狭間<中編> ( 2003/01/31 )
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作者
登場キャラクター
ラス ファントー





 雪が降ってた。
 かすかな、聞き取れないほどの音を立てながら静かに降り積もる雪。
 息を殺して。
 かすかな衣擦れの音も立てないように気配を絶って。
 ……そうすると聞こえてくる。
 さらさらと……高く透明な音がさやかに響いてくる。

 ──自分を手放すというのはこういうことかと、気が付いた。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 精霊の力を感じ取れなくなってから、1ヶ月が過ぎた。
 その1ヶ月の間、何をしていたのかというと……何のことはない。ごく普通に時は流れていった。
 眠れなくても朝は来るし。
 積極的に食いたいと思わなくても、目の前に食事を出されれば食うこともするし。
 精霊たちの“感触”がない世界で自分が生きられることが信じられなかった。眠って、起きて、食事をして、人と話して、街を歩いて……自分にそんなことが出来るのが信じられなかった。
 ──言葉にしきれないほどのもどかしさの中で。
 ──息苦しいほどの焦りの中で。
 なのに、ごく普通に生活を営むことが可能だなんて。
 あの瞬間は、心臓が止まるかと思った。なのに俺は今でも生きている。それが何よりも可笑しくて。

 この1ヶ月、チャ・ザ神殿前の広場にいることが多かった。その場所を選んだことに特別な意味はない。ただ、家から近かったのと、広場にはベンチもたくさんあって、一日中そこで惚けていても特に目立つわけではないからだ。あとは……そう、そこには人が多く出入りするから。
 あの瞬間までは、忌避していた場所のはずだった。溢れかえる人波。そこにまつわる精神の精霊たち。押し寄せる波に抗い続けるのは苦しくて、それでも抗わなければ、どこか酷く怖ろしい場所に連れ去られてしまいそうで。
 雑多な人々が行き交う場所で、その人々と、そして雑多な精霊たちのただ中で、俺は精霊たちを数え上げていた。幾つもの精霊たち。そこにいるはずの精霊たち。本来なら、数え上げるよりも先に、自分の感覚を解放するだけで全てが流れ込んでくるはずなのに。それでも今の俺には数え上げることしか出来ない。それは感覚ではなくて知識。風が吹いてるからシルフがいるはずだと、ただそれだけの。
 懐かしい、と思う。たとえどれだけの頭痛や吐き気に襲われてもいい。あの波にもう一度触れることが出来るならどんなにか、と。
 夜になれば暗くなるのが当たり前だと……そんなことすら忘れかけていた。俺にとって、夜というのは闇の精霊の力が増してくる時間というだけのことだった。もちろん、明かりをつけなければ暗闇になるのはわかるし、ドワーフたちのような視力を持っているわけでもない。それでも、闇の中でも精霊は息づいている。俺にとって暗闇は怖い場所ではなかった。
 けれど、今は違う。
 夜になれば、そして明かりを消せば部屋の中は闇に包まれる。それは今までとは違って、闇の精霊を感じ取れない空間。そんな空間で目を閉じるのは怖い。訪れる眠りの中に、眠りの精霊はいない。そんな眠りに意識を明け渡すのは怖い。
 そんな生活を続けているからか、鈍い痛みが頭の奥にずっとある。

 あの後、しばらく考えた。そうして、考えた末に出した結論は、もう一度最初からやり直すというものだった。
 精霊に触れることが出来るか否か。それが、努力ではなく純粋に才だと言うのなら、可能性はある。今まで、曲がりなりにも精霊使いとして生きてきた。俺の声は精霊に届く。そして精霊たちの声も俺に届く。それは、精霊使いに一番大事だと言われている素質があるということだろうと。
 精霊たちと、離れたくはない。
 願うのはそれだけだ。
 40年前に初めて知った、あの感覚。深く柔らかく美しい世界。
 精霊使いとして上を目指す……そんなことはどうでもいい。精霊魔法すら使えなくても構わない。ただ……ただ、精霊たちと離れたくない。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 そのことのきっかけは、ファントーだった。
 その日は、ひどく寒かった。ファントーが外から帰ってくる物音で、俺はうたた寝から目を覚ました。最近は眠りが浅いせいか、中途半端な時間にうたた寝をすることが多い。
「ただいまー。うー、寒かったー。雪降ってきたー」
 そう言いながら居間に入ってきたファントーがまっすぐに暖炉に向かう。何をするのかと見ていると、そこで丸くなってた猫を抱き上げた。
「へへ。知ってるんだー。こういう寒い日はクロシェはずっと暖炉の前。そうすっと、この毛皮が柔らかくてふっかふかに………………あれ? いつもより気持ちよくない。なんで?」
 クロシェを抱きかかえたまま、こっちを向いて聞いてくる。
「……なんでか知りたいか?」
「うん、ラス、知ってるの?」
「ああ。知ってる」
「え。すっごい。教えて!」
「…………手袋。したままだから」
「………………」
「………………」
「…………あ」
 思いだしたように手袋をはずし、あらためて嫌がる猫を捕まえようとするファントー。
「おまえ、しみじみと馬鹿だな」
「何がさ!」
「普通、気づくだろ。自分が手袋したままなことくらい」
「だって、ずーっとしてたんだもん。それにこの手袋、なんだか馴染みが良くて。ついついしてること忘れちゃってたんだよね」
 言い訳のようにそう言って照れ笑いをするファントーを見ると、思わず笑みがこぼれる。
「こないだ酒場でそんな爺さん見かけたぜ? てめぇで帽子かぶったまま、帽子どこだって探してんの」
「それだけ馴染んでるってことだよ。さーて、夕飯の支度しよっと。今日はね、顔見知りの猟師さんが山から下りてきてたから、鹿肉をわけてもらったんだ」
 言いながら台所に向かうファントー。

 邪魔にならないようにと、無造作に伸びた焦げ茶の髪を縛るその姿を見ながら、ふと何かが気に掛かった。
 ……手袋。帽子。自分の感覚に馴染んでるもの。
 身につけていることすら気づかないほどに、自分の一部になって。
 それは? たとえば自分の内部の感覚にもそういうものが……?
「…………ね、ラスもそう思うでしょー?」
「……あ? あ、ああ。……何が?」
「あ。また聞いてなかった。ここんとこずーっとそんなんばっかり」
「大人はガキと違っていろいろ考え事があるんだよ」
 そう言って、台所に立つファントーの手元を覗きに行く。
「だからさ。さっき言ったその猟師さん。オレが住んでる山に狩りに行く人なんだけどね。今年は雪が少ないみたいだから、春が早いかもって言ってたんだ。そう言われてみれば、確かに今年は暖かいよねって。そう言ってたの」
「ああ、そうだな。……おまえ、春んなったら山帰るんだろ?」
「そうだよ。じっちゃんと住んでた家があるもん。オレ、山好きだしね。…………ね。寂しい?」
 にへ、と笑うファントーの額を指で小突く。
「寂しいわけあるか馬鹿。おまえがいなくなりゃ女連れ込み放題だ」
「ちぇー。……でもさ。なんか……うん、こういうのって変だけど……えーと、なんて言うか……」
「はっきりしろはっきり。うぜぇ。殴るぞ」
 言い淀むファントーが、思い切ったように顔を上げる。芋を剥く手を止めて、俺をじっと見つめた。
「…………ラス。1人で大丈夫?」
「…………はぁ?」
 もう一度額を小突いてやろうかと思ったが、やめた。ファントーの目は真剣だ。
 俺の今の状態のことは、ファントーには何ひとつ話していない。なのに、何かに気づいてると?
「なんか……うまく言えないけど……最近のラス、変だし」
 一瞬。
 ほんの一瞬、話そうかと思った。
 ──何を馬鹿な。
 結局、ファントーの前髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
「馬鹿言ってんじゃねえ。大丈夫に決まってんだろ。……部屋にいるから、メシが出来たら呼べ」


◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 自分の部屋に入って、扉を閉める。
 俺はさっき……何を言おうとした? ファントーに。自分が楽になるためだけに、あのガキに何を告げようとした?
 話せば、多分楽になる。隠し続けるよりはずっと。
 けれど、知ればファントーはきっと俺を気遣う。今よりももっと。……冗談じゃない。自分にそれを許せるくらいなら、とっくに話している。

 窓に歩み寄る。
 閉めきっていた鎧戸を開けると、冷気が吹き込んできた。そして、風と共に舞い込んでくる雪。もともと温暖なオランにはあまり雪は降らない。降ったとしても、積もらずにすぐに溶ける。おそらくはこの雪もそうだろう。
 舞い込んできた雪を掌で受け止める。触れる寸前に雪は溶けた。かすかに残る水滴の冷たさ。
 オランに降る雪は、柔らかくて重い雪だ。空から落ちてくるひとひらも、大きいものが多い。幾つもの結晶が寄り集まって出来る風花たち。

 あの雪とは違う、と思った。
 俺が知っている雪はもっと細かい。気温が低ければ低いほど、雪の粒は小さくなる。
 それは、暖かければ、自分たちを溶かしてしまう周りの温度から身を守るために、フラウたちが身を寄せ合うためだと聞いた。周りが寒ければ、溶ける心配がない。だから、フラウたちは身を寄せ合うことなく舞い降りる。結果、暖かい時には大粒の、寒い時には細かな雪が降るのだと。
 賢者はもっとくだらないことを言っていた。シルフの中に微量に含まれるウンディーネの量と、その時の気温の関係がどうの、と。何度か聞いたが……何ひとつ覚えちゃいない。俺にとってはどうでもいい。ただ、タラントの奥……エルフの森で過ごした頃には、雪はもっと軽くて細かくて……そして温かいものだった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆


「違う。何を聞いていた」
 俺の使った魔法を見て、エルルークが叱咤の声を上げる。何度目だろう。繰り返し繰り返し……もちろん、魔法を使える回数には限りがある。少なからず消耗するものだから、一日に何度も使えばベッドに辿り着く前に気を失いかねない。
「何が違うってんだよ。ちゃんと俺は……!」
 水霊を使った魔法だった。エルフの集落のすぐ近くに広がる森。その奥には泉がある。初歩の魔法は一通り習得した後だった。

 季節は真冬だ。タラントよりも更に北、山を登った先にある集落は雪に包まれている。この森の中も例外じゃない。ただ、泉まではいつも誰かしらが水を汲みに来るから、細い道がついている。そして湧き出す泉は絶え間なく水が動いているせいで凍ることはない。桶に汲み置いた水は一晩経てば透明な氷に変わってしまうのに。この泉は水の精霊力が強いのだと教えられた。
「ああ、そうだな。確かに効果は現れた。だが、おまえは力尽くで精霊を従わせたに過ぎない。そのような使い方を誰が教えた」
 いつもこうだ。何度も聞かされた台詞。
「力尽く? そんなことしてない。出来るわけもない。誰が教えたってんなら、俺に魔法を教えてるのはあんただ」
「私が精霊に語りかける姿を見ていたはずだな。それが何故、おまえには通じぬ。……所詮は、人間混ざりか。どこか歪んでいるらしい」
 吐き捨てるような口調ににらみ返して、水際から立ち上がる。エルフには小柄な奴が多いが、俺の身長もまだエルルークには追いついていない。見上げることになるのが、悔しさに拍車をかける。
「歪んでるのはあんたの教え方じゃねえのか。あんたはエルフだ。そして俺はあんたの言うとおり人間混ざりだ。……あんたはエルフじゃない者に、エルフとしての在り方を教えようとしてる」
 白い息と共に吐き出す台詞に、エルルークが静かに頷いた。この寒さの中で顔色ひとつ変えていない。こっちは、このクソ寒いなかに何度も魔法使わされたせいですっかり血の気が引いているってのに。
「当然だろう。エルフではない者がこの森に住まうことなど許されぬ」
 ずっと……ずっと疑問に思っていたことがある。それを聞くことは自分の矜持が許さなかった。だからその時もそれを口には出さなかった。
 代わりに、別のことを聞いた。
「……だから? だからせめて、精霊への関わり方だけでもエルフらしくあれと?」
「その通りだ。我々森妖精は妖精界に根を持つ者。精霊と関わり深き者。同胞とも言える彼らを力尽くで従わせることはしない。彼らに同化し、彼らの中に溶け込む。そうして彼らの意志を感じ取る中で、彼らの力を借り受ける。……だが、おまえはどうだ。溶け込むことをしない。物質であるおまえ自身にしがみついている。そんな状態でよく精霊と触れあえるものよ。私から言わせれば、おまえが精霊と触れあい、初歩のものとは言え、魔法を習得出来たのはあり得ぬことだ」
 言い返したいことは山ほどあった。
 ふざけるな、とか。馬鹿言うな、とか。てめぇ何様のつもりだ、とか。
 それでも、自分にとっても不思議に思っていたことがエルルークの言葉の中に含まれている。反論は出来ない。

 ……自分は、何故、精霊たちに同化出来ないのか。

「……また説教かよ」
「おまえが私から何度も同じ言葉を聞く羽目になるのは、おまえが何度聞いても覚えぬからに過ぎぬ。自らの失態を他人のせいにするのはやめてほしいものだな。子供とは言え、手加減せぬと最初に言ったはずだ」
「ガキじゃねえよ。もう15になった。そりゃあんたに比べりゃガキかもしんねえけどな」
「……誰に比べても子供だろう。エルフならば、まだ生まれたてと言っても過言ではない」
「エルフじゃねえって言ってんだろ! それに俺は、力尽くで従わせてるわけじゃない! あんたと違うやり方だからって否定されるのはまっぴらだ! ……あんたは義務だと言った。この森に住む以上は、精霊魔法の遣い手たれと」
 きつく眉を寄せて、エルルークがマントを翻す。
「騒がしい。怒鳴るな。おまえがどう言おうと、おまえが精霊に同化していないのは事実だろう。今のように力尽くで従わせる魔法ばかりを使っていれば、そのうち呼び出した精霊を狂わせるやもしれん。そんなことをすれば……おまえを殺す」
「…………力尽くなんかじゃ……ねえよ。あんたは、俺があんたの言葉を聞いてないと怒るけど、あんただって俺の言葉を聞いてない。俺は、ただの一度も力尽くで従わせたことなんか……っ!」
「同化せぬ者が、他にどのような使い方が出来ると言うのだ。…………雪が降ってきた。酷くならないうちに戻るぞ」
「同化なんか……出来るかよ……」
 悔し紛れに呟いた言葉はシルフがさらっていった。きっとエルルークには届いていない。
 歩き始めたエルルークの背中を見て、俺は逆方向に足を向けた。
「……どこへ行く。今日のフラウはあまり機嫌が良くないぞ」
 それには答えなかった。子供じみた反抗だと思った。拗ねている。駄々をこねている。自分の感覚をエルルークに伝える言葉が見付からない。
 エルフと、エルフじゃない者。
 所詮はそうなのかと。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 悔しさにまかせて、雪の中を突き進んだ。膝まで達する雪を漕いで進むのはあまり楽な作業じゃない。降り続ける雪が頭の上に積もってくる。それを時々、頭を振って払いながら、それでも進む。
 どこでも良かった。誰もいないところであれば。
 わかっている。所詮は、集落の中の森だ。どこに行っても、エルフたちから逃れられるわけでもない。親父がいる以上は、この場所を捨てられないのも事実だ。それに、もしもここから逃げ出したとしても行く先なんかない。
 どのくらい進んだだろう。降り続く雪の量が増えた。
 その頃には、額にうっすらと汗をかいていた。肌を刺すほどの冷気が、汗を冷やしていく。

 ──エルフ。ここにいるのはエルフたちだ。自分以外は全て。
 誰も彼もがエルフとして生きている。そして、エルフとして精霊に接する。呼吸をするようにシルフと混ざり合い、流れるようにウンディーネに溶け込んでいく。それが不思議だった。どうしてあそこまで容易く同化出来るのか。どうして何の躊躇いもなく、そこに足を踏み入れられるのか。
 それはエルフとしての証なのか。それとも、年を経て成熟したことの証なのか。
 どちらにしろ、自分がそれを出来ないことだけははっきりとしていた。
 溶け込めない。混ざり合えない。混ざった結果であるはずの自分が、別のものに混ざることが出来ない。
 それはきっと、エルフの森に住みながらも、エルフに混ざることの出来ない自分のように。
 それでも、近づいてきてくれる精霊たちはいた。それだけで……どこか許されているような気分になった。精霊たちは、エルフじゃない自分にも精霊界を教えてくれた。
 なのに、エルルークが、それは違うと否定する。
 魔法を何度も使ったあとだったこともあっただろう。少し投げやりな気分になっていた。
「……受け入れないなら……否定するなら、最初から、こんなとこに住まわせなきゃいいんだ」

 ──自分と同じ人間混ざりのお袋。人間の街で冒険者をして、時々……年に数回、タラントの街で会うお袋。彼女に頼まれた。サーヴを……親父をよろしく頼むと。俺がどうしてもこの森を出たいと言えば、親父は許すだろう。そしてお袋も許すだろう。けれど、ここにいることを選んだのは自分だ。人間の街で体をこわして……俺を連れて森に戻ってからも、親父はあまり無理を出来ない体だ。……守りたかった。親父も。お袋も。
 自分はまだ子供かもしれない。けれど、親父を助けることは出来る。そして、俺がそれをすることで、お袋は安心出来る。お袋は、この森のエルフたちの血に連なる者ではないから、この森で暮らすことは許されない。本当なら誰よりも親父の傍にいたいのはお袋だ。けれど、それが出来ないから、それを俺に託した。
 出ていきたい。本当なら今すぐ飛び出したい。
 人間の街で暮らしていれば、15になれば大人として認められると聞いた。年だけなら……10の月の終わりに15になった。それでも、森にいる以上はまだまだ子供としてしか受け取られない。それが、悔しかった。例えようもなく悔しかった。
 自分がもっと大人なら……いや、それでも森を出ることは出来ない。親父がいる限り。それは自分で選んだことのはずだ。
 大人として認められないなら、せめて精霊使いとして。自分は役立たずなどではないと……あいつらにとっては『汚らわしい者』でしかないかもしれないけれど、それでも精霊たちに認められるなら。

 エルフとして。精霊使いとして。
 見つけた道は、いつだって否定される。エルフに。
 エルフとしての生き方を説いて、エルフとしての精霊への接し方を教えて。そうしておいて切り捨てる。理由はただひとつ。俺がエルフじゃないから。
「…………堂々巡り、かよ」
 ぼそ、と呟いて白い息を吐き出す。
 こうして、悔しさと憤りに任せて、エルルークのもとから逃げ出すのも何度目か。反論しきれないもどかしさを抱えて。そのたびに、自分がまだ子供であることを痛いほどに思い知らされる。
 エルフじゃないから否定される。否定されたくないなら、ここを出ていくしかない。けれど、親父がいるから出てはいけない。
 それなら。

 ────親父さえいなければ。

 浮かんだ考えにぞっとした。空気の冷たさ以外の何かで、背筋が冷える。
「は……はは、何考えてんだ、俺」
 止まりかけた足を無理矢理動かす。浮かんだ考えを振り払うように。
 そうして踏み出した足の下から、ふと違和感が伝わってきた。
「……え?」
 小さく声を出した次の瞬間には足元が崩れていた。
「う…わ、やべ……っ!」
 降り続く雪が視界を白く染める中で、いつの間にか方向感覚を失ってたのかもしれない。いつもなら来ないところにまで足を踏み込んでいた。
 森は奥まで続いている。ただし、小さいとは言え、十分に切り立った崖を挟んで。
 もう少し南側に行けば、丸太で作った小さな橋がある。薬草を採りに行くエルフたちが使う粗末な橋が。
 フラウの支配する世界では、ノームの力は感じ取れない。積もった雪は、その下にどこまで大地があるのかを教えてはくれない。
 考え事をしている間に、いつのまにかその崖まで来ていたらしい。そして、足を踏み込んだ先は、下にノームのいない場所。俺の体重を支えきれずに雪は崩れる。

 どど、と存外に重い音を立てて崩れる雪に足をとられながら、捕まる場所を探す。
 垂れ下がった蔓が、慌てて伸ばした指の先に触れた。それに捕まろうとした矢先、雪で更に押し流される。
 声を上げようとした口を慌てて閉じた。雪の塊が入り込んでくるからだ。体内にとりこめばすぐに溶けてしまう雪でも、これだけの量が絶え間なく流れ込んでくるなら、溶ける暇なんかない。窒息するのはごめんだ。
 蔓が駄目なら、せめて崖の端に……と思っても、手をかけた先から雪が崩れる。そこにもすでにノームはいない。柔らかな雪が崖の形に積もって、空中に張り出しているだけだった。
 下腹からせり上がる、奇妙な浮遊感。
 それを認識した次の瞬間には、空中に投げ出されていた。咄嗟に頭を庇おうとする。が、空中での姿勢を変える暇もなく、上から更に雪の塊が降り注ぐ。
 下は雪だ。崖の下には細い川が流れていたはずだが、この季節ならそこも雪に埋まっている。うまく着地出来れば……と、その考えが終わる前に、着地の衝撃が響く。そしてそれが過ぎ去る前に、上からどさどさと追い打ちを掛ける雪。
 空から降る雪のひとつひとつは軽いのに、一度降り積もって固まった雪はどうしてこんなに重いのか。上下左右を雪に囲まれて、息が詰まる。投げ出されて無様に着地したせいで、どっちが上なのかすらわからない。とりあえず空気を求めて、上だと思われる方向に手を伸ばして、重なった雪をかきわける。肌に触れる雪にも冷たさは感じない。ただ、そこにあるのは重さと、それ以上の圧迫感。

 冷静になりさえすれば、上下の感覚くらいは分かっただろう。その上で、精霊力を感知すれば、シルフがどっちの方向により近くいるのかも分かったはずだ。埋まったとは言え、そんなに深く押し込められたわけでもない。この程度の雪なら、少し掘ればすぐに抜け出せるのだから。
 それでも、その瞬間は無我夢中だった。
 伸ばした指先が、雪から抜けたと思った次の瞬間には、無理矢理に頭をその上に持ち上げる。
「ぶ……はっ! げほっ!」
 口の中に入り込んだ雪を吐き出して、ふと、自分が抜け出した場所を見る。……馬鹿みたいだ。埋まったところから斜めに掘り進んだらしい。遠回りをしている。
「……ちっきしょ……地面がないならないって言えよ、ノーム!」
 とりあえず、八つ当たり紛いのことを口に出して、あらためて立ち上がろうとする。深く積もった雪のおかげでかなり着地の衝撃は……と思ったが、立ち上がれなかった。
「い……ってぇーっ!!」
 右膝から下の感覚がない。感覚がないのに痛みだけがある。それは随分と不公平だと、頭の片隅でうっすらと思った。
「ちくしょうが! ここで凍えろってかよ!! ふざけんな!」
 雪の上に座り込んで、とりあえず怒鳴る。怒鳴ってから後悔した。自分の怒鳴り声さえ足に響く。痛みをこらえて、ひどく苦労しながらブーツを脱いで、ズボンの裾を捲り、自分の右足を確かめる。血は出ていない。膝から下は血の気が引いている。が、脛のあたりを中心に青黒く色が変わっていた。そして見る間にそれが広がっていく。
「……ち。折れたか」
 それ以上見る気もせず、ブーツの中に戻そうとした。が、戻らない。というよりも、痛くて戻せない、と言ったほうが正しい。
「……………なんか。馬鹿みてぇ。俺」
 ぼふ、とそのまま仰向きに倒れこむ。雪が柔らかく包んでくれた。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 風はない。気温がかなり低いことを証明するかのように、細かな雪がただ降り注ぐだけだ。
 崖の下に仰向けで寝ころんだまま、白い空を見上げた。うすぼんやりと、雲を通して太陽が見える。けれど、それすら、大量に舞い落ちてくる雪にかき消されそうになっている。
 冷え切った汗で、肌が粟立つ。どうせ近場にしか行かないのだから、と、厚手のマントを1枚羽織ったきりだった。
 真っ白に染まりゆく視界に、思わず息が漏れる。フラウには、実はまだしっかりと触れたことはなかった。こうしていれば、うっすらと気配は感じる。そこに、シルフにも似た……それよりも冷たくて透明な気配を感じる。けれど、その意志にはまだ触れていなかった。

 ただでさえ、何の用意もなく登るにはきつい崖だ。片足が動かないなら尚のこと。ここから少し南にある橋を誰かが通るなら、そこまで声は届くかもしれない。が、この季節に薬草採りに行く馬鹿はいない。
 何か助けになるものはないかと辺りに視線を走らせる。そのついでに、精霊力感知も試みる。が、感覚に触れるものはおそらくはフラウの気配だけ。
 戻れない。なのに、不思議と怖さは感じなかった。
 戻れば、親父と顔を合わせる。こんな精神状態のまま、親父と顔を合わせれば、親父は気づくだろう。いろいろと……そう、俺の中の、エルフに対する感情を。
 多分、親父は気づいてる。俺が口に出さないことも察している。……親父に、これ以上気を遣わせたくはなかった。
 もしも親父の口から、出てしまったら。

『私さえいなければ、おまえはここを出ていける』

 それは、俺がさっき思い浮かべた言葉。
 彼にそう言われたら、俺はその瞬間に迷わずにいられるだろうか。馬鹿なことを言うなと即座に否定できるだろうか。一瞬でも迷えば……その一瞬が親父を傷つける。 


 降り続く雪と、濃淡のない真っ白な視界。
 身動きひとつせずに、雪の中で仰向けに寝転がったまま、目を閉じる。耳元で、かすかな音がした。
 それは、雪が降り積もる音。
 息をひそめて、なるべく音と気配を消す。
 しゃらり、と音がした。何か他の音が少しでもあればそれに紛れて消えてしまうほどさやかな音。
 さ、さ、さ、と。一度気づけば、それはあちらこちらから聞こえてくる。当たり前だ。今この瞬間、雪は数え切れないほどに降り注いでいる。
 自分の顔の上に、手をかざす。そうして腕を伸ばして、掌を自分から遠ざけた。
 無数に降り注ぐ雪を受け止めようとしたわけではない。吸い込まれそうな白い空と、俺の存在を綺麗に無視してくれている雪たちに、せめて抗ってみたかっただけかもしれない。
 かすかに吹く風に、容易くさらわれてゆく雪。けれど、さらわれた分を埋め合わせるように、絶え間なく降り続く。
 雪を、風の花と呼ぶ理由が分かったような気がした。降りしきる花びら。真っ白な羽毛にも似た、柔らかな手触り。そこに感じるのは冷たさではなく……。
 吹く風の中に、シルフの姿が見える。それは、薄青い半透明な女性の姿。アーモンドの形の瞳と尖った耳先。……エルフの姿に良く似ている。

『何故、同化出来ぬ』
 エルルークの言葉が蘇る。
 何故、だって? 決まってる。俺はエルフじゃない。
 シルフもドライアードも、そしてウンディーネも、エルフの姿によく似ている。もちろん、そうじゃない精霊たちもいるけれど、それは例えばドワーフに似ていたり、人間に似ていたり……決して、人間混ざりに似てはいない。
 純粋であることが求められている、と思った。
 すでに混ざった者である自分は、これ以上何かに混ざることは出来ない。混ざることは溶けること。エルフとしての自分を溶かせば、人間としての自分が残る。人間としての自分を溶かせばエルフとしての自分が残る。ならば自分は、結局溶けきることは出来ない。
 エルルークの言うように、初歩の魔法だけでも覚えられたのは奇跡なのか。だとしたら自分はこれ以上の上達は望めないのだろう。
 それならそれで構わない……と、ぼんやりと思った。
 精霊魔法の遣い手としては上達していなくても、精霊界に触れていることだけは変わらないなら。こんな自分でも、精霊たちは認めてくれたから。彼らに触れ続けていることが許されるなら……。
 精霊界の存在をはっきりと認識出来たのは、7年前だ。あれから7年経って……そしてこれ以上は上達しないなら、それはそれでいい。もともと、上達することだけが目的なんかじゃない。ただ……そう、ただ、あの世界を深く知りたいと思ったから。彼らのことをもっと知りたいと思ったから。
 ──諦めよう。
 エルルークの言うように、同化しきれない自分には所詮無理なことなのかもしれない。

 右足の痛みは、今では痛さというよりも熱さに変わっている。半分、麻痺しかけているような、それでいて痛みと熱さだけは絶え間なく。
 息を吐き出した。大きく。
 かすかに視界が揺らぐ。
「……ち。あの野郎……調子に乗って、魔法使わせ過ぎだよ……」
 その瞬間。
 ふ、と。頬を撫でる感触。
 シルフとは明らかに違うその感触に、顔を上げる。真っ白な瞳が俺を見返していた。シルフによく似た……つまりは、エルフによく似た姿。ただ、髪も肌も瞳さえ真っ白で、その全身から発するのは透明な冷たさ。そして、溶けそうな儚さと……何故か、優しさ。
……フラウ…?
 尋ねた俺に、微笑んで頷く。
やっと、会えた
どうして? 俺は見ようとしてた。なのに……
あたしたちはいつもいるわけじゃないから。機会とか時期とかそういうの
 フラウを感じた瞬間から、どういうわけか、寒さが薄らいだような気がした。
……わかんねえよ、その言い方じゃ
 苦笑する俺に、フラウが笑う。噛み合わない会話。でもそれでも構わなかった。もともと精霊たちとは意味のある会話が成立することは珍しい。
 なのに、俺は聞いてみたかった。答えを求めた。
 それはエルルークに向けて吐き出そうとして、それでもそれは矜持が許さなかった疑問。精霊に尋ねてもおそらくは答えなど返らない。それならそれでいい。
なぁ? どうしておまえたちは……エルフに似ている?
なぁに? あたしたちはあたしたち。誰にも似ていない
似てるよ。エルフに似てる。その瞳の形も、耳の長さも。おまえたちは、純粋な者だろう? だから純粋な者の形をとるのか? だとしたら……純粋じゃない者はやっぱり、おまえたちに同化できないのか?
わかんない。わかんないこと言わないで。でも、さっき貴方は他のことはわかったはずなのに。あたしたちの囁きを聞いたでしょう? あたしたちが舞い降りる音を聞いたでしょう? その時に冷たさ以外のものを感じ取れたでしょう? 雪を冷たいとしか思わない人には、あたしたちには触れられない。貴方は、それ以外のものを感じ取ったから
 嬉しそうに、俺の頬に手を伸ばすフラウの……それは冷たさではなく。優しさでもなく。温かさでもなく。ただただ透明で純粋で。
 切なさ。
 熱に触れれば抗いもせずに溶けてゆく彼女たちが教えてくれたのは、一瞬の煌めきにも似た、柔らかな切なさ。

 ふ、と。自分が溶けてゆく感じがした。
 フラウたちの切なさが、心の内に入り込んでくる。俺はそれを拒否しなかった。柔らかく受け止めて、彼女たちを溶かさないように包み込む。
 かじかんだ指先。冷え切った肌。マントの内側に入り込む冷気。その瞬間、怪我の痛みも忘れた。
 ただ、溶ける。
 認めてもらうとかもらえないとか。そんなことがどうでもよくなった。自分はただ、ここにいるだけなのだから。フラウたちと同じに、何かに触れたなら一瞬にして溶けてしまっても不思議はないほどにちっぽけな存在。
 自分の存在が稀薄になる。薄れ、混ざる。周囲に満ちるのはフラウたちの気配。それに混ざるシルフたちの気配。いつでもそこにあるのはウィスプとシェイド。いつものように、伸ばした手に触れる感覚じゃない。それは、全身で感じるもの。自分の肌がなくなり、肉がなくなり、骨が溶けていって、その先で感じるもの。自分を構成するものの全てが溶けて、周りと混ざる。そして混ざり合ったものがまた、自分に近寄ってきて、自分を再構成しようとする。
 ああ、そうか、可能なのか、と思った。もともとは何もかも同じものだから。生命の精霊が他の精霊たちをとりまとめてるに過ぎないのだから。だとしたら、その中の幾つかが取り替えられたとしても、それは結局もとと同じもの。
 自分であるか否かさえ、そこでは関係がない。誰がどれであってもいい。そうなら……確かに、種族なんか何の関係もない。

 ──同化するとはこういうことか。

 自分を手放すのは。薄められ、混ざり合って。溶けてゆくのは。
 心地よい。
 快感と表現するには、言葉が足りない。自分を構成するもの全てが、解き放たれる歓喜。高揚し、賦活する俺の中の何か。何にも縛られず、羽のように浮遊する感覚。熱さも冷たさもなく。
これが、あたしたち
 涼やかな声。頭の中に直接響く……いや、まるで自分が自分に向けて呟いているような、そんな音のない囁き。
 俺は、ゆっくりと目を開けた。
 白く舞い落ちる雪が睫毛にかかる。瞬きでそれを払って、今まで忘れていた息を吐き出した。
……わかった。これが、溶け込むということか
そう。貴方はあたしたちの一部。あたしたちは貴方の一部。もとは同じもの。だから怖がらなくていい
そうだな。……怖くはない
 言われてわかった。多分、今までは怖がっていた。同化しろと言われて、出来ずにいた。それは俺が純粋ではない者だから所詮は溶け込めないのではなく。
 わかった。
 けれど、もうひとつわかったことがある。
 それでも俺は溶け込めないのだということが。自分を精霊に委ねる感覚はわかった。けれど、俺はあの中で魔法を使うことはきっと出来ない。
 あの瞬間、俺は忘れた。自分のことを。親父のことを、お袋のことを。
 ──それは、俺じゃない。

なぁ。溶け込まなくても……おまえたちは俺の傍に居てくれるか?
あたしたちはあたしたちが居たいところに居る。時々、精霊界からこっちには来るけれど
 同化する感覚がわかって、そうして、自分はそれじゃ駄目なこともわかって。そうすると、他のことも見えてきた。いつも、俺がどうやって精霊たちに手を伸ばしているのか。
 それはエルルークが言ったように力尽くなんかじゃない。
 俺は、呼んでいるんだ。
 俺の傍に来てもいいという精霊たちを探して。俺の声に応えてくれる精霊たちを呼んでいる。全ての精霊たちを従わせようとするなら、力尽くにもなるだろう。そして、全ての精霊たちの意志を感じ取ろうとするなら同化するしかないだろう。
 けれど俺は、全てじゃなくていいんだ。
 それは俺の世界を構成するものと同じ。全てじゃなくてもいい。例えば、親父が笑っていてくれるなら。お袋が安心して仕事をすることが出来るなら。俺は、親父とお袋に望まれて生まれてきたのだから。彼らの幸いがそこにあるなら、俺の幸いもそこにある。全てなんか……望んでいない。
 誰が否定してもいい。認めてもらえなくてもいい。全てじゃなくていいんだ。幸いと呼べるものが確かにそこにあるなら。
 だから俺は、俺の声に応えてくれる精霊たちがいれば……それでいいんだ。
ありがとう。おまえたちはいつも優しい。それだけで……十分だ
 精霊語でそう囁いて、目を閉じる。意識が、なにか柔らかいものに包まれる感触。その中に落ちる寸前、ふと思いだした。
 ……ああ、そうか。忘れていた。まるで逆じゃないか。
 『親父さえいなければここを出ていける』んじゃない。
 親父がいるからこそ……例えここでだって、生きていけるんだ。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆


「……ん。……いてぇ。……いてぇぞ、ちくしょうっ!!」
 目を覚ましたのは、痛みのせいだった。
 がば、と跳ね起きて、その動きだけで右足に随分響くと顔をしかめて……そうして、自分がベッドの上にいることに気が付いた。
「……汚い言葉を使うな。おまえにエルフ語を教えたのは私だ。なのに……どうしておまえは、そうまでこのエルフ語を崩せるのか……ある意味それも才能だな」
 呆れたような言葉が降ってくる。見慣れた銀髪。エルルークだった。
「なんで、俺はここに?」
「覚えていないのか」
「全然」
「…………」
 黙り込むエルルークの顔は見慣れた無表情で。もしもエルルークが俺を捜しに来たんだとしたら、その時に俺は何か口走ってしまっただろうかと不安になる。
「なんだよ」
「……おまえを見つけて、戻るから立てと声を掛けたら、『うるさい、馬鹿野郎』と怒鳴った。帰りたくないのかと聞いたら、『放っておけ』とふてくされた。じゃあ勝手にしろと言ったら、私のマントの裾を掴んだ」
「…………」
 今度はこっちが思わず黙り込んだ。それは……うっすらと記憶にある。ような気がする。
「……常々思っていたのだが」
「…………なんだよ」
「おまえはかなりの見栄張りなのか? 怪我をしてるから立てない、と何故そのひと言が言えない。記憶にないということは、ほとんど無意識だっただろうに」
「言おうが言うまいが同じだからだよ。たかが人間混ざりが1匹。死んでくれたほうがあんたらには都合がいいだろう」
 エルフたちは、俺に視線を合わせることすらしない。このエルルークと、親父と、親父の従姉妹以外は。

「…………実際、拗ねたまま戻ってこぬならそれもしょうがないと思ったが。死なれても寝覚めが悪い。何より、おまえが死ねば我が友サーヴァルティレルが哀しむからな」
 親父の名前を出して、ぶっきらぼうに呟くエルルーク。
「……ふん。そして……ここは? どこだ?」
「施療所だ。癒しの魔法でも骨を接ぐわけにはいかんからな。……まったく。子供というものはどうしてこんなに元気なのか。この森ではしばらく子供を育てておらぬ。忘れていた感覚だ」
「……ガキじゃねぇって言ってんだろ」
「子供だよ、おまえは。……混ざり者と我らとでは作りが違うのやもしれんがな。言っておくが、熱はまだ相当高いはずだ。それでそれだけ反抗出来るのだから、子供というものは凄い」
 言われて寒気に気づく。それでも、そこでおとなしく毛布に潜り込むのも癪に障る。
「……うるせぇな。腹減った。何かメシ食わせろよ。シェイドの力を考えると、どうやらもう夜だろ。半日食ってないんだからな。寝る前にメシくらいよこせ」
「…………半日ではない。2日半だ。まぁ、食事を抜くほどに私は非情ではない。私に手間をかけさせた償いは後で考えるとして……シェイドの力、と言ったな。また力尽くか。体力も弱ってるであろうに、それをするだけの気力ならあると……」
「力尽くじゃねえっ!」
 怒鳴り声が足に響く。耳を塞いだエルルークよりもきつく眉を寄せて、その衝撃が過ぎるのを待つ。そして、あらためて口を開いた。
「……力尽くじゃない。気づいたんだ。フラウが教えてくれた。……同化するということ、溶け込むということ……あんたが言ってたことはわかった。それは、自分自身を稀薄にして、全てを精霊に還元することだろう? 還元して混ざり合って、その中に意識を委ねて」
「…………気づいたと?」
 ぴくりと動くエルルークの片眉を見て、どうやらあれはやはり正しい方法だったのだと知る。
「ああ。気づいた。そして、あんたにいつも説明しようと思って出来なかったことにも気づいた。……精霊に同化すれば、俺は俺じゃなくなる。俺は俺のままでいないと、精霊と触れあうことは出来ない。それは決して力尽くじゃなくて。俺は……親父のような精霊を探していたんだ」

 ベッドの脇にある椅子に、エルルークが腰を下ろした。視線だけで話の続きを促す。どうやら聞く耳だけは持っているらしい。
「精霊たちは……まるでエルフだ。その姿かたちが表すように。シルフもドライアードも…そしてフラウまで。物質界に現れる時には、エルフに似た形を取るから……だから俺は、彼女たちに同化出来ないと思ってた。けど、同じ理由で……親父のようなエルフだっている。森の外に出て、半妖精を愛するエルフだっている。だから……精霊界から出てきて、俺に従ってもいいと思ってくれる精霊たちだっているはずなんだ。
 俺は……同化してしまえば、そのことにきっと気づかない。だから、同化しないで……物質界から1歩だけ進んで、狭間に立ったままで、そこから手を伸ばすんだよ。そして呼びかける。混ざり合わずに、ただ呼ぶんだ。俺のもとに来てくれ、と。力尽くじゃなく。……そうすると、こんな俺でも、覗きにきてくれる精霊はいる。だから……俺は彼らの力をそこで借りる。精霊界に入り込まずに。物質界と精霊界との狭間に立ったままで。……あんたは、それでもやっぱり認めないか?」
 一気に説明して……そうして反応を窺った。エルルークの長い銀髪が揺れる。考え込んでいるのがわかった。

 互いに黙りあったまま、さすがにそろそろ体を起こしてるのがきつくなってきたな、と思う頃。エルルークがゆっくりと口を開いた。
「……私にはわからぬ。そのような使い方をしたことはない。だが、エルフのうちにも、サーヴァルティレルのような者がいるのは確かだ。だからこそ、おまえのような存在がある。……認めることは出来ぬよ。それは我らエルフの在り方にも関わることだから。けれど……否定することはすまい。おまえのようなやり方で上達が望めるとも思わぬが、それはそれで、おまえの限界であろうから」
「上達なんざどうでもいい。でも……そうだな。俺は15でここまで来た。あんたが15の時にはどこまで出来た? …………いつか、あんたを追い越してやる。俺は俺のままで。あんたはエルフの在り方にこだわる。だったら俺は、人間混ざりの在り方にこだわってやる。それはあんたに認めてもらう必要はない」
 結局は、認めてもらえない。それはわかっていた。けれど、別に構わなかった。それにこだわる必要はないと、フラウが教えてくれたから。

 所詮、最後は何かに混ざりゆく。人もエルフも。きっと混ざり者もそうやって生まれてきた。なら、何かに混ざる時まで、俺は俺のままでいる。そして、精一杯足掻いてやる。
 フラウが教えてくれたものは、刹那の煌めきにも似た切なさ。精霊たちはひとつひとつ、俺に教えてくれる。だとしたら、もっと他の精霊たちを知ることで、もっと知ることが出来る。
 知ることは武器だと思った。
 せめて抗うための。そのための武器。
「……弟子は師匠を超えるのが義務だ。やれるものならやってみるが良い。その短い寿命で、出来る限りのことをな。…………食事を運ばせよう。食事が済んだらおとなしく寝ていろ。さっき使いをやったから、そろそろサーヴァルティレルもこちらに来る頃だ」
 部屋を出ていくエルルークの銀髪を見ながら、俺は頷いた。
 そう、寿命は限られている。エルフに比べればほんの少しの一生かもしれない。けれど、エルフだって、精霊に比べれば短い一生だ。それは決して永遠ではないから。
 それなら……100年も200年も、そして1000年も。たいした違いじゃない。
 この森では、確かに、エルフとエルフじゃない者とが暮らしている。
 けれど、それはどちらにしろ、精霊ではない者という意味でなら同じなんだろう。だとしたらもう少し……そう、もう少しだけこの森にいてもいいような気になった。


<続>





  


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