がさり、と音がした。
少し前から気づいていた。足音を消すことすらしない、この馬鹿は……。
「……何をしに来た。ファントー」
振り向かずに……両手と両膝をついたままの姿勢から座り直すこともせずに、声をかける。自分でも、冷たい声だと思った。嫌われないようにと飾ることすら、今は面倒だった。
がさがさと、ゆっくり近づいてきた足音が、少し手前で止まる。だが、いつまで待っても引き返す音はしない。
「詮索するなと言ったはずだ。……帰れ。邪魔だ」
低い声で言ったそれは、届いていたはずだ。
なのに、再び聞こえ始めた足音は、遠ざかるのではなく近づいてきた。
そうして、俺の真横に腰を下ろす気配。
冷たい枯葉の絨毯を殴りつけて、その反動で上半身を起こす。膝立ちになって、隣に座ったファントーを見下ろした。
「……帰れ、と言った」
「…………駄目だよ」
ぺたんと腰を下ろしたまま、そうして、視線を足元にやったまま。ファントーがぽつりと呟いた。
「何が駄目だって? ガキはおとなしく言うこと聞い……」
「駄目だよ!」
困ったような顔で……それでも、臆することなく俺に視線を合わせてくる。
「そんな顔してちゃ駄目だよ。……ラスは、1人でいると時々そんな顔してるから、だから、オレ、聞いたんじゃないか、1人で大丈夫?って」
「は、何を馬鹿なこと言ってやがる」
「馬鹿なことじゃないってば! 全然、大丈夫じゃないじゃないか! オレ……オレは確かにガキだよ。ラスが女の人に会いに行くって言って、ちょっと恥ずかしいなって思ったけど、あの後、そういえば具体的には会ってどうするんだろうって考えちゃって、実は全然わかんなかったくらいにガキだよ。でもね、でも……えーと、その、なんていうか…………」
……………………。
いや、ちょっと待て。何を言ってるんだ、このガキは。
「え。あ、いや、だからそうじゃなくって…………とにかく! オレは確かにガキだけど、それでもラスを心配するのは出来るってこと!!」
そう言い切ったファントーの顔を見て……話そうと思った。俺は師匠としては役立たずだ。ファントーが、こんな俺の傍にいる理由なんかない。
ファントーの横に、あらためて腰をおろして、俺は大きく息をついた。
「……なぁ、ファントー」
「わかってるよ! オレなんかが心配したって無駄だって言うんだろ!? オレだって、オレが何か出来るなんて思わない。けど、心配するだけならしたっていいじゃん!」
「いいから聞け。ファントー。……おまえ、もし俺が……精霊使いじゃなくなったらどうする?」
そうなったらもう弟子ではいられない。だから山に帰る。そうじゃなければ別の師匠を見つける。いや、初歩の魔法は一通り覚えたはずだ。それなら、少し早いが独り立ちしたって構わない。
幾つもの返答を頭に思い浮かべる。
「……なんで、そんなこと聞くのさ」
「“そんなこと”か。本当にそうか?」
「当たり前じゃん。精霊使いじゃなくたって同じだよ」
……これは、予想していなかった返答だ。しかも、一瞬の迷いもなく。
「どうしてだ? おまえは、一人前の精霊使いになりたいから俺の弟子になったんだろ。俺が精霊使いじゃなくなれば、俺の傍にいる理由はない」
「……なんで? 好きだから傍にいるんじゃ駄目なの? それに、ラスの側がどうだろうと、ラスの周りでは精霊たちは嬉しそうだもん。オレ、自分の傍にいる精霊たちはいつでも笑っていて欲しいって思った。……ラスみたいに。ほら、今だって」
ファントーが巡らせた視線の先には、おそらくはシルフ。……いや、フラウなのかもしれない。
──好きだから傍にいる。それは……それは、森にいることを自分で選んだ、昔の俺のように? ……馬鹿な。親父への憎しみに、今は気づいたはずだ。
なのに、どうしてその言葉にこんなに揺らぐ?
「こないださ、カレンが言ってたんだ。ほら、何日か前、晩ご飯食べにきたでしょ? あの時も、ラス、疲れたからって早く寝ちゃったけど。カレンが帰る時に、玄関先でぼそっと呟いたんだよ。オレ、何のことかわからなかったんだけど、確かに言われてみれば……うん、精霊たちを見てればそんな気はするなぁって」
「……カレンが何を言ってたって?」
「『いつだって、心変わりするのは人間の側だ』って。カレンが言う“人間”ってのは、人間だけじゃなくて、妖精も含めてだよね。……神様とか精霊とか、そういうこと話してた後だったから……うん、カレンにとっては神様で、オレたちにとっては精霊で。オレたちがさ、もう嫌だーって思っても、精霊たちはきっとそうじゃないんだなって。そう思ったんだ。だって、オレたちが疲れてる時でも、精霊たちはいつも通り。オレがラスに怒られて不機嫌になったり、ふてくされてても、精霊たちはいつも通りなんだよね。なんか……最初の頃にさ、ラスが言ってたじゃん。精霊たちは……なんだっけ、なんとかの違う存在だって」
ああ。そうだ。位相の違うものだと。
物質界での生き物がどんな感情で遣おうと、精霊たちはいつも変わらないから……だから、せめて精霊たちに恥ずかしくないように、と……。
そう。精霊たちは変わらない。
──俺が、流されないために心を閉ざしても。
もともと、精霊たちのほうで、俺を流そうとしているわけじゃないんだから。
……本当に。
流されることは本当に容易い。
親父を憎いと思った。許してなんかいないと思った。けれど、ファントーの言葉で思いだした。それでも、俺は親父が好きだった。下手くそな料理も。困ったように笑いながら俺の悪戯を咎める声も。酒に弱いくせに、俺の誕生日だからとワインを開ける嬉しそうな顔も。お袋から手紙が来たと言っては、眠りもせずに読み返して、次の日に熱を出して俺に怒られて……。
ラストールド、と。略さずに呼ぶあの響きが嬉しかった。だから、耐えられた。ラストールドではなく、ミリアと……母親の名前で呼ばれても。
抱いたはずの憎しみを、容易く流し去るほどに温かな日々だった。無条件の許容ではなく、俺自身を守るための計算でもなく。
親父さえいなければ、と。あの日の暗い想いも、その直後にはフラウが溶かしてくれた。そうして、今も。憎しみを初めて意識した直後には、それを拭い去るものがあることに気づかされる。
──ひどい父親だ。憎ませてもくれない。
許せなくなるのが怖くて、今まで憎むことが出来なかった。許してなんかいないと気づくことが怖かった。憎しみに流されれば、決して踏みとどまれないと思ったから。
でも、流されることは確かに容易いけれど、踏みとどまることも、そう難しくはないのかもしれない。
感情の精霊たちは、俺の中の憎しみを、俺に教えると思っていた。だから、触れたくなかった。深く触れるたびに、精霊たちが俺に教えてくれるものの中には、そうやって、自分が避けていたものも含まれてしまうから。
けれど、精霊たちは憎しみよりも強いものを、今までずっと教えてくれていた。だから、俺は自分の中の憎しみに気づかずにいられた。
そして、それは同時に違うものも教えてくれる。それでも、許せるのだということを。
「……ラス? どしたの? オレ、なんか変なこと言った?」
心配げに覗きこんでくる顔に。
「ファントー。おまえは、ガキだよ。しみじみそう思う」
「えー? なんでさー!? いや、確かにガキだけど、オレだって……!」
「いいから。……ガキだからこそわかることもある。いや、ひょっとしたらそれを忘れていた俺のほうがガキなのかもしれないな」
呼んでいたのは、親父のような精霊だ。15の頃にはそう気づいていた。そして、月日が経つうちにそれを忘れていたのかもしれない。忘れていても、それでも俺が、精霊を呼ぶやり方は変わらなかった。それは今でも同じだ。憎しみに気づく前から、とっくに許してた。そうじゃなければ、そんな風に思いながら精霊を呼ぶことは出来ない。
溶け込むこともせずに、力尽くでもなく。
友達を呼ぶのでもなく、道具として遣うのでもなく、同じものとなるのでもなく。
呼ぶのは憎むためじゃない。ただ、感じていたいから。俺が……俺自身が。そんな存在があるのだと、感じていたいからだ。それは、自分自身の存在を強めることでもある。自分の存在は許されていると、確認することでもあるんだ。それはきっと、純粋な喜び。
「……ラス。自分だけわかってるでしょ」
「そうかもな。でも……そうだな、その詫びと、あとは……いいこと教えてくれた礼に。いいモン見せてやろうか」
──憎しみを意識しないでいることと、意識した憎しみを許すこととは違う。
それは自分の立つ位置もそうなのかもしれない。意識しないで、そこにいることと、自分で選んでそこに立つこととは違う。
精霊の呼び方を、思いだした。
15の頃は、自分の位置を確認しただけだった。そこが自分の立つ場所なのだと知った。けれど、今は、どうして自分がそこに立つのかを俺は知っている。
溶け込むのはもったいない。道具として遣うのももったいない。
あの存在を、自分自身のままで感じないなんて、ひどくもったいない。だからこその、この位置だ。それは、物質界と精霊界との狭間。
そこに立てば、親父のような精霊に会えるから。
「いいもの? なに?」
「内緒だぞ。人のいるとこじゃ出来ねぇからな。いい女を紹介してやるよ。俺の、昔馴染みの女だ」
笑って、立ち上がった。
息を、深く吸い込む。
ざわり、と肌が粟立った。
それは忘れかけていた感触。一瞬、怯えそうになるほど……それほどに美しい世界。深く、柔らかく、透きとおり、全てを呑み込んでゆく、同時に全てを包み込む、そんな世界。
これが、精霊界だ。
……いける。
自分がこれまで、何重にも塗り重ねてきた制御の全てを解き放つ。そこに触れる波はもう怖くない。自分は流されないと気づいたから。もしも流されても踏みとどまれると気づいたから。
「
……フラウ。いるな? 」
声に出す言葉は、問いかけじゃない。問いかける前に、俺は知っていた。そこにフラウがいることを。
「
あたしたちを、呼んだ? 」
ああ、呼んだ。応えてくれるのを待っていた。
自分の“やり方”を思い出す。呼びかけて、それに応える精霊たちだけを感じ取っていた。けれど、今は違う。そうじゃない精霊たちを感じ取ることも出来る。
……ああ、まるで緩やかな河のようだ。河の流れに足を浸して、周りの水を感じることに似ている。流れに足を取られれば、押し流されてやがては岩にぶつかって砕け散るかもしれない。けれど、流れの中で踏みとどまれば、周りに満ちる水を味わうことが出来る。自分に触れる水だけではなく、水面を見渡すことが出来る。
目の前のフラウを見て、ふと気が付いた。そして、精霊たちの波が怖くなった直接の原因にも気が付いた。……呼びかけに応える精霊たちの数が多いんだ。自分の許容量を超えるほどに。だからこそ耐えきれなかった。だからこそ、流されてゆく恐怖に怯えた。
目を覆い、耳を塞いでも、それでも精霊たちの声は俺に届く。届くから、目隠しをしたままだった。外すことを忘れていた。……頭痛が残っていて当たり前だ。いつだって制御し続けていたんだから。流されまいと、それを意識しないまま、きつく制御し続けていたんだから。
幾重にも重なる封印のようなものを。
呼吸のたびに引きはがしていく。
「
汝、我に刹那を教えし者よ…… 」
──自らを縛る見えない鎖を。
「
我は汝を護る端境なり 」
──この目を覆い隠す無駄な目隠しを。
「
我は汝を包む腕(かいな)なり 」
──この耳を塞ぐ邪魔な手を。
「
汝とともに瞬く者なり 」
──消え去りゆく憎しみを。
「
凍てつき透きとおる氷に宿り それを司る乙女よ 我が声を聞き我が呼びかけに応えよ 」
──あの日に気づいた、自分の位置。しっかりと目を開ければ、それが見える。
「
氷の乙女フラウ、我が元に集え。集いてその意志たる身もて壁となれ! 」
俺の中にフラウが満たされるのがわかる。けれど、それは俺自身を明け渡すことじゃなかった。……馬鹿みたいだ。何に怯えていた。精霊たちは俺自身を害することなんかない。物質界にいる自分はわかる。そこから手を伸ばす。狭間に。物質界と精霊界との狭間に感覚を進める。呼びかけに応える精霊たちが狭間に集まってくる。今までとは比べものにならないほどの数。いや、もとより数を数えることになんか意味はない。その意志はひとつだから。
そうだ。何を迷っていた。そこにあるのは、たったひとつの意志。そして呼びかける俺の意志もたったひとつ。それなら迷うことなどない。
「…………ファントー。弟子は師匠を超えるのが義務だって聞いたことがある。いつか越えろよ、俺を」
月の光を受けて、白く輝く氷の壁を見上げて、ファントーが息を呑んだ。
師匠……エルルーク。越えたよ、あんたを。俺は、義務とやらを果たせたか?
ファントーが俺を見上げるその角度は、あの日、泉の傍で俺がエルルークを睨みつけた、その角度と同じだと気が付いた。
<了>