六花 ( 2003/01/19 )
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作者
入潮丸
登場キャラクター
ヌハーヴィラ






          祈らせたまへ。
          優しき神よ。…マーファよ。


「ねぇ、あたし……生きていても良いですか」

かざはなの舞う夜。裏道にて、そう問いかけられました。
それは、クーンという名の娼婦でした。
マーファよ。

「ねぇ、あたし、二人を殺しちゃったの。あたし…生きていても良いですか」

その言葉は真実かどうかわかりません。したたかに、酔うているようでした。
とっさには、答える事ができませんでした。

その問いは、在りし日に、自分が発したものと、同じものでした。

マーファよ。
拙僧は、一人の聖人の話を思い出しました。

その国の人間の法はいいました。人殺しには石を打ち、死を持って贖わせよ。
夫を寝取った者を、憎しみで殺した女が、囚われました。
法に厳格な者は、法の通りに、石を握りました。

女の夫は、聖人に、彼女を何とか救って欲しいと頼みこみました。
妻より他の女に目を奪われたのは、ほんの出来心であったと。以降は決して、不徳を犯す事はしない、と。

その願いは、聖人にとって、とても難しい事でした。
女を救えば、法を犯すことになります。女を見殺しにすれば、夫は悲嘆に暮れてしまいます。

聖人は、処刑場に申し入れました。石を打つのはやめなさい、と。
処吏はいいました。法の下において、それはできない、と。
聖人は、返していいました。

「では、あなたがたのうち、生けとし他の命を奪った罪より、もっとも遠い者から、女に石を打ちなさい」と。

たれも自分から、女に、石を打てる者は、いませんでした。

たれもが、生きるために、他の命を犠牲にしているからです。
他の命を食らわねば、自らの命を永らえることはできぬのです。
たれもが、罪人なのです。

女は、夫のもとに戻されました。

マーファよ。

生けとしあらゆる者は、他の生を殺めています。
生けとしあらゆる者は、他の者を踏み台にして生きています。
生けとしあらゆる者は、たれも、罪を抱えているのです。
みな、それを知っておるのです。だから、たれも、石を握ることはできないのです。

拙僧もまた、罪を抱えております。
わたくしの罪は、さらに大きい。

わたくしの息子は、知恵遅れであり、虚弱でした。1年の半分以上を氷雪に囲まれたバイカルで、成人する事はおぼつきませんでした。
妻もまた身体が弱く、2度の出産には耐えられそうにありませんでした。

息子に自らの財産と知恵を受け継がせ、立派な人間に育て上げてはじめて、一人の男として認められる。息子の人としての完成度は、親の人間としての度量による。親は息子の生に全責任を負う。

そう見なされていたバイカルの極寒の村において、たった一人の息子がその有様では、わたくしは一生、村に受け入れられることはないと思いました。

わたくしの何の行ないが、このような因果となるのか分かりませんでした。わたくしは、不幸を呪い、不条理さを憎みました。

わたくしは、漁も畑も忘れて、酒に浸る日々が多くなりました。
息子にも妻にも、乱暴を振るうようになりました。

わしが悪いのではない。わしが悪いのではない…と。

わしたくしは、ひたすらに、目の前の現実から、逃げておったのです。

そして、身体の弱かった母子は、わたくしの下を去りました。

結果的にそれが、わたくしの息子を殺しました。働く事のできなかった妻は、乏しく、息子を医者にやることができなかったのです。

妻が、息子の亡骸を抱えて、雪の夜、現れました。
そのときに、自分の罪を知りました。
あどけない息子の笑顔が、いかにかけがえの無いものであったかと、知りました。
血を吐くような悔恨に苛まれ、自責の念に身を引き裂かれました。

妻は息子の骨を置いて去ったまま、二度と姿を見せませんでした。
しんしんと、雪が積もる音がするほどの、静寂の夜でした。

――わしは、いったい、生きている価値があるのでしょうか。

氷が砕け、落ちる雪と共に川の水に流される、息子の灰を見ながら、魂の奥底から、わたくしは問いかけました。

マーファよ、あのとき、あなたは答えを下さいました。たったひとつの、答えを。

そのときから、わたくしは、あなたの存在と、共にあるのです。


…マーファよ。人は弱い。

「ねぇあたし、生きていてもいいですか」

クーンの問いに、人が、なんと答えられましょう。
たれも、女に、石を打つ資格などないのです。
あらゆる者は、良心に咎められる行いを経ています。
同じことを問いたがっているのです。

マーファよ。神々よ。あなたがたの愛し子の、幾多の者が、心の奥底で、同じ問いを尋ねた事でしょう。問い掛けぬ魂など、ありえはしませぬでしょう。

しかし、口には出して問えはできませぬ。
自らの罪を誰も知っているから、誰も問えぬのです。

…弱くない人などありましょうか。

けれど、クーンは問うたのです。
生きていても良いですか、と。

それに対する答えは、拙僧はすでに知っております。
それは、拙僧が、雪の流れる日に、魂の深淵から問うたものに対するものと同じでありましょうから。

ですからわたくしは、クーンに答えました。雪の流れる夜、あなたがわたくしにお与え下さいました、その言葉を。


―――それはすでにあなたが、あなたの名において、知っていることです―――


…と。

クーンは、笑いました。
肌に落ちては、はらりと溶ける、六花の雪のように、笑いました。

あの儚い笑顔は、終生、忘れられませぬ。


…後に知ったことです。

クーンは、二人の子を、風の強い冬の夜に堕胎したということでした。
そして、そのような夜に、哀しみを思い出すのか、酔っ払っては、街へさまよい出て、同じ問いを人に投げかけるだということでした。

ある人は、答えられず、ただ、目をそらして去りました。
ある人は、彼女に同情し、生きていてはいけない者などない、と慰めました。
ある人は、これから償いなさいと、咎め励ましました。

クーンは、あらゆる答えに満たされず、同じ問いを人に発しつづけたのです。

けれど、クーンに、もう、その問いを発する必要はなくなりました。







―― 今夜、クーンの白い肌は、青く細い月の光のもと、ハザード川の黒い水のなかで、ゆらゆらと、揺れておりました。







あの時、クーンの酔いは、偽りのものだったかもしれません。
笑いもまた、かりそめのものだったでしょう。
けれど、クーンの、笑わずにはいられない哀しさだけは、真実でした。
限りなく深い、人間の、まことでした。

マーファよ。
すべて、命あるものは美しいと。
命はそれだけで許されると。
あなたは命を賛美する。

マーファよ。
自らで自らを殺めることは、なによりの大罪であると、あなたは戒める。
問えるクーンの魂は、まったき、次なる生へ、光もて、導かれるのでしょうか。

マーファよ。
結果的に、わたくしの言葉は、クーンを死へと誘ってしまった。
はたして、あなたの言葉を選んだわたくしは、正しかったのでしょうか。

……わたくしには分かりませなんだ。

けれど、わたくしは信じたいのです。祈りたいのです。願いたいのです。

哀しみと死により満たされる幸せもあるのだと。
その幸せにより、クーンはまことの魂を得たのだと。

マーファよ。
わたくしの問いに対する、あなたからの答えは、ただ一つ。

……それは、わたくしが、わたくしの魂において、知っていることである……と。

――マーファよ。
残酷たる慈愛の神よ。引き裂くような優しさの、神よ――。



        祈らせたまへ。
        祈らせたまへ。
 
        六花の雪のなか。
        祈らせたまへ。
    
        ひたすらに。
        祈らせたまへ。

        ただ、しんしんと。
        祈らせたまへ……。







  


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