ベルダインの新市街の中央に、“世界の塔”と呼ばれる塔が建っている。展望台もあり、そこには観光客も多く訪れる。
カレンは、入り口に立つ、天才建築家の像も、再建王と呼ばれる王の像も興味はなかった。ただ、展望台から見下ろすベルダインの全景と、その先に広がる海を眺めていた。
周りの大人たちの視線から逃れ、カレンはその塔によく足を運んだ。逃げたいとはっきり思ったわけではないだろう。自分の帰る場所が、あの画商の家族のもとだということはわかっている。けれど、それでも海に憧れた。その先に広がる自由な世界に憧れた。
(誰も知らない場所なら……誰も僕をあんな目で見ないだろうか)
周りの観光客は、神官衣を着た子供をちらりと見ることもあるが、それきり視線を逸らす。それは、他の大人たちのように、注ぐ視線の種類に迷ったあげくに逸らされる視線ではなく、ごく自然に、興味をなくす逸らしかただ。それが不思議と心地よかった。
神の声を聞く前も、周りの子供たちの声と視線に疲れるとよくここへ来た。そして神殿で修行をするようになってからはそれが頻繁になった。いつも感じている息苦しさが、海を見ると解消されるような気がして。
「アーサー!」
呼ばれて振り向く。金色の巻き毛が目の前で揺れた。
「アベル。どうしてここに?」
「うん、神殿に行ったらもう帰ったって言われて……なら、ここかなと思って」
用事は特にないけど、と笑う弟の顔を見ると、自然に頬が緩む。
「アベル、また逃げてきたんじゃないのか? 今日は確か、数学の授業がある日だ」
「うわ、ばれてる。でも、逃げてきたんじゃないよ。ちゃんと終わらせてきた。だから、神殿に行くのが遅くなったんだ」
言い訳のように、それでも、宿題はあるんだけれど、と笑って、アベルは兄が見ていた海を見つめた。
「おまえは、将来、画商を継ぐんだろう? 勉強は大事だよ」
「…………どうしてさ」
「どうしてって……商売をやる人間が無学だったら……」
「そうじゃないよ。アーサーが兄貴だろう? 普通は、兄のほうが家を継ぐじゃないか」
ふてくされたように言う弟に、カレンが苦笑する。
「アベル……おまえも知ってるだろう」
「何が」
「僕は……」
「だからどうだって言うんだよ。僕とアーサーが血が繋がっていないのが、そんなに重要? だって僕たちは兄弟だろ? たまたま同い年だけど、アーサーのほうが兄だよ。なんか……最近のアーサーは変に遠慮してるみたいで……」
拗ねた口調。そして、何故遠慮などするのだと問いつめる。カレンは言葉に詰まった。遠慮をしているわけではない。ただ、自分が家族と血が繋がっていないのは事実なのだ。譲るとか譲らないとかではなく、アベルが父の跡を継ぐのが筋だろうと思う。
「……遠慮なんかしてないよ。僕の家族はおまえたちだけだ」
「本当だね? でも、それならどうして、お父さんの跡を継ぐのが僕なのさ」
「僕は、神官だから。神殿で生きるよ。神の声を聞いて、神の意志を奇跡として具現する。それが僕の義務だ。それに、僕は商売に向いていない」
そう言ってカレンは笑った。神官として生きる道を与えられたことに、いつも以上に感謝したくなった。チャ・ザの紡ぐ縁の糸はこんなにも上手く出来ている。このまま、自分があの家にいれば、いつかは家督のことで弟と争うことになるのだろう。それは欲に絡んだ話ではない。互いに互いを大事に思うからこそ、互いに、相手こそが継ぐのにふさわしいと思うのだ。
「…………そう。本当だね?」
「ああ、本当だ」
「…………それならいいけど。でも、アーサーはいつもここに来てる。ここから海を見てる。……どこか、遠くに行きたいの?」
正直に答えたら、弟は傷つくだろうか、と思う。
遠くに……行きたいと思う。どこか、もっと自由な場所で息がしたいと思う。時々……そう、ほんの時々ではあるが、神の奇跡を負担に感じるのだ。底意のある視線に晒されて、それでも求められる奇跡の行使。信仰と言うのは、奇跡を求めるだけのことなのかとまで思ってしまう。そして、そんな信者たちを快く思っていない自分が、神の力を行使して許されるのかと。
……息が詰まる。奇跡など行使したくないと思う瞬間もある。そんな時には決まって、いつもよりも気力を消耗した。
そのことを、アベルには話したことはない。それでも、幾つかのことは養父母には伝わっているのか……それとも、カレンの様子を見てそこから感じ取っていたのか。以前、父が言ったことがある。
『奇跡を行使するだけが神官じゃないよ。……私はただの信者であって、司祭でも神官でもないから偉そうなことは言えないけれど。それでも、神は自らの使徒にそこまでの負担を強いるものではないと、それだけはわかる。アーサー、おまえはもっと……思うままに生きてもいいんだよ』
わかってる。……わかってる、わかってる。
けれど、自分は存在を認められたい。周りが求める自分で居られるなら、きっと存在を認めてもらえる。あの視線たちから、嫌な温度は消える。
そう思い続けていた。そうして、ここで海を見ていると別のことを思うのだ。……いっそ、誰も自分を求めないなら、と。
誰にも期待されずに、誰も、こうあるべきだと自分に求めないなら。それなら、養父の言うように、思うままに生きられるのではないかと。
「ねぇ。行きたいの?」
行きたいの、と。その言葉が、生きたいの、と聞こえたのは錯覚か。
「……ああ。そうだな。船に乗って旅がしてみたいと思わないか? きっと、船の上で受ける潮風は気持ちいい」
はぐらかした。
嘘はつけない。もしも嘘をついたとしてもこの同い年の弟はそれをすぐに見破るだろう。そして、本当のことをあからさまに言ってしまっては、きっと弟は傷つく。
カレンは、神の声を思いだしていた。
『自ら求めよ。さすれば得られん』
──神よ。求めても……良いのですか。
この家族のもとで育った幸いを。
実の母親がここに辿り着けた幸いを。
幾重にも重なった幸いの果てに生まれつき、こうして育った自分が。
これ以上のものを求めても……許されますか。
弟がいて、養父母がいて。
少ないながらも、神殿には理解ある司祭たちがいて。
それでも、違う場所へ行きたいと、ここから逃げ出したいと……望んでも、許されますか。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
(あのすぐ後だったな……。13才の頃か)
年数を数えて、思い出す。カレンを直接指導していた司祭の一人が、もともと冒険者たちに縁のある人間だった。そして窮屈そうなカレンを見かねて、神殿から連れ出した。冒険、というほどのものではない。何しろ、奇跡を行使出来るとは言え、まだ成人していない子供だ。見聞を広める旅と称して、実際はカレンの息抜きになれば、と考えたのだろう。
(あの司祭には幾ら感謝しても足りないくらいだ)
おそらく、あのままベルダインにいれば自分は駄目になってしまっただろう。今だって、全てから解放されたとは言えない。それでも、あの街に居続けるよりもよほどマシだ。他の道があることを教えてくれた司祭。塔から眺めるばかりだった海へ、実際に連れ出してくれた司祭。
(別れるとき、アベルは泣いたっけ……)
苦笑する。チャ・ザの説法などあまり好きではなかったはずの弟が、それでも熱心に自分に話をせがんだのは、それをねだれば、兄は断れないと思ったからなのだろう。話の内容はどうでもいい、ただカレンと時間を共有することを望んだ弟。自分がとつとつと語る教義を、瞳を輝かせて聞いてくれた弟。求められてるのは教義ではなく、自分と共有する空気だ。
そんな風にまっすぐに向けられる愛情が気恥ずかしくて、嬉しくて。カレンのことを、自分の兄だと誰にでも屈託なく告げる言葉が嬉しくて。尊敬と親愛の情が込められた青い瞳が眩しくて。
背を向けたかったわけではない。ただ、あそこでは息が出来なかった。息が出来るのは家の中だけだった。それでは……駄目だと思った。
自分は、求めたのだろうと思う。あの時の神の言葉通りに。だからこそ、得ることが出来たものがある。
司祭に、行きたいかと問われ、13才のカレンは頷いたのだ。迷いもあった。躊躇いもあった。けれど、最終的には頷いた。そして、よろしくお願いしますと頭を下げた。優しい家族を捨てたわけではない。父は笑って見送ってくれた。母は泣いていたけれど。それでも、おまえがおまえらしく生きられる場所へ行けるならと見送ってくれた。
おそらく、いつかは帰る時が来るのだろう。いつになるのかはわからないけれど、自分が自分として生きられる時が来たら。俺はおまえの兄だと、アベルに胸を張れる時が来たら。
(それまでは……しばらくこいつの相棒でいるか。それにしても……同じ色合いでこうも違う。こいつの可愛げのなさといったら……いや、年を考えれば可愛げがあるほうがおかしいか)
そこまで考えた時。
「…………ん? へ…っくしょんっっ!」
かすかな身震いとくしゃみと共に、ラスが目を覚ました。
「……起きたか」
「あー……俺、寝てた? っていうか、起こしてくれよ。風邪ひくだろ」
「んー……まぁ、考え事してたら起こしそびれて」
「考え事? 何? 俺の寝顔見ながら考えることなんてあんのかよ」
「いや……おまえ、可愛くないよな、と」
「…………はぁ?」
盛大に顔をしかめる相棒を見て、ああ、また省略してしまったかと心の中で呟く。
(それに、命を預ける相手に、可愛げがあるかないか、そんなことはたいして重要でもないか。どっちにしろ、組んだ理由はそんなものじゃない。これこそ……言わなくてもいいことだけど)
寝るなら寝台で寝ろよ、と言い残して、客用寝室のほうへ向かう。
寝台へと入る前に、カレンは祈る。自分を導く神に。
──チャ・ザの指が紡ぐ縁の糸。その幸運で生きる自分の、心からの感謝を。