──あたしは……あたしの黄金は…。
目の前で揺れる炎に、小さな金属製の器具をかざす。スプーンよりもやや深いその受け皿の中には薄紅色の粉末があった。
ゆっくりと炎の上で揺らし、粉末が熱で溶けるのを待つ。
炎の色に、カーナは自分の視界が揺らぐのを見た。黄金の色に燃える夕陽を思い出す。夕陽が射し込む部屋の中で、父と母とともに食事をしたことを思い出す。遠い記憶。
(あの頃は…きっと幸せだった)
頬を伝う涙に気が付いた。視界が揺らいだのはそのせいか、と、不思議に冷静な自分を見つける。
不意に吐き気がした。
蝋燭にかざしていた器具を、床に置く。
「…う…っ………ぅえっ………けほっ…っ!」
胸を駆け上がり喉を灼く吐き気は、えずいてもえずいてもおさまらない。ついさっきようやく飲み下したばかりの古い麺麭を吐き、苦い胃液を吐き出してもおさまらない。涙に濡れた顔で、カーナは口元を袖で拭った。
「…ちく…しょうっ!」
汚れてしまった自分自身に対する吐き気だと気が付いている。イエメンの“黄金”の種を受け取って、最期の言葉を受け取った。なのに、自分は薬から抜けられない。
弱さ故に汚れていく自分。手近な安定を得るために薬にすがる。モールドレを巡る攻防の中で、モールドレのルートは潰された。組織は壊滅し、モールドレが生産される畑も全て焼かれている。生粋のモールドレはもう手に入らない。だから、それによく似たものを探すしかない。薬を売ってくれる人間に、媚びを売る。指先と…そしてカーナ自身の身体で稼いだ金を渡して。そしてそれでも金が足りないと言われれば、売人相手にも身体を許した。そうまでして…それでも薬が欲しいのだ。
こんな自分を探してくれている人間がいることは知っている。エルメスだ。宿でも同じ部屋に寝泊まりしていた。彼女といると、本当の姉妹のような気がした。安らげる場所だと思っていた。
なのに、薬に侵された自分はエルメスの優しさを受け入れようとしない。
「わかってる……わかって…わかってるのにっ!」
保護されていた治療院から、薬を求めて逃げ出した自分。そしてそんな自分を探し出して、守ろうとしてくれたエルメス。療養のためにとカゾフまでも連れて行ってくれた。
何度振り切っただろうと思う。イエメンのアトリエへと向かう時に。最後の戦いの中でイエメンに名前を呼ばれた時に。カゾフの町でイエメンの亡霊を見た時に。
あの安らかな腕を…不器用な、なのに優しさに満ちあふれたあの腕を。何度自分は振りきっただろう。
「ああ……イエメン…うん、あたしは大丈夫だよぉ…」
頬を撫でた風に、カーナはうっとりと呟いた。
「うん……種は植えた。どこにだって? ……うふ…教えないよ。花が咲くまでは……内緒なんだ。だってさ…種を持ったままだと、落っことしちゃうかもしれないもんねぇ……」
それは嘘だと誰かが叫んだ。びくり、と肩を震わせて何もない空間にカーナが振り向く。
「嘘だって? 馬鹿言わないでよ。あ、あ、あたしは嘘なんかついちゃいないよ、本当だよぅっ!」
その声に、先刻の鼠が瓦礫の下から逃げ出す。
「ね、鼠。鼠だね。文句を言うのは、鼠だね!? 嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃないんだ。確かに種は美味しかったけど。そうやって、幾つかはぽりぽり食べちゃったけど! だって、あの種はトマトの味がするんだよ、甘酸っぱくて! でも、全部食べちゃったら、イエメンとの約束を果たせないじゃないか! だから、だから植えたんだよ、植えちゃったんだよ! ああ、イエメン、信じておくれよ、あたしはちゃんと植えたんだよ。もっとちゃんとした場所を見つけたかったけど、だって鎖が増えていくんだ。そ、そうだよ。こないだまでは52本だった鎖だよ。今日、寝て起きたら67本になってたんだよ。だから…だから、植えちゃった。あたしがまだ動けるうちに!」
振り回した手が、蝋燭に当たる。倒れると同時に火蜥蜴が姿を消した。
「……………あ…っ…」
そして静寂が訪れる。
「あ……ああ………………ふぅ………」
大きく息を吐いて、カーナは脇によけておいた器具を手に取った。半分以上は溶けている。飲み下すのに支障はない。“トマト”に良く似た紅い液体、それでも本物ではあり得ない薬。ひとときの至福を得る薬。
その薬を飲み下せば、また自分は夢の中に入る。夢の中に居られれば、痛みも乾きも疼きもない。イエメンのことを思いだしても、エルメスのことを思いだしても、薬を得るために自分が一体何をしたのかを思いだしても。
その代わり、先刻のように黄金の意味を求めることも、イエメンの最期の言葉を反芻することも出来なくなってしまう。
迷う。
だが、薬を飲まなければ、待っているのは地獄の苦しみだ。全身を掻きむしりたくなるような痒み。軋む関節の全てに鋲を打ち込まれるような痛み。内臓の全てを吐き出してもまだ足りないような吐き気。頭蓋の内側にダガーを刺そうと襲い来る何十人もの亡霊たち。乾いた喉はぬるい水でさえも灼熱の痛みを感じるし、力の抜けた足を投げ出せばそこには毒蛇と毒虫が待ちかまえている。
薬を飲めば、その全てから逃れられる。
──紅い液体を、カーナは飲み下した。
飲み下す前に、ちらりと脳裏をよぎったのはイエメンの顔。そしてそれに重なるように、イエメンによく似た男の顔。
(イ……ザック……?)
数日前に知り合ったイザックという男。イエメンとは親友だったと言っていた男。
(イザック……イザック……どうして、君は帰ってこ……ない……の?)
出会ったのは、廃屋が建ち並ぶスラムの一画だ。
『ずっとカーナさんを見ていた』──イザックは、たどたどしい口調でそう呟いた。そうして、カーナを助けると誓った。彼には、誓う相手などいない。だから彼はカーナに誓った。彼自身よりも確かなものとして、カーナを選んで、そうして誓った。カーナを助けると。
何よりもその瞳に、カーナはイエメンを見つけたような気がした。
カーナにすがりつくその瞳を。
カーナを求めているのに、それでも他の男たちとはどこか違う、透明なその瞳を。
(ああ……そう、そうだ。殺した。あの、男、を、イザックが、殺してくれた……あたしのために)
下卑た男がいた。汚らしい指でカーナの体をまさぐり、乾いた舌でカーナの肌を舐めていた男。名前はドヴィ。麻薬の売人だった。盗賊ギルドと幾つかの繋がりがあったらしいが、カーナはよく知らない。カーナにとってはどうでもいいことだった。
ドヴィに金を渡せば、麻薬は手に入る。時々……そう、ほんの時々、運が良ければモールドレによく似たまがい物も手に入る。だから、たったそれだけのために、カーナはドヴィから離れられなかったのだ。
どれほど貶められても……殺しても殺しても飽き足らないほど憎んでいても。それでも殺すわけにはいかなかった。彼が居なければ麻薬を手に入れるのは難しくなる。
(それでも……殺したかったんだ)
爪の1枚、髪の1本、スラムの地面に落ちる歪んだ影さえ憎かった。その存在の全てを、消してしまいたかった。
それでもどこかで迷っていたのは、ドヴィが、カーナにとっては麻薬を手に入れる手段であったからか。その迷いを断ち切ってくれたのは、イザックだった。
ドヴィに直接手を下したのはイザックだ。だが、きっかけを作ったのはカーナだった。
(イザックが……ううん、あたしが……そう、あたしが、殺した)
今更だ。
奪うことなど容易い。辛くはない。奪われることに比べれば。
イザックが出かけて、丸一日以上経っている。帰ってこない。何の知らせもない。
(どうして……帰ってこない、の、かな)
本当に。奪われることに比べれば。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ そして、カーナの知らないところで、事態の幾つかは蠢き始めていた。冬の眠りに付き損ねた年老いた毒蛙のように、ゆぅるりと。けれど確実に。その毒蛙の名は盗賊ギルド。そこからドヴィに繋がる糸が幾本かあった。
ドヴィが、ギルドに所属する売人であったこと。それでいながら、別のルートからも麻薬の供給を受けていたこと。更には、その別ルートが、壊滅したはずのモールドレによく似たものを扱っていたこと。
そこから浮かび上がる線を追おうとする人間がいたのだ。
だが、その矢先にドヴィは死んだ。正確に言うならば殺された。
殺した人間を捜して事情を聞きたい、或いは、ドヴィから麻薬を買っていた人間を捜して、別ルートのことを少しでも知ってはいないか聞きたい。
「あの小娘、捕まえてきな」
カーナの名前を出して、部下の男たちにそう言いつけたのは、モールドレを追っていたドゥーバヤジットだった。
毒蛙は今、捕らえるべき獲物を見つけた。