「あー…………ねみぃ」
そこは裏通りから表通りに出ようかという辺り、ラスは、誰に聞こえるような声でもなくぽつりと呟いた。セリフに相応しくなく、時間は昼直前、街中でも食堂がそろそろにぎわう頃だ。いつもの彼なら、しかし、家で眠っている頃だが、今日は、ギルドの関係で徹夜で仕事をさせられて、こんな時間になってしまった。はっきり言って眠い。そして、腹が減っている。彼の不機嫌さは限界に近かった。 そんな彼にとって唯一の救いは、空が晴れていないことだろうか。梅雨の蒸し暑さは嫌いだが、徹夜明けのまぶしい太陽もまた耐えがたいものがある。ギルドを出る前にはまだ多少パラついていたらしいが、良いタイミングで上がってくれたようだ。そろそろ梅雨も終わりなのかもしれない。 さっさと家に帰って寝るか……空腹で寝付けないのも嫌だから何かを軽くつまんでから帰るか……表通りに出たところで、一瞬、考えたその時、彼に声をかけるものがいた。 「ラスさんじゃないですか、こんにちわ」 「あぁ?」 急に呼ばれ、だるそうに視線を向けると、その先にいたのはディーナだった。いつもの杖を抱え、いつもどおりの姿でそこにいた。そして、いつもどおりの気の弱さで、ラスの不機嫌そうな様子に早速おどおどしていた。 「あ……あの、ラスさん、もしかして、ご機嫌が悪いのですか?」 「あー、ディーナか。機嫌は……確かに悪いが、別にお前に怒ってるわけじゃないから安心しろ」 ラスは相手をディーナと知ると、流石に顔にまで不機嫌さを出すのはやめた。彼女との付き合いはそこまで長くないが、判り易すぎるその性格はすでにある程度把握している。笑顔まで見せなくとも、少なくともこれで落ち着くだろう。 案の定、ディーナは矛先が自分に向くことがないことに一先ず安心したのか、いつもどおりの口調に戻っていた。 「どうされたんですか、お疲れみたいですけど?」 「仕事で徹夜……ったく、最近、寝苦しいからただでさえ寝不足だっていうのに」 「そうだったんですか、お疲れ様です。じゃあ、これからもうすぐに帰ってお休みですか?」 「すぐに帰って寝るか、軽く何か食っておくか迷ってるとこ。……お前は?」 「私は、これからお昼ご飯にしようかなと思っていたところです。お昼に会うなんて滅多にないことですし、良かったらご一緒しませんか? 私もルクスさんたちとレックスの遺跡に行ってお話したいことがいっぱいあるんです」 もの凄く嬉しそうな表情でディーナが言う。ラスはしばし逡巡した。 いつもなら断ることのない誘いだ。程度の酷い天然ぶりで幾度もラスの誘いの言葉をスルーしてきたディーナを今更どうこうしようというつもりはないが、それでも普通にディーナと会話するのは楽しい。真面目にこちらの話を聞き、それに対して、まだ経験不足による未熟さはあっても自分なりの考えを口にしている姿は好感を感じている。 ただ……この様子からして、間違いなく話は長くなりそうだ。今の眠さでそれに付き合うには流石に躊躇いが出る。 「あ……やっぱり、お疲れのようですし、また今度にしたほうが良いでしょうか?」 すると、ディーナが気遣ってか遠慮気味に声をかけてきた。 「…………いや、少しぐらいなら大丈夫だ。どっかで飯食っていこう」 遠慮気味で、そして判りやすいほどにがっかりしたような声を聞かされては、ラスとしてはそう答えざるを得なかった。 「さて、どこがいいかな……この時期なら、”雨に光る紫陽花亭”に行ってみるか。店主が紫陽花好きで、表に一杯紫陽花が並んでるとこだ。いつもはパッとしねぇけど、この時期だけは華やかになる」 「紫陽花ですか? 見てみたいです。そこにしましょう」 ラスの皮肉交じりの紹介に、ディーナも嬉しそうに頷いた。こういうことができるあたり、さすがはラスと言える。
さて、”雨に光る紫陽花亭”前、 「うわぁ……」 思わず声を漏らすディーナがいた。 店の前には、入り口の扉以外の面が全て花壇になっており、そこにいっぱいの紫陽花が咲いていた。少し前までぱらついていた雨のおかげで、店はその名の通り、雨粒に光っている紫陽花に包まれていた。 「スゴイですね〜。店の前の花壇ならもっと小さいかと思っていましたが……」 ディーナは、独り言のように呟きながら花壇の紫陽花に近付いていった。並んでいる紫陽花を見てご満悦らしい様子を、ラスも微笑みながら見ていた。 鬱陶しい梅雨の季節に少し見せた晴れ間、こういうシーンがあるならば、梅雨もあながち悪いもんでもない、などとラスは一人、心の中で呟いていたのだが、 「きゃっ……!」 不意にディーナが短い悲鳴をあげると、ラスのところにまで逃げてきた。 「どうした?」 「な、なな、なめ、くじが……いたんです」 ラスの背後に隠れ、ディーナが震えながら言う。 「ナメクジ? あー、そういや、苦手だって言ってたな」 ディーナの様子を目で追って見ながら、苦笑交じりにラスが応える。ディーナのナメクジ嫌いは、前に酒場で本人から聞いたことがある。その時の言い方からして、かなりの苦手なんだろうとは思っていたが、まさかこうやって逃げ出すほどとは思ってもみなかった。 「別にこの時期、ナメクジなんて珍しくもないと思うけど……どれどれ」 「そ、そこ……その花の下辺りに……」 ナメクジに興味があるわけではないが、話の流れでなんとなく紫陽花の花壇を見るラスの後ろにぴったりと隠れて、ディーナが一つの花の辺りを指差していた。直接見たくはないらしい、薄目を開いて、花を見ているが、視線は決してそれ以上下げようとはしていない。 「……んっ」 言われるままにナメクジを探していたラスが、ふと真顔になった。 「へぇ、思ったより大きいな……」 「ですよね? ですよね? 私、こんなの見たことないですよ」 ラスの呟きに、全力で同意するディーナ、しかし、そのナメクジは彼女が言うほど大きなものではない。特別小さいとも言わないが、普通のサイズのものだった。 「まぁ、特別大きいとは言わないけど……予想してたよりはあるな。確かに」 「うー……こんなの大きくてもしょうがないのに。もっと小さかったら気付かったのに……」 「いや、大きいのは良いことだ。まあ、でかすぎるのもどうかとは思うけど、やっぱり、最低これぐらいは欲しいもんだな」 「そうですかぁ? まぁ、ナメクジも生き物ですから……外敵から身を守るには、体が大きいほうが良いのかもしれませんけど……」 ラスの言葉に不承不承頷くディーナ、微妙に会話がかみ合っていないことには気付いていない。 「おっ……こっちにカタツムリもいるな……」 「えっ、カタツムリ? どこです?」 「……カタツムリは平気なんだな?」 「だって、お家を背負って歩いてる姿って、なんだか愛らしいじゃないですか」 あっさり断言するディーナにラスは返す言葉もない。彼の目には、カタツムリもナメクジも一緒に見えるのだが……まぁ、当人が平気だと言っているのだから、構わないのだが。 「ほら、そこにいる」 「どこですか?」 ラスは、指で左の方を指した。それにあわせてディーナもラスの背に隠れていたところから顔を出して紫陽花を見る。カタツムリは見たいが、ナメクジは見たくない。そんな思いがあるのだろう、半分だけラスの後ろから体を出した格好になって見ている。 「あ〜、可愛い。カタツムリさーん」 ディーナは、カタツムリを発見したらしく、さっきまでの様子もどこへやら、とても嬉しそうだった。手を伸ばして触覚のような目の部分を触り、凹ませているのを見て遊んでいる。 (子どもみたいだな……) その様子を見てラスは呟こうとしたが、やめた。と、言うよりも別の言葉が口から出てきたのだ。 「やっぱり、大きいな……着やせするタイプなのか……」 「え? 着やせ?」 ラスの呟きにディーナが気付き、不思議そうな顔をした。明らかにカタツムリに対するセリフではない。 問われて、一瞬、ラスは「しまった」というような顔をする。が、それをすぐに繕って、何事か口を開こうとした。 「ああ、なるほど」 「………………え?」 しかし、何も言う前からディーナに先に納得されて、思わず間の抜けた声になる。 「確かにこのカタツムリさん、体が小さい割には殻は大きいですよね。でも……着やせですか、ステキな言い回しをされるのですね」 「あ、ああ」 にっこりと笑顔を見せるディーナにラスは頷いておいた。天然の彼女は、どうやら放っておいてもうまく納得してくれたらしい。もちろん、そんな恥ずかしい言い回しなど彼が本当にするはずもないのだが……ここはこのままそっとしておくのが得策だろう。 「そろそろお店のほうに入りましょうか。私、お腹が空いてしまいました」 「そうだな」 カタツムリのことですっかり機嫌が直ったらしい、ディーナは笑顔でラスに呼びかけると一足先に店のほうへ入っていった。 ラスはそれに遅れて……………店に入る前に、さっきディーナがしがみ付いていたあたりの腕をさする。 「梅雨も終わり……か」
そして、遠い目で意味不明なことを一言呟いてから店の中に入っていった。
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