野盗
( 2003/02/08 )
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作者
今は匿名
登場キャラクター
男、女(ユーニス)
カゾフ往還道中記
のNo21-10と連動しているものですので、そちらもご一読してみてください。
男は弓を携えて雑木林をゆっくり歩いていた。辺りは霧が立ちこめ、視界が悪い。この辺りは沼地が多くよく霧が発生する。男は節くれ立った手を木楢の若木にかけ一息ついた。
その手にはしわが幾重にも刻まれており、男の顔にも深いしわが見える。髭はここしばらく剃ったあとはなく、方々に伸びている。精気のない瞳を凝らして辺りを見回すが、目当てのものの陰さえ見つけることはできなかった。
すっと、鼻から息を深く吸い、僅かでも臭いでも感じ取れればとするが、鼻腔を冷やすだけでなにも得るものはない。視線を地面にやり、木に掛けた手を今度は頭にやり、しっとり濡れた髪を撫でる。その髪には白いものが目立つようになっており、男の歳が伺えた。
「やっぱり駄目かの」
声には出さない代わりに溜息をつく。
左手にはいつでも構えられるよう弓が握られいるが、弦を引くようなことは一度もなかった。この弓は男が若いとき、徴兵された折りに支給されたものである。古い物であるが弦を張り直せばまだ使えると分かり持ちだしたものだ。
男の職は農夫である。収穫は豊作とは言えず、まずまずではあったのだが、増税が課せられたため、生活は苦しい。領主たる貴族の跡目争いが起こり、兵を集めるための増税であった。それでも冬場は街に出て、荷下ろしや街道整備の労働による現金収入を得、辛うじてやりくりできるところである。男は街に出てから流感に合い、寝込んでいた。
男の家族は厳しいところに立たされた。
子供は三人おり、共に男子でよく家の手伝いをした。下は8つ、上は13とどの子も育ち盛りであった。父として満足に食事をさせたいとの思いで、今日(こんにち)狩りに出てみたものの、日が悪いのか探し方が悪いのか、獲物は見あたらなかった。
まだ病み上がりであり、満足に動けるわけでもなかったが、妻に「滋養つけなさい」と大切な食料を多く消費してしまったことが心苦しかった。なんとかして兎でも狐でも狩って帰りたい。男はその一念だけで雑木林をさまよっていた。
狩りを経験した者に言わせれば、「こうまで視界の悪い天候で狩りとは馬鹿だ」と言われかねないところであるが、男は素人であり、「霧が濃ければ、自分も動物に悟られない」と考えていた。
男の耳がなにかを聞き取る。
カラカラと車輪の回る音と木々が軋む音だ。まだ遠い。雑木林の向こう側から近づいてくるような感じである。
男はなんとはなしに、その音の正体を見ようと思った。近くには東西に走る街道がある。そこを行く馬車の音であることは容易に想像がついた。濡れた落ち葉を踏みしめ、葉を落とした下生えをかき分けて進むと、ちょっとした崖に出た。街道はその下を走っていた。
目を音の方に向けると、白い霧の中に、ほんのりと淡く黄色い灯火が見えた。ランタンの火であろう。それが馬車の揺れと共に小刻みに揺れていた。
どうやら一頭引きの小型の馬車のようだ。うっすらと帆をかけた馬車であることが視認できる。ランタンは御者の頭上右に吊されており、向かいから来る馬車とぶつからぬよう示したものだ。
男は不意に、不埒な考え持ってしまう。御者を脅かして、小銭をせびろうと考えてしまったのだ。威嚇としての矢を射り、脅しの文句を言って、銭を落とせばよし、逃げられればそれでも構わない。
このとき男は、野盗と同じ事をしでかそうとしていることに気がついていなかった。どこかしら罪悪感が抜け落ち、簡単な賭け事でもするような、損害がほとんどない賭をしかけるようなそんな気持ちになっていた。
キリリっと弦が引かれる。張り替えたばかりで、その張りの力は確かなものであった。若い頃に比べれば、体力も筋力もいくぶん落ちたが、畑仕事に従事しているため、すっと、いっぱいまで引く。
御者に当たらぬよう注意して、手を放した。
風を切る音を残して矢は飛んでいった。
カシャン
何かが割れる音がしたかと思うと、男の悲鳴が聞こえた。そして霧の中がパッと明るくなる。矢がランタンを射抜いたのだ。
油が飛び散ると共に、それに引火した。馬が背後で突然燃え上がったと知ると、嘶きをあげ駆け出した。馬に繋がれた馬車は火の勢いを広めながらそれにつられていく。馬はついてくる炎を振り払おうと、後ろ足を何度も蹴り上げ暴れまくる。
男の足下で馬車はついに転倒した。
不幸にも、御者は馬をなだめようとしたところ、後ろ足に蹴飛ばされた。まるで身軽な子供が大人にぽいっと投げられたような、そんな軽々しい感じで飛んでいき、道へと叩きつけられた。
火は横倒しになっても消えることはなく、霧で湿ってはいたものの徐々に火の勢いを強くしていった。馬は何度も立ち上がろうとするが、綱が邪魔をして立ち上がることができない。尻尾の後ろで燃えさかる炎は、さらに馬の冷静さを奪っていく。
男は、何が起きたのかが理解しきれていなかった。
何度も立ち上がろうとする馬をしばらく見ていて、はっと気がつく。自分のしでかした事の重大さを。足が震えてくる。左右を見るが、白い霧だけで何も見えない。
男は崖を降りていた。
少しでも金目の物を。誰にも分かりはしない。咄嗟に、起きてしまったことを嘆くより、今最大の利益を得るためのことに頭が働いた。
崖を降りきった男の行動は素早かった。地面に叩きつけられた御者の懐と腰元を探ると、財布を抜き取った。その重さが価値の大きさを物語り、男の心が躍る。
更に、無いかと探りを入れていると、声が聞こえた。遠くからだ。こちらに駆けてくる足音も聞こえる。
男の背中に汗が噴き出る。まだ霧で姿などは見えないが、すぐに現れるだろう。そう考えた男は、降りてきた崖を急いで登りはじめた。
自分を呼び止める声がする。女性の声だ。それもまだ若く、澄んだ張りのある声だ。ただ、今はそれに怒気が含まれている。警告の言葉も聞こえる。
男は振り返ることもせず崖を登り切った。逃げるしかない。自分は悪いことをしてしまったのだ。捕まれば大変なことになる。逃げなければ。男の頭はそれしか考えられなかった。何も余裕などない。警告の言葉の意味を理解することも判らなかった。
男の背中に針を刺されたような痛みが走り、登りきったところで倒れてしまう。女が追ってくる気がする。男は捕まっては駄目だと焦り、立ち上がろうとする。背中に鈍い痛みはあるが、立てないことはない。
(逃げきれる)
男は走り出した。
どのくらい走ったであろうか。随分走ったような気がする。まだ雑木林は抜けていない。来た道などは随分前に判らなくなっている。それでもここらは、村に近い。迷っても知れたもの。十分逃げおおせてから、ゆっくり戻ればいい。この金があれば、腹一杯食わしてやれる。
男は足を止めようとはしなかった。背中の痛みはほとんどない。当たり所さえよければ、矢一つで死ぬことはない。兵役時代の記憶をたぐり寄せながら、自分は「運がいい」と感じていた。
まだ雑木林は抜けない。
「そろそろ抜けてもいい頃合いだが」
男は呟こうとしたが、声にはならない。口の中がカラカラに乾き、とても水が飲みたくなった。走りすぎたか? そんなことを考えながら歩をゆるめる。
「ちょっと疲れたな。足が重いわ」
全身の気怠さに加え、足の裏が地面から離れようとはしてくれなくなった。自分も歳だなと感じつつも、「ここまで逃げれば」と歩を止め、腰を降ろそうとする。
膝が落ちた。腰を降ろそうとしたのだが、足の踏ん張りが効かない。思わず、自分で笑ってしまう。年甲斐もなく全力疾走したため、足が笑っているのだと経験則で判った。
「ああ、寒いな、走れば熱くなると思ったが」
いつの間にか弓はどこかへいき、両手で体をこすって熱を出す。霧でうっすらと濡れた服はこすってもほとんど熱は発しなかった。それでも手の動きは止めない。体の芯から寒さを感じるようになり、震えが来る。
「霧がまた濃くなったな。弱ったぞ」
先ほどまで、はっきり見えた雑木林がモヤにかかったように淡く白んでいる。音も何も聞こえない。不気味なほど静まりかえっていた。
「ほんとに寒いな。雪でも降り出すんじゃないだろうな」
男はその場にうずくまり、体を抱えて横になっていた。
帰ったら、毛皮の暖かい服を新調しよう。いや、その前にリンドたちの服が先だ。サエにも買ってやらないとな。苦労かけてばかりだ。そうだ、みんなでオランへ行こう。たまには宿でも取って、美味いものをたらふく食おう。ああ、早く帰らないと、みんなが心配している。
「ああ……、なんだ……、迎えに……来てくれたのか」
男は顔を上げて微笑む。
「……すまんな、父さん眠いんだ……。ちょっとでいいから眠らせておくれ……」
一端上げた顔を体に埋めようとするが、懐から財布を取り出すと差し出した。
「父さん一儲けしてきたんだ。これで好きな物買ってきなさい」
再度微笑むと、男はゆっくり地面に顔を降ろして目を閉じた。
男は二度と目を開けることはなかった。
差し出された財布を受け取ったのは、矢を射った女であった。
<おわり>
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