しずくの行方 (2003/06/09)
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作者
琴美
登場キャラクター
リグベイル、ユーニス



  水のように全てを抱いて。 水のように仲間を集めて。 水のように路を切り開いて。
  ”お前のこころは水の性(さが)に近いようだから、きっと水に愛されるだろう。”
  師匠の言葉が正しいならば、わたしはきっと今、旅だって間もない小さな水の一滴なのだろう。
  私はどこへ行くのか、どうなっていくのか……
  (514年12の月・記)

  一年前故郷を旅立ったしずくは今、生まれた泉に帰り着く。
  それは515年5の月中旬。夏の気配がエレミアの街に訪れる頃のこと。



     〜〜  しずくの行方  〜〜

 
 《 1. 時は経にけり 》

 エレミアの街に、仕立屋ばかりが軒を連ねる一角がある。
 親方が弟子を叱咤する声、はさみが生地を裁つ音、糸をしごく指の滑る響き、衣擦れ。それらが絶え間なく聞こえてくる街並みの中に、比較的古い佇まいの小さな工房があった。工房の庭に向かって開け放たれた窓からは、内部の息詰まるような緊張と熟練の手さばきが奏でる快い音色が、存在感をもって溢れ出している。

 その懐かしい空気を前に、ユーニスは緊張を押し隠せない表情で扉を叩く。誰何の声と建て付けの悪い扉の開く音に目を細めながら、彼女は明瞭に自分の名を告げた。
 「えっ、ユーニス? ……師匠っ、ユーニスが帰ってきましたよ」
 扉から差し込む日差しに短髪を金茶に輝かせて、半妖精の青年が室内に振り向いた。彼の名はクロード。老いた仕立て屋リックスの高弟であり、仕立て職人としてはユーニスの兄弟子にあたる彼は、自分達の師の喜ぶ顔を一瞬想像し、しかしすぐに脳裡から追い払った。
 (そんなにあからさまに喜ぶ人じゃないもんなぁ)
 果たして針を持つ手を休めた師はゆるりと立ち上がると、厳しい表情で開かれた扉へと歩み寄ってきた。
 (ああ、でも……っと、いけないいけない)
 師の口元がほのかに緩んでいる事に気付き、愛弟子はつられて微笑まないように精一杯努力した。

 四角く切り取られた光の中に、老人の唯一の孫が浮かび上がる。
 弟子であり、孫であり、老いた仕立て屋にただ一人残された肉親、それがこの娘だった。冒険者として危険と隣り合わせの生活を送るこの孫の身を、いつの日も心密かに案じてきたこの老人は、愛しさと安堵が湧きあがるのを必死で堪え、ことさらに孫娘の全身をねめつけて見せてから小さく頷く。
 「どうやら多少は仕事をこなしたようだな。去年よりしっかりした顔をしとる。」
 一言一句聞き逃さぬように耳を傾けていた孫は、深緑の瞳を心のありようのまま祖父に向ける。
 「まだまだだけど、やっと一人で歩き始めました。とりあえず精霊が使えるようになったし、剣を自分のお金で買い求められるようになりました。……ただいま、って言ってもいいですか?」

 芝居がかって聞こえるが、本人達の気配はきわめて真摯である。学院出の賢者ならば口頭試問のようだと評したかもしれない。
 痛いほどの沈黙ののち、孫の顔を見つめていた老人が口角を吊り上げると、にやりと音のしそうな笑みで応えた。
 「ああ、お帰り。ユーニス。まぁ今回はよしとしよう」
 孫娘は微苦笑を浮かべつつ安堵のため息をつく。ああ、いつもの爺ちゃんだ、と言わんばかりの表情だ。
 「なんだか釈然としないけどまぁいいや、ありがとう。 ただいま帰りました、爺ちゃん。」

 かくもひねくれた会話は、リックスの回りで暮らす者には馴染みのものである。古くはユーニスの父、フェリックスがこのように試されていた。もっとも、フェリックスは若くして出奔した後、結婚後に自宅を設けたため、さほどこの家には”帰って”こなかったのだが。
 「あ、そうそう、実はお客様が一緒なの。」
 にこやかな表情のまま、ユーニスが扉の傍らで待つ誰かに声をかけた瞬間、ふいに老人が眉間に深い皺を寄せた。
 「師匠っ!」
 クロードが小さく叫んで駆け寄る。
 「じ、爺ちゃん!?」
 兄弟子の声に驚いて省みたユーニスの目の前で、老人は胸を押さえてくず折れた。彼女は慌てて数歩の距離を跳躍するように縮めて、そっと祖父を抱きとめる。体をかがめて苦悶する師の声にクロードは慌てて周囲を見回し、薬を取りに行くと言って工房に続く住まいへと走っていった。
 「爺ちゃんっ、しっかりして」
 ユーニスは手早く祖父の胸元を緩め、声をかけ続けた。

 「……失礼するよ、手伝おう。」 
 扉の傍らに佇み家主への紹介を待っていた客人、リグベイルはただならぬ気配に危急と察し、ユーニスに続いて工房の中に踏み込んだ。自然光が取り入れられ手暗がりにならないよう作られた部屋も、初夏のまばゆい屋外に比べてはやや薄暗く思えて、数度瞬きを繰り返す。
 その瞳に映ったのは老人を抱えて青ざめる後輩と、駆け出す青年の後姿。
 「もしや、心の臓を病んでおられるのか?」
 ユーニスの様子に目元を引き締めると、そっと近寄って肩を叩いた。ふり仰いで頷く彼女の顔は、差し込む陽光にいよいよ蒼く見える。野伏としての経験が手早く胸元を緩めさせ、楽な姿勢を取らせることなどを自然に行わせていたが、やはり身内の急変は堪えるらしい。祖父の顔に沿わせたその指は小刻みに震え、顔は色を失っていた。

 今は周囲がしっかりせねばならない。応急手当でできる範囲をユーニスがこなしたことを確認し、リグベイルは老人に障らぬ程度の声でユーニスを促した。
 「いいか、薬がくるまで精霊に呼びかけていよう。私たちは”霊”なのだから。」
 はっとするユーニスにリックスを支えさせたまま、リグベイルは静かにリックスの体に触れて感覚を研ぎ澄ませ、精霊の均衡を観る。
 「どうやら水と火、両方とも乱れているな。私が暴れる火に治まるよう語りかけるから、ユーニスは水の流れに落ち着くよう呼びかけてくれ。」
 リグベイルの言葉に少し冷静さを取り戻した彼女は、大きく深呼吸すると祖父の体をかき抱き、精霊語を紡ぎだした。リグベイルも老人の胸に手を添えるようにして精霊語を紡ぐ。
 老人の体の中で精霊はひどく揺らいでいた。火が胸のうちでぐるぐると暴れ、水が不規則に体を駆け巡る。

 「火よ、灼熱の舌を収めてくれ。時ならざる舞を舞わず、ただ彼の身を温めたまえ。」
 「水乙女さんお願い、落ち着いて。ゆっくり、静かに、穏やかに、逆巻くことなく体内を巡って。」

 二人が懸命に精霊たちを宥めていると、クロードが陶製のカップを手に走りこんできた。すぐさま体を起こし、口元に運んで薬を含ませる。ややあって表情が和らぎ頬に赤みが戻るのを確認して、3人はようやく息をついた。

        *    *    *    *    *    *

 発作から半刻後。先ほど倒れたばかりの老人の私室では”久々の家族水入らず”に相応しからざる会話が飛び交っていた。どうやら容態は落ち着いたらしく、老人の声も聞こえてくる。
 「最近無理してたんですって? クロードさんに技術を伝えるのは大事だけど死んじゃったらどうしようもないんだからね、あんまり無茶しないでよ。」
 サイドテーブルに水差とカップを用意したユーニスが呆れたように言えば、先ほど倒れた者とは思えぬ口調で反駁するリックス。寝台に横たわってはいるが、その舌は休むことを知らない。
 「仕方なかろうが。俺ぁちっとでも早く全部伝えてぇんだ。あいつの寿命に合わせて10年も20年ものんべんだらりとしてる訳にゃあいかんからな。」
 愛弟子が半妖精なのを踏まえての言葉だった。
 クロードが弟子入りしてから過ごした15年は、一般的な「妖精族の15年」とは比較にならないほど充実していたし、そこらの人間の弟子よりも習得速度で群を抜いていたから、このような表現は

本来は不適切だと誰よりも知っているのは師である当のリックスなのだが、どうも口の悪い彼にかかっては、言葉の上ではお構いなしのようだった。それを知っているユーニスもあえて咎め立てせずに応じる。

 「だからってねぇ。あー、もういいわよ。とりあえず2〜3日は絶対安静。もしも針を持ってるところを見つけたら、当身を食らわせてでも寝かせるからねっ。」
 どう見ても本気の表情に一般人の祖父はたじろいだが、それでも黙らないのは流石である。
 「手前ぇ、それが実の祖父に言うことか? 仮にもお前ぇの師匠だぞ、俺は。」
 「もう弟子じゃなくてただの孫なんでしょ、仕立ての道を辞めたから。大体ね、孫だから言うのよ、そこまで他の人はやってくれないでしょ。クロードさんは絶対しないし。」
 「人に手をあげるたぁ、なんて娘だ。」
 「手を上げるんじゃないもん、こういうのは不可抗力っていうんだもん。」
 「それは不可抗力じゃねぇっ!」
 以下、不毛な会話が絶えることなく、小さな工房の奥にある私室は久方ぶりの賑わいをみせた。「犬も食わないなんとやら」に近い様相だったが。


 ちょうどその頃。リグベイルは客間で紅茶と菓子を前に困惑していた。
 目の前のものはクロードが市場まで走って買いに行った、庶民の口にするものとしては贅沢な部類に入る蜂蜜菓子。にこにことお茶を勧める彼に抗えずとりあえずカップを手にしている。ユーニスに勧められ、郊外に住む義父のもとに赴く前に一晩のみ厄介になるだけのはずが、成り行きからいつのまにか 彼女にしてみれば、思いがけないトラブルに巻き込まれて対処に立ち回っただけに過ぎないのだが、その冷静な対応が老人の発作を軽微な物に抑えたと感謝され、是非とも逗留をと勧められてしまったのだ。
 病人のいる家に迷惑をかけてはと、容態が安定したのを見計らい工房を後にしようとしたリグベイルを、クロードは多少強引な口調で引き止めた。師の「孫」のユーニスが連れてきた客を帰してしまっては師と彼女の意思に背く事になる。まして恩人でもある人を歓待せずに返したとなれば自分も心が晴れないから、と。
 納得しきれないまま引き止められ、クロードに勧められるまま温かい紅茶を飲んでいるのだった。

 「恩人などと言われては恐縮するばかりだ。私はただ精霊に呼びかけただけのことで、実際には薬を飲むまでの間に合わせのみに過ぎない。」
 照れを紛らわすかのようにカップの茶を飲み干す。
 「それにだな。私を見たとき、ご老体はユーニスの婚約者と勘違いして再度発作を起こしそうになったではないか。」
 苦笑を浮かべて紅茶のお代わりを注ぐクロードに礼を述べて再びカップを手にするが、視線がさまよっている。先だって交わされた会話に多少疲労を覚えたようだった。
 「まさかあそこまで驚かれるとは。あれでまた発作が起きたらどうしようかと思った。」
 クロードがことさらに明るい口調で労わる。先刻の会話は多少フォローに困るものであった分、今、さりげなく慰めているようだった。
 「気にすることはありませんよ。師匠がいつものように早合点した上だけのことですから。ユーニスの言い方も紛らわしかったですし、あなたは何にも悪くありませんよ。あんなのを気にしていたら、俺らは仕事できませんわ。っても、もう今は俺しかいませんけどね」
 
 ユーニスは、発作の落ち着いた祖父にこういったのだ。
 「あのね、爺ちゃん。こちらはオランから一緒に旅をしてきた方なの。いつもお世話になっている先輩で、私の大好きなひとなんだけれど……お泊めしたいの、いいかな?」
 「お孫さんには懇意にして頂いております。私は…」 
これで誤解しない方がおかしい。 
 リグベイルが名乗りかけたとき、祖父はあわてて胸を押さえながら薬の残りを飲み干したのだった。その後の
「でかしたぞ、ユーニス!」との台詞の意味を考えると、未だに眩暈が治まらない。勿論、誤解は解いたのだが、その際の老人の残念至極といった表情が頭痛すら呼び起こすのだった。


 話題が発作の件に戻ると、クロードは悲しげに目を細めてゆっくり頭を振った。
 「師匠は最近発作を繰り返しているんです。ちょうどさっきは一日の疲れが出始める時間でした。あのひとは疲れや苦痛を滅多に表に出しませんし、聞いても否定し続けますから、休憩もあまり聞き入れてくれなくて。」
だから丁度休んでもらえて良かったかもしれない、まして精霊使い二人が体調を整えてくれたのは幸運だったのだ、と重ねて彼は礼を述べる。

 「薬師には見せているのか? 随分重い症状だったし、あれでは仕事に支障も出るだろう。」
 立ち入ったことを。そう思いながらもリグベイルは気遣わしげに尋ねる。頑固な老人の誇りは理解できぬものではないが、それで命を縮めては、あたら腕の立つ職人を失うことになる。何より彼はユーニスの唯一の血縁だ。できれば健康でいて欲しい。
 結んだばかりの縁ではあるが、そんな風に思ったからであった。
 彼女の心遣いにみちた視線をうけとめつつ、若々しさと熟練の職人の手を併せ持つ半妖の青年は、小さくため息をつく。いずれユーニスにも告げねばならない言葉を整理する為に。
 「薬師にも定期的に煎じ薬を処方してもらってますけれど、この春先から特に酷いんです。そうじゃなきゃ、いつも薬を用意しなくてもいい。俺が弟子入りしてから25年になりますけど、ユーニスの父親のフェリックスさんが亡くなったときでもこれほど酷くは無かった。あの時はしばらく伏せりましたが、それでもここまで病まなかった。」
 深呼吸とともに、忌まわしい言葉を押し流すように吐き出す。
 「……師匠の時間は、もうあまり長くない。薬師はそう言っています。」

 リグベイルは胸に鋭利な痛みを覚えた。自分の鋭敏な感覚が呪わしく思えた。
 自分の視界の端、開け放たれた扉の蔭にいる小柄な女性の気配。その深い悲しみと衝撃が精霊など感知できなくても伝わってくるように思えたからだ。
 「クロードさん、それ、本当ですか?」
 ユーニスが扉の蔭で水桶を抱えて立ち尽くしていた。


 《 2. 絡み合う想い 》
 
 明くる日の早朝、ユーニスは工房の庭先で剣を手にしていた。懐かしい温度と湿度を伝える風の中、一つずつ丁寧に型をさらっていく。
 弟子として工房に住み込んでいた頃、修行の合間を縫って木刀を手にしていた庭は、今の彼女には何故か色あせて見えた。出発から一年、心一つで風景も異なって見えるのかと愕然とする。
 時間は容赦なく経過したのだ。彼女にも、周囲にも。
 そして時間が蝕んだ最たるものは、大切な祖父の命だった。

 ふと、構えた剣先が揺らいでいる事に気付いてそっと剣をおろす。再度構えるが、どうも剣との一体感が薄い。
 (なんか、剣が上手く扱えないや。)
 暁光に似つかわしくない暗い顔で俯くユーニスに近付く気配があった。リグベイルだった。
 彼女は短い挨拶をかわすと足早に近付き、厳しく言い放った。
 「先ほどから見ていたよ。随分力ない剣捌きだったな、それに踏み込みも甘い。あんな状態で切り結んだら死にかねないぞ。」
 すっぱりと言い切られた言葉にユーニスは目を見張り、すぐに視線を落とす。 
 「言い訳ですけど、迷いがあるからかもしれません。本当は今回お墓参りをすませたら、暫く滞在してゆっくり祖父と話して、それでもう帰らないくらいの覚悟でいました。強くなる為の修行に出たら、きっとなかなか帰れなくなるから。」
 視線で先を促すリグベイルに応えて続ける。
 「でも、祖父のことを聞かされて、正直迷ってます。やっぱりこっちに本拠を移して仕事するべきかもしれないって。
 オランに住んだことは、本当に自分のためになったと思っています。けれどせめて、今くらいはこっちにいるべきなのかもしれない。土地鑑も人脈もそこそこあるから、仕事も今の私がオランで請けるより広範囲に出来るだろうし、収入が入れば祖父に少しでも孝行できる。何より祖父の側にいることが大切かもしれない、場合によっては冒険者を休業することも考慮した方がいいのかも、って。
 剣に生きることばかり考えていていいのかな、自分のことばかり大切にしているんじゃないか、と。こんな風に揺らぐなんて、覚悟なんてしてなかったようなものですよね。」
 そう言ってリグベイルの言葉を待った。
 だが、リグベイルは肯定も否定もしなかった。ユーニスの縋るような視線を受け止めつつ話を聞くと、
 「決めるのは、ユーニス自身だ。他の誰でもない。……私にはそれしか言えないよ。」
そう言って、踵を返す。ユーニスには、庭を去る彼女の背中を追う事は出来なかった。

       *    *    *    *    *    *

 日が高くなるのを待って、リグベイルはリックスの部屋を訪れた。
 客人として数日の逗留を乞われたものの、リグベイルは王都周辺にはさして用があるわけではない。むしろ彼女にとっても帰郷が目的であったので、暇乞いを申し出る心積もりだったのである。
 部屋に通された彼女の目に最初に飛び込んできたのは、驚くべき数の色彩であった。それらは全て、布見本である事に一瞬遅れて気付く。
 倒れた翌日だけに、老人が寝台に伏せっているかと思いきや、大きな机に向かって色とりどりの端布を吟味していた事に彼女は少なからず驚かされた。手許には帳面。細かな書き込みがなされ、その横に端布が貼り付けられている。どうやら仕事で得た端布を分類し、覚書を作っている最中だったようだ。新旧取り混ぜて、膨大な記録と生地がまとめられたその帳面は、おそらく仕立て屋にとって一級の資料になるだろうと、門外漢でも容易に想像しうるものである。
 勧められるまま椅子に腰掛け、話を切り出そうとしたとき、老人が先に口を開いた。
 「昨日は夕食のときオランでの話を聞かせて下すってありがとう。ユーニスが本当に世話になっているようで、感謝してますわ。」
 「いいえ、こちらこそ。」
 リグベイルが穏やかに目元を緩め礼儀正しく応じると、彼は頭を振ってから彼女を見据える。
 「あいつは甘いうえに欲張りでしょうがねぇ。いつも大事に思うモノばかり抱えて、それらをみぃんな、人もモノも一切合財大切にしようとして持ちきれず転びそうになる。切り捨てる力があるはずなのに、そうしやがらねぇからいけねぇんですわ。まっつぐに求めるものだけを追うようにしねぇと、あいつは必ず行き詰まる。そのことをここを出る前にみっちり教えた筈だったんだがなぁ。」
 何を切り捨てろと言いたいのか、リグベイルにも判った。けれどそれは彼女が口を出すべきことではないのだとも思った。視線の意味に気付いたのか、リックスは彼女に済まなそうな視線を向け、頭を下げる。
 「孫に甘い馬鹿野郎だと思ってくだすって結構。でもなぁ、ほんとはあいつが帰ってきてくれたのがどうにも嬉しくて。一緒に来たお前ぇさんにはしゃいで見せても仕方ねぇって判ってるんだが、お前ぇさんがあっちでの生活を話してくれた時、あいつも一丁前に頑張ってやがると思うと嬉しくなっちまってなぁ、すまねぇ。」
 慌てて面をあげるよう乞うリグベイルは、彼の眼が僅かに潤んでいるのを見つけてそれ以上いうのをやめた。そのかわり、そっと囁くように告げる。
 「ユーニスは大丈夫ですよ、きっと。私はそう思います。」
 悩み、迷い、失敗を繰り返してはいるが、踏まれてもしぶとく立ち上がる草のような生命力と気力がありますから、とはさすがに肉親の前で言うのをはばかられ、無難な言葉になってしまったのがもどかしかった。
 「ああ、そうかねぇ。お前ぇさんがそう言ってくれるならそうなのかも知れねぇな。ありがとよ。」
 そのもどかしさが仇となったのか、彼女の言葉が余計老人の心を打ったのか、肝心の暇乞いについては、できれば3、4日ほどは過ごして行ってほしいと逆に懇願され、押し切ることが叶わないまま根負けして了承する羽目になったのはご愛嬌と言うべきなのだろうか。

       *    *    *    *    *    *

 その日の午後。ユーニスは、風の吹き渡る場所でぼんやりと今朝のリグベイルの言葉を思い出していた。
 答えが欲しかったわけではない。けれど、心を奮い立たせる契機を欲していたのは事実だった。それを自ら探すのではなく他人に求めたことを悔やんだが、彼女が「自ら決めろ」と言ってくれたことがせめてのもの救いだった。
 改めてユーニスは目を転ずる。眼前に広がるのは青々と萌える草と、白い石の並び。心地よい風が吹きおろす先には、祖父が住まう街がある。
 ここは両親と、会うことの無かった祖母と兄が眠る共同墓地だった。この眺めのよさと風の心地よさ故に、両親もここに眠ることを欲した。眠る人々の終の棲家を撫でさすり清めて去る、風乙女の舞。
 ここなら母に自分の精霊を呼ぶさまを見てもらえる。そう思うとユーニスは少しだけ緊張を覚えつつも切ない嬉しさを覚えていた。深呼吸をして、風を感じながら精神を集中する。

  「我が友なる風の乙女よ、心のままに舞うものよ、今ひとときうつし世に現れ出で、去にし者を慰むるべく言葉を届けよ」
 しっかりと唱えられた精霊語に応じて、風をまとう乙女が姿を現した。母の墓の前で、ユーニスは精霊に願う。
  「どうかあなたの力で、できるだけ高い高い空まで私の声を運んでね。二人の魂がどこにいるかはわからないけれど、天に運べばその場所に届くかもしれないから。」
 風の精霊は微笑んだように見え、次の瞬間、高く青い空に舞い上がるようにしてかき消える。
 自分の周りに風の伝える音の道が出来たことを感じると、ユーニスは歌うように東方語を呟いた。

 「ただいま、二人とも。それから、おばあちゃん、お兄さん。私は元気です。
 やっと自分の力で剣を買って、自分の力で精霊を呼べるようになったよ。ようやく一人で歩きはじめたんだって思う。」
 一息にそこまでいうと、表情を改め、深呼吸して続けた。
 「二人が生きていた頃は、私は”箱入り冒険者”だったよね。皆に守られて、助けられて、いつも足を引っ張ってた。本当の意味で一人で苦しむこと、責任を負うことを知らないままだった。成人してからの今までで、一人で歩き出したこの1年は凄く重い時間だったから、身に染みたの。
 父さん母さん、ほんとうに、私を守ってくれてありがとう。今更口にしても遅いけど、ありがとう。
 でもね、今また悩んでる。爺ちゃんの側に残るべきか、オランに戻るべきか。」
 今朝方のリグベイルとの会話が再び脳裡をよぎる。”誰かの為に”などと耳当たりの良い言葉で自分を騙す見苦しさを、彼女はとうに知っていた。決めるのはあくまで自分の想い一つなのだと判っていても、あの時「祖父のため」と言わんばかりの言葉を口にした自分を恥じ、嫌悪した。
 ため息とともに墓前に膝をつくと、柔らかな草の感触と地熱のぬくもりがユーニスの体を温めた。その優しさがどうしようもなく心に響いて、彼女の胸を詰まらせた。

 「私、ずぅっと前を歩いてる大好きな人に追いつきたくて、少しでも早く強くなりたいの。その人の隣を歩くのに相応しい人間になりたいから。
 強くなることなんて、どこにいても心の持ち方一つで何とかなるって思う。本当にそう思うの。でもね、エレミアだと家族や友達に囲まれて安心してしまいそうで。結局オランでも甘えさせてもらってるけど……。」
 優しい師匠夫妻、きままに亭で出逢った人々、沢山の温かく楽しい思い出をくれた場所。オランはすでに彼女にとって帰るべき場所になっていた。甘えを自らに許さず歩き続けるつもりならば、自分はオランをも去って新たな土地に赴くべきなのかもしれない。そうとさえ思いつめていた。
 ただ、自分の力で築いた人間関係は間違いなく”財産”でもあったし、大陸最大の都で冒険者として成功できたら素晴らしいのではないかとも思う。仕事の量もエレミアより多いかもしれない。自分を試すにはこの上ない場所だと理解していた。
 そういった冒険者としての欲が、自分をオランに繋ぎとめる要素だとは気付いている。自分ひとりで生きていくためにはどれほど足場を固めることが重要か、この一年ほどの時間で骨身にしみたのだ。
 だからこそ、職業人としてはオランを、家族としてはエレミアを選びそうになる自分を宥め、平常心を取り戻すのに必死になっている。

 好きな人に追いつきたい。でもそれは、向上心に火をつけただけのこと。
 祖父の側にいたい。しかし仕事は辞められない。自分はすっかり剣と精霊とに魅了されている。結局エレミアにいても仕事はするだろう。少しでも近くにいる、その安心感はただの自己満足ではないのか。
 自分の生き方ははっきりしている。叶う限り、冒険者として仕事に従事していたい、それだけ。
 そうとなれば結局は優先順位の問題だ。自分が冒険者として生きる覚悟よりも優先して、祖父を看取る覚悟をするか、しないか。時には仕事を放棄することさえ選択するその道を、「自分」は選べるのか? それを望むのか? 全てを打ち捨ててその望みを選択しうるのか?

 「冒険者のお前が、俺の死に目に会えると思うな」
 祖父は旅立ちのときそう言って送り出してくれた。
 「一人前になるまで帰ってくるんじゃねぇ。」とも言った。そのときの祖父の心を自分は痛いほど理解しているはずなのに、何故今また迷うのだろう。それは自分が愚かだからだろうか? 弱いからだろうか?

 ユーニスは自分に向けて問い続ける。己の願いを他者の存在に仮託して、お為ごかしの生き方で自身を欺くことは、願いの有りようを自覚してしまった今ではもう無理なことだった。
 
 「ねぇ、生き方を決めるって、どうしてこんなに苦しいの? 何もかもを抱きしめようなんて、贅沢すぎるんだって判ってるけど。どうしたらいいのかな、私。」
 風は、呟きと僅かな水の気配を載せて、高く高く天上へと舞い上がっていった。

       *    *    *    *    *    *

 夕闇が迫る頃、クインシー工房ではささやかな酒宴が開かれていた。慌しいまま暮れた昨晩は、大したもてなしが叶わなかったと、リックスが色々用意をさせたのだ。
 庶民に用意できるものなどたかが知れている。それでも、まかない食を作りなれたクロードの手にかかればそれなりの食事が出来上がった。
 住み込み当時「切る煮る焼く」しか出来ないと言われていたため、最近は料理の腕を意地になって磨いていたユーニスが、あっさり負けを認める程度には彼の腕は優れたものであった。伊達に舌の肥えた師匠の側で長年修行しているわけではないようだ。そのことで実の孫の彼女が、多少落ち込んだのは言うまでもない。

 久々の新鮮な野菜や手の込んだ料理に目を輝かせて喜ぶ女性達を見ながら、老いた仕立て屋は何事か考えていたが、食後の茶が出た頃、二人に声をかけた。
 明日、外出に同行して欲しい、と。
 老人が回復の様子を見せていたこともあり、その申し出を二人は快く了承した。
 その晩はエプロンをかけたクロードが楽しそうに料理やら茶やらを運ぶ姿が印象的な一夜となった。深更まで楽しげな会話は尽きることが無かった。



 《 3. 剣と針と 》


 翌朝。庭に出て軽く体を温めていたユーニスは、リグベイルに声をかけられた。外を走ってきたらしく、褐色の肌がやや上気して赤みを帯びている。思えば彼女もエレミアで仕事をしていたのだ、この市街にもある程度慣れているはずである。
 「護衛の道中は平穏だったからな、剣を振るう機会も殆ど無かった。少し付き合ってくれないか?」
 昨日の朝のやり取りを思い出してややためらいがちに頷いたユーニスに、リグベイルは傍らに置いた大剣を抜いて構える。職人街の朝は早く、もうこの時間ならば苦情も出るまい。そう思ってユーニスも愛用の片手半剣を抜いた。殺風景な庭が、こういうときにはありがたかった。傷つけるような木も植わっていないからだ。
 
 決着は、余りに早くついた。
 三合ほどでリグベイルの大剣がユーニスの剣を捉え、 跳ね飛ばしたのだ。
 呆然と自分の手許を見つめる彼女から、リグベイルは突きつけた刃先を引いた。怒りとも悲嘆ともつかぬ感情を押し込めた、冷たい声音がユーニスを打つ。
 「前に手合わせしたとき、ユーニスの速さと力を載せた剣は結構重かった。でも、今のはまるでだめだ。ただ力が入ってるだけで棒切れを振ってるみたいだった。……剣を持ったら気を抜くな。判りきってるだろう? そんな体たらくならいっそのこと剣を持つのを諦めろ。」 
 言い過ぎだろうか。そう思いつつも、後輩の今の姿に落胆を覚えていたリグベイルは、指摘の言葉を緩めはしなかった。案の定、ユーニスは肩を落として俯いている。しかし、ここで慰める気にはなれない。必要も、ない。
 リグベイルは静かに踵を返そうとした。
 「…………、……っ」
 声に打たれ俯いたユーニスの肩が震え、かすかな声が発せられる。大剣を鞘に収めて立ち去ろうとしたリグベイルが厳しい眼差しで振り返る。
 「聞こえない。いいたいことがあるなら……」
 リグベイルの視線が、顔を上げたユーニスの視線と絡みあった。ユーニスは言葉を搾り出すようにして訴える。
 「嫌、ですっ。絶対に剣を捨てません。私は、こんな悔しい負け方する為に剣を持ってるわけじゃないです。
 もう一回、手合わせをお願いします。今度はこんな無様な格好見せませんからっ。」
 そういって跳ね飛ばされていた剣を拾い上げ、素早く構えたユーニスの顔には、先程よりは覇気を認めることが出来た。
 「ふぅん?」
 多少躍起になってはいるが、先程より構えも自然で無駄な力が入っていない。自分の言葉で煽られて、怒りに呑まれているのでもないらしい。
 (どうやら多少は吹っ切れたようだな)
 彼女のことをそう観た”先輩”は、汗で首筋に張り付いていた幾条かの銀髪を鬱陶しげに払いのけながら、少しだけ微笑んで太刀鞘をゆっくりと払った。愛用の大剣が朝日を受けて目映く輝く。息を整える後輩に向けてリグベイルは地を蹴った。
 「手加減しないからなっ!」

 一刻ほど後。朝食の前に、女性二人は汗と泥を流し、多少の手当てを必要とする羽目になった。


       *    *    *    *    *    *


 午後。仕立て屋街近くの織物問屋。
 ユーニスとリグベイルは、リックスに連れられるままにそこを訪れた。彼は気さくに声をかけてきた店主とひとしきり話し終えた後、ざっと布を物色し、いくつかを届けるように頼む。勝手知ったる調子で、店主が手早く書付をとっていた。
 「病み上がりでも、仕事にかける情熱は衰えないんだな。」
 リグベイルが感心したように囁く。ユーニスは黙ってそんな祖父の背中を見ていた。

 いくつか注文を終えて一息ついたところで、祖父がおもむろに振り返り、ユーニスを呼びつけた。不思議そうに近付いたユーニスの耳元に何事か囁くと、驚く彼女を尻目に、リックスは店の壁際にあった椅子に悠然と座って早くしろ、と促す。ユーニスは突然の事に戸惑っている様子だった。
 (どうしたのだろう。随分迷っているようだけれど。)
 リグベイルがリックスの隣に行き、子細を尋ねようとしたときである。
 静かに目を伏せて何事か考え込んでいたユーニスが、真っ直ぐにリグベイルを見つめた。頭の天辺から爪先まで、ユーニスの視線がリグベイルを捉えていく。そして、軽く目を閉じた後、にっこりと微笑んだのだ。
 「な、何?」
 不気味な視線におののき、おそるおそる投げかけたリグベイルの問いには、意味ありげな笑みだけが返された。
 「まぁ、気にせず待っとってください。」
 リックスの意味不明な言葉に、今は従うしかないようだった。首をかしげたまま、仕方なく彼女は沈黙する。

 ユーニスは背後の壁沿いに積まれた生地の山を振り返り、剣を手にしたときと変わらぬ真摯な表情で見渡した。問屋だけあって生地も薄手から厚手、彩りも文様も様々に並んでいる。彼女はじっとそれらを見ていたが、やがて、つ、と生地と生地の間を歩き出した。真剣な眼差しで幾つかの生地を見比べ、そのうちのいくつかを指に挟んで感触を確かめる。3つほど風合いの異なる生地を選び出すのに、半時ほどかかっただろうか。そこで初めて祖父を呼び、その生地3種を示した。
 リックスはゆるりと立ち上がり、リグベイルにそのまま待つよう告げると、ユーニスの示した生地を見比べ、心から満足そうに笑んだ。そして、その中の一つを指差し、店主に用尺を告げる。
 二人は素早く切り分けた長い生地を折りたたみ、持ってきた袋に入れると、訳もわからず立ち尽くしているリグベイルを促して、店を出た。

 「なぁ、ユーニス? あれは一体……どうして私を見て笑ったのかな」
 「え? やだなぁ、すぐにわかりますよ、うふふ。ね、爺ちゃん。」
 「そうさな、明日の夕方にゃあ判るだろうな。」
 帰り道の彼女の問いは、祖父と孫の気持ち悪いほどの嬉しそうな笑みに誤魔化されてしまった。こういうところは良く似た二人なのだと、奇妙な感想を抱きながら工房への道を辿るリグベイルの胸には、何故か不穏なものが感じられて仕方なかった。


       *    *    *    *    *    *

 
 翌日の夕暮れ。
 鍛錬に一日を費やして帰宅したリグベイルとユーニスを、クロードが出迎えた。作りかけの夕食の香りが食欲を誘い、足早になる二人に、とりあえず風呂を勧めると、彼は嬉しそうに厨房に戻った。
 「随分楽しそうにしていたな。」
 某店のマスターを髣髴とさせるその料理好きに、リグベイルは感心したような表情で呟いた。
 「ああ、クロードさんご飯作るの好きみたいですよ。『皆でご飯を食べられるのは幸せだ』って昔私が修行してたときもよく言ってました。食卓を囲んで和やかに食べる時間が本当に好きらしいです。」
 孤児であり、リックスに拾われるまでの生い立ち故のことなのだが、さすがにそれを口にするほどユーニスは浅はかではなかった。
 だが、今更ながら、一つ思い到ったことがある。
 (もしかして、私、あのご飯の美味しさに惚れこんでしまったのかしら?)
 初恋の人である彼。昔、彼を好きになった理由がごく単純かつ本能的なものだったのではないかと考えると、自分の事ながら少し情けなくなったユーニスであった。

 その日の夕餉は出立を明日に控えたリグベイルのために作られた、クロードの心づくしの献立だった。歓待に恐縮するリグベイルに、「ユーニスと自分が世話になったから当然」とリックスが酒を注ぎ、クロードが肉の旨みの濃い部位を取り分ける。
 贅を尽くした料理というよりも、家庭のごちそうのぬくもりでもてなそうとする彼らの気持ちに、結局リグベイルも甘える事にした。

 宴がたけなわとなった頃、リックスがクロードに目配せをした。そっと席を立ち、戻ってきた彼が差し出したふっくらとした布包みを受け取ると、リックスはリグベイルを手招きした。不思議そうに首をかしげるリグベイルに、その柔らかな包みを手渡しながら、リックスは頭を下げた。
 「これは、俺ら3人からの贈り物だ。リグベイルさんや、本当に今回はありがとう。しがねぇ仕立て屋の心意気を受け取ってやってくれねぇか。」
 「そ、そんな。私は大した事をしていないし、むしろご厄介になってしまった身ですから……。」
 しきりに遠慮し続ける彼女を3人がかりで促すと、ようやくリグベイルは包みを解き、驚きに目を見張った。
 
 薄手の、それでいてしっかりした生地。柔らかく絹のような光沢のある上質の綿で作られたそれは、淡い若草色の夏物のドレスだった。どこかで見たような色合いである。ここでようやく彼女の昨日来の疑問は氷解した。
 (あ! それじゃ、あのときユーニスが選んでいたのはこれだったのか。だから私をじっと凝視していたのか……)
 ドレスを手に呆然としているのをいいことに、彼女の背中をユーニスが押し、そそくさと続きの間に引っ張り込んで強引に着替えさせようとする。
 「うわぁ、私はこういうのは着たこと無いんだっ。お願いだから許してくれっ! な、な?」
 閉じられた扉越しに悲鳴やら懇願やら様々な声が聞こえたが、暫くすると静かになった。どうやらユーニスが上手く説得に成功したらしい。ややあって開かれた扉からは若草色のドレスをまとい、肩に同色のケープをかけ、髪を大まかに結い上げたリグベイルが現れた。
 にこにこと勝利の笑みを浮かべるユーニスに導かれて現れた彼女は、男二人の素直な感嘆の声に迎えられて恐縮してしまい、その場で硬直した。
 乱れ一つ無い針目、細やかな縫い取り。仕立て屋師弟が技術を駆使して精緻に仕上げたそのドレスは、当然のように彼女の体にぴったりと合っていて、とても仮縫いなしに仕上げられたものとは考えられない出来だった。
 並みの男よりも体格のよい彼女の背丈を生かしてたっぷりと波打たせた裾に続くラインは、普段スカートをはきなれないと見える彼女の為にゆったりと足運びを阻害しないつくりをも兼ねている。その為わずかにスカート丈が短めに仕上がっているようだ。
 飾りを兼ねたボタンで留められていたケープを外すと、V字の襟と肩口の丸いカットが褐色の肌を切り取って見え、若草の淡さと好対照を成していた。どこか初々しい印象を添えるその色は、リグベイルの今の恥じらいに良く映えていた。
 緊張と恥ずかしさで耳まで赤面している彼女は、自分の恥らう姿がえも言われぬ可愛らしさをかもし出している事に気付いていない。しかし、仕立て屋一家の3人は、予想以上にドレスの似合う彼女に酷く満足している様子だった。

 思わず拍手がもれ、いよいよリグベイルは褐色の肌を紅潮させた。

 「ど、どうしてこんな……」
 消え入りそうなリグベイルの声に穏やかに答えたのはリックスだった。
 「命の恩人に、自分の最高の技術で礼をしたかったってことだ。エレミアの職人ってのは、普段はいかに迅速かつ均質に物を作るかが要求されてるんでな、たまにゃあ存分に腕を振るう機会が欲しくなったってのもある。クロードの腕を見るにもいい機会だったしな。
 お蔭さんで俺の腕が鈍ってないのもわかったし、こいつが随分腕を上げたのもわかって良かったわ。」
 真顔で彼女に向き直り、再度、命を救われたこと、オランでのユーニスへの助力への感謝を告げ、彼は続ける。
 「だがな、実はそれだけじゃねぇんだ。今回は、ユーニスの”目”も見ておきたかった。こいつには仕立て屋として独り立ちするほどの腕はないだろうが、それでも口を酸っぱくしていい続けてることがあってなぁ。

 『お前は、創り続けろ。決して壊すだけの人間になるな。』てな。

 布問屋でこいつに目利きさせたのには訳がある。生地一つ選べねぇ奴に仕立て屋なんぞ勤まらねぇ。そして、それはどんなことにも通じる。物の本質を見極められんくせに一流を名のる不届き者になっては欲しくなかった。
 こいつがしっかりしてるか、俺の教えたことを身に付けているのか、確かめておきたかった。結果は、まぁ合格だ。」
 食堂に静かにリックスの声が響く。

 「俺の技の全ては、クロードが継ぐだろう。だから、この家も工房も、なにもかも仕立て屋リックスにちなむものはこいつ、クロードのものだ。こいつには俺の”息子”としてついで貰う。他の誰にも文句は言わせねぇ。つまるところ、冒険者として家を出たユーニスには継がせねぇってことだ。」

 「師匠っ!?」
 一気呵成に宣言したリックスは、慌てるクロードを視線で制して言葉を継ぐ。
 「だがユーニスには修行の期間に、俺の心意気と見定める眼、そして作り出す喜びを教え伝えたはずだ。こいつの親父には残念ながら伝わらなかったが、こいつはしっかり受け継いでくれたのだと、俺はそう信じている。
 俺の血を継ぐ孫のこいつが針を持ち続ける限り、そして『創り』続ける限り、俺の”こころ”はこいつと共にある。……例え死んじまってもだ。」
 吐息を忘れてユーニスは祖父の言葉を待った。体に震えが走り、喉の渇きを覚える。
 「剣はもとより魔法なんぞ逆立ちしても使えやしねぇが、俺にも確かな力があると信じてる。自分のために誰かのために、創り、保たせる喜び。それを実現する力は、形が無いからこそ、どこまでも持っていける。どんな所までもだ。根無し草には丁度いいと思わねぇか? 
 こいつの為の”遺産”は、それでいいと俺は思う。何故なら、それを忘れねぇ限りこいつの人生が枯れる事はねぇと、そう思ってるからさ。」
 淡々と、ひどく淡々と紡がれたこれらの言葉の重みを、その場にいた3人はじっくりとかみ締めていた。
 「……というわけでだ。お前ぇさんにゃ悪いが、俺の後継ぎどもの腕試しと、お前ぇさんへの俺の心づくしを兼ねてるって訳だ。すまねぇがそのドレスは大事にしてやってくれな。」
 そう言って、にやりと口許をゆがめたリックスの笑みに、心底満足げなものを見出したのは、リグベイルだけではなかっただろう。

 
 二人の「後継ぎ」はこみ上げる熱いものを必死で堪えていた。
 孤児だったクロードは家と家族を。そして半妖精の長い時間を費やすに足る生き方を。
 ”根無し草”に例えられる冒険者として、不安な道を歩みだしたユーニスには、消えることなき絆のありかを。
 いま二人は、確かな言葉としてはるか前を行く大切な存在から、それらを受け渡されたのだ。大事なことほど言葉にするより態度で示してきたその人の、限りなく力強い、輝かしい贈り物を。


 (私はもしかして、良い『だし』に使われてしまったのだろうか?) 
 少しばかりそんなことを考えてしまい、やや複雑な表情を浮かべていたリグベイルであったが、それでもリックスの言葉とドレスとを素直に受け取る事にした。少なからず自分への心遣いは本当であったと感じていたし、望んで加わったのではないにせよ、誰かの人生の節目に立ち会うことの不思議に心を動かされていたからかもしれない。
 恥じらいながらも嬉しそうに礼を言い、ドレスをそっとつまんでみる。
 (このドレス……いつか着てみるのも悪くない、かな?)
 
 換気窓から入り込んできた夜風が、クロードとユーニスの脇をすり抜け、リグベイルのドレスの裾を波打たせて去った。彼女は体にまとわりつく慣れない感覚にとまどいながらも、どこか誇らしい幸せを感じていた。


 《 道の途中 》


 翌朝。
 出立の支度を終えたリグベイルが工房の扉の前に立った。もちろん昨夜のドレス姿ではなく、男性と見まがう旅装である。
 リックス、クロード、ユーニスの三人も見送りに立っている。クロードが丹精こめて作った弁当を手渡すと、旅立つ彼女は照れを含んだ笑みで礼を言った。
 「気ぃつけてなぁ。またいつか、こいつが世話になるかもしれんが、そん時は良しなに頼みます。」
 頭を垂れるリックスに、リグベイルは滞在中の歓待に改めて感謝を述べると、ゆっくりと工房に背を向けて歩き出した。ユーニスが町外れまで、という約束で見送りに続く。
 二人の連れ立って歩く姿をしばらく見送ってから、老人は弟子であり新たな息子となった青年を促して工房へと戻っていった。
 「いい機会をありがとな、嬢ちゃん。」
 一瞬だけ彼女らの方を振り返った老人の呟きを、ただ風乙女だけが聞いていた。

 リグベイルとユーニスは、無言で歩き続けていた。町外れまで、互いに言葉を探しているようだった。
 無言で歩く道程は速く、気付けば町外れまで足は進んでいた。小さな街道が視界に入ってきたとき、リグベイルはそっと歩みを止めて傍らの後輩を見つめる。身長差のある二人は、話すときお互い首が痛む思いをする。それでも互いに視線を受け止めあって話すのがこの二人の会話の姿だった。 逡巡の後、リグベイルが口を開いた。
 「ユーニス。私は行くけれど……迷いは晴れたか?」
 予想していた問いらしく、おもむろに顔を上げたユーニスは、静かにその問いに答えた。
 「はい、完全に晴れたわけではないですけれど。もう少しここにいて、それから多分、回り道をしながらオランに帰ります。……ありがとうございました、いつもリグベイルさんに何かを気付かせて頂いてる気がします。」
 リグベイルは微笑み、後輩の決断を穏やかに受け止めた。
 「そうか。私も自分なりに色々模索するつもりだよ。……またどこかで会えたら、一緒に飲もう。それまで元気で。」
 「はい、リグベイルさんも、どうかお元気で。 本当に、いろいろありがとうございました。 また、いつか。」
 「いつか、な。また会えるのを楽しみにしているよ。」

 軽く手を上げると、郊外へと続くその道をリグベイルは歩き出した。
 エレミアの5月は暑い。日が高くなる前になるべく距離を稼いでおきたい。自然と足取りが速くなる彼女の後姿を見送るユーニスの胸には、様々な思いが去来していた。
 駆け出しの頃、彼女と出会って初めて知った嫉妬と自分の慢心。あれから数年たち、オランで再会したときの喜び。そして今また、大切なことを気付かせて去る彼女の背中を、相変わらず見送っている自分の心に浮かぶ想いの名前、それは……。
 (いつか、必ず追いつきますから。)
 大好きな彼にむけるそれとは別の想い。もっと身近でもっともっと肩を並べ、競い合いたい相手。
 剣を交え、拳を打ち付けあい、精霊を共に語り合える相手。
 よく似ているのに異なる強さを持つ、大切な、本当の姉のような先輩。

 「絶対、また会いましょうね。今度は負けませんから。」
 そう呟いて、踵を返すと、ユーニスはゆっくりと歩き出した。向かう先は祖父と新たな家族の待つ工房。
 叱咤してくれた人々の思いに、生き方をもって示してくれた人の心意気に、自分は応えたい。
 (結局今回もまた、爺ちゃんとリグベイルさんに背中を押されちゃった。もっと、しっかりしなきゃ。)
 思い遣りゆえに別れていく家族の姿がある。それが正しい選択なのかどうかはわからない。当事者同士でも絶対の尺度がない以上、断定などし得ない。
 けれど、でも。
 (私はそれを選ぼう。それが自分の望みだから。自分の道を優先するなんて、思い上がった決断かも知れないけれど、一度決めた生き方を曲げることより、歩き続けることを選びたいから。)
 自分の想いを伝えるため、この一歩一歩を踏みしめるように家まで歩こう。ユーニスはそう思い、ゆったりと家路を辿っていった。



 …………一年前、小さなしずくはこの街から旅立ち、様々な色をまとい、再びこの街に帰ってきた。
 しずくがもう一度旅立つ日は、そう遠い未来のことではない。




                      < 終わり >


 ボーンさんに、感謝を込めて。



  


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