宵の明星 ( 2002/09/30 )
MENUHOME
作者
登場キャラクター
スナップ



朝。
日の光がオランの街の隅々に行き届いた、ちょうどその時。窓から差し込んできた朝日に包まれるように、一人の男が息を引き取った。
幸福にも彼は、寝台に横たわったまま永遠の眠りを得ることができた。老衰であった。
名はハインライン。生まれはオラン。東方へ赴き、ムディールやミラルゴ、カゾフなどの文化の調査に生涯をささげた賢者であった。


「まだ調べたりないものがある」
死の数日前、自分の死期が近づいていることを悟った老人は、寝台から起こすことも敵わぬ体で、弱々しく未練をこぼした。愚痴を聞く羽目になったのは、ハインラインがまだ自分で旅が出来ていた時に、東方で知り合った草原妖精。名はスナップ。
スナップは老人の孫娘が出してくれた香草茶のカップを両手で持ち、人間用の椅子に座って、足をぶらぶらとゆすっていた。口の周りには、茶色いケーキとヘーゼルナッツの欠片がついている。
「何を調べたりないんだ、じいさん?」
老人は返事の前に、小さく溜息を漏らした。その溜息すら、老人の寿命を数刻削っているようだった。
「特にミラルゴのお前さんらの集落……そしてケンタウロスの集落…。お前さんたちの異種族のことは、まだ…興味が尽きん…」
そう言ってハインラインは東にかかる窓を見た。太陽は天頂に昇り、まだ弱まらぬ晩夏の日差しを室内に投げ入れる。その入り込む光の遥か遠く、青い空のそのまた遠く、見えるはずのないミラルゴを見た。出たのは溜息一つ。
「……喉が渇いたの。エイダ、白湯頼む…」
老人の視線が、孫娘のエイダの方に向けられた。スナップもつられて其方を見た。
エイダはにっこりと笑みを浮かべてうなずき、返事を返すと、ゆったりとした歩調で扉をくぐり、階下に下りていった。
エイダが緩慢な動作で扉をくぐったあと、スナップの視線はようやく老人の方を向いた。
「元気ないな、じいさん」
「もう、おいぼれておるでな…」
香草茶を一口すすると、スナップは、老人に元気を出してもらうために、昔の話をしようと思った。そして、そのようにした。
「昔は、もっと元気だったぞ。ほら、何かと言うと、俺らに『ぐず』だ『のろま』だって。俺らのこと、のろま扱いするの、じいさんくらいだったぞ? メシ時とか、朝おきるときとか、ヤワンの家が火事になったときとかもだ。覚えてるか? イェルマの湿地帯に遊びに行くときも、セルニード茶の葉っぱがまだ乾ききってないのに先に煎じて飲んじゃったときも、そうだったな。せっかちとかいうやつだったか?」
老人は暫く、懐かしげにその話を聞いていた。しかし、ふと我に返り、溜息を一つこぼした。
「そう…そうじゃったかの。しかし……」
そして、帰らぬ宝物を惜しむように、その輝きを頭の中から振り払うように呟いた。
「昔の話は、よしてくれんか」
スナップは所在なさげに、口の周りについた菓子くずを、手で叩き落とした。

「じいさん。ラーダと星の話、覚えてるか?」
「ラーダ様のか?」
スナップは頷きを返した。
「ラーダが導いて、星になるって、じいさんが言ってたぞ?」
確認するように、ハインラインの目を覗き込み、小首を傾げて見せた。ハインラインは要領を得ないような表情をする。草原妖精はしばし考えた後、自分の共通語のできる範囲で、ゆっくりと説明するように努力した。
「じいさんは、死んだら神様の導きで星になって、世界を見まもって行くと、むかし言っていた。な?」
一度確認を入れる。老人は草原妖精の言葉に頷いた。
「よう覚えとったな」
草原妖精は高い鼻を指でこすり、にんまりと得意げに笑んだ。
「だからじいさんは死んでも、世界のことは調べられる。ずっと見ることができるからな。どうだ?」
その目はハインラインの返事を待っていた。
「…ふむ」
釈然としない返事に、スナップは続けた。
「じいさんが死んだら、オレらはもうじいさんにあえない。それはさびしい」
大きな口をへの字に曲げ、眉間に皺を寄せる。
「でもな、じいさん。もし死んでもじいさんが、自分の好きなケンキュウを続けられるんなら、オレらは寂しがらないから、がんばってくれ。これからも」

これからも。
ハインラインは心地よい違和感を覚えながら、その単語を頭の中で反芻した。
死出の旅路にかけられる言葉ではない。しかしその言葉は、死という「肉体の消滅」の先に、まだ何かがあるような気分にさせてくれた。
「そうじゃな」
老人の表情から、薄雲のように覆っていた不安が取れた。
「ワシに遭いたかったら、星を見ればいい。ワシが天からお前らを見るように、お前らもワシがあの空に輝くのを見るがええ」
「? じいさんが死んでも、またじいさんに会えるのか?」
「ああ。じゃから、いつでも遭いにくりゃぁいい」
スナップは、老人の表情を見て安心した。そして喉を通りづらかった香草茶を最期まで飲み干し、出されていたケーキの最期の一切れを片付けた。
「でもまだ生きてるから、また生きてるうちに会いに来るな!」
草原妖精は、もごもごと言いながら、背の高い椅子から飛び降りた。そして戸口まで行くと、軽く手を振った。
「じゃ、今日はこのへんで帰るぞ。じいさんが元気になって、よかった!」
そう言うと、スナップは扉の向こうへ消えた。それを見送るハインラインの目は、穏やかだった。

がんばってくれ、これからも。

ハインラインは目を閉じた。脳裏に浮かんだのは、暗闇の中に続く長い道。それは幾千もの星の光によって、照らされていた。


それから数日後の朝、ハインラインは息を引き取った。彼に朝食を届けるために部屋に入ったエイダが、ハインラインを起こそうとして、彼が既に息をしていないことに気づいた。
ハインラインの顔には、未練も恐怖も苦痛もなかった。これからの研究に意欲と喜びを持っているような、そんな輝きを持った表情だった。
孫娘は最期の別れを惜しむように、老人の手をそっと握った。まだ少し、ぬくもりがあった。

「またきたぞー。じいさん!」
表の戸口で、少年のような声の持ち主が叫んだ。その声にエイダは顔を上げ、ハインラインの手をそっと離すと、窓から戸口を見下ろした。数日前に訪問してきた草原妖精だった。
エイダは階下へ降り、応対に出た。そして老人が、今朝、天に昇ったことを告げた。
草原妖精は、孫娘を慰めるように微かな笑みを浮かべると
「そうか」
とだけ言った。
そして、軽く手を振ると、気ままな野良猫がそうするように、ふらり、とその場を後にした。

彼は、色々と考えをめぐらせながら、のろのろと不確かな足取りで歩いていた。その歩みがどこに向かっているのかは、自分でも分からなかった。
「じいさん、本当に星になったのかな」
「人間は死ぬと、星になるのか?」
「星にならないとしたら、死ぬとどうなるんだろうな?」
「岩のじいさんばあさんたちは、死んだら岩に戻るのか?」
「木のにいさんねえさんは、枯れ木になって、それが土に戻るのか?」
「オレたち草の妖精は、死んだらどうなるんだ? 草のように枯れるのか?」
「俺たち妖精の『魂』っていうのは、妖精界にもどるんだったか?」
「死んだら、どうなるんだ?」
「オレはどうなるんだ?」
「生きていたときのことは、無駄になるのか?」


どれくらい考えていたのかはわからないが、たぶん、ほんの数分のことだっただろう。しかし、随分と多くの疑問が、頭を掠めた気がした。全てが、死に関したものだったような気がする。
だが、生きているのに死の先のことを考えるのは、食事中に腹を下した時の事を考えるのに等しいと感じ、彼はそれについて考えるのをやめる事にした。
顔を上げる。気が付くと、小孔雀街のあたりに来ていた。スナップは、老人の愛したムディール産の酒を一瓶買うことに決め、駆け足で雑踏の中に消えていった。


夕方。日が沈み始める前に、スナップはハザード川の東側の土手に向かって走った。せっかちなハインライン爺さんが、はじめてその夜空に姿をあらわす時に遅れないように。
土手に生える芝の上で、彼の脚は止まった。息を整える間もなく、天空を見回す。まだどの星も出ていない。
やがて光の幕が西の空へ引かれ、その舞台の上に一つ、光る星が現れた。
きっとあの星だ。
「じいさーん!」
彼は星に向かって手を振った。星はゆらぎ、数度瞬いて返事を返した。その返事を見て、スナップは酒瓶を、大空の星に向かって投げた。瓶はくるくる回り、星と重なったあと、受け取られたようにハザード河に落ちていった。
スナップはそのハインラインの星、宵の明星の姿を、晴れやかな顔で見つめていた。


晩夏の夕暮れの空に、どの星よりも早く輝く宵の明星を見つけるたび、草原妖精はあの老人のことを思い出す。
そしてこう思うのだ。かの賢者の魂は、まだ死を迎えていないのだと。



  


(C) 2004 グループSNE. All Rights Reserved.
(C) 2004 きままに亭運営委員会. All Rights Reserved.