ひとくちの水 飲むたびに -Act 2-
( 2003/01/19 )
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作者
入潮丸
登場キャラクター
リヴァース
■■■ Act 2 ‐Development Study‐ ■■■
荒れ野。
高く上った太陽が、容赦なく皮膚を焼く。じりじりと音が聞こえてきそうだ。眩しくて、自然、目が窄められる。眉間の皺を、汗が伝う。
暑い。体温より気温が高い。吐く息が涼しく感じるぐらいに。ガルガライスの南、炎の地に紅い塩を採りに赴いたことがあったが、非人道的な暑さには一向に慣れる事ができない。
風により風化された細かい砂が舞い上がる。鼻の中、口、皮膚の間、至るところに砂が入りこみ、水分を奪っていく。髪がギシギシする。
島の中心に近い、ランザの荒れ野と呼ばれている地に来ていた。
岩場を覆う棘だらけの藪が、いっそう、荒涼とした感を煽りたてる。
サバス島の大部分は、砂漠と荒野に覆われている。この地方に、雨は数年に一度ほどしか降らない。気候としては、悪意の砂漠によく似ている。違うところは、海に近いので多少風に湿気が含まれていることだ。しかし、地形が平坦なので、風は雲になることはなく、島を素通りしてしまう。
地の精霊王が襲来して、高い山でもできれば、大分島の様相も変わるとも思うが、無論、自然は、そんな勝手な人間の都合は叶えてくれない。
いずれにしても、この島自体、人が好んで住むところではないことだけは、確かだった。
ともすれば、空気の揺らぎに紛れ込んで消えてしまいそうな、一つの影を追う。砂色の服に上下を包んだ姿が、周囲に溶けこみ、見失いがちになる。
荒れ野の案内人で、メクターナという植物の採取を生業としている者だった。
この過酷な条件の島に人がいる理由は、その、砂漠の島の特産物にあった。
メクターナは香木であり、それ自体が、彫刻品や雑貨として好まれる。そして、その樹肌を傷つけて樹液を取り乾燥させると、香辛料になる。
さらに、メクターナの樹肌を長い時間をかけて煮詰め、夜の間に静かに冷やし、結晶化させると、薬となる。この薬には、体内の精霊のバランスを保つ働きがあり、難病にも効果があるというので、こぞって買い求められ、高値で取引されている。
そのように便利な植物が存在するのなら、根絶やしになるまで採られ続けるのではないかと思うが、そうはなっていない。
メクターナの存在する荒れ野の、過酷な条件だけでも人を遠ざけるのに充分だが、この香木に巣食う、猛毒をもった虫が、採取しようとする者の前に立ちはだかると言われている。故に、毒虫への対処法を秘伝として知る採取師にしか、メクターナを採ることはできない、とされている。
香木がその身に毒虫を棲まわすことで、周囲の生物から身を守る。
娼婦の出自ながら、王をはじめ宮廷の人間を次々に篭絡し、毒蛇を飼って、競争者や邪魔者を始末していったという伝説のムディールの貴婦人のような、いかがわしさを感じる。
毒や棘を持って身を守る。自然には良くあることだが、どうも、メクターナの値を吊り上げるのと、商人たちからの乱獲を守るためとで、島の人間が、毒虫の存在をでっちあげて共謀しているのではないか、という気がしないこともない。
数年まえに、母親の病気を治そうとする若者がこの毒虫に刺されて死んだというから、でっち上げだとしたら、罪深い。
採取師は、そんな疑念を知ってか知らずか、砂のように無口である。
村のタブーによそ者が触れるとろくなことにならないのは、経験で知っている。それを身を持って確かめてやろうという命知らずなことをわざわざするだけの理由はなかった。
ただ、この荒れ野に足を運ぶ理由はあった。
局所的にではなく、島全体のスケールで、地と水の精霊力がどうなっているのかを知りたかったのである。上位精霊の影響や古代の魔法装置などで天候に異常があるのなら、島のどこかに顕著な異常現象が生じているはずだ。そしてそのようなところは、えてして、精霊力が極端に強いか弱いかで、人や生物は近寄らない。
一つの精霊力が突出して強く、精霊に居場所を与えられるようなところほど、生物には居辛い。だからこそ、人が立ち入らないところを調べる必要があった。
ゆえに、荒れ野をよく知る唯一の者であるメクターナの採取師に、案内役を頼み、島の内陸部の岩地に入りこんだのである。
この島の砂漠には、古代王国時代に太守の館が存在したということで、2、3の遺跡が存在していた。この気候と水利の悪さで、なぜにこのようなところで古代の都市が建設されたのかが不思議だと首を捻ると、採取師が島の歴史について語り始めた。
もともとアザーンは、大陸に位置した古代王国の、流刑地だったという。権力の中枢から追われた腹いせのせいか、魔術師達はずいぶんと放埒を行なっていたようだ。危険な実験などで問題を起こして追放された魔術師が、辺境にあって人目をはばからずに研究を続けたりしていたので、貴族以外の住民には、大概な迷惑の一つだったのだろう。
その頃の副産物が、今も時折、事件の引きがねとなり、冒険者の飯の種になっている。今回の、水が無いという慢性的な問題も、そのうちの一つであるというのは充分に考えられる。
古代王国時代の末期には、貴族の横暴に耐えかねた人間の蛮族に、妖精族やケンタウロスまでが加わって、大規模な反乱が起きた。貴族という貴族は、その立場を追われ、実験設備は徹底的に破壊された。
一つ興味深いのは、古代王国時代には、この島は温暖湿潤で住み易い気候であった、という記録が残っているということだった。
魔術師が天候操作か何かの、大規模な実験に失敗したためにこのような島になってしまった、という説と、もともと流刑地として過酷な環境の島が定められ、流されてきた魔術師達が日々の努力で環境を変えていった、という説と、二つある。
通説になっているのは前者だが、後者の場合、島民が魔術師を殺してしまったために、もとの不毛の島に戻ってしまった、ということになる。物語としてはそちらの方が、皮肉が利いていて面白い。
いずれにせよ、そのような背景から、アザーンの島民の、魔術師への偏見の念は、大陸のそれよりも大きい。逆に、蛮族の反乱の指導者が精霊使いであったから、今なお、精霊使いの社会的な地位は高いということだ。
意外に皆が協力的でいてくれるのは、そのような背景があった。
岩山の並ぶ地帯までやってきた。遮る影がないので、照りつける太陽が、厳しい。岩間を渡る熱風が吹きつける。
火と、風の力が、せめぎあっている。地の力は弱い。
追い出されたようにかすかな、水や植物の精霊の力。
草木がほとんどなく岩肌が露出しているので、他のものに覆い隠されない岩をよく観察することができた。
井戸の底で行なっていたのと同じように、精霊力を身に取りこむ。
ざらざら、かちかち、ずくずく、ねちねち、ごりごり、きしきし、すべすべ、とずとず、こちこち…
人や獣が皆、それぞれ違った外見や性格を持っているように、大地は、岩石ごとに、層ごとに、粒ごとに、異なる特質を持っている。
たとえば、砂岩。小さな砂粒が固まってできていて、ざらざらしている。構成する砂粒も、大きさによって、できた岩の性質が違ってくる。粉のように軽く細かい、手に取るとぬるぬるするような泥から、大粒の砂礫を含んだごつごつとしたまで、さまざまである。
結晶のように冷え固まっている硬い岩や、きらきらと光を跳ね返す細かな石英や雲母が含まれているものがあったり、鉱石を含み色のついたものが固まっていたり、なんとなく水っぽかったり、蝋のように油っぽかったり、空気を含んだスカスカしたものがあったり。その多様さに驚く。
そして、その層も真っ直ぐなものばかりではなく、ぐんにゃり曲がったところ、傾斜している部分もあれば、途中で途切れているところ、層がずれているところもある。神がそのように変化を与えて創ったのか、それとも、作られてから後に神々の戦や天変地異によって、曲げられ、断たれてしまったのかは、わからない。
神は、生物にさまざまな個性を与えたのと同じように、地の層にもそれぞれの特色を与えたのだと思えた。それらの同じような特徴を合わせ持つものは、水平に層を為して、広がっている。大地は、パイの皮を何枚も重ねるように作られたようだ。
その1枚1枚の層は、違った柄の服を重ね着させるように、神が気まぐれに、いろいろな性質を織りこんだものであるらしい。
もともと、大地は、巨人の肉体から生まれた、と言われている。地層はさしずめ、裸の巨人の肉体に着せた衣服だ。
大地の母神マーファは、存外、お洒落だったのだろうと、埒のあかないことを考えてみる。
岩に手をかざす。井戸の底で行っていたのと同じように、大地の精霊の力を感じ取る。ここでは、炎と風の力にさらされ、地の力は、だいぶ弱まっている。それでも、局所的に地の力が大きいところがあり、そこに岩山が形成されている。
ふと、盛り上がっている岩場の層の大地の力が、井戸の底で感じたものと、よく似ているような気がした。
緩やかに、斜めに傾斜している。たどってみると、途中から、地面の下にもぐりこんでいた。村の方角が、傾斜の下側だった。
井戸の底で行っていたように、岩に指を擦りつけ、匂いを嗅ぐ。そして、頬に塗るようにして、その粒の感触を確かめる。視覚、嗅覚、触覚。それらと、精霊力を感じ取る感覚を重ね合わせる。
全体的な地の力に強弱の差はあれ、やはり、井戸の中と同じであるように感じた。
乾いた砂の上に、井戸と岩場の層を、ちょうど実物の高さ関係になるように、描いてみる。
…岩山と村の井戸。もしかして二つの層は、繋がっているのではないか。
とすれば、地の力が強まって岩山ができたのではなく、もともと、地面であったところに、炎と風の力が強くなって、岩が削られ、砕け、風化していったということになる。
ここの岩を調べれば、井戸の底の水を含む層について何かわかるだろう。
ただ、ここでも、露出している表面しか確かめられない。肝心の、岩の内部はどうなっているのだろうか。もっと立体的に把握できないものだろうか。
井戸の底に相当する部分の岩、水を含んでいるはずの岩を、切り出してみる。ナイフが刃こぼれするぐらい硬い岩だ。しかし、他の岩にぶつけて砕いてみると意外にあっけなく崩れる。硬いが衝撃にもろい類の、いわばガラスのような性質の岩だ。そこに働く大地の精霊力は、きんきんと、尖っている。
砕片をよく見てみるが、見ただけ、触れただけでは、この岩の中にどう水が存在するのかはわからない。水の精霊力を探してみるが、長い年月、空気のもとにさらされているせいか、水が含まれているようには感じられない。
持ってきたハンマーで、井戸の底に相当する部分の岩を砕く。そして、その岩の上に、水筒の水をたらしてみる。
地下水を含む層であれば、水は岩の中を通り、下に滴り落ちてくるはずだ。
しかし、水は、下から染み出てはこなかった。
そんな馬鹿な、と愕然とする。水を通さなければ、地下水を蓄える事は不可能だ。
最初から、この島には地下水はなく、一度染み出してきた水は、たまたまそこに溜まっていたのを掘り当てただけだったということなのだろうか。それとも、岩山の地層が井戸の底と同じであるという仮定が間違っているのだろうか。
後者であって欲しい、と願った。
ふと、岩の精霊力に違和感を感じ、より深く感知してみようとしたときだった。不意に、強い陽射しの影になっている岩陰で、背後の砂が盛り上がった。それまで黙ってこちらを見ていた採取師が、悲鳴に近い声を上げる。
「岩蟲!」
ロックウォームだった。人間の身長の3倍以上もある、巨大な軟体が、うねっていた。
食欲という本能によってのみ動かされる生物特有の、強い気概を漲らせている。
ウォームは、ミミズに似た頭を剥いた。頭の先、口の部分が、もこりと割れる。異臭のする液体が振り撒かれた。
バランスを崩さぬよう、なるべく平らなところに足を置いてかわす。液体の飛沫が革鎧の肩口にかかる。シュウと煙が上がった。酸だ。
弾力のある皮膚に、刃のある曲刀が通るかどうかはわからない。
地の精霊力は弱い。辛うじて扉を開けるかどうかという状態だ。しかし。
今なら、呼んでも許される…と。
自分の内部の声が囁いた。
"ノームよ、土と岩の源、大地の力を紡ぐ者は、岩の扉を通り来たる。おまえの手足は、蟲を貫く硬い飛礫となる!"
小さくおぼろな扉。無理やりこじ開けて、地の精霊を引きずり出す。
地霊の飛礫は、周囲の岩肌と同様の、脆い小石にしかならず、ぬめった岩蟲の皮膚に、食い込ませる事もできなかった。
岩蟲はさほどひるみを見せず、威嚇するように首を振る。
皮膚の表面に分泌される粘液に、砂が絡み付いて、ぼとぼとと落ちた。
後方で、呪文の詠唱。自分とは違った声の精霊語。
岩影から、黒い球体が浮かび、岩蟲に吸いこまれる。採取師が呼び出したシェードだ。心なし、岩蟲の動きが緩慢になる。
「リヴァース、おまえも、闇の精霊を!」
採取師の指示に、は、とする。
"闇の子シェード。戦慄をもたらす者。岩の影はおまえの拠る扉。長蟲の心はおまえの贄…来たりて存分に食らう!"
言われたとおり、岩陰の暗がりを扉として、闇の精霊を召還し、岩蟲にぶつける。
岩蟲の巨体は、ずぅん、と音を立てて、糸が切れたように岩場に沈み込んだ。
ほう、と息をなでおろす。幸い、出現したのは一匹だけであり、採取師にも怪我はないようだった。
「何を考えているのだ。ここで地の精霊を使うは難しいことぐらい分かっているだろう。無事に召還できたから良かったものの」
採取師に、疑いの視線を向けられた。弱い扉をこじ開けて無理に精霊を召還すると、何が起こるか分からない。最悪、狂わせてしまうこともあるかもしれないのだ。
そして、以前、炎の精霊力の極端に強い荒野を旅した時に、巨大な蟷螂に襲われたことがあったが、その時、土地の呪い師に、砂漠に限らず昆虫や動物は、精神の攻撃に弱い、ということは教えてもらっていたはずだった。
それがわかっていて、なぜ、あんな無謀なことをしてしまったのか、自分でもよくわからなかった
「すまない。ここの地の精霊力の状態を正確に把握しておきたかった。召還できるならなにか分かるかもしれないと思ったんだ」
「そんなものはいつでもできるだろうが。何も、襲われている時に行なわなくても」
「…言われてみればそうだな。…ただ、不必要に精霊は使いたくはなかった。襲撃されているなら…危機にあるなら、精霊を呼んでも許されるかな、と思った」
「何だそれは。…変な奴だ」
よくわからん、というように、採取師は肩を竦めた。こちらも自分の行動にいちいち理屈を持っているわけではないから、納得のいく説明はできない。ただ、むやみに精霊を使うべきではないという点には同調してくれたらしく、好意的には受け止められたようだった。
採取師もまた、腕の良い精霊使いであるようだ。荒地の強暴な生物から見を守る手段としては、精霊魔法は有効である。メクターナの採取だけではなく、どうしても水が手に入らないときは、海水を生水に変えたりしたりと、彼は島にはなくてはならない人間である。そのような者を危険にさらしている事については、咎めるものがあった。
採取師は、生粋の島民だと思ってたら、そうではなく、もともとは遺跡目当てにやってきた冒険者だということだ。しかし、砂漠で脱水症状となり、のたれ死にしそうになったところ、先代の採取師に助けられ、看病してくれた村娘と昵懇になった。それ以来、老齢の採取師の跡を継ぐために、島に住みついたということだ。
「最初は単に、確実に金儲けができると思ってたのだが」
とのことであるが、厳しい気候で危険も多く、冒険者以上にリスキーな仕事だとこぼした。それでも、今の状態を気に入っているようだった。
自分のことは、最初は水探査を装った金儲けが目当ての冒険者だと思っていたということだ。それ自体は珍しい事ではなく、彼自身、冒険者の案内人を引き受けた事も2,3度ある。ただ、遺跡を目指すかと思ったら、岩ばかり見ているので、変な奴だと思っていたらしかった。純粋に、水の出ない原因を調査しているということは、わかってくれたらしい。
「にしても…ここで岩蟲にでくわすとは。このあたりはまだ巣から離れている。奴らの活動範囲ではないはずなのだが」
採取師が疑問を呈した。
「生息地が広がったのか。数が増えた、などで」
そう応えてみるが、岩蟲は、数10年を生きることができ、繁殖はあまり盛んではない、ということだった。
巣に何か異変が起きているのだろうか。危険の影が見えたらすぐに引き返すという条件で、岩蟲の巣のある場所までいってみることにした。
巣は岩山の中に、ミミズの棲家のように、掘られている。その出口のあるあたりでまでやってきた。
岩蟲は岩を食べる為、その当たりはほとんど、浜辺のような砂地になっていた。足を取られる。が、岩蟲の気配は無い。
ふと、巣山の大地の気配に、違和感を感じた。危険を圧して、近寄ってみる。
「これは…」
岩の巣穴の入口を含めた岩山全体に、錆びた金属の粉が撒かれていた。赤茶けた色からすると、おそらく、鉄である。錆びの進行具合からは、乾燥した気候を考慮に入れても、撒かれてからあまり時間はたっていないと見えた。
岩蟲は、砂や岩をも強力な酸で解かして食べてしまうが、自分では消化できない金属を嫌う性質があるという。何者かが、砂鉄を用いて、岩蟲の巣を荒らしたのだ。金属を使うということは、ヒトの仕業以外には考えられない。
一体誰が、何のために?
見当がつかないままに、巣の周囲をよく観察する。
ふと、岩石の上に、うっすらと、雪が降ったかのようにかぶさっている、絹糸のような結晶があることに気がついた。
「…これは、硝石だ」
透明味のある白で、ガラスのような光沢がある鉱物だった。脆くて軟らかく、少し擦ると簡単に粉になる。舐めてみると、塩のように辛い。
硝石は、風と炎の力を強く秘める岩石の一種である。
砂漠は、火と風の精霊力が極端に強くなった土地だ。それらの力を受けながらできた鉱物なのか、それとも、岩石が風化する過程で、火と風の力が含まれ、こういった鉱石となるのかはわからないが、砂漠や気温の高い荒地で、時折見つかる。
悪意の砂漠の遊牧民と生活をしていた時に、同じものを見たことがあった。水で湿らせた粘土に混ぜて乾かし、強く壁などにぶつけると、ぽん、と音を立てる。微妙な形状や時の角度で、音がしたりしなかったりする。円錐形にして、先端を壁に当てるように飛ばすと良いようだった。
子供達が玩具にしていて、誰が一番うまく音を立てられるか競争をしていた。そんな事で貴重な水を使うなと、大人たちに怒られているのを、よく目にした。その大人たちも、自分たちが子供の頃に遊んだものなのだから、強くは言わない。1度、足元に放られたものを踏んでしまい、大きな音がし、ずいぶんと驚かされた事がある。
硝石に強い熱や衝撃を与えると、火と風の力が解放される。急激な精霊力の発生と解放は、周囲にさまざまな形で変化をもたらす。音を立てる遊びはそれを利用しものだ。
採取師によると、サバスの島では、砂漠や荒れ野の周辺や村の近くでも、硝石はよく見られるとらしい。しかしこのように山を覆う大規模なものは、初めて見たということだった。
付け加えて、最近、よく来る商人や冒険者以外の、見なれぬ者が島にやってきて、砂漠や荒地にも出入りをしているということを告げた。何か関係しているのだろうか。
もう少し調べるべきかもしれないが、野営の容易はしてきていない。夕闇が迫る前に村に帰らねばならなかった。
結局、決定的な発見は無いままに、帰路を取った。
暮れなずむ空のもと、村にほど近い岩場までやってきた。
ここでは、毎日、夕焼けが、嫌になるほど赤い。空も砂も生物も、全てが否応が無く、赤一色に染められる。
砂煙で大量に舞いあがった埃が、大気に散乱し、太陽の火の力に焼かれて、空が赤く染まるのだということだ。
心まで赤く染まりそうな夕日に見惚れながらぼんやりと歩いていると、いきなり、足元で、パン!と激しい音がした。
不意を討たれて後ずさり、岩に浮いた砂に足を滑らせる。砂埃が舞った。追い討ちをかけるように、パンパン!と連続して音が鳴る。
身構えると、やった、やった、とはしゃぐ声。岩場の向こうに子供が数人、一目散に逃げていた。硝石と粘土を捏ねて作った、音玉で遊んでいたのだ。
一番近くまで来て音玉を投げていた子供が、西側の斜面のほうへ駆けていく。
「おい、そっちは危ない」
崩れやすい、と言おうとした矢先、足が脆い岩を踏みぬいて、子供が転げ落ちた。
「危ないところで遊ぶものではないと、いつも言われているだろう」
採取師が嗜めながら、子供を助け起こす。怪我はないらしい。
悪戯を咎められ、子供はばつが悪そうに、舌を出す。 他の子供たちを率いていたので、少年かと思っていたら、女の子だった。
たまにくる冒険者と商人のほかは、島には人はあまりやって来ない。
大人達は、通常、顔見知りの商人以外の余所者との接触を嫌っているが、村の者に混じりながらうろうろしている旅人に、子供達は興味津々だったようだ。
「火を出して水を無駄遣いした罰で、荒地に行かされていたの?」
大人達から色々と聞いていたらしい。間違ってなくもなかったが、一応、井戸の水が出るようにするための調査をしている、と強調しておいた。
「水が出ると、体を洗うこともできるぞ」
「いらなーい。乾くと痒くなるもの」
乾燥の激しいところでは、皮膚はかえって、洗わない方がよい。垢や埃が皮膚の保護となり、保湿してくれるのである。不潔ではない。気候に応じた衛生のあり方がある。
少女は名をロピュタといった。日によく焼けているが、末は島で評判の美人となるだろう、目がくるくると大きく、彫りの深い整った顔立ちをしている。
「ねぇ、どうしてあっちが危ない、って知ってたの?」
ここで生まれ育った子供としては、自分以上に、ぽっと来たよそ者が、自分たちの縄張りの様子を知っていることが不満であるようだった。
「みれば分かる。あちらの地層がそうだが、表面に粉が吹いていて亀裂が多い乾いた岩は、風の力に弱められているので、すぐに崩れる。特に砂質で粒が丸いものは滑りやすい。それに西側は風上になりがちなので、風の浸食を多くうけているから、特に脆くなっている。
同じ亀裂があっても、こちらの下の方の岩のように、濃い色の岩は、粘土で出来ていて、崩れにくい。亀裂は昔の水の貫入でできたものだし、粒の摩擦が大きいから、層自体は安定している。遊ぶなら、もう少し下側のほうがいい」
実際に岩を差しながら、各々の層の違いを説明する。
全部は理解してくれず、ロピュタはきょとんとした様子だったが、すぐに目を輝かせた。
「どうしてそこまで分かるの?精霊使いになったら、そういうことが分かるようになるの?」
「……」
直接的な問いに、答えが詰まる。子供は、直感的に物事に白黒をつけたがるので、苦手だった。
その質問の答えは、イエスとも、ノーとも言えた。
たとえば、なんとなく付近の水の力が強まっている、という事を感じることができたとしても、その後に雨が降るのか、霧になるのか、それとも近くに泉があるだけなのかは、分からない。正確な状況を知るためには、精霊力を感じる感覚に、他の様々な条件を組み合せて総合的に判断せねばならない。
精霊感知は、他の感覚や判断の助けにしかならない。それ自体が具体的な情報をもたらしはしないのだ。精霊使いが能力として持つのは、あくまで感覚にすぎない。その感覚が自然現象として何を意味するのかまでは、知る事はできない。その判断を行なうのは、結局、自身の経験と知識だ。
それを子供に説明するのも難しいので、それもある、と曖昧に頷くしかなかった。
もう暗くなるからと、採取師が、子供達に家に戻る事を促す。
「水が出たら教えてねー!」
そういってロピュタは、遠巻きにみていた他の子供達と共に、採取師に連れられて、村へ帰っていった。
■■■
採取師や子供達と別れ、自分も村に入る。
200人ほどの小さな村落だ。夕餉の支度に忙しそうに、人々が行き来する。
疲労が重い鉛となって、身体にのしかかっていた。水を浴びて、汗と砂を落としたいところだったが、それはここでは、どんな王侯貴族にも望めない、贅沢であった。
荒れ地で見た地層が、井戸の底のものと同じものかどうかを確かめたかった。疲れているので翌日にしようかとも思ったが、記憶が細かいうちに、良く見ておきたかった。
もう一度、井戸の底に下りる。
かすかに届く太陽の光を扉として、光の精霊、ウィル・オー・ウィスプを召還する。
地と水の力を読み取るのに、他の精霊力が働いていては邪魔になるので、これまでは他の精霊を持ち込む事はしなかったが、今回は、荒地で見た地層と照合するため、精霊力と視覚を合わせて考えてみる必要があった。
青白い光の元、地層を凝視する。見る、という感覚に集中する。確かに、様相、厚み、砂岩の粒の大きさ等の地層の特徴は、荒地で見たものと同じであるといえそうだった。ただ、風にさらされる事のなかった地の力は、ずっと強い。
ふよふよと漂う光の精霊。闇の精霊や光の精霊からは、あまり生物としての意思が感じられないので、なにかの物体のようにしか思えないところはある。そういえば、儀式や入れ物を必要とせず、長時間、物質界に止め置けるのは、光と闇の精霊だけだ。彼らは、物質界をどう感じているのだろうか。
あたりまえだが、精霊は、通常、精霊界にいる。異常があって物質界に存在している精霊は、まず、狂っている。長時間、精霊が物質界に在ると、あまりにもかけ離れた環境の違いのため、居心地の悪さの為に、狂ってしまうからだ。人間が、なんら防護なしに火の中に長時間いるなど、到底できないように。
その精霊界にあるところの精霊たちの力が、精霊界と物質界の中間にある妖精の世界にいる妖精たちにより、紡がれて物質界で働いている。我々はその力の、属性や性質を感じようとしているにすぎない。
それを飛び越して、物質界に精霊を呼びこむことは、考え様によっては、狂うほど居心地の悪い場所に、無理やり彼らを引きこんでいるという行為であるとも取れる。
精霊使いは、それぞれの精霊の力の現れである自然の現象が働いている場所を通して、精霊を呼ぶ。精霊使いはこれを「扉を開く」と称するが、捉え方によっては、小さな孔から手を伸ばして、無理矢理彼らを掴まえて引きずり出しているような仕業にも思える。
召還はできるのに、なぜ自分が精霊界に行くことができないのだろう、と思う。行けたとしても、それこそ、嵐や水や氷の中に閉じ込められるのと同じで、快くくつろぐことなどできないのだろうけれども。
だから、できるだけ、不必要に精霊を呼ぶことは、避けたいと思っている。ただ、精霊を友人として自らの傍に呼び込み、共にあることを喜びとする精霊使いも多い。その当たりの認識は、何が正しいとも言えない。
肝心の精霊自身は、好きとか嫌いとかいう感情をもっているかどうかもわからないからだ。精霊が感情を持っているとする時は、えてして、精霊に接触する術者自身の感情を置き換えている場合が多いだろう。
感情は、精霊の働きによって生ずる。そうすると、精霊が、精霊界の他の精神の精霊の存在なくては存在し得なくなるという、おかしなことになる、との矛盾を賢者は指摘しているらしい。闇の精霊や森の精霊のように、精神の精霊であったりそのほかの属性を司っていたりしているから、別にいいのではないかと思うのだが。
ただ、もし、精霊が感情を持っているとしたら、彼らは、我々物質界の者とは全く別の、想像もつかない感じ方をするだろう。だから、自分の感情を精霊の感情であると誤認することは、いずれ過ちを招く気がするのだ。
いずれにしても、精霊は、意思は持っている「生物」であるが、同時に、力であり、性質であり、属性である。そして、より意思の力が大きい存在に、従うことは、はっきりしている。だから、精霊を召還するならば、物質界に呼ばれる精霊が少しでも居心地よくあれるために、自分の意志の力を強めたいと思うのだ。
そんな事を考えている間に、光の精霊は精霊界に戻っていった。
"悪かったな…ありがとう"
暗闇に声をかける。
光や闇の精霊も妙な連中で、他の精霊のような意志を、持っているようにはほとんど感じられないので、物体のようにしか思えないところはある。
光と闇の精霊は対を成しており、闇は同時に恐怖を司るが、光は何かの精神を司っているのだろうか。楽しさや、嬉しさは、光の精霊の為す仕業だとしてもおかしくはないのだろうが、確信は持てない。
まったく、未だに自分は、精霊のことなんて、ちっともわかっちゃいない。
たとえば、精霊に寿命はあるのか。一体どのぐらいの個体がいるのか。
そんなことすら、分からない。
分からないままに、めくらめっぽうに手を振り回して、手に引っかかってくれるものを、引っ張っているにすぎない。そして、考えれば考えるほど、触れれば触れるほどに、わからないことばかりが増えていくのだ。分かる事といえば、自分は何もわかっていない、ということばかりである。
地上から入る光は、何時の間にか、無くなり、闇の気配が濃厚になっていた。
井戸の底は通常、涼しいが、今は、やけに蒸し暑いように感じる。
頭がぼうっとしてきた。
これまでかすかに働いていた風の力が、全く感じられない。息が微かになっているようだ。苦しい。暗闇なので気がつかなかったが、目が、見えにくくなっているようだ。
上を見る。空が見えない。温度の視界で見ても、わからない。
空気が薄くなっているようだと気がついた。はっとする。…まずい。ここから出なければ。
立ちあがり、伝ってきた綱を握る。体重を支えるまでもなく、それはポトリと、底に落ちた。
綱が切れていた。
ドクン、と心臓が波打ち、ぞわりとうぶ毛が逆立つ。
壁を伝い上がろうと立ちあがる。露出した岩盤に手足をかけ、垂直の壁をよじ登る。
砂が浮いて滑りやすい壁。なんとか体を支えるが、すぐに、足が震え、腕が重く痺れ始める。
半分も上らない間に、苔むした一角に足を滑らせ、バランスを崩す。身体を支えきれず、落下した。とっさにしがみつこうとした手が、壁に擦れて、爪と指が擦りむけた。突っ張らせようとした足を断続的に強打する。
かろうじて頭をかばいながら、底まで落ちた。
息が荒くなる。いっそう、空気を消費してしまう。
ズキン、と左腕が痛む。途中壁に打ちつけたことで衝撃が分散されたせいか、幸い、骨に異常はないようだったが、したたかに捻ったようだ。
状況は、喜ばしくない。霞みゆく意識。身体を強打した激痛の中で、空気が足りず、頭に靄がかかる。
頬を引っ叩く。何とかしてここから脱出しなければならない。
闇の中で目を凝らす。入り口降りてきた距離を思い起こす。地上まで…塔一つ分といったところか。背筋を冷たいものが流れる。唾を飲む。
どうすれば良い?
もう、壁を伝って上がるのは、不可能だ。特別な訓練を積んだ者なら可能かもしれないが、自分では、勾配がついていない限り、再び挑戦しても途中で落ちるだろう。
…浮かんだ方法は、一つ。
地霊に命じ、井戸の中から地面に斜め上に向けて孔を穿ち、地上まで脱出することだ。
魔法による空洞は、空いている長さにも時間にも、限りがある。ここまで降りてきた長さを考えると、3、4回は繰り返し魔法を用いねばならない。上側にあけた空洞を攀じ登り、先端まできたら、また、上に向けて、孔を穿つ。それを繰り返す。
しかし、昼間の戦闘ですでにかなり消耗していることもあり、精神力が持つかどうかはおぼつかなかった。
空洞の長さを最短にして魔法の回数を減らすために、角度をなるべくきつく、垂直に近く取らなければならないが、勾配が大きいほど、登りにくくなる。頭の中で、垂直の井戸と、これから通す空洞と、水平の、三角形を描く。補助無しで登ることのできる最大の勾配は、水平の長さに対して、2倍の鉛直がせいぜいである。
穴を穿つもっとも的確な角度を正確に読み取り、その通りに穴を穿つよう、地霊を行使せねばならない。空気も、精神力も、余分はない。空洞は、先のほうから除々に閉じられていく。それまでに孔の先端にたどり着いて、重ねて次の孔を穿たねばならない。
伸るか反るかの賭けだが、他に方法も思い浮かばず、体力も時間もなかった。
どくどくと、心臓が耳元で脈打つ。
集中する。きぃぃん、と耳鳴りがする程に。
拙速よりも、慎重さをとる。大地の厚みを読み取るために、精霊力を感知する。神経を周囲に溶けこませる。地上までの距離を、地の精霊力を測ることにより、正確に読み取ろうとする。誤れば…死ぬ。
感覚が、神経の一本一本が針のように立っているかのように、鋭敏になる。
目を閉じ、自分の体の中と向かい合う。肉と骨。血。呼吸。熱。その存在を統括する命。混ざりきった数多の精霊力の中にある、不可分な地の精霊力を知覚する。波間に漂う葦になったように、ゆらゆらとしている。自分は、精霊力の大海の中の、ほんの小さな、葦。それも薄れ、夢幻に希釈されていく。
ふと、ガルガライスの南方の荒野、炎暑の地で、「紅い塩」と呼ばれる特産品を採りにいった時(→)の、熱病と脱水で死にそうになったときに感じた感覚が蘇ってきた。
サラマンダの吐息の中にいるのではないかと錯覚するほどの暑さ。皮膚が熱に冒され汗すら出ず、鼻や目の粘膜もひりつき、熱のせいで目玉が変質して卵の塊のように感じられ失明するのではないかと思った、熱気。体力も尽き果てて、脱水状態に陥った極限状態の中で、倒れる直前に見た光景と、感じた感覚だった。
風にゆれる砂の粒ひとつひとつが擦れる音まで聞こえそうな。
天に浮かぶ無数の星、どんなに暗く小さな星も、深遠まで見渡せそうな。
岩が割れて立ち上る、ほのかな水の匂いまで嗅ぎ分けられそうな。
蟷螂が砂の上を踏みしめるその振動まで感じ取れそうな。
地底にありながら、天界に浮かんでいるような。
不思議で透明な感覚。
存在が、濾された水のようにクリアで、環境と自分との境界が限りなく希薄になる。皮膚を水のように、空気のようにさせながら、自分の中の大地の精霊力と、周囲の大地の精霊力を同調させる。そして、自分の意識を泳がせるように、外側の大地の様相を読み取っていく。
感覚がこれまでになく、鮮明だ。時間がゆっくりと流れているように感じる。
この瞬間、消費されていく空気のことも、今為さねばならないことも忘れていた。感覚に意識が飲まれる。
付近の精霊力が、色鮮やかで、とろりと、濃い。あぁ、この感覚だ。欲しかったのは。
圧倒的な自然、荘厳な光景を前にしたときのような。自分の存在がかき消されてしまうときのように薄いのに、周囲の至るところで、自分の感覚の波が強い音を発している。
その感覚の中で、読み取る、というよりは、流れこみ混じり溶けこんでくるもの。
心地よいざらつき具合の大地の精霊力に、細かな斑模様があるような気がする。小さなひじきを散らしたような暗黒模様。精霊力の空洞が、無数に散らかっている。
今まで一様に層の中に分布していたと思っていた大地の精霊の力に、むらがあることに気がついた。井戸の壁に近くなるにつれて、わずかに、ほんのわずかに、精霊力が強まっている。
さらに、壁から感覚の触手を広げる。感覚がまだ鈍い。遠くから針の穴を覗こうとしているかのようにぼけている。分解能が足らない。
少しでも細かく読み取っていこうと、集中させる。繊細すぎる感覚で、一つ一つの砂粒の間の空洞を追うように、集中させて、感覚を拡大させる。精霊力の無数の空洞。砂粒より小さい空間を読みこむ。
すると、壁から離れ、地中深くにいくに連れて、地の力の空洞が、ほんの少しずつ、増えていく気がした。それに代わって現れる、別の波長の気配。
フッ、と、神経が違うものに切り替わる。弦の長さを変えたように、精霊力の音域が別のものになる。水の気配が流れ込む。大地の中に存在する、見えないところにある水。自分の血管が、地の中に張り巡らされていて、感覚の流れが運ばれてくるようなイメージ。あるいは、水滴が体の中をぽとりぽとりと侵食していくような錯覚。
水の精霊力が散らされている。時間が停止した紙ふぶきのようだ。いや、これは、つい今、見たものだ。そう、大地の中の、ひじき状の空洞。それとぴたりと一致する。微かな、細かい、水の力。ともすればかき消されるものを、集中して、追いつめる。空間的に把握していく。
壁の近くでは働いていない水の精霊力。それが、壁から遠ざかるにつれてほんの少しづつ、強まっていく。水の紙ふぶきが、増えていく。
そして、大地と水、二つの位相を、重ねあわせる。違った音が重なり合い、和音になって、共振し高まるような感覚。
目で見たもの、肌に触れて感じたもの。その感覚を重ねる。あたかも、何枚ものの薄い羊皮紙を重ねて、光に透かして見るように。これまで別々に感じようとしていた、大地と水の、二つの精霊力と自分の五感を、緩やかに溶け合わせる。
そこに閃くビジョン。
読み取れ、と。自分の感覚に変換しろ、と。本能的な何かが闇の中で叫ぶ。
ぴぃぃぃぃん。
神経が竪琴の弦になり、共鳴して震えるような感覚。
精霊力の音が、立体化した。
井戸の壁の、岩の中の空隙に満たされた、細かな、細かな、水の力。岩の中に霧が閉じ込められているようなイメージ。水が詰まっているのか。流れたいのに、動かない。…動けないでいる。邪魔をされている。それは何を意味するのか。
あぁ、そうか、わかった。水が出ない理由が…今、わかった。
はっとする。現実の感覚が戻ってくる。
とても長い時間が流れたように感じたが、それは、精霊力を感知したほんの一瞬の出来事にすぎなかった。
水が流れない原因がわかった以上は、なんとしても、理解した事を上に持っていかなければならない。息苦しさを抑えつける。あわさった濃い精霊の感覚の中で、その力に溶けこみながら、精霊語を紡ぐ。
"地霊よ、岩を通してわたしと混ざれ。おまえの胎はわたしの進む道。地上へと導く孔をもて、おまえはわたしを迎え入れる…"
空気が足りなくて、ぐらりとめまいがする。頭の中が暗くなる。感覚が、地と水に溶けこみきったまま、意識が薄れかける。わんわんと、耳の奥が鳴る。目の前に星が飛んでいる。苦しい。
斜め上に開けた孔に手をかけて登る。勾配をきつくし過ぎた。ほとんど崖だ。ただ孔自体は小さいので、円形の両脇の壁を支えにしながら登ることはできる。
すぐに息が荒くなる。吸っても吸っても、空気が足りない。頭がぐらぐらする。ただ地上の光と新鮮な空気が恋しい。普段意識せぬ空気の存在が、こんなにかけがえがないものだったとは。
がむしゃらに登る。頭の中でどろどろとしたものが渦巻き、頭痛が激しくなる。
穿った穴の先端までたどり着いた時はすでに、穴は不安定になっていた。
二度目の、地霊への命令。根こそぎ精神力を奪われていきそうな気がした。精神の疲労が、空気を求めて軋り上げる肉体に重くのしかかる。もう一度これをやるともう失神するだろう。新たな孔によじ登るとすぐ、先に開けた孔が塞がり始めた。
そこで、とんでもない事に気がついた。いったん、2度目に空けた穴にもぐりんでしまったら、先に穿った穴が塞がってしまえば、後戻りは不可能になる。途中で力尽きたら、先に塞がってしまったところまで圧し戻され、生き埋めになってしまうのだ。
いずれにせよただもう、進むしかない。
身体が重くだるい。全身が鉛になったようだ。指一本を持ち上げるのにも全力を振り絞らねばならない。つらい。苦しい。空気を。空気をくれ。いま一息の空気を与えてくれる者がいたら、一生、下僕となってもいい。
もう自分が上へ向かっているのか下に落ちているのかも分からない。血管が軋む。身体の細胞という細胞が、空気を求めてわんわんと悲鳴を上げる。
もういい、もうこれ以上は無理だ。目を閉じよう。暗闇に意識をあけ渡そう。
苦しみに屈しようとする自分が、誘惑の言葉を囁く。倒れようと誘う声がこの上なく甘美だ。それに抗うたびに、あふれてくる黒い苦痛で、身体が破れそうだった。
永遠とも思える時間の後、霞んだ意識の中で、2度目の行き止まりを上方に確認する。
最後の1回。自分の中の物質と魔法の力を根こそぎ搾り出し、精霊を呼ぶための意識とする。
「地霊よ…」
周囲を扉として、3度目の精霊を呼びこみ命じた瞬間。
ぷつり、と何かが切れる。ぐらり、と身体が崩れる。頭が弧を描く。
だめだ。今、気を失ったら、もう二度と日の下には出られない。
そう警鐘が鳴り響くのに、押し寄せる黒い波に、意識をさらわれてしまう。
ふっ、と、身体が軽くなったような気がした。さらさらと砂になり、水に溶け、実体がなくなるように。暗闇の中に、身体が拡散していく感じ。
……あれ、自分は、精霊になったのだろうか?
そう感じながら、意識を手放す。存在が、闇に埋め尽されていった。
―― (続)
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