翡 翠の瞳( 2002/03/06)
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作者
娼婦の長女PL
登場キャラクター
『紫雲館』の娼婦達、娼婦の長女





 
 514年、7月。夏の日差しを避けて店先の覆いを頼りに、私は歩いていた。
 喧騒が積乱雲のように町全体を覆っている。客を寄せる声、品を値切る声。生命力に満ちた応酬。ロマールの市場付近は、人の欲望が絶えぬ限りその活気を失 うことがないだろう。
 人の熱気が渦巻くこの街に来るのは久しぶりだ。2年前護衛の仕事で来たきりだったが、相変わらず賑わいを見せていることに懐かしさを覚える。
 あの時と違うのは、来訪の目的とメンバー。前回は大人数だったが、今回は一人旅だ。

 使い慣れた皮鎧に広幅剣。旅人の町には珍しくもない、冒険者の出で立ち。立ち止まって見渡せばすぐに同業を見つけることが出来るのは、物騒ともいえなく はないが実際助かる。
 武器を帯びた人間の存在が違和感なく受け入れられる街では、無用の咎め立てを受けることがない。そのことに心から安堵のため息を漏らす。私の行き先は、 寸鉄帯びずに歩けるほど安全とは言い難いので、是非とも愛剣を手放したくないのだ。
 
 娼館通りを昼間に歩く輩は、土地のものに好奇の視線を投げかけられる。特に娼婦でもない女は一層興味を引くらしい。突き刺さる視線を皮鎧で受け止めなが ら、通りを急ぎ足で進んだ。
 危うく通り過ぎようとしてしまったほど急いでいた私の足が止まったのは、一見して老舗と判る風格のある建物の前。『紫雲館』と書かれた木の看板が風に揺 れている。
 私は何度かここを訪れた。夜伽の相手を求めるためではない。知人を訪ねに来ていたのだ。
 初めてここを訪ねたときは、まだ成人したばかりだった。未知の空間に放り出される心地がしてむせかえるほどの脂粉の匂いと女達の視線が気にならないほど 緊張していた。今では懐かしさすら感じる場所に、である。当時の自分を思い出すたびに何とも可笑しい。
 だが今日の訪問目的は、今までの訪問とは異なる。新たな種類の緊張と、胸に沸き起こる悲しみを深呼吸で押し込めて、ゆっくりと扉の横にかかる小さな鐘を 鳴らした。

 鐘の音に応えて、眠たげな誰何の声が響く。自分の名と、来訪目的である相手の名を告げると慌てたような物音が響き、紅をさす前のぼやけた顔のまま中年女 が飛び出てきて、いきなり私を抱きしめた。
 いささか熱烈すぎる歓迎に、久しく無沙汰をした詫びをしながら、私もそっと抱き返す。 
 矢継ぎ早に繰り出される質問に苦笑する私に気付いて、中年の女は自分の行為に照れた様子だ。何事かと好奇の視線を向ける通行人たちをすげなく追い払いつ つ、私を館内に誘った。

 娼館の奥に彼女……女主人の自室はある。足早に私を案内すると満面の笑みで手づから茶を淹れて私を歓待する。私は土産の菓子折を差し出して……この女主 人や娼館の女達の好物であるのだが……彼女の好意にささやかに応える。
 彼女は先程よりゆったりした調子で私に再度質問する。皆はどうしているのか、息災か? と。
 女主人の問いかけに押し黙り、背嚢から小さな包みを取り出して手渡す。包みを解いた彼女の顔色が瞬く間に青ざめ、かすかに震えながら私を見返した。返答 を予期しつつも聞きたくない様子だった。
 「亡くなりました……両親とも。それをあなたに渡して欲しいと言い残して」
 包みの中に収められていたのは、母の形見、小さな古びた銀のペンダントだった。

 昨年、母が病死し、父もその後を追うように流行り病に倒れたことを告げる。二人はこの女主人、オルフィアナとは旧知の仲であり、特に母にとって彼女は恩 人ですらあった。
 オルフィアナは苦虫を噛み潰したような表情で
 「ここで一番の娼妓(しょうぎ)だったあの子が、体が弱いのは心配だった。あたしにとっちゃ妹みたいでさ、いっつも無茶な客の相手をした後は栄養のつく ものを差し入れてやったもんだよ……。それにしたって、二人とも、ねぇ。本当に仲のいい夫婦だったからね。」
 嘆息しながら私の顔を気遣わしげに見遣る。視線の温度で、母の面影を重ね合わせているのが判った。
 「母も、そう言ってました。オルフィアナさんが優しく気遣って大切にしてくださったから、生き延びられたんだって。でなければ、体の弱い自分が生きては いけなかっただろうって。
 ……ほんとうに、母を護って下さって、ありがとうございました」
 そう答えて、私は深く頭を垂れた。

 このひとには心底感謝している。母から何かにつけて、この人から受けた恩を聞かされた。
 母が人間らしい気持ちを持ち続けられたのは、この人が守ってくれたからだと。

 私が成人したとき、母は自ら娼妓出身であると教えてくれたが、最初は衝撃で理解が及ばなかった。優しく素敵な母。冒険者として活躍していた母が娼妓だっ たことなど想像もつかなかったのだ。
 社会的には必要悪。人々の欲を受け止めて糊口をしのぐ女達のことは常識として知っている。しかし、それが身内であると言うのはまた別の話なのだ。暫くは 母を蔑視してしまいそうでそんな自分が嫌であったのを覚えている。
 だが、娼妓であったことを知って納得できたことも幾つかあった。母が差別をことのほか嫌ったことと、私の健康を必死に祈っていたことである。
 差別嫌いについては、職業はおろか異種族に対してまで及び、つねに弱者の立場で私を諭していた。これがなければ、私は冒険者の仕事をする際にいらぬ偏見 を持って臨んでいたかもしれない。現状を思うにつけ、つくづく感謝にたえない。

 そして、もうひとつ。健康についてのこと。
 実は、私の兄は生後半年で死んでいる。言葉どおりかよわい、蒲柳の性質である母は、子供を健康に産めなかったことを心底嘆き、もし再び子を授かることが あれば、その子の健康だけを祈って育てようと固く心に誓ったらしい。その甲斐あってか私は丈夫に育ち、人並み以上の膂力に恵まれもした。御蔭で剣を生業に するほどだ。
 しかし無事に成人した後も、母は私の健康ばかりを案じていた。時には神経質とさえ思えた配慮は娼館暮らしで得たかもしれぬ病の弊害が、子に及ぶことを恐 れれば無理からぬことだったのだ。
 幸いにして、私の身に病の気配は微塵もない。母のためにも、それは喜ぶべきことであった。

 深々と頭を垂れた私を見て、気恥ずかしげな苦笑を浮かべたオルフィアナは軽く手を振る。
 「賢くて、やさしくて。何よりほんとに綺麗な娘だった。顔は勿論のこと、体も心も。すばしっこくて艶やかで、舞が上手で話術が巧み。……子供の前でこん なこと言っちゃ何だが、最高の娼妓さ。此処に来る客は皆、アデラに夢中だった。それこそあの子が休む間もないほどにね。引き抜かれたときは男どもが大泣き したもんさ」
 アデラ、それが母の名だ。古い言葉で”高貴”を表すと言うその名は伊達ではないと彼女は笑う。
 この娼館にいた頃の母の様子を知る数少ない存在に、私は兼ねてから聞こうと思っていたことを尋ねる決心をした。すなわち、母がどうして冒険者となりえた のか、と。
 母はあまり多くを語らなかった。ただ一度、誇らしげに「人生を賭けてみたのよ」と呟いていた。
 「そうかい、きちんと聞いてなかったとはね。……教えてあげるよ、あのときのことを」
 私の希望にこたえてオルフィアナは語りだす。それはこの娼館の、生きた伝説の物語だった。


    〜〜翡翠の瞳〜〜

 翡翠の瞳、明るい栗色の髪の娘が『紫雲館』に連れてこられたのは、ある年の冬だった。
 その年は地方で旱魃があり、不作に喘いだ寒村の者達が、多くの娘を売りに出していた。この娘も例外ではなく、両親亡き後に親戚を頼っていたものの、生活 苦から売られたという事だった。粗末な服に身を包み、体は痩せ細っていたが、華のある顔立ちと瞳に宿る精気が印象的な娘だった。
 湯浴みをして柔らかな衣服に身を包み、髪を整えて紅を差す。それだけで娘は見違えるほど美しくなり、艶やかな女を見なれた娼館担当の男すら驚かせた。
 「これは相当儲かる。金の卵を得たようなものだ」
と、当時『紫雲館』担当だったギルドの男は仲間に自慢したと言う。
 だが、ある意味その容姿が災いしたとも言えるだろう。ギルドに買われた身寄りのない子供達はその適性を見定めて、様々に役割を振られ、教育を受ける。し かし、彼女、アデラはその美しさ故に、さして見定めをされることもなく娼館行きが決まってしまったのだから。 

 娼婦としての教育を受け、店に立ち、客を取る。アデラが村にいた頃は想像もつかないような街での生活が始まった。当時オルフィアナは既に娼妓であり、新 米の彼女の面倒を見るよう言われた。
 最初は、美しいこの娘に嫉妬した。その若さと美貌と知性は、彼女には叶わぬものであったから。けれどアデラはそれらを誇ることなく、賢くも先輩のオル フィアナ達を立て続けた。次第に打ち解け和やかさを取り戻す『紫雲館』に、アデラ目当ての客が増え始めたのもこの頃だった。

 アデラは故郷の村で孤児として親戚の家をたらい回しにされていた。寒村の上に、厄介な居候。満足な食事を供されることも少なかったためなのか、労働を強 いられていた為なのか、体があまり丈夫に育たなかった。
 そんな彼女が娼妓として人気を集める。この「人気」が何を意味するかは語るまでもない。
 ひととしてよりモノとして、もしくは装置として、肉体と精神を酷使し、日毎に疲労を貯めていく可愛い後輩の姿をオルフィアナは気遣い、娼館の主に掛け 合って仕事を制限させたほどであった。

 そんなある日のこと。盗賊ギルドの幹部達を集めた宴が催された際、娼妓たちが酌に駆り出された。
 宴会に当てられた広間では、各娼館が幹部に取り入る為に送り込んだ屈指の女達が娟を競う。アデラとオルフィアナも、命じられるまま忙しく男達の杯を満た して回った。
 そんなアデラに鋭い視線を投げかけるものが居る。『紫雲館』の最大の競争相手、『香月亭』の一番人気の娼妓、セレナだ。アデラが初見世に立つまで娼館通 りでも並ぶものなしと謳われたゆるく波打つ金髪にみずいろの瞳の麗人である。
 何かにつけて彼女を目の敵にするのは『紫雲館』はもとより娼館通りでも事情通ならば知れたことであったので、この取り合わせを面白がる向きも少なからず 見受けられた。
 当のアデラが全く取り合わず、柳に風と流していたから余計面白くなかったのだろう。今日こそは意趣返しをしたいと意気込む様子に、宴の参加者達はアクシ デントの予感を抱いて期待していた。

 宴もたけなわとなり、半ば酒に飽いた頃、女達は余興として舞を披露するよう命じられた。たちまち簡単な舞台が設けられ、線になり輪になり、女達が拍子に 乗せて躍りだす。しかし、単純な舞など見慣れた幹部には物足りなかったらしく、趣向を凝らしたものをと命じられて宴を取り仕切っていた男は苦慮した。
 これには自分の出世も関わる。上手く切り抜ければ評価も上がるやも知れぬ。しかし逆もあろう。困惑しながら周囲を見回すと、ふと絨毯が目に入る。毛足が 長く複雑な模様と色艶を誇る高級品だ。
 複雑な幾何学模様を見ているうちに、彼はある旅芸人の舞を思い出した。

 絨毯が部屋の中央に敷かれ、不規則な幾何学模様のうち、星型の模様だけにそっと生卵が置かれる。何事かと見守る者達に向かって恭しく礼をした男は、この 卵を割らずに舞いおおせたものに賞金をやってはどうかと幹部に持ちかけ、興味を抱いた幹部から同意を得る。
 これならば、失敗しても娼妓を笑い飛ばす趣向としてよいかも知れぬと、男は思ったのだった。

 しかし、名乗り出る者は現れない。幹部の前で恥をかくのを恐れたのだ。眉を顰める幹部達と焦りに顔色を失なう男。次第に険悪な色に染まる空気を、数人の 声が遠慮がちに解きほぐした。アデラ、オルフィアナ、そしてセレナもその数人の中にいた。
 人気の娼妓達の登場に、場は華やぎ、男は胸をなでおろす。
 総勢6人の舞い手が絨毯を前にし、順に足を乗せていくが、大抵は曲の半ばまで及ばぬうちに破砕音とちいさな悲鳴を響かせ、舞を止めてしまった。二人目に 舞った女性は、白い足を卵の殻で傷つけたのだろうか、眉根を寄せて痛みに耐えていた。
 そんな彼女らを、多少嗜虐の趣味がある幹部などは、喜んで眺めている。
 残るは二人だけだ。周囲が勝手に盛り上がり、「因縁の」二人が最後に回されたのだ。

 先にセレナの順番が来た。彼女は自分の得意な曲名を楽師に囁き、官能的なステップを踏み始めた。
 ステップの美しさにため息がもれる。『香月亭』の娼妓たちは自慢気に彼女を見つめ、時折アデラの方に挑戦的な視線を送ってきた。先程ひとつ卵を踏んでし まったオルフィアナが黙って彼女らを睨みつける。アデラは反応せず、セレナの舞の足取りを観察しているだけである。

 卵さえ踏まなければ構わない。そう思ったのか足を高く上げても垂直に下ろし、バランスを失わぬ為に、大きな動作よりも妖艶な仕草で目を引いて工夫してあ る。安全策をとったといえるだろう。しかしそれとて、確かな舞踊技術なしには叶わぬことだ。
 また、彼女は幹部たちの心の動きを計算していた。わざとふらつきそうなステップを踏んで注目を集めた後に大胆な姿勢をとり、驚嘆の声を上げさせる。
 ”女”の魅せ方を知っている大人ならではの舞い方だった。

 最後の弦が爪弾かれ、余韻が残る中に彼女はそっと足を引いて礼をとった。
 たちまち割れんばかりの拍手が広間に響き渡る。検分役の男が、卵を一つずつ見て回るが、一つとして傷ついたものはなかった。それを知って拍手と歓声が一 層華やかになる。

 後輩から手巾を渡されて軽く汗を拭うセレナは、満足気に笑んで幹部から宝石を受け取った。そしてアデラに勝ち誇ったような視線を向けると、ゆったりと用 意された席に座った。
 『紫雲館』の女達は、セレナの視線に唇をかみしめて、アデラに縋るような目で訴えた。
 
 あんな女に負けないでよ、と。

 アデラは可愛らしく微笑んで……そう、本来は17の娘なのだ、愛らしさが残るような……そっと楽師の席へ行き、何事か囁く。驚いたような視線を返す楽師 に笑み返して絨毯の所へ行き、合図する。
 
 楽の音が、広間に響いた。
 その瞬間広間はどよめきに包まれた。先程セレナが踊った同じ曲を彼女が選んだことを知ったのだ。眉間を曇らせるセレナ。しかも、アデラはセレナよりも軽 快に踊り始めたのだった。
 豊満で妖艶なセレナとは異なり、少女の面影のある若々しい彼女は、それでもプロの娼妓だった。自分がどう踊れば一番魅力的かをきちんと心得ていたのであ る。
 手にした薄絹はランタンの光を浴びて神秘的に揺らめき、軽快で大胆な跳躍によって風をはらんだ。絨毯の端から端へ跳ぶような跳躍に、観衆は我知らず手を 握り締める。
 回転と跳躍、身を反らすような姿勢。清流の中の魚の様に生き生きと躍動感に溢れたその舞は卵の存在を忘れたかのように自由で滑らかだった。

 舞い終わった瞬間、高らかに歓声が上がったのも無理からぬことであろう。
 アデラは静かに息を整えながらにこやかに微笑むと、検分役を促した。男は慌てて卵を調べるが一つも傷ついたものはなく、毛足の長い絨毯に残った正確な足 跡にかえって驚かされたのだった。

 宝石を受け取って席につくアデラを、『香月亭』の女達は穏やかならぬ表情で見送った。

 結局、成功したのはアデラとセレナの2名のみであった。まさしく因縁の二人である。

 賞賛の声の中、アデラが席に戻ると、中堅の穴熊が拍手しながら広間の中央に歩み出てきた。
 注目を浴びた彼は、軽く咳払いをし、観客の中のある一人に向けて確認するように会釈すると、アデラとセレナに言った。
 「もしも目隠しをして踊りおおせたならば、お前達を身請けしてやろう」と。

 セレナは目を輝かせて応じ、アデラはしばし伏目がちに成りながら考えた後、承諾した。部屋は更なる熱気の渦に包まれた。
 仕掛けの場所が星型の模様から、四角模様に移された。前回の踊りで足が覚えているとつまらないと先程穴熊の会釈に応えた幹部が主張したのである。
 その上、卵ではなく、鋲(びょう)を幾つかまとめたものを四角模様の上に置くことが決まった。その鋲は、ギルドで使用される武器であり、相当な鋭さを有 している。素足で踏み抜けば足が使い物にならなくなる可能性とてあった。
 踏めない場所は二箇所増えた。前回以上に不規則な配列になり、難易度はずっと上がる。さらに娼妓としての未来を揺るがしかねない負傷の危険が伴う。
 それらを聞いて、さすがにアデラは表情を引き締めた。これが何を試されているのか判らなかったがどうやらただの余興で済ませる気ではないようだ。
 失敗すれば途方もないリスクを背負う、何かとの戦いを突きつけられているのだと、直感した。

 セレナの方を見遣ると、紅を引いた唇から色が失せ、小さく震えながら周りに目配せをしている。彼女が助けを求めるように見遣った先は、『香月亭』の主。 苦渋に満ちた表情で、セレナと絨毯を交互に見つめ肩をすくめると、棄権する旨切り出した。
 広間に満ちる怒声と落胆の表情。それらに押されて『香月亭』の者達は隅に寄り、肩を寄せ合った。
 
 はらはらと成り行きを見守っていたオルフィアナは、隣に居たはずのアデラが居ないことに気付き、周囲を見回した。アデラは、楽師の横で、真剣な表情で何 かを囁いていた。
 
 「彼女はやる気だ」

 広間に集った人々は、怒声を歓声に換え、彼女の勇気に声援を送った。

 皆が固唾を飲み、オルフィアナが手を白くなるほど握り締める中、アデラは睨み付けるように絨毯を見つめ、瞑目して呼吸を整えるとそばに控えた男に合図し た。男が手にした目隠しをしっかりと結ぶと、ゆっくりとアデラは絨毯の角へと歩みだす。オルフィアナの心配をよそに、アデラはそっと手にした薄絹を肩にか ける。それが、楽師への合図となった。
 
 跳躍と回転、音楽に乗った穏やかで優雅なステップが繰り広げられる。毛足の長い絨毯は、それだけでも足を取られると言うのに、彼女は危なげなく舞い続け る。
 だが、さすがに先程の奔放なまでの自由さはない。慎重な、細心の注意が払われていることが観客にも伝わってくる。
 選ばれた曲は、南方への憧れを歌った古い歌。
 歌舞音曲を知るものならば一度は耳にしたことのあるだろう温かく切ない旋律が広間に響く。
 ゆったりとした旋律ほど、一歩一歩を踏みしめる力は必要になる。目隠しのまま優雅さを失わぬ様舞い続けるのはかなり困難である。しかし、アデラは一歩ず つしっかりと踏みしめた。
 時に爪先立ちになり、時には大胆にかかとから落とし、薄絹を緩やかに宙に浮かべる。
 最初こそ歓声が上がっていたが、曲が中盤に差し掛かる頃には誰一人として声を上げるものはなく、緊張と静寂が空間を支配した。楽師の奏でる音色とアデラ の呼吸、衣擦れ、軽い足音のみが聞こえる。
 
 真剣な眼差しで見入る人々の中で、先程二人に身請けを申し出た男が、そっと幹部に耳打ちした。
 「あれならば、例の遺跡……視覚を狂わせる部屋にあるタイルもこなせるでしょうな」
 幹部は豪胆さをうかがわせる顔に、にやりと満足げな笑みを乗せて彼に頷いた。

 アデラが真っ直ぐに足を下ろしかけて、ふ、と足をとめた。そのままそっと横に滑らせてゆっくり足を下ろす。
 その足が宙に再び舞ったとき、観衆は信じられないものを見た。一つだけ、まとめそこねた鋲が関係のない模様のところに転がり落ちていたのだ。
 「あいつは足の裏に目でもあるのか……?」
 ざわめきは歓声になり、歌の音色を揺るがせながら、フィナーレの拍手に溶け込んでいった。

 最後の一音が空に消え、余韻が部屋に響いたとき。アデラがゆっくりと礼をとった。部屋に溢れ帰る歓声と拍手、神業を目の当たりにした感動と驚異に打たれ た視線が交錯する中で、先程の穴熊がそっとアデラに近寄り、目隠しを外して絨毯の外で足の裏を観衆に見せる。
 足元には傷一つなかった。
 穴熊の男が彼女の手を取り、衆目の前で高々と空に差し上げて言った。
 「今日より彼女は、俺の弟子として穴熊修行してもらうっ!」

 人の波を掻き分けてオルフィアナがアデラの許に駆けつけると、アデラはやや青ざめた顔にうっすらと涙を浮かべながら、オルフィアナの首にしっかりと抱き ついた。
 怖かったよ、姐さん。彼女はそう言って小さく震えた。オルフィアナは彼女を強く抱きしめて優しく労い、よくがんばったね、と褒め称えた。オルフィアナの 声も涙でかすれていた。
 成り行きを見守っていたセレナは、悄然と広間を去った。

 後日、オルフィアナは目隠しのまま踊れた理由を聞いて再び驚いた。
 ヒントは、娼館での”仕事”中に常連客から聞いた話だというのだ。

 若い建築士はアデラに、紙の上に上下左右、等間隔に線を引いた物を用意し、そこに図面を描いたものを地面に反映させれば同じ家をいくつも建てることがで きると教えてくれた。
 中年の画家は、人間の造るものは一見不規則に見えても、どこかに規則がある。その規則を見破ればそのものを写し取って書く事は造作もないといっていたと いう。
 アデラは、必死に絨毯の模様から規則を読み取り、それを頭の中に描いた絵図面に写し取って覚え、踊っていたのだった。驚くべき記憶力と、機転である。

 この話は娼婦達のあいだで瞬く間に広がり、彼女の翡翠色の瞳は、自らの運命を切り開いた鍵として、讃えられるようになった。
 以来、『紫雲館』では翡翠の瞳は幸福の証として語り継がれ、幸福にあやかりたい男達が館を訪れては翡翠の瞳の娼妓を身請けしていくようになった。
 この館にあって、翡翠の瞳は運命を変える力そのものとなったのである。
 女達の間で憧憬と羨望、切ない希望をもって伝えられるその物語の主人公は、そのまま女達に一筋の希望をもたらした者にもなった。
 

 アデラがオルフィアナ達と過ごした『紫雲館』を去る日、オルフィアナは涙ながらに小さな包みを差し出した。アデラが包みを開けると、中から小さな可愛ら しい銀のペンダントがこぼれ出た。
 ペンダントには、幸運神の聖印が刻まれていた。娼館の女達のせめてもの心づくしであった。
 女達の涙と笑顔に囲まれながら、飛び切りの娼妓は新米穴熊として新しい道を歩み始めた。
 


  〜〜伝説は今〜〜
 
 「そこからは、あんたの父親がでてくるのさ。勘のいいアデラは修業の後に遺跡荒らしも上手にやってのけるようになった。そのうちギルドがらみで出かけ た”堕ちた都市”で、あんたの父親……フェリックスに出会い、恋に落ちた。”鍵”として独り立ちを許された頃だった。
 毎日一所懸命働いて、アデラが抱えていた借金を払い終えた二人は、名実ともに独立できた。自由になったあんたの両親は、父親の故郷エレミアに旅立って いったのさ。
 ……世の中広しと言えどもこれほどの幸運に恵まれた女は居ないよ、きっと。」
 
 長い物語を終えて、冷め切った茶を飲み干すオルフィアナ。私はどこか遠い国の伝説でも聞くような心地で彼女の話に耳を傾けていた。
 確かに大胆で、いざと言うときは父よりも決断が早く、可愛らしい外見に似合わぬ強さを持った不思議な人だった。敏捷性では軽業師のような動きを見せても 居た。
 けれど、にわかには信じられなかった。それが、今の自分より歳若い頃の母の話だとは。だが、母は実際にエレミアに来て自分を生み、冒険者として仕事をこ なした。そして何度も、ここに自分を連れてきては年かさの娼妓たちと旧交を温めていた。
 伝説として語られる彼女の、その話はやはり真実なのだろう。
 今は、オルフィアナの誇らしげな表情の理由がよく判る。私にとってもこの話の母は誇りだから。

 「賭けと表現した気持ちが、やっとわかりました。そして遺言の意味も。」
 私は、語り手の顔を見ながら微笑んで言った。
 「母からの伝言です。
 ……自分の幸せは瞳の色のおかげなどではなく、『紫雲館』に来たことと、
オルフィアナさんたちに出会えたことのおかげだから、そのみんなの願いがこもったペンダントは値千金にも勝る。そのペンダントは、是非オルフィアナさんに 持っていてほしいとのことです。
 大好きだったあなたに、これから一杯幸運が巡ってきますように、って。」

 自分の半分ほども歳を経ていない娘に友人の遺言を聞かされてオルフィアナは涙を禁じえなかった。涙にむせびつつ、大切な友人の愛娘の頬に手を添えて、 そっと囁く。
 「そういう娘だったから、幸せがやってきたのさ、きっとね。……あんたのその瞳はアデラよりも濃い色をしてるね。翡翠と言うよりも、もっと深い森の色 だ。髪の色は父親似だけれどね。多分あの娘の幸せは、あんたに受け継がれているよ。だから望みを捨てずに生きるんだよ。」
 「伝説の娘」のその娘は、花が咲きほころぶような笑みを浮かべて頷いた。

 「もう一つ聞かせてください。母はどうして、その転がった鋲に気付いたんですか?」
 先程から気になっていたことだった。
 オルフィアナは苦く笑って内緒だよ、と言い含めると教えてくれた。
 「楽師がね、ランタンの光にきらめいた鋲に気付いて音を乱したんだってさ。私たちは気付かなかったけれどね……あの子は本当に呆れるくらい幸運な子だ ね」



 私が娼館を出ると、あたりは既に薄闇に包まれていた。ちらほらと灯るあかりに男達が誘われるようにそぞろ歩きをしている。
 『紫雲館』を任される女主人となったオルフィアナは、人ごみの中に消えていく私の後ろ姿をいつまでも目で追っていてくれた。その視線を嬉しく思い、振り 返って一度だけ手を振る。
 それに応えるのを見て、私は娼館通りを後にした。
 
 
 オルフィアナは彼女を見送りながら、一心に祈っていた。
 あの娘は容姿こそ母に劣るし、十人並みでは有ったが、その生命の力は母譲りだと信じている。
 「どうか神様、あの子が生き生きと、歩んでいけますように。幸運がめぐり来ますように」と。
 ”伝説の娘”から譲り受けた幸運神の聖印を握り締めたまま祈り続けた。


  〜〜伝説の行方〜〜

 ロマールの下町、繁華街の一角にある娼館『紫雲館』には伝説がある。
 昔、翡翠の瞳もつ娼妓がその舞い姿を有力者に認められ、娼館を出て舞うことを許された。
 まだ少女だったその娘は、行く先々で出会う人々に幸運と財宝をもたらし、ついには愛する男と結ばれて自らも幸福な家庭を手にしたのだという。
 
 少女の名前はアデラ。夫になった男の名はフェリックス。二人の間に生まれた娘の名は、ユーニス。 冒険者一家に生まれた娘は、ロマールへの届け物を終え ると、東のエレミアに戻り、さらに東を指して出発した。
 昔両親とともに冒険した、大好きな”魔術師のおじさん”、オランに住んでいるはずのルーセントにも形見を届けるために。

 彼女の行く道が幸運に恵まれているかどうかは、交流神のみぞ知る。





  


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