは…おれは分かったんだ。ガデュリンパパが教えてくれたこと……」
イエメンがトーマスに一歩近づく。
じじ、と…覆いを外されたランタンの炎が揺れた。油の燃える匂いに混ざって、しめやかでひめやかな甘い香りが、部屋の中には混ざっていた。薄汚れた卓の上には、薄紅色の粉末。それを熱するための、小さな金属製の器具。
「ガデュリンが? ああ、イエメン。おまえはまだ分かっちゃいないのか? 見てごらん、カナリアを。このカナリアは、もう眼の色が怪しくなっている。服を破いても反応がないのはいい塩梅だ。もうこれで、お互い傷つく心配はないね。ほら、トマトは素晴らしいだろう? こうやって、無用な警戒も抵抗もなくしてくれるのがトマト。だからこそ、トマトは愛の成就に必要なんだ。相手を傷つけないのが愛の前提なんだから。これでカナリアは私を傷つけない。カナリアは、私のすることを全て…そう、全て受け入れる。完璧な信頼の形だよ、これがね。ここから先は、痛みを与えることや辱めですら、気にならない。それはむしろ愛を確かめあって楽しむためにさえ、行われる。極上の……腰もくだけるような陶酔の時間が始まるよ。林檎のパイよりももっともっと…甘い甘い時間がね。おまえも楽しむといい。おまえも気づいている通り、おまえはもう残りの時間は少ないだろう? それならせめて、その時間を甘い色に染め抜いてあげるよ。そうして……私への抵抗の気持ちがゆうるりと溶けていったら、その時こそ教えておくれ。ガデュリンがおまえに残した黄金を」
唇の端だけで笑みの形をつくり、トーマスは立ち上がった。
衣服を破いてはぎ取ったカナリアの体に、ゆっくりと手を這わせる。びく、とカナリアの体が震えた。皮膚の表面に、汗の珠が真珠のようにきらめく。それを確認して、鷹揚にうなずくと、アジトの入り口近くに目を向けた。そこには、“ぬっぺら坊”に連れられてきて、まだ腕の戒めを解かれないままのカーナがいる。
それまでの話を、カーナは夢見心地で聞いていた。モールドレがカーナを侵している。体も心も。モールドレが混ぜられた口紅はもうすっかり舐めとってしまった。痙攣するように震える体。貧血の直前にも似た、手足が冷える感覚。頭の後ろから腰まで、冷水と溶けた鉄を両方一度に流し込まれたかのような熱さと冷たさ。内臓を全て吐き出してしまいたくなるほどの嘔吐感。今、たった一口でもモールドレを与えてくれると言うなら、その相手に土下座してもいい。体を許してもいい。どんなに酷いことを言われても従ってみせる。
“ぬっぺら坊”はエルウッドの顔をしていたが、カーナ自身はエルウッドを見知っているわけではない。本当の顔に戻ろうが戻るまいが、見知らぬ男だったことに違いはない。けれど、イエメンに会わせてくれるというから、ついてきた。腕は縛られたけれど、それ以上ひどいことはしないと約束してくれたからついてきた。喉が渇いている。体はモールドレを欲しがっている。イエメンに会えば、イエメンはモールドレをくれると、そう思ったからついてきた。
(あ…ああ…ち、違う。あたしは……あたしは……)
思考が痺れていく。押し寄せる波に抗えない。指先に耳鳴りが。足先に吐き気が。ばらばらになっていく。器から今にも溢れだしそうな、ばらばらの体をつなぎ止めるのは、細い細い思考の糸。わずかに残った思考でカーナは、違う、と自分自身に向けて呟いた。確かに、渇いた体はモールドレを欲しがっている。だが、それ以上に、干涸らびた心はイエメンを欲しがっていた。
カーナの腕の戒めはそのままに、トーマスがカーナの肩を掴む。ひッと小さな悲鳴をあげて、カーナが後ずさろうとする。が、トーマスの力がそれを許さない。
「あんたかい。イエメンのお気に入りは。はっはぁ…なるほど……こりゃあ確かに、極上だ。白い肌、赤い髪。あんたの唇にはさぞかしトマトの色がよく映える…ぐつくつ…」
「あ…あた、あたしは……イエメンに会わせてくれるって……そう言うから…っ」
「ミスタ・ブギーマンっっ!!」
“ぬっぺら坊”がトーマスの背後に目をやって、同時に叫ぶ。だが、その叫びがトーマスの耳に届く頃には、イエメンがトーマスに背後から覆い被さっていた。
「ぐ…ぅっ! イエメンっ!? よせっ!」
トーマスがイエメンのこめかみを打ち据える。ぐ、とうなって、イエメンの力が一瞬緩んだ。その隙にトーマスがイエメンの腕から抜け出す。1歩後ずさると同時に、右手の指輪を光らせて呪文を詠唱した。倒れるイエメン。それを見たカーナが悲鳴をあげる。
「きゃぁああっっ!」
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