昇りて奇しき華 ( 2003/01/30 )
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作者
タルノ
登場キャラクター
犬頭巾



冬の日中は短い。その家の居間には、瀝青で囲われた炉が備え付けられている。
その中で火が爆ぜていた。
ゆったりとした衣に身を包んだ一人の老爺が、その中に薪をくべる。
周囲は橙色の明かりに満たされ、彼の影が部屋の後ろの壁に踊った。
箱灯がなくても、この炎が尽きるまでまだしばらく、彼の一日は続きそうだった。
「リイネ…。どこにいるんだい?」
老人はわずか首を巡らし、先ほどまでそばにいた孫娘の名を呼んだ。

その頃、少女リイネは、かび臭い淀んだ空気の中にいた。
そこは、家の古い倉庫であった。蜘蛛の巣が張り、歩くたびに、埃が舞い上がる。歳の頃は五・六歳、栗色の髪を頭頂で渦巻きにした少女、リイネは、口もとに布を結びつけ、箱灯りを手にして、注意ぶかく、倉庫の中を歩いていた。古くなった棚と棚の隙間の道をうかがい、時々は歩を止め考えるそぶりを見せながらも、迷うことなく進む。
彼女、リイネにとって、父親と母親が寝床についた今が好機だった。この古い倉庫に入ることは、普段は両親から禁じられている。なかは暗く足場は散らかり、危険だからだ。だが、リイネはここを探検するのが楽しみだった。
やがて倉庫の一角、目的の場所に彼女はたどり着いた。そこには、古い木箱が幾つか積まれてある。彼女は前にここで、木馬の人形や、ビーンズの詰まった袋を発見したことがある。その時はそれで引き揚げてしまったが、他の箱には何が入っているだろう? 探検の緊張と、膨らむ想像に、少女の胸は高鳴った。

彼女は箱を持ち上げてみて、確かな重量が感じられた箱の一つを、そっと開けてみた。
箱の中身は…。黒ずんだ世にも汚らしい布きれの他には、大きな一冊の書物が納められているのみだった。
その本も、元はそれなりに意匠の凝った総丁であったらしいが、年月を経て手触りはざらざらとしている。中に綴じられたページは日光に黄ばんでいるらしかった。しかし、箱灯りを本の表紙に近づけてみたとき、少女はもっと別の異様なものを目にして、小さく声を飲んだ。ばさりと本を取り落とし、数歩後ろに下がる。だが、幼子の怖いものみたさで、すぐまた、それを手にした。今度は、長い間それを見つめていた。
その本の表紙には、犬の頭巾を被った、薄汚れた、卑屈な笑みを浮かべた老人の顔が描かれていた。

「お爺ちゃん。これ、何のご本?」
そういって、少女は倉庫から持ち出した、そのかなり大判の書物を、眠るように暖炉の前の椅子に座る老爺に差し出した。
「ああ…これか」
炎が老爺の顔に影を作っていた。彼は黙って皺深い目を細め、その表紙の絵と、本の題名とを見つめた。
「お前には、題名の字もまだ読めないだろうさ。この本は、the shabby dog hood.「犬頭巾さん」という童話だよ」
「わ、お話なの?」
「そう。その昔、本当にあった話を元にしているんだけどね」
「ちょっと面白そう。お爺ちゃんおねがい。リイネにそのご本読んでよー!」
「うぅむ…。だがリイネ、この本はお前にはまだちょっと、難しいかもしれないよ。全然退屈で、詰まらないかもしれない」
「むー、何よ。リイネ、大人だもん!」
「仕方ないなあ」
眉尻を下げて微笑すると、孫娘の期待の籠もった視線を受けながら、老爺は本を開いた。大量の埃が宙に舞う。
「じゃあ、よく聞いておいで。昔々のことです。大陸の東、オラン王国に、犬の頭皮を被って暮らす一人の老人がいました。彼の名は犬頭巾……」

「犬頭巾さんは乞食をして生活していました」
「お爺ちゃん、乞食って何?」
「ああ…よその人にお金やものをねだって、生きている人…なんだが」
「え、そんなのって…」
言いかけ、リイネは途中で気づいたように目を見開いた。両腕を広げる。
「あーっ、もしかして……リイネ、町でそういう人見たことあるよ!」
老爺は黙ったまま、じっと彼女を見た。
「……」
出かけた次の言葉を小さく飲み込む。
リイネは、その問題が、何か触れてはいけない領域のものだということを直感的に悟ったようだった。
利口な子だ、と祖父は思った。これなら、この話を聞かせるのも、意味があるかもしれない。
リイネは、両手で口を覆って、しゃがみこんで懸命だった。しかし、その目を見れば、見も知らぬ、世の中によって隠されたものに対する興味の光は隠せなかった。
「難しい言葉もよく出てくるんだが」
老爺は言った。
「その辺は聞き流しても大丈夫だよ。じゃあ、続けよう」

                      ◇◇◇
犬頭巾さんはとても貧しく、足も悪くて、不幸でした。
だから彼が乞食をすれば、誰もが彼を憐れんで、お金を恵みました。
しかし、犬頭巾さんは、口ではへつらったお礼の言葉を並べるものの、心の中では髪の毛程も感謝を感じてませんでした。自分は誰よりも不幸なのだから、みんながお金をくれて当然だと思っていたのです。
犬頭巾さんについては、昔はいろんな罪を働いたとか、以前は地底の王国に暮らしていて、そこから逃げだしてきたと、一部の人の間では、噂されていました。
それらの噂はほんとうだったのですが、犬頭巾さんは、少しも反省してませんでした。彼は自分が悪いことをやってきたのは、自分自身のせいじゃなく、自分にふつうの仕事をくれない社会の責任だと、ずっと考えていたのです。

犬頭巾さんは、お金持ちの所にたずねて行って、自分の不幸を語ります。「アタシはこんなに不幸なのですから、アタシに金貨をお恵み下さい」
犬頭巾さんは、庶民の所にたずねて行って、自分の不幸を語ります。「アタシはあなたよりずっと不幸なのですから、アタシに銀貨をお恵み下さい」
犬頭巾さんは貧乏な人の所にたずねていって、自分の不幸を語ります。「いやいや、アタシの方がこんなに不幸なのですから、なんでもいいのでアタシにお恵み下さい」
こんな調子ですから、段々と町に悪い噂がひろがって、犬頭巾さんは、誰にも好かれなくなっていきました
でも、犬頭巾さんは、その悪知恵をだして、犬の頭を被るのをやめて、他の人になろうとは思いません。犬頭巾さんは、これを被らないと人と話すのが嫌だったのです。おかげで、満足に食べることの出来ない日が続くようになりました。町中では、乞食をするのもほんとうは許可料がいるので、それも払えなくなった犬頭巾さんは、町に居場所をなくしていきました。
そんな在る日のこと、犬頭巾さんは、一人の歳の幼い女の子に出会いました。彼女は、とぼとぼと、みすぼらしい町並を歩いていました。彼女はまだ、十に満たない子供でしたが、親に捨てられていたのです。
彼女は、犬頭巾さんにチカと名乗りました。犬頭巾さんはチカに食べものと服を分け与えて、連れて帰りました。犬頭巾さんにとっては、ほんの、きまぐれでした。


その日から、犬頭巾さんは変わりました。


自分とチカの食べる分を稼ぐために、森で花や薬草を採って、町で売る仕事をはじめました。犬頭巾さんはオランの郊外の森の中に、新しい家となる廃屋を、見つけました。そこで、チカと色んなことを話し、その生活を見守るのでした。
乞食も、心を入れ替え、一生懸命するようになりました。気持ちを込めお願いをし、お金をくれる人と長い間、話し込むようになりました。

夜中に犬頭巾さんは、チカが寝ている横で、一人で呟きはじめました。高い夜空の星に話しかけるようでした。
「アタシは今まで、ろくに人を思いやったことがなかった」
「以前いた乞食の集落でも、地下の王国でも、そうだった。だれにも、本当の意味で親身になったことはなかった。手前の下らないプライドが優先して、ああゆう結果を招いちまった。そして、全てを世の中のせいにして、償いもなく生きてきた…。今、できるものなら、あの人たちに謝りてぇ」
犬頭巾さんの真っ暗な目の穴から、涙が流れます。
でも最後には口を尖らせ、こう呟き、敷物を被ってしまうのです。「でも、本当にアタシだけが悪いんですかねェ…」


冬が来て、犬頭巾さんとチカの暮らしは、だんだんと悪くなっていきました。もう、売るものがありません。そして、町に貧しい人が多くなり、乞食もままならないようになりました。
しかしある日、犬頭巾さんとチカが森に入ると、樹のそばで、一人の身なりのいい中年の男性が倒れていました。どうも、毒茸を食べたようで、顔色が青いのでした。犬頭巾さんは悩んだ末、男性を小屋に連れ帰ることにしました。
二人の介抱の結果、にわかに意識を取り戻した中年の人は、自分が近隣の土地の領主だと名乗りました。
鹿を追って、森の中で迷ってしまったのだと。
「犬頭巾さんは、即座に、お礼を求めましたが、その人の着ていた立派な服と物腰を見ているうちにまだ収まりがつかず、病床の領主に対して、自分とチカがどんなに苦労をしているか、自分の人生が今までどれほど権力者によって搾取されてきたかを、夜更けまで愚痴愚痴と語り続けました。
領主は目を閉じて言いました。「わかった、あなたの取った労に対して、じゅうぶんに報いられると思う。だから、今は眠らせてくれ」

犬頭巾さんは喜びました。そうして、彼がまた目覚めるのを待っている時、犬頭巾さんは、ふと、壁に掛けられた、領主の服を目にしました。その時、彼の中に、ある抑えられない気持ちが起こったのです。
犬頭巾さんは領主の服を自分で着こみました。そして、チカに言いました。
「へへへ。今から、町へ行って買い物をしてきますよ。前祝いだ…そう、この姿でね」
彼は非常にうきうきした様子でした。
犬頭巾さんは、今まで取ったことのなかった頭巾を脱ぎます。
「こいつぁもう要らねぇ。チカ、これが欲しかったらあげますよ?」
少女はそれを受け取ると、嬉しそうに早速かぶってみました。目の前が真っ暗でおかしくて、チカの口元は綻びました。
「そうしてみたら、その格好も悪くないですねぇ」
犬頭巾さんは、へへ、と笑いました。
「じゃ、いい子にしてるんですよ。……ひゃっほおぉ!」


足が悪かったというのに、それは風のような早さだったといいます。
着物の裾を手で持ち、遙かに見える町を目指して走りました。両腕を広げ、斜面を駆け下りていき、口をあらん限り開いて。
その歓喜の声はチカの耳に何時までも聞こえていました。


犬頭巾さんはそれっきり、チカの元に帰ってきませんでした。
回復した領主は、残念そうに言いました。「実は、私は弟に陥れられ、追われる身だったんだ。私の首には賞金が掛けられていたから、私の服を着た、あの人もたぶん。彼のことは、忘れたほうがいい」
チカは今や、薄汚れていても可愛らしい、犬頭巾ちゃんとなっていました。
彼女は領主に手を引かれて、オランを離れました。
そしてその後彼らは、大陸の西で、幸せに暮らしたのでした。


                    ◇◇◇

暖炉の炎の勢いは、弱まってきていた。
老爺は静かに本を閉じ、膝の上に伏せて置き、ひとつ息をついた。
「……どうだったかな」
リイネは、咄嗟に言葉が出ないようで、ふるふると首を振った。
「死んじゃったんだ…かわいそう、犬頭巾さん」
「そうだね……お爺ちゃんもそう思うよ」
しばらく間を置いてから、老爺は眼鏡の位置を直して、言葉を続けた。
「でも、最近、私はね…。それだけじゃないと思うようになった」
「え……どういうこと?」
「犬頭巾さんは求めていたものを全て手に入れたんじゃないだろうかとね……。その中には犯した罪に対する罰というものも、きっとあったんだ」
「ん…もっとリイネにわかる様に言って?」
「いや……。私も犬頭巾さんも、いいお爺さんだ。その考え方というものは、リイネの歳で知らなくてもいい、歪なものが混じっている。誰からも愛されるお前だ、今感じている違和感が正常さ。それを覚えていてほしい」
「ン……」
「そう……。そのまま、いつでも笑える強さを、身につけるようにね。この先どんな不幸に会おうと、挫けないように。私からの願いだよ」
「うん、有り難うお爺ちゃん」
老爺は満足そうに笑みを浮かべた。
「それじゃリイネ、そろそろお部屋に行くね。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」


暗い倉庫の中で、開けられた小箱の縁にひっかかった、汚い毛皮の布きれが、据えた匂いを放っている。



  


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