ひとくちの水 飲むたびに -Act 6.5- ( 2003/02/02 )
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作者
入潮丸
登場キャラクター
リヴァース



■■■

それから、さらに、三本の井戸で、同じことを試した。
バラミの魔法の力も、常に一定の破壊力が出せるとは限らない。
加える木炭粉や硝石の量も、少なすぎたり多すぎたりで、適当な量を決めることができなかった。
威力が足りず詰まった岩を貫く事ができなかったり、違った層が破壊されてしまったり、鉄板の支えが充分ではなく支保ごと壁が崩落したりと、思考錯誤だった。

無駄な事を行っているのではないか、という不信の声を挙げる者も現れた。
硝石を集めるために荒野を往復したり、石炭を粉にする作業、鉄板を作る作業と、村人にずいぶんと働いてもらっていたので、体力的にも、時間的にも、疲労が蓄積していた。

「こーりゃとっくに、過剰労働だねぇ…。ワリに合わないったら。あんたら、いいモトとってるよ」
とバラミがこぼした。

ただ、おかげで、読み取った岩の様相と、火球による破壊の度合い、それに支保の必要性の関連は、大分、把握できるようになってきた。最初と違い、次こそは、という意欲は漲っていた。
3本の井戸を潰し、残るは、村の南にあるもっとも深い井戸。窒息死しかけたために敬遠していたもののみとなった。

ここは縁起が悪い、などとは言っていられない。慎重に地層を読み、鉄板の設置や油、硝石、木炭粉導入の作業を行っていく。

そんな中、バラミが倒れた、という知らせを受けた。
顔から血の気が引くのが分かる。サバスの過酷な気候は、老人には酷であったのだ。バラミがいなければ、計画を進めることは不可能だ。

かけつけて結局、宿の階段から足を滑らせただけ、と聞いた。
胸をなでおろす。

「何をどたばたしてるんだい。他にやることはいくらでもあるだろ。次失敗したら、依頼料上げるよ。しっかりやっとくれよ」

宿のベッドの中でバラミが開口一番そう言ったのは、照れ隠しだろう。
ただ、バラミも老人なのだということを思い出した。その知見に頼りっきりになっていたが、彼女はとっくに楽隠居していてもおかしくない年齢なのだ。階段から落ちたのも、疲れが溜まり注意力が散漫になっていたからだろう。
悠長なことを行っている場合ではない。もう失敗するわけにはいかないのだ。気が引き締まる。

今度こそ、という意気込みで、金属の補強の設置を行っていると、採取師が、妻を伴って、茶を持ってきてくれた。メクターナの薄い煮だし汁が入っており、気分が落ち着くということだ。バラミの件で気を揉んでくれたのだろう。

採取師の妻は片足を失い、杖を突いていた。メクターナの採取を手伝っていたときに、巨大な蟻地獄に襲われた為だ。脱出できたときにはすでに、右足が千切られていたという。痛ましい出来事だった。
その身体で、わざわざ励ましに来てくれたようだ。…心遣いが染み入った。

 茶のための水は、採取師が浄水の魔法を用いて海水を真水にしたものではなく、本島から買ったものだった。
 この島では現在、飲み水は、本島や別の島からわざわざ水を運んできて得ている。なみなみと無限にある海の水をとることもできるが、塩分が高すぎて飲用に用いることはできない。

飲み水を海水から得ようと思ったら、蒸発させて、その蒸気を回収しなければならない。そうすると、蒸発させるための燃料が大量に必要になる。そのための薪も、ろくな樹のない不毛の島では得られず、結局、本島から木炭を運んでくる事になる。そうすると、手間の分だけ、直接水を運んできた方が、安くなる。メクターナによる収入の大部分が、水となって消える。

定期船があることに驚いたものだが、船が止まると、この島では命に関わることになる。航路は文字通り、生命線なのだ。
この島ではほんとうに、精霊使いの需要が大きい。海水を真水にすることができる。その能力だけで、なくてはならない者になる。逆にいえば、それさえ持っていけば、いくらでも食いつなぐことができる。

素質によるものが大きいといえ、精霊遣いの能力は、育ちの過程で身につける特殊能力だ。周囲の導きがなければ、それを得ることは不可能である。その一点は、自分の育ちに感謝せねばならないのだろう。

能力を身につける過程というのは、消費活動であり、生活には寄与しない。生活に余裕があって初めて、それが許される。人間の、その日を食うにも事欠く貧しい家に生まれた場合、生活に追われていて、子供や自分に技能を身につけさせる余裕など、ない。修行ができる身分というのは結構なものなのだ。そして、一旦能力を身につければそれを足がかりにして、できることの範囲を広げ飯の種にすることもできるが、貧しいとそれも望むべくもない。

努力や才能が大事であると人はいう。しかし、まず決定的な要素は、この最初の出発点ではないかと思う。それは産まれた時に、本人の意思に寄らず与えられてしまうものだ。努力すれば叶うというのは、耳に心地よい美しいことであるが、努力をするだけの舞台に上がることさえできない場合も、多い。
乞食も騎士も、本人の素質はその身分にあまり関係ない。たまたま、自分の環境として、能力を身につける機会が与えられていたかどうかにすぎない。

採取師は普段、家族の為に精霊を遣うことはしないということだ。自分だけが特権を持っていると居心地が悪いのだそうである。

「このひとも頑固だから」
そういって採取師の妻が苦笑した。仲の良い夫婦であるようだった。

「井戸から水がでるようになれば、外からも人がたくさんやってこれるようになって、この島も少しは賑わうようになるわ」
「釣れぬ時は、魚が考える時間を与えてくれてるのだ」
 計画が上手くいっていないことについては、そういって、採取師の夫婦は励ましてくれる。心遣いと期待が、痛み入った。


もう一つ、工夫を追加した。
井戸の壁に横穴を掘り、そこに魔法を起爆させるようにする。そうすると、上側に力が逃げず、その分、地中に伝わるようになる。これも、試行錯誤の過程で編み出したアイデアだ。横穴の分だけ、地層境界の溝を深く掘らねばならなかったが、確実性は増す。横穴の中に、硝石、油、木炭粉を導入する。
横穴の中の視界を確保するために、鏡をもう一枚足した。井戸の底に灯りの魔法が煌煌と灯され、2枚の鏡を通じて、井戸の上のバラミに様相を伝える。

いよいよ実行の時。
最初と違って、見物人の姿はまばらだった。しかし、作業に従事した者は、一人も欠かさず、見守っている。
作業が終わってから、地下の破壊の範囲に柵をつくり、決してそれから中に入らないように、村人に遠のいてもらう。

「なぁ、今度はほんとうに大丈夫なのか…?」
 村人の一人がつぶやいた。
 
 それを一番聞きたいのは自分だ。確信など持てるものではなかった。
 自分の提案に対し、本当にそれが正しいのかどうか、不安はいつまでたっても消えない。改善案を呈したからには、それを行った際の結果にまで、責任を持たなければならない。

 ここでまた不安になっていては、今も眠っているロピュタに申し訳が立たない。目覚めたロピュタに水を持っていこう。そうして笑ってもらおう。その想像をし、ともすれば弱くなる心を奮い立たせる。

 いよいよ、魔法の詠唱に入ろうとする直前。

「…あんたには色々と言ったけどね。よくやってると思うよ。そこまで自分で深く自然の状態を読み取ることができるのは、あたしゃ、アザーンじゃまず他に知らないし、大陸にだって何人いるかじゃないかね」
 
 自信をもて、といってくれているようだが、この婆さんの言葉に乗せられると、あとから何を謀られるかわからない。自己嫌悪のまま精霊力を読みとって余計な失敗をされてはうまくないので、ひとまずおだてて調子に乗せておこうという、計略であるかもしれない。

「婆さんもな。これだけ物を壊すということを知っている者は知らない。これで成功したら、破壊の女王とでも名乗ってくれ」
「なんだいそれは。センスが悪いね」

賞賛の意図を込めた命名は、さっくりと却下された。

柵の中にいるのは、バラミと自分だけとなった。近くにいるべきなのは魔法を唱えるバラミだけなのだが、何かあったときにバラミを助けるためだ。

老魔術師の詠唱がはじまる。マナを繋ぐ身振り。複雑で、細やかで、流線を描きながら風に舞う、砂のようだ。
指の先の動き、肩の流れ、めまぐるしく変わる唇の形。一つ一つに、マナに干渉する意味があるのだろう。
美しいな、と思った。
極限まで洗練された動きには、美が宿るのだろう。それは、舞にせよ、剣にせよ、同じである。

自分も、意識を集中させる。あたかも自分の骨肉が、今にも衝撃を受けようとしているところの大地そのものであるように。そこで変化する力の一変たりとも逃さず、感じ取れるように。

自分の波長が高鳴る。存在の力、魔法の力が、周囲と共感する。
砂粒のたった一つになったように。
同時に、地上の大地を全て飲みこむかのように。
細かく、広く。
地と、水の力に、同化する。

くぁ、とバラミが目を向く。

"…マナよ、破壊の炎となれ!"

ズズゥン…と、脚の下に伝わり広がる地響き。地の組織が破壊される音。体の中に、めきめきと、無数の亀裂が走るような感触。細胞が音を立てて力に侵食されていく錯覚。瓦解する精霊力に、感覚が同調する。呼吸が止まる。
…骨が崩れたのかと思った。かろうじてへたり込むのを堪える。耳元で心臓の音がどくどくとと打つ。

自然が壊れる感覚。散らされていく精霊力。
地霊の力にあふれた岩が、精霊の宿ることのない、死した岩に遷移していく瞬間。
そして、地の精霊力の空洞を縫うように、たごまっていた水の精霊力が、脈打ちながら、広がる。

頭を振る。
この感覚は、幾度感じても慣れない。慣れてはならなかった。

防護工作が幸をなしたのか、井戸自体が崩れた様子はなかった。
火が収まり、充分に空気が入れ替わるのを待つ。井戸壁が充分な強度を維持しているのを確かめる。
壁は地の中身まで、当初の様子を変えてはいなかった。よし、充分保持されている。

何度も底に足を運んでいる自分が、まず、綱を伝い、様子を見に降りた。 
中は、もうもうと粉っぽい。硝石と木炭粉の燻る匂い。

井戸の底。水は…なかった。

水の力と、地の力を、細部まで感じ取る。自分の中のマナを強く持ち、自分の中の世界を膨張させ、外界を取りこみ、融合させる。
恐らくこれが、この島での最後の、精霊感知。

精霊の音…いや、これは光。自分のマナの光と、地と水の光が、共に重なり、振幅が強まる。輝くばかりの、精霊の力。その意味するところを、波長の形を、解読していく。

―― 世界は虹だ。あらゆる光、あらゆる音、あらゆる色、あらゆる波長に満ち満ちた、虹。
そして、あふれた精霊力は、祝祭の光のようだった。
光の入らぬ地の底にありながら、世界は、限りなく、明るかった。

上がってみると、島民たちが、井戸の中を凝視しながら結果を待っていた。
皆、聞きたいことは、ただ一つだ。
息を整えて、彼らの顔を一人一人見てから、口を開く。

「いい結果と悪い結果がある」
 
 ごくりと、つばを飲む音まで聞こえてきそうだ。

「悪い結果だが…水はでていなかった。水を溜めている層は、蝋(ろう)石に似た性質をもっている。岩の表面が、水に馴染まず、弾いてしまう。だから、いくら亀裂があっても、水が流れにくい」

 言い終らぬうちに、失望と悲嘆の声があがる。
 地面を蹴る者、天を仰ぐ者、知る限りの全ての神々を誹謗する者…
 場に闇色をした霧が立ち込めた。

「で、いい結果のほうは?」
 半ばあきらめかけたスー親父の声。

「今、水が出てこないのは、亀裂の中の水が岩に弾かれながらゆっくりと流れているからだ。確実に水の動きは起こっている。いったん新しい亀裂に岩が濡れて水が貫通すると、逆に流れの速度は増す。…2、3日後には、取水することが可能になる」 

 どごぉぉん、と。
 渾身の力で、殴られる。スー親父に。

「くぉのやろう!もったいぶった言い方しやがって…! 」
 
「喜びは大きい方がいいじゃないか」
 直撃を食った頭を抑えながら抗議する。

良い事を強調するときは、悪い面をまず告げていったん失望させてから伝えたほうが効果が大きい。逆に相手を落胆させたいときは、いい方を先に言ったりする。
よくやる言い回しであるが、ここでそれをやったのは、さすがに不謹慎だっただろうか。

歓声が上がる。村人達から。
バラミの。子供達の。村人の。群がる人々の手が、ばしばしと降りかかる。
これからの生活に直接関わる事であるだけに、人々の喜びは、大きかった。スー親父も、満面の笑みになった。バラミも、この時ばかりは意地悪婆ぁの頭巾を脱ぎ捨てて、屈託無く笑う。

「よぅやったね」
笑みに含まれるバラミの言葉が、身に染みて、嬉しい。

村人たちが、成功の狼煙のように、手を合わせる。パァン、と乾いた音が、連続して、澄んだ空に響き渡った。

ようやく風乙女たちは、青い空の下で、輝くように、微笑んでくれた。


■■■

夕方。再び、スー親父と共に、井戸に降りてみる。
鉄の支持を撤去するためだ。水に濡れた軟鉄は、すぐに錆びる。そうすると井戸の水を汚染する恐れがある。水が出てくる前に、早急に取り除かなければならない。
溝と鉄に守られた地層は、しっかりとした強度を保っていた。補強を取り除き、綱につるして上に上げる。

作業が終了してから、中の状態をもう一度詳しく調べる。バラミが上で待つ。
乾いていた岩肌が、しっとりと湿っていた。しばらくするとそれが、岩が汗をかいたように水滴に変わり、ぽたり、ぽたりと滴り始める。
岩石の中を探ってみると、ゆっくりとした水の流れが感じられた。早くも岩を貫通した水が、やってきたのだ。

「やっと、会えたな」
1滴、指先にとる。丸い水の粒。冷たい。ようやくのおまみえ。この1ヶ月、ずっと求め続けていた、姿だ。

水が出ることがわかったとはいえ、まだ、安心はできない。いざ溜まったとしても、金気や塩気がきつくて、とても飲めたものではない可能性がある。

島の開闢以来、ずっと地の中に閉じ込められていた水。数千年を経て、初めて、光の下に姿を現した、水。
まだしたたりにも足りないそれを、時間をかけて水筒につめ、地上に上がり、一口ずつ、バラミとスーで、分けて飲んだ。

身体の隅々まで満たされる、水の感触。甘さ。滑らかさ。
複雑な味だった。
達成したという充実感の味。
砂漠で乾き死しそうになったときに飲む甘露さとはまた異なる、すっと求めていたものが得られたなんともいえない風味。
そして、地の状態を、力で無理やり変化させ、地を破壊して得た苦さ。

バラミも、島の皆も、力を合わせて得た水。
地層を破壊したバラミ。硝石や木炭を準備した村人。井戸壁補強の鉄板を加工したスー親父。やる気を常に注ぎ込み続けてくれたロピュタ。誰が欠けても到底、成し遂げることができなかった、成果の味だ。

「深い味だね」

バラミがしみじみと言う。抱いた感慨は、みな同じであるようだ。
この味、この甘さと苦さと深さは、生きている限り、忘れられそうになかった。

水は、充分に飲用に足りた。地の恵みを含んだ、硬い水。その分、滋養にあふれた、水だった。

「来た甲斐があったな。あきらめなくてよかったじゃないか」
甲斐があった。スー親父のその言葉に尽きた。ただ、ため息をつきながら、頷いた。

夕日は祝福の炎のように、乾いた島を染めてくれていた。


その後、意識不明のロピュタに、水筒に入れた水を持っていく。
彼女にも、まず、最初の水を、飲んでもらいたかった。

葦ぶきの彼女の家に走ると、鎮痛な面持ちの父親が迎えた。水が出たことを伝えると、黙って中に入れてくれる。

「あのこも…喜びますわ…」
そういって、母親は、耐え切れぬというように、顔を覆った。

ドクン、と心臓が跳ねる。
まさか。…まさか。不吉な予感が、黒い泥となって渦巻く。
家屋の中に、靴を脱ぐ間ももどかしく、飛びこむ。
そこにいたのは…

全身に白い布をかけられ、静かに眠る、少女。

手から、水筒が、零れ落ち、床に水が飛び散った。
世界が無彩色になる。音が消える。
頭が、目の前の光景を受け入れることを拒否する。感覚も、感情も、消失する。

「ロピュタ……」

打ちひしがれる。小さな少女の前で、身体が、糸の切れた人形のように崩れる。
静寂。
あまりに哀しみと衝撃が深いと、感情が湧いてこないのだな、と思った。
目の前の現実を、拒否することしかできないのだ。
実感として感じることを、頭が拒絶する。
ただ、画家が描いた一枚絵のように、光景が、現実性を伴ってこない。

「嘘だ……ろ…」

ただ、呆然となりながら、空虚さの中で、つぶやいた。
その時。

突然、目の前に、白い布が跳ねあがる。
――バァァン!
激しい、破裂音。

心臓が跳ねあがり口から飛び出しそうになった。
時間が停止する。

「嘘だよー!」

座りこんだロピュタが、自分を覗きこみながら、ニヤニヤと笑っている。
顔に包帯。手には、打ちつけ用の小さな板と、硝石の白い固まり。
頭が思考能力を回復するまで、しばらくかかった。

また、謀られた!

「この……レプラコーン娘っっ!!」

ロピュタを掴まえて床に押し倒す。
あいたたた、とロピュタが頭を抑えると、反射的に外してしまう。
そうすると、ロピュタがまた、してやった、と舌をだすのだった。

「ほら、いっただろ。簡単に引っかかるってさ」
戸口からバラミが顔を覗かせ、ロピュタの両親と一緒に、ほくそえんでいた。
…つまり、グルになって騙した、というわけだ。

「リヴァって、いっつもひっかかるよねー」
そういってけらけらと、ロピュタが大笑いした。

水を持ったロピュタが笑っている。想像の通りだ。願いが叶った。そうであるのだが…。
あの衝撃は一体なんだったんだ…。もはや、抗議する力もなく、脱力する。

幸いにも、ロピュタの頭の怪我は、致命的な個所ではなかった。意識は2日後に回復し、ずっと家の中で療養していたのだ。活動的なロピュタに、家の中でじっとしていろというのは拷問に等しかったであろう。その分の鬱憤が、今日のいたずらに込められていたらしかった。

意識が回復していないということにして、面会謝絶を続けよう、というのは、バラミ婆さんのアイデアだということだった。
「その方が、気合入れて仕事できるだろ?」
 そう、のうのうと、のたまってくれる。

それは、そうだが。確かにそうだが…。
釈然としない想いが沸騰する。あの果てしない悩みは一体なんだったんだ、と。精霊使いをやめようとすら思った後悔は。行き場を失った思いが凝集し、徐々に、怒りという形を為した。

「婆さん……。貴様からまず、棺桶に送ってやるっ!」
 
そう叫ぶと、ロピュタもバラミも、腹を抱えて笑い転げる。果てない笑いが沸き起こった。


ふと思う。
女の子の顔に、一生癒える事の無い傷を刻んでしまったのは確かだ。
 
無事だった思っていて、怪我があったと聞かされると、落ち込みは大きい。
しかし、死んでしまったと思わせて、そうではなかった、というならば、慰めになる。

単なる、意地悪婆ぁのイタズラにしては、不謹慎であるし、気がききすぎだった。そうして自分の呵責を軽くさせようとした、バラミの配慮だったのではないか、と思うのは、買い被りというものだろうか。

ロピュタの顔の包帯を外し、傷跡の様子を見せてもらう。外傷はすでに呪文により塞がっているので包帯の必要はなかったが、傷跡を隠したい親の心境なのだろう。
けれどいずれ、包帯を解かねばならない。ロピュタは一生、この傷と共に生きていかなければならない。

膝をつき、傷跡にそっと指を伝わせ、ロピュタのくるりとした目を覗きこみ、祈るように言う。

「ロピュタ…。いつかはじめておまえに会った者が、おまえの傷をみて指差すかもしれない。おまえが年頃になったときに、異性に怯まれるかもしれない。同性に嘲笑われるかもしれない。 その時に、おまえはその傷を恨むかもしれない。
 けれど、おまえには胸を張って欲しい。この傷があるから、皆が水を得ることができたのだと。この傷が、島を変えたのだと。どうか自分の姿に、誇りをもって生きて欲しい。おまえの誇りは、わたしの誇りであり、島の誇りなのだから。そうして、わたしを助けて欲しい。おまえが傷を恥じたら、わたしは苦しい。おまえの傷を作ってしまったのは、わたしだから」
 
 自分勝手な願いだと。自責逃れだと。憤慨されても仕方がない。けれど、そう願わずにはいられなかった。

 ロピュタは自分の顔の傷に触れながら、こっくりと頷いた。ロピュタの母が、涙ぐんだ。 

 不慮の事態を完全に起こさないようにすることは、不可能だ。しかし、何が起こりうるかを極限まで考え、知り、起こった場合に軽くすむように配慮する事はできる。
 犠牲をゼロにすることなどできない。犠牲を出してはならない、というのは、理想主義者になるには都合のよい文句だが、それを夢見てはならない。見落とす点が多くなり、かえって大きな事故を招いてしまう危険があるのだ。
 何かを変えようとしたら、歪が必ず生まれる。それを認識し受け入れた上で、予測する事。犠牲は起こりうるものとして、それを最小にする手段を編み出すこと。それを、忘れてはならない。

 ロピュタの傷を心に刻み込む。そしてそれを思い出すたびに、決意を新たにし続けなければならないと思った。

 砂にけぶる夕闇の下。紺青の空を、瞬き始めた星が彩る。遮るもののない空間に、優しい風が渡っていった。

 宿への帰路。ふと、視線を感じた。
 たしかに水は出た。責任は果たしたと思っていい。
 しかし、懸念事項がまだ、明かにされたわけではなかった。
 
 緩んでいた気を引き締め、唇を結ぶ。

 ……まだ、幕は閉じられていない。


―――(さらに続)



  


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