ひとときのぬくもりを (2003/07/16)
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作者
琴美
登場キャラクター
クレフェ(ラス、エクス)




 序.【509年 9の月 〜オーファンの宿〜】


 あの約束を交わしたのは、509年の夏だったと思う。
 結婚してからも冒険者稼業を続けていた私たち夫婦は、その日もオーファンの定宿で仕事の疲れを癒していた。手には杯、卓上には酒瓶とつまみ。そして他愛も無い会話。
 そのときまでは、ただの仕事明けのひとこまに過ぎなかった。
 
 杯を何度か干した頃。さし向かいで飲んでいた彼が、ふいに手にした杯を卓上に置いて呟いた。
 「なぁクレフェ。もしも俺が先に死んだときの話なんだが。」
 「はい?」
 最近見ない仲間の噂やら農作物の作柄やらの話題の後に唐突に切り出されたため、私は酔いが醒めるほど驚いたのだが、すぐに「ああ、またか」とも思った。私の夫と言う人は、時々こういう突拍子も無いことを言い出す癖があったからだ。いい加減慣れてはいたが、心臓に悪いことこの上ない。
 だからこのときも、多少冷ややかに反応したと思う。
 「何なの、いきなり変なこと言い出さないでよ、驚いたじゃない。」
 しかし私の棘のある声音にも彼は動じない。何ともばつの悪そうな顔で無精ひげを軽く撫でる。
 「あー、冒険者なんぞやってると、いつどっちが死ぬか判らねぇだろ? だから念のためだ。」
 日頃の歯切れのいい口調はどこへやら。悪戯を咎められた子供のような言い訳めいた物言いだ。こう言われてはあまり苛めるのも心苦しい気分になるので、とりあえず先を促した。
 「やぁね、確かにいつ死ぬかわからない仕事ではあるけれど、で?」
 酔っ払いの与太話と決め付けて話を終えたかったが、こちらに向けられた真摯な眼差しに負けた。
 それを看取して、彼は酒精を肺から追い出すように深呼吸してから、ようやく笑って言った。
 「お前、俺の歳に追いつくまでは絶対死ぬな。」

 「はぁ? 何よ、それ。」
 唖然呆然としているうちに、勢い込んで彼は言い放った。
 「つまりな、お前が俺の歳に追いつくまでに10年以上はあるだろ? その間に磨きをかけてもっといい女になれ、世界中のいい男を魅了して手玉にとって見せるくらいになれよ、ってことだ。そうじゃないと死んでからの俺の楽しみが減る。お前を待ってる間の楽しみがな。
 とはいえ俺よりもいい男なんざ、数えるほども居やしないだろうけどな。」
 「……ちょっと待ってよ、それじゃ私より先に死ぬのが前提みたいじゃないの。」
 正直呆れた。確かにこの人は私よりも14歳年上で、順番から言えば先に逝くかも知れないけれど、こんな風にいう事でもないように思えたのだ。一体、何が面白くて新婚家庭に自ら波風を立てたいのだろうと思った。
 しかし、彼の視線は真剣な色をたたえている。冗談めかしているけれど、これは本気だ。
 自分亡き後は「後を追うな、強く生きて、楽しみを見つけろ。あわよくばいい相手を見つけろ」と言っているのだ。
 (私よりはるかに頑健で殺しても死にそうにないのに、何を言うやら。)
 本気でひっぱたいてやろうかと思ったが、手は出せなかった。そんな事は不可能だった。いかに腹立たしく思えても、視線が交わったとき、彼の瞳の奥の色が見えたように感じてしまったから。
 全くもって理不尽だ。”恋は惚れたもの負け”というが、まさしくそのとおりだと思う。
 彼は黙ってこちらを見ている。何気ない所作から、ほんの僅かに不安を抱いているのが伺える。そんなことが判らなければ、判らない振りで無視出来たなら、こんな思いをしなくて良いのに、とまた腹が立つ。
 むさくるしい白髪混じりの熊のような髭面からは想像し辛いが、この人は吟遊詩人でもある。外見の無骨さに不似合いなほど繊細なで穏やかな歌声は、年頃の娘達や恋人達の耳に心地よく響く甘さを持っている。
 それなのに自分の妻に大してはどうしてもう少し良い言葉を選べないのかとは思うが、どう言葉を飾っても私は間違いなく腹を立てたと思うし、長く付き合ううちに直截な物言いの方が違和感がないと思うようになっているのでそれについては既に何も言う気が起きなかった。これもある意味夫の教育の成果というべきだろうか。
 商売と生活は違うのだ、歌唄いが歌のように暮らすとは限らない見本だとつくづく思う。


 多重に呆れつつも、怒るより切なさが勝った。密かに自ら負けを認めた私は、せめてもの抵抗を試みた。
 「ふうん、そう。もしもあなたよりいい男を見つけちゃったらどうするのよ。」
 不機嫌な私の言葉に、彼は口許を吊り上げて目を細めた。髭の中に顔が埋まりそうな笑い。私の好きな子供めいた笑みだ。口にする内容は可愛らしさの欠片もないのだが。
 「そん時ゃ構うこたねぇ、さっさと乗り換えていい。まず無理だけどな。」
 挑戦的な口調に悪戯っ子のような目の輝き。
 私は大きく溜息をついて彼を正面から睨みつけた。ここまで言われたら一矢報いずには居られない。
 「判ったわ。そこまでいうなら、もしものときは最高にいい男を見つけてやるわよ。
 しかもそいつとくっついた挙句にこれまた最高にいい女になって、さっさと死んじゃったあなたを指差して笑ってやるわ。勿体無いことしたわね、もうちょっと長生きしてれば良かったね、って。」
 それを聞いて、彼は本当に嬉しそうに破顔した。
 「よし、じゃ約束な。お前が先に死んだら俺は更に若いネェちゃんを嫁に貰うから覚悟しとけ。」
 「はあぁ? ちょっと待ってよ。なんだかあなたばかりに有利な条件じゃないの、それって。」
 「気のせいだ、気のせい。」

 そのあとは軽い口喧嘩の応酬。けれど私は本気でなど怒れなかった。
 愛した人を亡くしてから独りで長い時間彷徨ってきた人が、親子ほど歳の離れた妻に見せた感情。それはまぎれもなく伴侶への甘えなのだと、そう思ったから。
 だから、少しばかりの優越と喜びを覚えながら、仕方なさそうにそんな馬鹿げた約束に頷いたのだ。

 彼と過ごした賑やかで幸福な時間に交わしたその言葉は、約束と呼ぶには軽く、冗談で済ますには少し重かったが、私達の幸せの一つの形でもあった。
 幸せ、ではあったのだけれど。
 
 「あの約束、守れよ? 俺の歳に追いつくまで、死ぬんじゃねぇぞ。」
 あんな馬鹿げた約束なんかしなければ良かったと、彼を喪った日、約束が恨めしくて泣いた。
 叶うなら、そのまま自分も後を追いたかったから。



 1.【507年 7の月 〜オーファンの街角〜】

 
 「おう、嬢ちゃん、腹減ってるならそう言えや。いい店知ってるんだ、メシ食わしてやる。」
 オーファンの街角。夏の昼下がりに食費を削って仕事を探していた私は、立ちくらみを起こしてしまった。そこに偶然通りかかったのは真夏に熊のように髭を蓄えた暑苦しい男。背負った大剣と使い込まれた金属鎧が彼の職業を物語っていた。
 彼は私を抱えて日陰に連れて行き、革袋の中の水を飲ませてくれた。空腹の胃に水さえも沁みた。

 「何が目的なのかしら。施しは受けないし、ましてや過ぎた対価は払わないわよ。」
 見ず知らずの人間の厚意など信じ難かったし、ましてや高い授業料を払う気はさらさらなかった。だからにべもなく突っぱねたのだが、
 「お子様はおとなしく奢られてりゃいいんだって。大体過ぎた対価ってなぁ……全く。嬢ちゃんみたいに乳臭い娘にはその気も起きねぇよ。」
 呆れたように鼻で笑って、それでも差し出した手を引っ込めない彼の態度に正直動揺した。
 「なぁんですって!?」
 とはいえ、もともと血の気の多い自分のこと、言われて素直に肯うはずもない。
 体を起こして勢いよく反駁しようとしたとき、地の底を這うような大音響が木陰に轟いた。音源は私のお腹。
 「う、うぅ。」
 「おうおう、今、俺の耳が確かなら腹の虫の声がしたなぁ? それも盛大なのが。」
 羞恥に全身を染めた私の腰に手を添えると、軽々と抱き起こして彼は言った。
 「街中でそれじゃ恥ずかしいだろ。とりあえず虫を黙らせねぇか?」 

 私は結局折れて、彼に素直に着いていく事になった。上手いこと言いくるめられた、とも言う。
 二人が落ち着いたのは、大通りから離れた小さな食堂。しかし不思議な活気のある場所だった。
 店員の冷やかしを受け流しながら、消化のいいスープやら白身魚やらを次々に頼み、私の前に並べた彼はにこやかに「さぁ食え。とりあえず食え。」そう言って湯気の立つ皿からゆでた芋を一つ摘んだ。

 「判ったわよっ。……いただきます。」
 「そうやって素直に食ってりゃ良いんだよ。ガキが食わねぇと育つもんも育たねぇぞ。こんな細っこい体で冒険者なんて勤まんのかぁ?」
 ガキと言われて腹立つのは子供だが、自分はその頃紛れも無く子供だったらしい。必死に言い返す。
 「20歳の人間捕まえてガキとか言わないでくれるかしら。細いのは体質だからしょうがないし。」
 「当年とって34歳の大人な俺から見れば20歳なんぞ充分ガキだ。」
 「大人はそういうことを言わないと思うわ。」
 ふんぞり返って柑橘水など飲みながら、こちらを楽しそうに見ている男に可能な限り皮肉な口調で返し矢を向けると、一層男の目が楽しそうに光った。髭もじゃの熊が笑っている。そんな光景だった。
 「ふん、一丁前なことをいいやがる。
 しかしなぁ嬢ちゃん。突っ走るのは悪くねぇがな、あんまり拗ねたり突っ張りすぎるんじゃねぇぞ。まずは自分を大切にしろや。」
 「余計なお世話よ、ちょっとは悪かったって思ってるけど。」
 「ふふん。それならいいけどな。
 お、もうこんな時間か。悪い、これから仕事でタイデルまで行くんでここまでだ。代金はここに置くからな。これからはあんまり無理しなさんな。」
 男はそう言って立ち上がり、剣を背負いなおした。
 食事までご馳走になって礼を言わないほど恥ずかしい育ちをしてはいない。最低限の礼儀は自分に許してもいいと思ったので、あたう限り素直に返事をした。
 「どうも、ありがと。助かったわ。」
 「おう気にすんな。世の中には巡り合わせってのがあるもんだ。じゃなっ。」
 私の食べている食器の横に皮袋を置いて走り去る後姿をぼんやり見送りつつ、ふと嫌な予感がして膨れた皮袋を覗いてみると、果たして、その中身は頼んだ品物の代価を払って余りあるものだった。慌てて席を立ち、彼の姿を目で追ったが、既に視界から消えている。
 「どうしよう、行っちゃったわ、あの人。」 
 困惑と羞恥から居たたまれず、皮袋を握り締めて追いかけようとした私をそっと制止したのは、いつのまにか隣に立っていた初老のふくよかな女性だった。思わず見返すと、彼女は艶のいい顔に楽しそうな笑顔を浮かべてこちらを見ていた。前掛けをしている所から、この店の店員らしいと知れる。
 「あの……。」
 「貰っておきなさい。あの人はいつもあんな風だから気にしなくていいわ。年下の駆け出しの子達を捕まえてはご飯をお腹一杯食べさせてやるのが楽しみなのよ。
 何でも草原の国出身で、客人にはお腹一杯食べさせるのがもてなしだったから癖になってるんだって言ってたわ。ささ、中年のおっさんの楽しみを奪うようなつまらない真似してないで、とりあえずご飯食べちゃいなさい。」
 カウンターの上には、頼まれた品がまだ残っていた。彼を見失ってしまったこともあり、仕方なく席に着いて冷めかけたそれを少しずつ口に運んでいると、先ほどの女性がカウンター越しにこちらを見ている。微笑ましそうに見られる事に気恥ずかしさを感じて、こちらから問い掛けてみた。
 「あの、いつもあの人来るんですか?」
 女性は頷いて、時々ね、と答える。いつも長期の護衛の仕事ばかりしていて、街にいないことが多いから、月に一度来れば多いほうだとも。
 そこまで聞いて、やっとここが何の店なのか判断できた。そう、冒険者の店を兼ねていたのだ。どうやら空腹は正常な判断能力すら奪っていたらしい。自分の顔を見て先ほどの女性が「駆け出しの」と言っていたのを思い出して、複雑な気分になった。冒険者の店で醜態を晒してしまった、と。
 だが、プライドに拘って躊躇っていたら、また倒れかねない。今度はきっと誰も助けてはくれない。
 私は食事を終えた後、恥ずかしさを必死で押し隠して、ふくよかな女性に尋ねた。
 「私に出来る仕事が何か無いか」と。

 
 あの日、上手に仕事にありつけずオーファンの街角で行き倒れそうになった私は、彼と出会わなければどうなっていたのだろう。死んでいるか、生きていても死にたくなるような生活をしているか。そんなところだろう。
 食堂に連れてきて私の食べる姿を嬉しそうに見守っていた彼の笑顔は、人を疑ってばかりの心を激しく動揺させた。
 精霊を使えるにせよ、所詮は田舎育ちの小娘。故郷を捨てて都会に逃げ出しても、大した事は出来ず、故郷の村で培ってしまった尊大さで仕事の選り好みもしていたから、思うように仕事が取れない。自分の守るべきものを見失いかけていた時、彼と出会ったのは、天の配剤なのだろうか。
 「すこし、人を信じてみるのもいいかしら。それから……ちょっとだけ素直になってみるのも。」
 そんな風に思ったとき、胸の中にすこしだけ、温かいものが湧き出た。
 
 

 2.【508年 10の月 〜ベルダイン旧市街〜】

 
 その後結局、人を信じて裏切られた。いや、勝手に期待して有頂天になって溺れて捨てられただけ。
 恋をして、良いように弄ばれたに過ぎない。自分が判断を誤っただけのよくある話。相手は冒険仲間だった。上手く言いくるめられて折角の報酬も随分貢いだりした。
 結構稼いでいたのにと、後々考えるにつけ悔しさがこみ上げてきたが、後の祭りである。

 捨てられたあとは心身が擦り切れるに任せて生きてきた。擦り傷は最初のうちは痛いけれど、そのうちその痛みすら心地よくなるときがある。無用な傷を抱えて生きる事に何の疑問ももたず、あえて傷をつけながらそれを楽しんで生きることを覚えたら、感性が麻痺し始める。何も、感じなくなる。
 享楽のなかに生きるのが当たり前になったら、穏やかな幸せなど淀んだ泥濘にしか見えない。

 そんなとき、再び彼に出会った。今度はベルダインの旧市街だった。
 最悪の男と別れて、苦しいながらも気楽な生活を取り戻した頃。都合の良さそうな男と組んでは仕事をして、思うさまに生き、退廃的な日々を繰り返していた。
 街と男とを渡り歩く生活を繰り返していた私は、典型的な蓮っ葉な女に見えていたと思う。事実、それに相応しい人間しか声をかけてこなかったから、彼が呼びかけてきたときには心底驚いた。

 「よぉ、嬢ちゃんじゃねぇか。久し振りに見たら随分すれっからしになってんなぁ。元気か?」
 よりによって第一声がこれだったから、というのもあるのだが。
 「ああ……アンタね。久し振り。相変わらず暢気な面構えだこと。」
 その返事に、かすかに眉根を寄せた彼の表情が、干乾びていたはずの胸の奥底に突き刺さった。

 彼は護衛の仕事でベルダインに来て、そのまましばらく滞在していたらしい。草原の国での生活習慣のせいか、一箇所に留まるのが苦手なのだと、そう言って笑っていた。
 暫くはここに居るから、何かあったら訪ねて来いよ、と投げかけてくる無邪気な笑顔を目にするたびに、私の胸はひどく痛みを覚えさせられた。
 拘束を嫌うがゆえに奔放に振舞い、その結果たった一年で堕ちた自分と、自由な風のようになすべきことを思うがままに選び取り、変わらぬ笑顔を向けてくる彼。
 どちらが本当に魂の自由を得ているのか、その答えを突きつけられた気がしたから。

 思いがけない再会以来、彼は度々私を訪ねて来るようになった。男が居るときは、流石に遠慮していたけれど、私が独りで過ごしているときは、呆れるほど楽しそうな足取りで宿を訪ねてきた。
 女としてみているのではなく、可愛い後輩、もしくは親戚の子供。何度も逢う内に、そんな扱いをされる事に時々くすぐったい喜びを覚えている自分に気付いて愕然とした。
 自分は独りで生きていける、邪魔をするな、と突っぱねても意に介さない癖に、本当に独りにして欲しいときは近付かない器用さ。彼を邪険にしつつも来訪を心待ちにしている自分に気付いて、ふと怖くなった。
 だから、追い払うよう努力した。

「嫌いよ」 そう言って追い払うのに、彼は時々私の前に顔を出す。手土産に蜂蜜菓子など下げて。
「大嫌い」 そう言って蹴散らすのに、彼はいつも私に笑いかける。俺は嫌いじゃない、と笑って。

 あまりにしつこいので
「それなら、一度組んでみる? きっとすぐ嫌いになるわよ。」
ほとんど自棄でそう言ったときの彼の意外そうな、それでいて嬉しそうな表情は忘れられない。

 結局、自ら退廃的な生活に引導を渡したようなものだった。気付けば、いつも一緒に仕事をするようになっていた。私たち2人を軸に仲間を集めて仕事を請ける、それがお決まりの形になった。
 
 沼へ行けば。
 「魔法使うわ暴れるわと性質悪い奴ね。結構厄介だけど、何とか黙らせられれば……」
 「上半身はいい女なんだがなぁ……痛っ、どつくなよ。」
 「鼻の下伸ばしてる場合じゃないでしょっ! ちょっと気合入れて黙らせてみる。頼むわ。」
 「やれやれ、妬いてんのか? ……とか言ってる場合じゃねぇな。任せとけっ。」 

 山へ行けば。
 「あらら、親戚と涙の再会?」
 「親戚じゃねぇ、熊だクマっ! この毛深さが目に入らないのかよ。いいから手伝え。」
 「だから似てるんだってば……闇霊ぶつけちゃったらごめんなさいね。よく似てるから闇霊も間違えるかも。」
 「ひでぇ、神は居ないのか!?」
 「私、精霊使いだし。」
  
 彼の思う壺。とはいえ、それが楽しい自分を否定するのも馬鹿馬鹿しくなっていった。


 ――そして、月日は流れて。
 「お前が古代語の文献を読めるようになってきたから、調べ物が楽になったよ。あそこは私塾だが導師がいいって評判だし、通ってよかったな。」
 「ありがとう、通うのを勧めてくれたあなたのお陰だわ。でも、オーファンに落ち着く格好になっちゃってごめんなさい。あなたはあちこち歩いて回るのが好きなのにね。」
 「ま、いいさ。精霊のこと、学問的にも調べたいんだろ? やりたいだけやってみればいい。」
 「あなたに東方語会話も教えてもらってるしね。やることだらけよ。」
 「本当は”腹減った、何か食わせろ”だけでも話せりゃ上出来なんだがな。
 東方語が話せるようになったらミラルゴに連れてくぞ。あの草原を見せてやりたいし。
 ああ、その、俺の家族にも紹介したいから、な。」
 「……そうね。私もお会いしたいから。頑張ってみるわ。」
 「ありがとな、必ず連れて行くよ。 とりあえず”悪い虫除け”に、これ着けておけ。」
 「琥珀のピアス? あは、確かに”虫除け”よね。何か私もあげたいのだけれど何がいい?」
 「そうだな、それじゃお前の髪を一房欲しい。鎧の綿入れに縫いこんでおくよ。」

 そうやって、いつしか二人で過ごす日々を、生まれ変わったように受け入れている自分が居た。あれほど馬鹿にしていた平穏な時間を慈しめるような、心のゆとりが生まれている自分を幸せだと思った。


 3.【512年 4の月 〜オーファン南部〜】


 結婚生活は結局3年ほどで終わりを告げた。彼が私を庇って死んだから。
 サソリの尾をもつ遺跡の番人は、断末魔の叫びとともにその毒針で私の夫を刺し、息絶えた。
 慌てて彼のもとに駆け寄る私と仲間たち。神官が必死に解毒を神に願うがなかなか奏効せず、私は焦っていた。その頃はまだ、解毒の魔法が使えなかったのだ。せめてもと、彼の怪我の治療と生命の精霊に呼びかけるのに専心した。一番近い街まで数刻はかかるこの場所で、癒しの魔法が効かなければそれは即、死を意味していたから。

 「……あの約束、守れよ? 俺の歳に追いつくまで、死ぬんじゃ、ねぇぞ。あと14年は生きてから、うんと綺麗になってから来いよ、な……。」
 精神力を使い果たすまで癒しの魔法をかけても、声を尽くして生命の精霊に呼びかけても、彼の命をとどめる事は叶わなかった。冷たくなっていく彼の体を抱きながら、私はしばらく放心していた。
 胸の内に沸き起こるのは、悲しみと苦しみと痛みと喪失感。
 そして、いつも自分を束縛するモノたちへの、やり場のない怒り。
 「どうして? いつも、私たちをがんじがらめに縛るのに、どうしてこんな簡単に糸を、よりによって生命の糸を離すのっ!! 答えてよ、答えなさいよ、精霊たち!」 
 答えるはずもないものへの問いかけを、諦めきれないまま、私は叫び続けた。
 ややあって、仲間に促されて、彼の亡骸をそっと運び出す。遺跡の出口近くまでは来ていたので、彼を遺跡の中に独り残して行くことにならずに済んだのは、幸いというべきだったのだろうか。

 それは、東のミラルゴを目指して旅立つ直前の出来事。必死でお金を集めても足りなかったし、奇跡を起こせる神官への取次ぎもしてもらえなかった。彼は死んで、異国の土に還った。
 私の手に残ったのは、彼の形見の馬頭琴と、彼の一房の髪だけ。他は処分して生活に充てろと、彼は言い残した。実際彼の大剣も鎧も私には扱えないし、そうするしかなかったのだけれど。


 自分の、無力さが身に沁みた。
 癒しの力がもっと強ければ。解毒の魔法が使えていたなら。
 薄れ行く生命の精霊の気配を辿り、その力の糸を強引にでも手繰り寄せられていたら。
 彼の傷を治すだけではなく、命を元通りに呼び戻せていたなら。
 もしも、そうであったなら、私はかけがえの無いひとを喪わずに済んだのに、と。


 幼い日、物心ついたときから精霊の拘束を感じていた。呪い師の家系に生まれ、その才を期待され、将来を生まれながらに決められていた。
 精霊との交流も「友として扱え」と押し付けられて余計に反発した。初歩の精霊魔法は成人の頃には使えたものの、光霊や闇霊が使えるまでに5年以上かかったのは、とある精神的な理由からだったのだが、「友」としての付き合いを納得できなかったことも原因だった。
 何故なら心のまま「傀儡の如く」使うことを試したとたん、それらは自分の意のままに動いたから。
 そのとき初めて思った。自分を怯えさせ、苦しめる彼らを意のままに操りたい、今までの分を取り戻したい、と。
 故郷の村では、誰も自分と対等の友人になろうとはしなかった。同世代の子供達は「呪い師の娘」を畏怖した。魔法使いの老女と同じように、もしくはそれ以上に忌避すべき存在として扱われた。
 それは、幼くして精霊と交流するもの――といっても強制的なものだったのだが――が、同年代から見て異質な存在でしかなかった上に、村人達の特別扱いを肌で感じていたからだったのだろう。
 異質なるモノ。畏怖すべきモノ。それは、相容れない存在。差別されるべき、違うイキモノ。
 拘束と排除、それらにもまれて息苦しかった。だから村を飛び出した。

 
 たったひとりの心安らぐ伴侶を失った今、帰る場所もない私に残された標はふたつ。
 一つは愛した人との約束を果たすこと。彼の遺言は例の事の他に、実はもう一つある。
 「馬頭琴を持って故郷を訪ねて欲しい、それから良い風の吹く日には奏でてやって欲しい。そうすればこの馬頭琴もきっと喜ぶし、自分も風に乗せて一緒に歌えるから。」
 彼が今際に言い遺したこの言葉はとても詩的で、私の心を少しばかり慰めてくれた。
 だから決めた。馬頭琴を携えて東方へ向かおう、と。彼への思いをこめて奏でたなら、きっと彼もともに歌ってくれるはずだから。
 
 もう一つの標は、精霊たちへの意趣返し。
 そう、私を拘束する精霊たちを、今度はこちらから拘束する。力の働きの全てを私が支配し、仕返ししてやる。彼を失ったときのような思いを二度としないためにも、精霊の力を究め、思うままにその力を手繰り寄せてみせる。
 大切な人をなくした私は、もう自分の命を代価に投げ出すことさえ恐れはしなかった。
 「いつか、全ての精霊を私が縛ってみせる。」

 それらが、生きる支えになった。


 4.【515年 4の月 〜オラン〜】


 夜風の運んだ花と緑の香りに、ふと目を覚まさせられた。雨期の常だろう、鼻腔をくすぐるそれは水の気配を濃厚に含んでいる。
 灯火を消した部屋はひたすら闇霊の支配下にあり、夜風が忍び入ってきた窓のあたりにも光霊の働きはほとんど感じられない。月の初めの深夜に月明かりなどある筈もないと、遅れて納得する。
 この宿は繁華街からやや離れた閑静な一角にあり、人目を忍ぶ逢瀬を求めるものには喜ばしい立地のようだった。旧家の別邸を買い取ったとのことで、品の良い佇まいにその由来も頷けた。繁華街の陽気で猥雑な雰囲気を好む人間には居心地が悪いかもしれないのだが。
 私は今、楽しみの為に一夜の夢をこの宿で見ている。


 こんな風に、幾つかの夜を過ごしてきた。
 時に擬似恋愛、時に行きずりの関係、様々に形は違えども、ただ欲を満たしてきた。
 何を満たしたかといえば、それはただの……。



 闇に包まれた寝台の上で私の耳に届くのは、自分の隣で淡くまどろむ金髪の青年の軽い寝息のみ。先刻まで互いの体温だけを標に触れ合っていたその相手は、浅い眠りに見合った呼吸を繰り返している。時折僅かに動くやや尖った耳先は、彼が熟睡していないのを示しているようだ。
 ひとの体温は時として緊張を緩和させる作用があり、安らかな眠りへと誘うこともあるけれど、彼が私に心を許しているかといえばそれはまた別の話で、今の眠りはひととき疲れを癒す転寝に過ぎないのだろう。
 そんなことを考えながらぼんやりと彼を見やると、唐突に彼のまぶたが開かれた。
 「もう目がさめてたのか。何となく悔しいな。」
 敏感に視線を感じ取ったらしく目を覚まし、こちらにいたずらめいた笑みを向けてくる彼に、ただの当て推量ではなかったようだとため息を吐いて、笑い返す。
 「私をうたた寝させるほど……って言ったら自信を持つかしら?」
 彼は答えずに笑って、そっと腕を伸ばしてくる。笑いながら距離を縮めて再び触れ合う温もりに、しばし意識を預けた。とりあえず今夜は退屈しなさそうだ、と期待しながら、私はごく自然にくつろいでいた。
 この半妖精――ラスとの出会いは、多分自分の精霊観を変える気がする。自分より圧倒的に強い精霊使いとの会話は、この先の自分に何をもたらすのだろうと、密かに期待と不安に揺れている。


 半月ほど前には、長い黒髪の剣士とも戯れた。あの夜の鎧戸の隙間から射し込む光条は冷ややかで、相手の黒髪や鍛え上げられた肩の上を白く、また艶めいて照らしていたのを覚えている。彼との出会いも、忘れられない何かをもたらす予感がしている。
 彼には「心に誰かを住まわせている人との遊びはつまらない」だのと偉そうな物言いをしたが、実は自分に言い聞かせていることであったので、彼が「気にしない、その方が割り切り易いし。」と答えた事に酷く安堵した。結局、中途半端に束縛を好んだり、独占欲が強いのを見抜かれた。
 彼には、いろいろな物を的確に見抜かれている。私の暗闇まで、きっと彼には見えている。
 「あなたって本当に」と、何度いらついて本音をぶつけてしまいそうになったか。長いこと胸の内に封じていた言葉をあっけなく引き出されてしまい、怯えにも似た感情を抱いている。
 エクス。あなたは本当に、怖くて素敵なひとだと思う。



 独りになってから丁度3年。この四月にオランに移って来てから、久方ぶりに遊びを楽しみつつ、仕事に学問にと有意義な時間を過ごしている自分に気付いた。
 さすが、大陸最大の街だけあって、心動かされるものが驚くほどに多い。
 そんな感想を抱いて日々のうつろいを見つめている。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 今ならば、判る。あの人がどんな気持ちで私にあの言葉を伝えたのか。
 でも、それではもう遅いのだ。

 愛した人を亡くしてから誰かに深い想いを寄せることを恐れ、優しさと温かさを全て年少者への庇護と仲間への思い遣りに振り分けて生きてきた彼は、見掛けに似合わぬ怖がりだった。
 あの言葉が彼なりの甘えなのだと理解できたのはいい。でもそれだけではなかった。

 今ならばそれは、彼なりの甘えと、二人で築いた生活への充足感と、そして幾許かの忘却に対する恐怖を示しているのだと理解できたけれど、あの頃はそこまで意識が及ばなかった。
 遺される私の未来を閉ざさぬ配慮――脆くて自堕落な所のある私が自責の念を抱かないようにとの配慮がなんだか酷く悲しい。
 幸せの中に埋もれて色々見失っていたのかもしれないし、単純に私が幼かっただけかもしれない。いずれにせよ、彼の孤独を抱きしめる事はもう出来ない。

 ねえ、あなた。
 今ならば、あなたが私に声をかけた気持ちが良く判るわ。見るからに危うかったものね、私。
 私もね、どこか危ういけれど、可愛くて頼りになる相棒を見つけたのよ。
 彼は、私の闇を晴らすように心に光を投げかけてくれる。あの初々しく前向きで真摯な眼差しが、私に進むべき道を示してくれるのよ。あの子に出逢えてよかったと心から思ってる。いつかあの子が旅立つ日に、私との出会いを喜ばしいものだと思ってくれるといいなんて、欲張ってさえいるわ。
 そうそう。それに可愛らしい”剣”の2人組にも出逢ったの。年下の彼らを見ているとついついお節介を焼きたくなる気持ちが湧いてくるのは年のせいなのかしらね。
 どうしようもなく、年下の子たちを大切にしたい心地になるのは、あなたの癖がきっと伝染したのだと勝手に思って過ごしているわ。
 あなたの事は絶対に忘れない。忘れてなんてあげない。喪った悲しみよりも、あなたを忘れてしまうことの方がずっと辛いから。そう、自分の為に忘れないのよ、だから心配しないで。
 私がそっちに行くまでに、もっといい男になって待ってなさいよね。あなたの想いがもっと理解できる歳になるまで、私も自分を磨き続けて生きてみるから。
 だから、それまでは。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ラスと、黄金樹亭で軽い食事をとりながら、様々な話をした。
 私の精霊使いとしての根幹に関わる脆さを露呈されて、驚愕と衝撃を覚えた。
 やはり彼は私に様々なものをもたらす存在になりそうだ、と思いながらテリーヌを口に運ぶ。上品で洗練されたその味は、確かに私を満足させたけれど……。
 「どうかしたのか? 口に合わないとか。」
 「ふふ、なんでもないわ。ちょっと考え事。」
 小さく笑って見せたら、ラスは軽く首を傾げたきり、それ以上何も聞いてはこなかった。本当に、付き合いやすい。
 (「このテリーヌは勿論とても美味しいけれど、あのオーファンの冒険者の店で食べた白身魚は、本当に美味しかった。」
 そういったら、ラスはどんな顔をするのかしらね。)
 生涯忘れられない幸せの味。もう一度味わえるとしたら、きっと私があなたのもとにたどり着いたときなのだと思う。
 「……考え事でそんな表情するなんて、な。」
 「うふふ、あなたのことを考えてるかもしれないし、そうでないかもしれないし。謎めいていた方が楽しくない?」
 「ま、楽しいけどな。」  

 

 だから、それまでは。
 あなたの腕の中に戻れる日が来るまでは。
 一夜の快楽を貪る夢の中、心を癒す温度を求めることを見逃してよね、あなた。


         <終わり>



  


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