残滓 ( 2002/12/27 )
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カーナ 他



………どこで、間違えたかな…。
ううん、あたし…何を間違えたんだろ。
間違えてる?
間違えてない?
間違えたのは……誰?



 薄汚れた服の裾を握りしめて、カーナは考えた。時折…そう、ほんの時折訪れる静かな時間。そんな時、自分は狂っていないと思える。そして同時に、すでに狂ってるとも。
 スラムに降る雨は冷たい。けれど、今日は雨をしのげる場所を見つけられた。崩れかけた廃屋はところどころで雨漏りしているけれど、奥の壁に身を寄せれば雨は落ちてこない。
(これからは、もう少しまともな寝床を見つけなきゃ)
 壁からゆっくりと這い上ってくる湿った冷たさ。それは皮膚よりも先に骨を冷やす。そして骨から肉を伝って皮膚まで届く、そんな冷たさ。夏は終わったのだ。大陸の中でも、どちらかというと暖かい気候のオランであれば、真冬になっても凍死することはないだろう。ただし、服と屋根と壁とをうまく見つけられるなら、の話だ。

 かたん。

 その音に、カーナは振り向いた。瓦礫の隙間を鼠が走り抜けていっただけと気づいて、肩の力を抜く。
(こうやって、何かの気配に反応するのも…随分遅くなっちゃった。前はもっと……指先だって、足だって……)
 ぶるっと頭を一振りする。艶の無くなった赤い髪が揺れた。
 安い酒場の裏口で分けてもらった、堅くなった麺麭をかじる。ぎしぎしと、奥歯に当たる感触と同時に血の味を感じた。酒場の裏口で、食事を分けてもらおうと店員に媚びを売っていた時に、いい加減にしろと殴られたのを思い出す。その時に、口の中を切ったに違いない。
(あの時は、痛みなんか感じなかったのに。ああ……いやだ、夢から覚めると痛いことばかり。寒いし気持ち悪いし………あたし…何やってんだろ。ねぇ…イエメン、どうして君はここにいないの?)
 どうして…と。その問いの答えは知っている。なのに問わずにいられない。

 6ヶ月前のことをカーナは思いだしていた。


◆   ◇   ◆   ◇   ◆


 初夏の風が吹く頃だった。盗賊ギルドは、その少し前からオランに流通していた麻薬ルートを摘発するのに忙しかった。もちろん、カーナも盗賊ギルドの一員ではあるが、その仕事には関わっていなかった…というよりも、摘発自体が、始まったばかりで多数の人間を動員するまでには至っていなかったというのが真相だ。
 摘発の対象となった麻薬の名前はモールドレ。トマト、という俗称のほうが有名であるかもしれない。本来なら、ギルドも麻薬を扱う。だが、モールドレはその中毒性の高さから、ギルドでは摘発して一掃するという結論を出した。もともと、盗賊ギルドに隠れて流通し始めた麻薬であるのだから、その結論は自然とも言える。
 摘発に当たっていた盗賊はドゥーバヤジットという中年の男だ。カーナの上役の1人でもある。ドゥーバヤジットも、彼の上役から受けた仕事ではあるらしいが、カーナはそのことを知らない。知る立場にはなかったからだ。
 ドゥーバヤジットの指令を受けて、情報屋のエルウッド、そして“三つ指”と“逆巻き”と呼ばれる若い盗賊たちが、麻薬に関連していると思しき人物たちの周辺を探っていた。その中で、ドゥーバヤジットが目を付けた人物の名前は、イエメン。まだ若い男である。大型の爬虫類を思わせる、感情のない瞳、巨漢と表現しても間違いはないと思われるほどの体格。彼は麻薬の常習者だった。それも、モールドレの。幾度かの接触を試みて、ドゥーバヤジットはイエメンがモールドレを扱う組織の幹部と繋がっていると推測した。
 ──そして、カーナはイエメンと出会った。

 出会ったのはカーナにとっては馴染みの酒場だ。何度か顔を合わせたことのある男と賭けに興じていた。そこへ話しかけてきたイエメン。
 得体の知れない男にカーナは警戒した。盗賊としての勘が、警戒すべきだと告げていた。事情は知らなくとも。
 そして、盗賊としての勘で警戒し、同じく盗賊としての好奇心でカーナはイエメンの住居へと足を運んだ。イエメンからドゥーバヤジットの名前を聞いたことで、ならば逆にイエメンを利用して幾つかの情報を得れば、上役に覚えが良くなるかもしれないと思ったからだ。
 その家で、カーナは“トマト”を味わった。トマトは、その異名が示す通り、真っ赤な液体である。本来なら薄い紅色の粉末であるが、火に炙ることでとろりとした甘い液体に変化する。赤い葡萄酒に混ぜられていたそれに気づくには、カーナの舌はまだ未熟だった。
 イエメンが『おれのアトリエ』と呼ぶ部屋に描かれていた幾つもの絵。絡み合う男女の裸体。赤い絵の具で描かれた妊婦。女ばかりではなく、男すら子を孕んでいる。夢と幻想と恐怖と蠱惑がわずかずつないまぜになって、素肌を熱した氷で撫でられるような絵。
 半年が経った今でも、カーナはその絵のひとつひとつを覚えていた。


◆   ◇   ◆   ◇   ◆


 ──ああ、そうだ。最初は逃げたんだっけ。

 服の隠しを探りながら、カーナは頬を緩めた。遠い…遠い昔の出来事のような気がする。何もかもがあの時に始まった。そして何もかもがあの時に終わった。
 震える手が掴みだしたのは、小さな包み。手の上で慎重に広げると、薄紅色の粉末がそこにはあった。
(知ってるよ。これがトマトじゃないことくらい。トマトはもうなくなった。誰もトマトを売ってくれなくなったもの。でも、これはトマトによく似てる。だから、イエメン。許して。もう少しだけ、夢を見させて)
 指先を舐めて湿らせる。それを包みの上の粉末にそっと近づけた。指先に張り付いた数粒を舌の上に載せる。甘酸っぱい刺激を感じた。


◆   ◇   ◆   ◇   ◆


 アトリエから逃げ出したカーナを、友人のエルメスとピルカが出迎えてくれた。2人の優しさに包まれながら、それでもカーナの体の奥でモールドレの残滓が疼いた。
 モールドレを求めて、エルメスのもとを離れ、カーナはイエメンの元へと走った。イエメンに騙されたとは気づいていた。葡萄酒に混ぜられたモールドレ。それを飲んで気絶している間に、唇へと塗られた、モールドレの混ざった口紅。真綿が染料を吸うように、カーナの体はモールドレを…“トマト”を吸い込んでいった。
 イエメンには騙された。なのに、イエメンの元に走ってしまう。
 ──なぜならイエメンはモールドレを持っているから。

 ドゥーバヤジットたちが、どう動いていたのか、カーナは何も知らない。ただ、イエメンの手元には快楽があった。追いかけてきたエルメスに…同じように追いかけてきたバリオネスに、何をどう止められようと、自分の欲望を隠すことは出来なかった。
「麻薬は、けけけ警戒の心をなくすんだ。傷つけあわずに愛し合うことが出来るよ。おれはカーナさんが好きだから……そ、傍にいて欲しいから…だから、カーナさんに警戒されたくなかった……」
 イエメンの声は、真紅の霧がかかるカーナの頭に緩やかに染み通った。
「ガデュリンもトーマスも言っていたよ。心の留め金をなくすことが愛への近道だってさ。きっと、留め金を外せば、みみみみみんな、幸せになれる。裸になって、し、し、幸せを求めることが出来る。と、と、トーマスがそう言ってたんだ。おれに、教えてくれたんだ。だから、麻薬は素晴らしいものなんだよ。か、カーナさん」
 イエメンが時折呟く名前、ガデュリンとトーマス。それが誰なのかはカーナは知らない。全てが終わった後になって、モールドレの組織の重要人物の名前だと知った。
 ガデュリンが誰なのか、トーマスがどんな男なのか。そんなこととは一切無関係に、カーナはただイエメンの言葉を聞いていた。そして、留め金の外れた心でイエメンの心に触れていた。イエメンの奥にある何かに触れていた。おそらくはカーナ自身が持っているものと同質の何かに。
 落ちかかる自分をどうにかして止めようとは思った。なのにモールドレに手を伸ばしてしまう。
 ──なぜならモールドレはイエメンの傍にあるから。


◆   ◇   ◆   ◇   ◆


(イエメン。君はきっと寂しかった。本当の愛を知らなかった)
 手の上にある包みをそぅっと床の上に置く。小さな蝋燭をその隣に立てて、カーナはそれに火を付けた。降り続く雨のせいで、床は少しばかり湿っている。それでも蝋燭の上で小さな火蜥蜴が踊るのに不自由はない。
「……くっ。本当の、だって? ハハッ! そんなの……あたしだって知らない」
 揺らめく炎を見つめて、カーナが笑う。声でも立てないと泣き出しそうだった。こぼれ落ちる涙を呑み込む代わりに、声を立てて笑ってみせる。
 笑い声が追い払うのは涙。闇。そして幻覚という名の亡霊。
「ああ……嫌になる。雨だってのに……ううん、雨だからかな。ここは虫が多いや」
 二の腕をさすりながら更に呟く。カーナの腕には、カーナにしか見えない虫が二匹蠢いている。それが三匹に、五匹に変わるのはいつだろう。
「虫は嫌いだよ。イエメン……君の残した種を食べてしまうから」
 ぽつりと呟いて火蜥蜴を見つめた。
(ううん……違う。君は知っていたんだね、本当の愛を。忘れていただけだったんだ。それまでに注ぎ込まれた、幾つもの歪んだ愛で埋もれてしまって忘れていただけだったんだ。ガデュリンとトーマスとモールドレとが、きっと君を埋めていった……)


◆   ◇   ◆   ◇   ◆


 盗賊たちと、麻薬組織との争い。そのほとんどをカーナは知らない。自分が顔を見知っていた“逆巻き”という盗賊が死んだことも。イエメンのアトリエで見たことのある“絡繰り”という盗賊が死んだことも。
 カーナが知っているのは夕陽に照らされた最後の光景だけだ。
 バリオネスによって、イエメンと引き離され、トレルが営む治療院へと連れていかれた。麻薬に侵された体はトマトを求めていた。そこに現れたのが、麻薬組織側の人間だ。
「トマトをあげるよ。そしてイエメンにも会わせてあげる」
 そう言った。だからカーナはその男についていった。
 トマトがもたらす快楽に、いつも付随しているのが、同じ快楽に浸りながらもどこか寂しいイエメンの瞳。大型の爬虫類のようだと思っていたその顔に、どこか物悲しい空気を感じていた。自分自身が持つものと同じかもしれないその空気を、言葉で表現するのは、カーナにとってとても難しい。
(弱さとか寂しさとか……なんか、うん…そういったようなもの……)
 それは多分、濁ることを憂いながらも、濁り混ざりゆくしか存在する術のない透明な哀しさ。純粋と呼ばれるものに最も近しいもの。
 トマトを手に入れる手段がイエメンなのか。それともイエメンの傍にいるための手段がトマトなのか。頭蓋の内側を覆う血の色をした霧はその答えを阻む。

 それでも、最後の光景は否応なくカーナに突きつけられた。
 男に連れられていった先は麻薬組織のアジト。そこにイエメンはいた。組織側の人間と共に。カーナの名前を呼んだイエメンの瞳が、今まで以上に哀しそうだとカーナは気づいた。
 麻薬組織の長、トーマス・ブギーマン。イエメンはトーマスに支配されていた。身も心も。そしてその支配から抜け出そうとした時に、盗賊ギルドが踏み込んできたのだ。エルメスも、ピルカもバリオネスもトレルも。ギルドとは関係のない人間までそこにはいた。
 自分を守ろうとするエルメスの腕。自分の名を呼ぶイエメンの声。
 紅い霧が晴れる。
 カーナはエルメスの腕を振りきってイエメンの元へと駆け寄った。争いのなか、トーマスとその部下によってイエメンは死に瀕していた。
 そしてイエメンはカーナに贈り物をした。小さな小さな金色の種。これこそが、自分がある人から受け継ぎ、そして自分も誰かに伝えたいと思っていた本当の“黄金”だと言って。
 麻薬による快楽とは無関係にイエメンが笑う。幸せそうだと思った。自分の命が終わるその瞬間に、一番最後の瞬間に、一番幸せそうだと、そう思った。
 カーナの脳裏で、トマトの闇が動く。その闇に埋もれそうなイエメンの瞳。なのにその闇を駆逐するのもイエメンの瞳。

 イエメンを愛していたのか、と。誰かにそう聞かれたような気もする。カーナは曖昧に笑うだけだった。
 愛していたのか、今でも愛しているのか、それともただモールドレのためだけだったのか。そんなことはわからない。そんなことは何ひとつ関係がない。
 ただわかっているのは、イエメンがいないこと。黄金の意味がわかったと囁いたイエメンはもういないこと。カーナ自身の黄金がイエメンに繋がっているような気がしたのに、それでもその問いを投げかけるべき相手がもういないこと。
 それは、しがみつくことでもなく、すがることでもなく。ましてや頼ることですらなく。おそらくは癒着。傷ついて脆くなっていた硝子玉は、モールドレの紅い熱で容易く溶けた。そして冷えて固まる瞬間に、一番近くにあった硝子玉と融合した。薬を介した奇妙な癒着を意識した次の瞬間には、片方の硝子玉が砕け散る。繋がっていたはずの場所に、ひび割れだけを残して、ただの空間に成り果てる。
 その空間の持つ冷たい熱を。
 ひび割れが伝える柔らかな棘を。
 砕け散った瞬間の静かな衝撃を。
 全てを忘れないでいることくらいしか、カーナには出来なかった。イエメンが囁いた“黄金”の意味はわかる。それでも、その黄金を自分の手元に引き寄せようとすると、熱を持った棘が胸を刺した。その痛みを忘れるために、カーナは薬にすがった。


◆   ◇   ◆   ◇   ◆


 ──あたしは……あたしの黄金は…。

 目の前で揺れる炎に、小さな金属製の器具をかざす。スプーンよりもやや深いその受け皿の中には薄紅色の粉末があった。
 ゆっくりと炎の上で揺らし、粉末が熱で溶けるのを待つ。
 炎の色に、カーナは自分の視界が揺らぐのを見た。黄金の色に燃える夕陽を思い出す。夕陽が射し込む部屋の中で、父と母とともに食事をしたことを思い出す。遠い記憶。
(あの頃は…きっと幸せだった)
 頬を伝う涙に気が付いた。視界が揺らいだのはそのせいか、と、不思議に冷静な自分を見つける。
 不意に吐き気がした。
 蝋燭にかざしていた器具を、床に置く。
「…う…っ………ぅえっ………けほっ…っ!」
 胸を駆け上がり喉を灼く吐き気は、えずいてもえずいてもおさまらない。ついさっきようやく飲み下したばかりの古い麺麭を吐き、苦い胃液を吐き出してもおさまらない。涙に濡れた顔で、カーナは口元を袖で拭った。
「…ちく…しょうっ!」
 汚れてしまった自分自身に対する吐き気だと気が付いている。イエメンの“黄金”の種を受け取って、最期の言葉を受け取った。なのに、自分は薬から抜けられない。
 弱さ故に汚れていく自分。手近な安定を得るために薬にすがる。モールドレを巡る攻防の中で、モールドレのルートは潰された。組織は壊滅し、モールドレが生産される畑も全て焼かれている。生粋のモールドレはもう手に入らない。だから、それによく似たものを探すしかない。薬を売ってくれる人間に、媚びを売る。指先と…そしてカーナ自身の身体で稼いだ金を渡して。そしてそれでも金が足りないと言われれば、売人相手にも身体を許した。そうまでして…それでも薬が欲しいのだ。

 こんな自分を探してくれている人間がいることは知っている。エルメスだ。宿でも同じ部屋に寝泊まりしていた。彼女といると、本当の姉妹のような気がした。安らげる場所だと思っていた。
 なのに、薬に侵された自分はエルメスの優しさを受け入れようとしない。
「わかってる……わかって…わかってるのにっ!」
 保護されていた治療院から、薬を求めて逃げ出した自分。そしてそんな自分を探し出して、守ろうとしてくれたエルメス。療養のためにとカゾフまでも連れて行ってくれた。
 何度振り切っただろうと思う。イエメンのアトリエへと向かう時に。最後の戦いの中でイエメンに名前を呼ばれた時に。カゾフの町でイエメンの亡霊を見た時に。
 あの安らかな腕を…不器用な、なのに優しさに満ちあふれたあの腕を。何度自分は振りきっただろう。

「ああ……イエメン…うん、あたしは大丈夫だよぉ…」
 頬を撫でた風に、カーナはうっとりと呟いた。
「うん……種は植えた。どこにだって? ……うふ…教えないよ。花が咲くまでは……内緒なんだ。だってさ…種を持ったままだと、落っことしちゃうかもしれないもんねぇ……」
 それは嘘だと誰かが叫んだ。びくり、と肩を震わせて何もない空間にカーナが振り向く。
「嘘だって? 馬鹿言わないでよ。あ、あ、あたしは嘘なんかついちゃいないよ、本当だよぅっ!」
 その声に、先刻の鼠が瓦礫の下から逃げ出す。
「ね、鼠。鼠だね。文句を言うのは、鼠だね!? 嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃないんだ。確かに種は美味しかったけど。そうやって、幾つかはぽりぽり食べちゃったけど! だって、あの種はトマトの味がするんだよ、甘酸っぱくて! でも、全部食べちゃったら、イエメンとの約束を果たせないじゃないか! だから、だから植えたんだよ、植えちゃったんだよ! ああ、イエメン、信じておくれよ、あたしはちゃんと植えたんだよ。もっとちゃんとした場所を見つけたかったけど、だって鎖が増えていくんだ。そ、そうだよ。こないだまでは52本だった鎖だよ。今日、寝て起きたら67本になってたんだよ。だから…だから、植えちゃった。あたしがまだ動けるうちに!」
 振り回した手が、蝋燭に当たる。倒れると同時に火蜥蜴が姿を消した。
「……………あ…っ…」
 そして静寂が訪れる。
「あ……ああ………………ふぅ………」
 大きく息を吐いて、カーナは脇によけておいた器具を手に取った。半分以上は溶けている。飲み下すのに支障はない。“トマト”に良く似た紅い液体、それでも本物ではあり得ない薬。ひとときの至福を得る薬。
 その薬を飲み下せば、また自分は夢の中に入る。夢の中に居られれば、痛みも乾きも疼きもない。イエメンのことを思いだしても、エルメスのことを思いだしても、薬を得るために自分が一体何をしたのかを思いだしても。
 その代わり、先刻のように黄金の意味を求めることも、イエメンの最期の言葉を反芻することも出来なくなってしまう。
 迷う。
 だが、薬を飲まなければ、待っているのは地獄の苦しみだ。全身を掻きむしりたくなるような痒み。軋む関節の全てに鋲を打ち込まれるような痛み。内臓の全てを吐き出してもまだ足りないような吐き気。頭蓋の内側にダガーを刺そうと襲い来る何十人もの亡霊たち。乾いた喉はぬるい水でさえも灼熱の痛みを感じるし、力の抜けた足を投げ出せばそこには毒蛇と毒虫が待ちかまえている。
 薬を飲めば、その全てから逃れられる。

 ──紅い液体を、カーナは飲み下した。

 飲み下す前に、ちらりと脳裏をよぎったのはイエメンの顔。そしてそれに重なるように、イエメンによく似た男の顔。
(イ……ザック……?)
 数日前に知り合ったイザックという男。イエメンとは親友だったと言っていた男。
(イザック……イザック……どうして、君は帰ってこ……ない……の?)
 出会ったのは、廃屋が建ち並ぶスラムの一画だ。
 『ずっとカーナさんを見ていた』──イザックは、たどたどしい口調でそう呟いた。そうして、カーナを助けると誓った。彼には、誓う相手などいない。だから彼はカーナに誓った。彼自身よりも確かなものとして、カーナを選んで、そうして誓った。カーナを助けると。
 何よりもその瞳に、カーナはイエメンを見つけたような気がした。
 カーナにすがりつくその瞳を。
 カーナを求めているのに、それでも他の男たちとはどこか違う、透明なその瞳を。
(ああ……そう、そうだ。殺した。あの、男、を、イザックが、殺してくれた……あたしのために)
 下卑た男がいた。汚らしい指でカーナの体をまさぐり、乾いた舌でカーナの肌を舐めていた男。名前はドヴィ。麻薬の売人だった。盗賊ギルドと幾つかの繋がりがあったらしいが、カーナはよく知らない。カーナにとってはどうでもいいことだった。
 ドヴィに金を渡せば、麻薬は手に入る。時々……そう、ほんの時々、運が良ければモールドレによく似たまがい物も手に入る。だから、たったそれだけのために、カーナはドヴィから離れられなかったのだ。
 どれほど貶められても……殺しても殺しても飽き足らないほど憎んでいても。それでも殺すわけにはいかなかった。彼が居なければ麻薬を手に入れるのは難しくなる。
(それでも……殺したかったんだ)
 爪の1枚、髪の1本、スラムの地面に落ちる歪んだ影さえ憎かった。その存在の全てを、消してしまいたかった。
 それでもどこかで迷っていたのは、ドヴィが、カーナにとっては麻薬を手に入れる手段であったからか。その迷いを断ち切ってくれたのは、イザックだった。
 ドヴィに直接手を下したのはイザックだ。だが、きっかけを作ったのはカーナだった。
(イザックが……ううん、あたしが……そう、あたしが、殺した)
 今更だ。
 奪うことなど容易い。辛くはない。奪われることに比べれば。
 イザックが出かけて、丸一日以上経っている。帰ってこない。何の知らせもない。
(どうして……帰ってこない、の、かな)
 本当に。奪われることに比べれば。


◆   ◇   ◆   ◇   ◆


 そして、カーナの知らないところで、事態の幾つかは蠢き始めていた。冬の眠りに付き損ねた年老いた毒蛙のように、ゆぅるりと。けれど確実に。その毒蛙の名は盗賊ギルド。そこからドヴィに繋がる糸が幾本かあった。
 ドヴィが、ギルドに所属する売人であったこと。それでいながら、別のルートからも麻薬の供給を受けていたこと。更には、その別ルートが、壊滅したはずのモールドレによく似たものを扱っていたこと。
 そこから浮かび上がる線を追おうとする人間がいたのだ。
 だが、その矢先にドヴィは死んだ。正確に言うならば殺された。
 殺した人間を捜して事情を聞きたい、或いは、ドヴィから麻薬を買っていた人間を捜して、別ルートのことを少しでも知ってはいないか聞きたい。
「あの小娘、捕まえてきな」
 カーナの名前を出して、部下の男たちにそう言いつけたのは、モールドレを追っていたドゥーバヤジットだった。
 毒蛙は今、捕らえるべき獲物を見つけた。




  


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