家路 (2003/06/23)
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作者
松川彰
登場キャラクター
ロエティシア



◆ 夏 ◆

『めをなおすおかねが、ほしいです。おねがいします』
 板きれに書き付けられた文字は歪んでいる。共通語と西方語の2つで同じ文章が書かれていたが、どちらも同じ程度の歪み具合だった。文字を覚えたての子供が書いたような。
 その板きれを壁に立てかけ、筵(むしろ)を敷いた上に座っているのは、薄汚れた麻布を目のあたりに巻き付けた少年だ。痩せ細った小柄な身体に、かろうじて服と呼べそうなボロ布をまとっている。鈍い砂色の髪は、綺麗に洗えばひょっとすると蜜色に輝くのかもしれない。
 少年の手には、二弦の琴があった。それだけは、見目にも確かな品物なのがそぐわない。


遙か遠き過去にかわされし約束は
巡りし時の環の果てに ついぞ叶えられることはなく
濡れた心で家路を辿る



 伸びのある透明な声。変声期前の少年に独特の、脆く儚く純粋な声。二弦の琴を扱う手業は未だ熟練とは言い難い。だが、それすらも、揺らぎのあるその声に不思議と調和していた。
 歌を聴いた人々は、壁に立てかけた板きれの文字を読み、納得したように少年の目の前にある小さな箱に銀貨を投げ入れてゆく。
 私も、その場に立って歌を聴いていた。
 こうして、彼の歌を聴くのは何度目か。
 この街、ベルダインの片隅で。


 新王国歴452年夏。街には奇妙な活気が息づいていた。ほんの少し前、430年にはこの街全体をベヒモスの力が蹂躙していった。そうして、ベヒモスの勢いに引きずられるように、クラーケンの力が荒れ狂った。壊滅状態に陥った街で、それでも人の子は生き続けた。今は新市街と呼ばれる新しい街が、小高い丘に建築されている途中だ。
 貧しい労働者たちは、地震と津波に砕かれた街に、粗末な家を建てている。そして、すきま風の吹く家に暮らしながら、新市街の綺麗な街並みのために働くのだ。
 雑然とした、それでも街としての顔を取り戻しつつあるベルダイン。すでに新市街の形が見え始めた今となっては、旧市街としか呼ばれない、海側の街。その街に、人は集まっている。近隣の国で食い詰めた労働者たちは、ベルダインに移り住んだ。今なら、土木工事の人足という仕事の口があるからだ。
 復興に沸き立つ力。生きようと足掻く力。一度は絶望の淵に立たされながら、そこで踏みとどまろうとする人の子たち。
 熱というものは、傷ついた身体を癒そうとする力の表れなのだと、不思議なほどに納得できる。そんな熱に浮かされた街が、私には新鮮だった。


 からん。
 私が木箱に投げ入れた銀貨が乾いた音を立てた。それを耳にして、少年は軽く頭を下げる。演奏を終えた二弦琴を大事そうに布に包み、木箱を引き寄せる。両目を覆う麻布があってさえ、その動きはまるで目が見えているのではないかと錯覚させるほどに淀みない。
「おまえの名を、聞いても良いか」
 私は少年に話しかけた。彼の通り名なら知っている。“見える指”。盲目なのにも関わらず、見えているかのような演奏からついた名だと聞いた。そして彼自身も同じことを言う。自分は目で見ているのではなく指先で見ているのだから、と。
「貴女、ここのところ毎日来ているね。気配でわかるよ。僕の歌がお気に召したのかな」
「ああ、気に入った。だから名を尋ねたい。私はロエティシア。森妖精だ」
「ロエティシア……ああ、綺麗な名前だね。僕は、ヴァトゥ。あまり綺麗な名前じゃないけれど。覚えていてくれるなら嬉しいよ」
 微笑んで、ヴァトゥは引き寄せた木箱から、懐の皮袋へと銀貨を移す。
 日暮れの遅い季節ではあるが、それでも既に晩餐の鐘は鳴った。人々は家路を辿る頃だ。詩人であれば、この後は酒場へと場所を変えて歌うものだが、この少年はそういった稼ぎ方をしないように思う。

 私には、人の子の年はあまりわからない。だが、少年が未成年であろうことは想像がついた。そして10才より下ではあるまいとも思う。
「おまえは、目が見えぬのか。それで、歌で稼いで目を治そうと?」
「そう。小さい頃の事故でね。……でも、お金を貯めたら、神様の奇跡で治してもらえると聞いたから」
「そうか……人の街では奇跡とやらに金がかかるのだったな。世知辛い話だ」
「しょうがないよ。神様の奇跡は、誰にでも平等に与えられる。けれど、お金を出さなくてもいい、神殿の列に並ばなくてもいい、ただ待っているだけで……となったら、逆に平等じゃないでしょう? ただ待っているだけなら、奇跡が与えられる順番はどうやって決めるの? お金を集めさえすれば奇跡が授けられる。そのほうが僕にとってはよほど平等だよ」
 微笑むヴァトゥの顔を見て、ふと思った。
「おまえは……神への信仰の心を持っているのか」
「あたりまえじゃない。だって……ああ、そうか。貴女は森妖精だったね。うん、貴女にはあたりまえのことじゃないかもしれないけど。僕にはあたりまえなんだ。だって、神様がいないと困るもの」
「……困る?」
「うん、困るよ。神様がいなかったら……誰にありがとうって言えばいい? 怖くなった時に誰にすがればいい?」
「それは……例えば、銀貨を投げた客とか……」
 私は口ごもった。彼の言う感謝が、そういった類の感謝とは別物だと、答えながらもわかっていたからだ。

 私はエルフとして森で育った。世界に満ちる精霊たちの力。その力を通して、精霊界の存在を感じることで、救われる。そうして、命を生み出した、古来の黄金樹の力に感謝の意を表す。我らエルフが、森を特別視するのは、木々を兄弟とみなすからだけではない。物質界においては森。けれど、それは遙か黄金樹の根からなにがしかが繋がっているから、と。
 人の子はそれを持たない。彼らの命とて、生まれ出でし根本は同じはずなのだが、人の子の多くは精霊の力を感じ取れないのだから。
 だから、人は神にすがるのだ、と。
 以前、誰かからそう聞いた。
 けれど、神にすがる心さえ持てない人の子もいると。
 私はヴァトゥを見て、勝手にそう思っていた。彼は、吟遊詩人として身を立てているのではない。物乞いの手段のひとつとして歌っているのだ。彼の生活は、幸福に満ちたものではないだろう。その中では、神にすがるよりも、神を恨むことのほうが多いのではないかと。それは勝手な想像だった。

 私の心を見透かしたかのように、ヴァトゥの口元に淡い笑みが浮かんだ。
「貴女はいい人だよ。ひょっとして、森を出てから日が浅いのかもしれないね。もちろん、貴女にしてみれば、の話だけれど」
 それは事実だった。最初に森を出てからまだ30年も経っていない。しかも、30年の間、人の街に居続けたわけでもない。事実、10年ほど前に一度森に戻り、再びそこから人の街へと出てきたのはつい数ヶ月前だ。
「僕は大抵ここで歌っているから。もしも気に入ってくれたなら、また来てよ」
 その笑みに釣られるように、私も微笑んでいた。
「ああ。そうだな。私も歌を嗜む者だ。おまえの二弦琴に合わせてリュートを弾いてみるのも良いかもしれぬな。もちろん邪魔にならねばの話だが」
「邪魔だなんて。ただ、そんな綺麗な服で座ったら汚れてしまうかもね」
 じゃあまた、とヴァトゥは立ち去った。稼いだ金を懐に。板きれと筵(むしろ)を抱えて。


 私がヴァトゥに再び会ったのは翌日だ。
 歌を聴きに行ったのではない。それはただの偶然だった。
 詩人を名乗っているとは言え、実のところ、まだ歌だけで身を立てるにはほど遠かった。生活の足しに、精霊使いとしての仕事があればと、冒険者の店と呼ばれる酒場を渡り歩いていた。
 実を言えば、懐にはまだ幾つかの宝石がある。森にいればそれはあまり使わないからと、兄たちが私に持たせてくれたものだ。それを換金すれば、数ヶ月は暮らせるだろう。けれど、我が儘を言って森を出たからには、その宝石はあまり使いたくはなかった。
 そして、私が一軒の酒場を出たその時。裏口で店員の怒鳴り声がした。
 それは、麺麭泥棒を詰る声だ。
「待て、このクソガキ! またおまえか!」
 その声に追い立てられるように、私のいる路地に走り込んできたのはヴァトゥ。だが、その目を覆っていた麻布はない。砂色の髪の奥で、焦げ茶色の瞳が私の姿をとらえた。
 その瞳に悪戯めいた光を浮かべ、ヴァトゥはそのまま私の前を走り抜けていった。

 夕刻。いつもの通りへ行ってみた。
 探すまでもなく、耳に滑り込んでくる岩清水のような声。高く透明な……清冽な水を連想させる声だ。
 歌が終わるのを待って、私はヴァトゥの隣に腰を下ろした。
「言ったでしょう? こんな所に座ると、その綺麗な服が汚れちゃうよ」
「構わぬ。汚れなら洗えば落ちるからな。……そう。昨日もおかしいとは思ったよ。だが、問いただす前におまえは立ち去った」
「うん、つい言っちゃってね。バレちゃったかなと思ったけど。誰でもやってることさ。咎めるようなことじゃないでしょう?」
 確かに、物乞いの中には、自らの身体が不自由であることを売り物にする者も少なくはない。
「……それにさ。知ってる? 自分の子供の手足を切り落とす親もいるよ。そして、可哀想なこの子に是非お恵みを、って言うんだ」
 それも、知っている。
 初めて見た時には、親の正気を疑った。
 そして次の瞬間には、人の子の正しさを疑った。
 それも過ぎると、次には人の街の歪みを嘆いた。
 仕方のないことだと、今でも言えはしない。それでも、その事実は厳然としてそこにあるのだと、認めることはようやく出来るようになった。
「僕は、生まれてすぐくらいに捨てられたからね。そんな親がいなくて却って幸せさ。神様に感謝しなくちゃね」
「では、おまえのそれは生活のためか」
 それ、と私は板きれを指さしてみせた。ヴァトゥが頷く。
「それ以外に何があるのさ」
 何の躊躇いもなく頷くヴァトゥに、思わず笑みがこぼれた。
「では、それを私が手伝っても構わぬか」
「…………え? どうして? これは僕が僕のために稼いでいるんだ。手伝うのは勝手だけど、おこぼれなんかあげないよ」
「構わぬ。私も私のために歌うんだ。……つい先日、大きな仕事を終えてね。懐にはまだ幾ばくかの余裕はある。だから金は要らぬ。私は、歌を覚えたい。詩人として胸を張って生きられるようになるために。このように人通りの多いところで楽器を演奏すれば、それは自分のためになる。それに……おまえの歌が気に入ったと昨日も言ったろう。出来ればおまえの傍でそれを聴いていたい。授業料だと思って、私は金を受け取らないよ」
 仕事をしたためではないが、懐に余裕があるのは本当だ。そして、歌を覚えたいというのも本当だった。
 ヴァトゥが歌う様を近くで見つめていたい。彼が声を出す様を。彼の声がシルフの力に運ばれていく瞬間を。
 おまえの夢が叶えば良い、と宝石を渡してくれた兄たちの心を、この状況で遣うならば許されるだろうか。


◆ 秋 ◆

 それからの日々は、まるで御伽噺のように過ぎていった。
 世間知らずの私に、ヴァトゥはまるで兄のように教え諭す。人の街の在り方を。人の街で人の子が過ごす時間のことを。
 成年前だと思っていたヴァトゥが、すでに16才を過ぎていることもその中で知った。
「なに、僕のこと幾つだと思ってたの?」
 笑いながら聞いてくるヴァトゥに、私は正直に答えた。
「10と15の間くらいかと。15を過ぎてしまっては、あのような声は出まい。あれは少年に独特の声だ」
「そうなんだよね……」
 否定はせずに、手に持った二弦の琴の胴を撫でる。

 旧市街の片隅。やや小高い丘の上で2人で粗末な昼食を摂っていた時だ。麺麭を買っていった私に、ヴァトゥは『今日は盗まなくてもいいね。よかった』と笑った。
「本当はさ。あまりお腹一杯食事を食べないほうがいいんだけれど」
「何故だ。おまえは育ち盛りの年齢ではないか」
「育つと、声が変わってしまうよ」
 寂しげに微笑んだ。
「……そうだな。本当なら既に変わっていてもおかしくはないのだろう」
「うん。ほら、見てのとおり、痩せっぽちだからね。人より成長が遅いんだ。成長しないように、お腹一杯食べないでおくことにしてるから。これは僕の売り物の1つだからさ。別の売り物を見つけるまでは、声が変わらないでいてくれないと」
 吹く風には秋の気配が濃くなっていた。
「……おまえの信じる神は、マーファだと聞いた。物心ついてからずっとだと。神は、敬虔な信者に声を聞かせることがあるそうだが……それを聞いたことはないのか」
「ないよ。聞かせてもらえるわけがないと、自分でもわかっているもの。それにね、いいんだ。神様の声が聞こえなくても。それでも僕の声はきっとマーファ様に届くから」

 親に捨てられたヴァトゥを育てたのは、見知らぬ他人たちだった。
 ベルダインの街を大地震と津波が襲ったのは今より22年前。街は惨い有様だったという。復興は遅々として進まず、人の子たちは自らの行く末を見ることなど出来なかったのだろう。
 夢見る力さえ剥ぎ取られた、と小さな溜息をついて語ってくれたのは、足の不自由な老婆だった。その足も、地震の時に怪我をしたせいだと言っていた。
 数え切れないほどの死者が出た。それ以上に怪我人も出た。重い怪我を負っていても、癒す手はない。神官や薬師、精霊使いも同じように死んでいたし、同じように怪我をしていた。生き残ったことは果たして幸せだったのかと、何度も何度も考えたと言う。

 ヴァトゥが捨てられたのは、そんな街の中でも、ようやくに立ち上がる人々が出てきた頃だ。とは言え、人々の大部分は自らの生活を維持するのに精一杯だったはず。
「でもね。一番強かったのは、路地裏の貧しい人たちだったんだ。もともと、失うものなんかなかった。だから、いっぺんまっさらにして、街の全ての人たちを同じ位置に立たせたあの地震はいいきっかけだったと思う、なんて笑っていた人もいたよ。僕はそんな人たちに育ててもらった。言葉を教わって、歌うことを教わって、楽器を教わって。そして、マーファ様を信じることも教わった。もちろん、麺麭の盗み方もそうだし、目が不自由な振りをして客の気を引くこともね。……ねぇ、ロエ。神を知らないエルフたちは、不安にならないの?」
「……不安? どういった不安が?」
「だから……そう、信じるものがあるかないか、ってことさ。僕は、こんな生活をしているけれど……だから、神様には見離されてしまうかもしれないけれど。でもね、いつも眠る前に祈るんだ。壊れた街からも立ち直れるように。いつでも、前に進み続けていられるように。いつかどこかに辿り着けるように。それをきっと、神様は見ている。だから僕は、祈るよ。神様が僕を赦してくれるように」

 小高い丘の上にいると、建築中の新市街が見える。中心に建てられているあの塔は、完成すればさぞかし見栄えのするものとなるだろう。
 組まれた足場と、行き来する沢山の労働者たちと。
 丘の上で、肌寒い風に吹かれて、ヴァトゥはそれを見つめていた。
「おそらく……私は祈ったことはないのだろう。共にある力に感謝はするし、いにしえの力に畏敬の念も抱く。けれど、人の子が神に祈ることとは多分違うと思う。神に祈り続けるには、私たちの生は些か長すぎるのやもしれんな」
 最後の言葉を冗談めかせたのは、ある意味、逃げだったと思う。精霊の力と共に在ることの意味を説明出来るほど、私は人の子のことを理解していない。
 けれど、ヴァトゥは笑った。了解した、と言うように。
「ああ、そうかもしれないね。……ねぇ、ロエ。それなら貴女は、余計なものは覚えなくてもいいよ。貴女たちは1000年の命があるんだろう? だったら、1000年持ち続けられるものだけを覚えてゆけばいい。だから……そう、例えば僕のことなんかはすぐに忘れていいんだよ」
「1000年の価値があるかどうかは私が決める。だから、おまえのことは忘れない。おまえとここでこうして食べた麺麭の味も。おまえの焦げ茶色の瞳に宿る柔らかな光を。おまえの瞬き1つすら忘れないよ」
 無理だよ、と笑ったヴァトゥの瞳は、少し寂しげで。それなのに何故か嬉しそうで。新旧入り交じったこの街に、2つの感情がないまぜになったヴァトゥの瞳はとても良く似合っていると思った。


◆ 冬 ◆

 ヴァトゥから歌は習い覚えたけれど。彼が弾く二弦の琴を耳で聴いて、それをリュートで演奏出来るようにもなったけれど。
 それでも私はわからなかった。
 ヴァトゥが神を信じる意味が。
 麺麭を盗むヴァトゥが、盲目の振りをして他人を騙すヴァトゥが。それでも神を信じていると笑うその顔には何の屈託もなくて。
「……どうしてまだ僕の傍に?」
 ヴァトゥが笑う。いつもの路地。いつもの板きれを脇に置いて。見える目に、彼はいつもの麻布を巻いていた。
「さぁ。何故だろうな。私にもよくわからぬ」
「もう僕が教えてあげられるものはないよ。……そう、麺麭の盗み方はまだ教えていなかったっけ?」
「そうだな。それを習い覚えるのも良いやもしれんな」
 私は何が知りたくて彼の傍にいるのだろう。もちろん、彼が神を信じる意味を知りたいとも思う。けれど、おそらくはそれは私には理解し難いものだろうから……だから、多分、私は……。

「ああ、それじゃあさ。今度は代わりに貴女が僕にリュートを教えてくれない? ……う、ん……でもリュートを買うお金はないなぁ。今の二弦琴も、育ててくれた人のお古を貰っただけだし……そうだ、リュートじゃなくて歌を。僕が貴女に教えたように、貴女が僕に歌を」
 そう言って笑う、ヴァトゥの顔色が少しだけ気になった。
「それは構わぬが……おまえ、また食事を摂らなかったのか? 盗み損ねたというのなら、言ってくれれば食事を分けることだって……」
「ああ、いや、違うよ。食べたくないんだ。薬のせいだと思うけれどね」
「……薬?」
「うん。声が変わらないようにする薬。……前に、薬草師が露店で売っていたのを見かけたんだけれど、なかなか値が張るものだから。『めをなおすおかね』ってのを、かなり注ぎ込んじゃったかな」
 傍らの板きれに手をやって、ヴァトゥが言った。
「おまえは……それほどまでに」
「……そうだよ。僕が稼げる手段はこれだけだ。前に誰かに聞いたんだけれど、去勢すれば声は変わらないらしい。でもね、それが本当の意味で有効なのは10才より前なんだって。15才を過ぎてから去勢しても……うん、確かに声変わりは抑えられるらしいけど、それでも全く変わらないわけじゃないって聞いたよ。身体も骨張って、男っぽく見えるようになるらしいんだ。10才より前なら……本当に子供のうちなら、女性的な体つきに高い声が手に入るって。僕がその話を聞いたのはもう15になってからだった。実際の話、体つきはどうでも構わないんだよ。でも……」

 声が。
 確かに、失われるのは惜しいと思う。
 夏に出会い、秋を共に過ごし、季節は冬に移り変わろうとしている。その間ずっと、彼の声を間近で聴いていた。
 最初の印象は変わらない。
 柔らかな、透明感のある声。それでいて弱々しさは感じない。感じるのは、どこまでも優しい温もりのような。夏には水のようだと思った。そして秋には風のようだと思った。今、冬の匂いがする中で聴くと、それは降り積もる雪の優しさのように思える。
 けれど……生き物は誰でも変わりゆく。
 変わらずにいることを求めながらも、変わりゆくことを己に課している、また同時に、変わらずにはいられない。それが人の子だ。もちろん、人の子に限らず、妖精とて変わる。時が過ぎれば、誰もが変わって当然なのだ。それが、自然の流れというものだろう。
 私の言いたいことを察したのか、ヴァトゥが笑う。その笑みは、いつもよりも弱々しいものになっていた。
「……僕はね。どうあっても、変わりたくないんだ。それがマーファ様の御心に背くことになっても」
 その笑みを見て、思った。
 何を知りたいのかと言うよりも、私はただヴァトゥ自身を知りたいのだろうと。


 その翌日。
 いつもの場所にヴァトゥは現れなかった。
 幾度か訪ねたことのある、ヴァトゥの家に足を向けてみる。
 家とは名ばかりの廃屋だ。地震で崩壊寸前になった家を、手近な材料で修復しただけのつぎはぎの家。古い友人と共に住んでいると聞いた。生活する術が違うらしく、その友人の姿を見かけたことはないが。
 昨日よりも窶れた顔でヴァトゥが私を出迎えた。
「ああ、ごめんね。行こうと思ったんだけど……」
 嗄れた声。別人のような。
「その声では……歌えまいな」
「……うん。だから、行かなかったんだよ」
 無理が祟って喉を痛めたのか。いや、それよりも、おそらくは例の怪しげな薬のせいだろう。
「ヴァトゥ。神殿に行こう。その薬とやらは、効果がなかっただけではなく、身体に毒だ」
「……遅いよ」
「何がだ。時間ならまだ早い。まだ昼を過ぎたばかりだ」
「そうじゃない。そうじゃないよ、ロエ。もう……駄目だよ、きっと。毒が身体に入ってから時間が経つと、神様の奇跡も通じにくいって聞いたことがある。それに……奇跡を願うお金なんかない」
 声を維持する薬は相当に高価だったのだろう。
 だが、私の懐にも、持ち合わせはあまりなかった。兄たちが持たせてくれた宝石は、これまでの生活費に消えていた。
「……銀貨ならば、私が仕事をするから。どこぞの金貸しから借りてもいい」
「ロエ。僕は……………………っ……ごめ……ん、ちょっと……待って」
 口元を押さえ、鎧戸の傾いた窓に駆け寄る。しばらく咳き込んで、窓の外に吐き捨てたのは血だった。

「……おまえ」
 口元の血を、服の袖で拭いながらヴァトゥが振り向いた。そうして、微笑んだ。
「昨夜からずっとさ。……参っちゃうよね。だから言ったろ、遅いって」
 壁に背を預け、そのまま床に座り込む。
「待ってろ。今、医者か神官を連れてくるから。……すまない。私は、生命の精霊の力に触れることが出来ないんだ」
 精霊使いとしての腕が未熟であることを、今まで悔やんだことはなかった。多少の魔法が扱えなくても、精霊の力に触れることが出来ているならそれで十分と、今まではそう思っていた。なのに私は今、癒しの力が欲しいと思う。
「……ロエ、いいよ。それよりお願いがある。ここに……近くに座って」
 青い顔で微笑むヴァトゥに、私は逆らえなかった。
「…………どこか痛むか。私に何が出来る」
「良かった。……貴女が来てくれてよかった。誰もいないところじゃ、困るもの」
「どう……して?」
「……聞いてほしい。ただ、聞いていてくれるだけでいい」
 骨張った指を私の指に絡めて、ヴァトゥは私の手の甲に羽根よりも軽い口吻をした。

「……赦してください。僕は麺麭を盗みました。幾つも幾つも盗みました。人を騙しました。それを盗めば相手がひどく困るとわかっていて……それでも、お使い途中の小さな女の子から銀貨を盗んだこともあります。人に……人に優しく出来ませんでした。転んでいるお爺さんを介抱する振りをして、お爺さんの持っていた袋を盗みました。怪我をして飛べなくなった鳩を捕まえて殺して食べました。いつでも……いつでも騙していました。いつでも盗んでいました」
 目を閉じて、囁くようにヴァトゥは私に告解をした。枯れ果てた声を、それでも振り絞るようにして。時折咳き込みながら。
 私は……黙って聞くことしか出来なかった。
「育ててくれたレティカお婆さんは、最後に海が見たいと言っていたのに、連れて行く前に死んでしまいました。歌を教えてくれたシディル父さんは、僕の声を誉めてくれたのに。楽器を譲ってくれたのに。なのに僕は彼に何も返せませんでした。傍にいることしか出来ませんでした。……僕は、誰の願いを叶えることも出来ず、誰の幸せを作ることも出来ませんでした。どうか、どうか赦してください」
 ヴァトゥが息を付く。
「…………おまえは、どうして私にそれを?」
「ごめんね。……誰でも良かったんだ。小さい頃、お婆さんが言ってたんだよ。死ぬ前に全ての罪を誰かに告白すれば、赦されてマーファ様のもとに還れるって。そうして、マーファ様のもとで少しの間眠ったら、別の場所に生まれ変われるって。誰でも良かったけれど……でも、ロエ、貴女に聞いてもらえたのは、僕の幸いだった」
「おまえの告解は…………私が、1000年持ち続けよう」
 冷たい風が吹き込むあばら屋で、真っ青な額に汗を浮かべて。それなのに、ヴァトゥはいつものように微笑んだ。何の屈託もない顔で。
「貴女の歌、教えてもらいたかったよ」


 ヴァトゥはその翌日に息を引き取った。
 何人かの知り合いに当たり、伝手を頼ってはみたが、癒しの術は間に合わなかった。
 ヴァトゥと同じ家に住んでいる友人の1人が、彼を埋葬してくれた。それを手伝いに行って初めて、今まで会ったことのないその友人に会った。普段は男娼をしているから、と、今まですれ違いばかりだった理由を教えてくれた。
「あいつは、あんたに告解したのか? ……なら大丈夫だ。あいつは赦される。聞いてくれてありがとうな」
 本当のところはどうあれ、あいつはそれを信じていたんだからとその友人は笑った。
 ヴァトゥの亡骸と共に、彼が愛した二弦の琴も埋葬する。
「あいつがあの声に拘ったのはさ、あいつに最初に歌を教えてくれたおっさんが、あいつの声を褒めちぎったからなんだ。……言わなかったけどな。でもオレは知ってる。一緒に育ったから。自慢出来るものは、あの声しかなかったんだよ、あいつは。あの頃は、誰もが何も持ってなかった。その中で、あいつはあの声にすがったんだ」
 しょうがない奴だとでも言うように、彼は小さく笑う。
「……愚かだな。愛らしいほどに純粋で愚かだな」
「そうだな。あんたの言う通りだ」

 仕事に行くから、という友人を見送って、私はヴァトゥの墓の前に腰を下ろした。
 ベルダインは温暖な街だ。この季節になっても、ノームの中にフラウが入り込むことはない。真新しい土は、まだ湿り気を帯びていた。焦げ茶色の。ヴァトゥの瞳と同じ色だ。
 ……ようやくわかった。
 ヴァトゥが神を信じる意味が。
 彼は、赦されたかったのだ。
 私は、彼の告解を聞くことは出来る。だが、彼に赦しを与えることは出来なかった。
 自分が死んだ後も、何かに期待することが出来る。夢を見ることが出来る。それが、神の与える赦しなのだろう。
 私は、自らの身体が物質界で滅すれば、私を構成している精霊たちの力は源へと還り、魂と呼ばれるものは精霊界へと還るのだろうと思っている。だが、それは赦しとは別物だ。
 おそらくは、我々にとっての赦しとは時間の流れなのだろう。償うべき時間が我等にはある。時間をかけて洗い清めることが出来る。1000年の時をかけて、我々は自分たちの力でそれを浄化してゆく。
 けれど。
 ああ……ヴァトゥ。願わくば、おまえが赦されるように。そうして、次の生ではおまえの心に幸いが降り注ぐように。
 おまえに歌を教えることはかなわなかった。私は教えてもらうばかりだった。
 だから、これからもずっと、おまえは私の師匠だ。
 不肖の弟子だったやもしれぬ。だが、おまえは、私に聞いてもらえたのが幸いだったと言った。そうであるなら、私も救われる。
 せめて、弟子の務めとして、おまえに教わった歌で見送ろう。多少の即興は許せ。おまえの歌を、おまえにふさわしく歌うなら……おそらくはこのほうが良いのだろうと思うから。
 おまえに贈ろう、望郷の歌を。せめておまえが道に迷わぬように。


遙か遠き過去にかわされし約束は
巡りし時の環の果てに いつか叶えられる時がくる
家路を辿れ 待つ者のもとへ

時が描きし円の中 誰もがどこかで巡り会う
巡りし時の環の果てに いつか誰もが赦される
家路を辿れ 眠れる場所へ

夜が明けゆく度ごとに 全ては変わりゆくけれど
変わらぬ者がそこで待つ
還れる場所がそこにある

家路を辿れ 安らかに
家路を辿れ 穏やかに
家路を辿れ 迷わずに



  


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