出会いと決別( 2003/11/14)
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作者
MASASHIGE
登場キャラクター
ハマー



夜。月の光すら届かない部屋の中で彼は目覚めた。
 彼は飛び起きるように上半身を起こして周りを見た。
 妖精でもなければ精霊も感じることの出来ない彼の目には何も映らない。それを確認してから、彼は一度目を閉じた。視界は何も変わらない。
 額に汗を感じているのが分かる。いや、全身に嫌な汗をかいている。彼は額の汗を布団で拭った。
 ごくり。
 音を立てて唾を飲み込む。
 枕元に置いてある短杖を手に取り、彼はベッドから降りた。
 ごくり。
 もう一度唾を飲む。
 握った手の汗を服の裾で拭いて、短杖を握り直す。
 目を見開き、そこに何も見えないことを彼は確認した。
 そして魔術の詠唱が開始された。

“万能なるマナよ”

 複雑な音と韻を規則的な律に乗せて口にする。
 右手で短杖を翳し、左手で空に印を刻む。
 罪人を裁くかのように短杖を振り下ろし、彼は最後の句を唱えた。

“暗黒を退ける光となれ

 魔術は完成した。
 部屋に光が満ちる。
 “明かり”を唱えた彼の顔が魔術の灯によって照らされる。
 彫りの深い、濃い顔立ち。三十代にも見えるが、若干薄くなった黒髪とその濁った目は五十代と言われても納得させられるものがある。その彼の顔には、苦悶 と焦燥とが浮かんでいた。
 魔術の行使によって出来た額の汗をぬぐい取り、大きく深呼吸をする。
 次に彼は、暗闇の中から自らの荷を取り出した。手早く二重底を開けて羊皮紙の束を取り出す。
 綴じてあるその羊皮紙の表紙には、下位古代語でただ『呪文書』とだけ書かれている。署名はない。
 端の方がすり切れているそれを眺めてから、彼は渇いた唇を舐めた。
「18頁、5行目」
 抑揚のない声で言い、そして一頁ずつ確認するように彼は呪文書をめくっていった。
「1……2……3……」
 18頁目に目当ての項目を見つけて、彼はその題名を上位古代語で唱えた。
「ライト」
 その項目の最後までを舐めるように見て、そして自らの発音に誤りがなかったことを確認する。
 そして漸く、彼は安堵の表情を浮かべた。
 一度閉じて、そしてまた最初からめくり始める。
 今度はそのページ数ではなく、内容を確認しながら先へと読み進める。

 朝を迎えた頃、彼――ブレンディ・ハマーと名乗る鍵兼ね杖――は呪文書を閉じてもう一度眠りについた。
 その眠りの中で、彼は走馬燈のように過去を見る。冒険者となるまでを。

――――――――――――――――――――

「魔術とは、実践にある」
 下位古代語で『実践』とだけ書かれた黒板を、あまり使わないチョークで叩きながらサイモン・イフは言った。
 サイモン・イフ。市井の魔術師として、そして北東地方の魔術師としては数少ない導師級の魔術師であり、数年前まではカストゥール王国の遺跡へと何度も 潜っていた冒険者でもあった。『いにしえの滅びの街』で仲間を全て亡くしてから引退し、彼はファノン王国にて私塾を開いていた。
「魔術を使う者こそが魔術師なのだ。理論を説くだけでは魔術師とは言えない」
 彼の前には仏頂面の少年が座っている。少年はペンを手に、師の教えを聞いていた。何度も聞かされたことだ。新しいことを告げる前に、必ず師は実践をキー ワードにした。
「ブレンディ、お前は魔術を使えない」
 ブレンディと呼ばれた少年は、その宣言に頷いた。今の自分の手に魔術というコマはない。
「魔術師となりたいか」
 聞かれて少年は頷いた。家の商売は既に兄が継ぐことが決まっていた。自分にはこれしかない。家の金があるうちに魔術を修める。
「ならば明日からは更に金を用意して貰え」
 金があるなら、教えて貰える。この師は俺に魔術の素養を見出してくれた。魔術師志願者を何度も蹴ってきた師のこの言葉に、彼は優越感を感じた。
 師の私塾に入って2年目。少年は自らの才能を誇らしく思いながら、拳を握りしめて大きく頷いた。

 新王国歴494年6月12日。
 ブレンディ・ハマーの魔術修行が始まった。

――――――――――――――――――――

 師の教えは的確に魔術を使うことだけを説いたものだった。
 集中、動作、発声、そして理論。
 心構えは冒険者としてのものだった。サイモン・イフは、元からハマーを冒険者としての魔術師に育てようとしていた。彼が引退を余儀なくされた『いにしえ の滅びの街』へ挑ませようとでもしていたのかも知れないが、そのようなことは言わなかった。ただ、その教えは実際に使う時のことだけを言葉にしていた。そ の言葉の中には使わない魔術の虚しさが含まれていた。

 魔術の実践の場は、冒険の中にある。
 冒険をやめてからは、極端に使う場を失った短杖を見て溜息をつく師の姿は、雄弁にそれを少年へと伝えていた。

――――――――――――――――――――

“万物の根源、大いなるマナよ”

 呪文を唱える。精密に、緻密に。完璧に、徹底的に。
 右手の短杖に呪を集める。静と動。止め、振り上げ、震わす。
 左手で印を刻む。空を切り、空を掴み。痺れる指先でマナを知る。
 視界が狭まる。点となる。点で空間を把握する。その矛盾の中心に焦点を合わせる。
 研ぎ澄まされる感覚がマナを掴む。
 自信と理論が物理法則を凌駕する錯覚。自制する理性。
 そして唱えられるは呪文の末尾。

“魔力を打ち消すは魔力のみ”

 全身から力が抜けていく。筋肉が萎むイメージを振り払う。
 自らが放つマナを意識する。
 ぶつかり、弾ける己の魔力は、確実に対象も巻き込むと。
 点であった視界が開ける。そこにあるのは自らの姿。
 魔術を使えない者。マナを掴めない者。

 使えなかった者。

 かき消えた虚像の背後から、師が現れる。
 そして、一言だけ告げた。

「ようこそ」

 力強く新たな一歩を踏み出し、ハマーは師と握手を交わした。

 新王国歴498年3月7日。
 まだまだ寒いこの地方に、新たな魔術師が誕生した。

――――――――――――――――――――

 己の幻影を打ち消したその日、ハマーは魔術師となった。
 魔術師となった彼に、彼の師はその場で魔術師の杖を渡した。
 大柄な彼の身体に合わせたその杖は、武骨ながらも、魔術の存在感を表していた。

「冒険者となれ」
 杖と共に渡された言葉。
 これが導師サイモン・イフと魔術師ブレンディ・ハマーの別れの言葉となった。

――――――――――――――――――――

 杖と呪文書を手に、ハマーは意気揚々と暗くなった帰り道を急いでいた。
 己の魔力を握る感覚に酔いしれずにただこの日を待った。そして迎えた、魔術が形を成した今日、この日を思うと、思わず拳が握りしめられる。それと同時に 自分が魔術師である優越感に浸ってしまいそうになる。証はこの大きな杖。思わず掲げたくなるが、自制する。これを示すのは冒険の場だ。
 冒険者になろう。
 師の教えだけではなく、彼はそう考えていた。魔術を実践するための場は、冒険の中が最も相応しい。そしていつかは、『いにしえの滅びの街』の謎を解く。 その思いの中には使命感がなかったとは言えないが、それ以上に師を越えようとする気概が彼にはあった。
 冒険者になろう。
 今は、親が自分に投資してくれた分の働きをしなければならない。そのために働く。頭を使う。この手のうちにある魔術を使うだけでも大金が転がり込むの だ。すぐに返せる。そうしたら……
 冒険者になろう。

 物思いに耽りながら一歩一歩生家へ。
 坂を越えて、自らの家が見えてくる。そしてそこで彼は足を止めた。
 家の玄関の前に人が群れている。口論が聞こえてきた。
「おら、中のモン全部運び出せ!」
「や、やめてください……!」
 悲鳴を上げているのは、父親。
 家族を助けたい、その思いがなかったわけではない。その思いがあったからこそ彼は突き動かされたのだから。
 だが、それだけではなかった。複数の人間を、自分なら何とか出来るという魔術師としての自負。
 上位古代語。その力をここに示す。
 この呪文、まだ人を相手に使ったことはない。だが、使うことの出来る自信がある。
 カツン。
 一度地面に杖をつき、唱え始めた。

“万物の根源、万能なる力”

 紡がれる言葉に淀みがあってはならない。
 拍を取る杖に戸惑いがあってはならない。
 展開する理論に綻びがあってはならない。
 一点の集中に途切れがあってはならない。

“眠りをもたらす安らかなる空気よ”

 呪文が完成し、人々の中心部から不可視の雲が拡がる。
 “眠りの雲”は区別することなく、そこにいた者達を眠りに落とした。
 ふぅ、息を吐く。やれる。俺は魔術師だ。
 慎重に近づいていく。
 彼らはあくまでただ眠っているだけであり、いつ起きるか分からない。父親を起こして、何があったかを……
 足首が掴まれる。飛び退こうとした時には、天地が逆転した。勢いよく地面にぶつかった後頭部に痛みが走る。
 足首を握り立っているのは、大柄な男。暗くてシルエットしか見えないが、何故かにやついていることだけが分かった。一方的に告げられる言葉。
「こういう手駒が欲しかったんだよ」

 セラン盗賊ギルドの幹部候補、ニコジームとの出会いだった。
 その翌日、両親が商売に失敗して膨れ上がった借金の形として、ブレンディ・ハマーとその魔術は盗賊ギルド、ニコジームの元へと売られた。

――――――――――――――――――――

 薄暗く狭い部屋。灯りはただ一つのランタン。その部屋の中央に机と椅子が置いてあった。
 テーブルの上に置かれているのは幾つもの箱。
 大小さまざまなそれらを前に、杖を構えるのは無精髭を生やした男、ハマー。
 その顔からは生気が失われている。だが、目だけには爛々とした火が灯っていた。
 杖を握り直す。
 今日幾度目かの呪文を唱える。唱える呪文は一つ。
 だが、それがおざなりにはならない。あくまで精緻に。

“万物の象徴たるマナよ”

 脱力。唱え出すと共に指の先、杖の先、言葉の端から気力が抜け落ちる。
 快感。末端の感覚のみが鋭くなり、動かす度に身体に心地よい痺れと酔いが走る。
 自制。身体が絶頂を迎える寸前で気を保つ。
 集中。杖を箱に合わす。
 詠唱。そして末尾。

“我が杖の前に錠は無力”

 かちり、と音がした。音と共に吹き出した汗を拭いもせずに、肩で息をしながら用意された椅子に倒れ込んだ。
 意識はあるが、動けない。動く気ごと萎えてしまっている。
 このまま寝てしまおう。そう、意識を放棄しようとしたハマーに、水がかけられた。
 痛い。氷まで混ぜられたそれに意識を飛ばされそうになった彼は、必死に手繰り寄せた。
「おい、仕事の次は訓練だ」
 水をかけてきたのはニコジーム。ここでのハマーの師であり、飼い主、雇い主とも言える人物である。40を幾らか越えたこの男は、セラン盗賊ギルドにおけ る次の『体術の長』候補であった。ライバルは何人もいる。そのライバルを蹴落とすために、彼は魔術を使える手駒を欲した。そして白羽の矢が立ったのが、ハ マーであった。
 禿げ上がった頭を撫でながら近づいてくるニコジーム。顔に張り付いたままかわらないその笑みは、彼の不機嫌さを表している。
 身体が震えた。歯をがちがちと鳴らし、自分の肩を抱きながらハマーは師に言った。
「こんな状態では、訓練、出来ません……」
「そういう訓練だ。やれ」
 右手を蹴られ、杖が転がる。
 慌てて拾おうとするハマーを机へと向かせて、ニコジームは杖を拾った。
「お前は俺の下にいるんだ。技なしじゃダメなんだよ。わぁってるな?」
「は………はい…………」
 机の反対側に腰を下ろし、こちらを睨み付けるニコジームの姿に恐怖を感じながら、ハマーは机に向かった。次からは魔術ではなく、指で、技で開ける。
 残った気力を振り絞る。震えは止まらない。手に持ったツールが箱にぶつかり、カランと軽い音を立てて落ちる。
 拾う。拾えない。何とか拾えた。
 青ざめながら、彼は課題へと取りかかった。

 二時間後、倒れて意識を失うまで、ハマーは箱に取りかかり続けた。

――――――――――――――――――――

 倒れる寸前まで魔術を使い、それから盗賊としての訓練へと移る。そんな体力も気力も根こそぎ持っていかれるような日々が3年続いた。ニコジームが欲し がった手駒は魔術と盗賊の技の両方を使える者であったため、ハマーにはどちらも手を抜くことが許されなかった。
 一年目。
 冒険者になろう。その思いはまだ彼の心のうちにあった。この日々は後々冒険者となった時の糧となる。そう思いたくて彼は訓練に必死になった。魔術師とし てだけではない自分の姿を思い描くことに恐怖はあったが、それ以上に新たな力を得ることに夢中になれた。なろうとした。
 二年目。
 冒険者になる。その障害は自分の所有者であるニコジームである。道具のように使われる自分とその魔術に、ハマーは怨みを募らせた。この盗賊の師が自分を 使って成り上がっていく様を見る度にその思いを強くし、彼は歯軋りをした。歯軋りは癖になった。
 三年目。
 冒険者となるために。ハマーには自分の身体に合わせた武骨な杖が疎ましくなっていた。盗賊の技を身につけた自分に相応しいのは、導師の短杖のようなもっ と小振りなもの。冒険者となる前に導師に会おう。そしてもう一度杖を、短杖を授かろう。ニコジーム失脚のための計略を持ちかけられ、それに頷きながら彼は そう決意した。

 そして、新王国歴501年9月22日。
 ニコジーム失脚のための計画が発動した。

――――――――――――――――――――

 ハマーはニコジームと2人で、ある屋敷に潜入していた。
 場所は先代ギルドマスターの屋敷。当然ながらギルドには通達せずに乗り込んでいる。
 狙いは先代の遺言状であった。それを偽の遺言状に差し替えればニコジームは明日からでもすぐに『体術の長』を名乗れる。
 隠し通路、罠、鍵、見張りの類は全て情報を得て、成功する確信を得た上での犯行である。
 ただし、これ自体が彼を陥れる罠だということだけをニコジームは見抜けなかった。

 先行するニコジームを見ながら、ハマーは杖を握った。潜入するにはあまりに大きいが、これがないと最後の扉にかかっている魔法の鍵が外せない。この魔法 の鍵だけは合い言葉を手に入れることが出来なかったのだ。ニコジームがハマーを連れてきた理由はただその一点だけとも言えた。
 罠、鍵、見張り。
 全てをやり過ごしながら先へ進む。
 ニコジーム、ハマー双方にとって計画通りに進んでいく。
 そして目の前には最後の扉があった。
 ニコジームがハマーに合図を送る。
 呪文を唱えた。最後に杖で扉を叩き、魔力を解放する。
 “開錠”の呪文はその扉にかけられた“施錠”のマナをうち破った。その確信から、杖を握る手に力が入る。
 すぐにニコジームに合図を送った。
 手はず通りに次の術を唱える。

“闇よ、果てなき暗黒よ”

 呼び掛けだが呼び寄せではない。
 発現させるは己の魔力。
 創り出す。創り成す。
 魔術の秘技。創成の秘術。

“光遮る帳を下ろせ”

 部屋へと入っていくニコジームを尻目に、通路に闇を創る。
 ここまで見張りが入ってくることがないことを知っているからこそ出来る芸当である。元々暗いこの通路で光を遮っても、見張りには何も分からない。
 そして、淀みなく次の詠唱に入る。次はニコジームに悟られてはならない。ハマーが彼のために使われる最後の呪文。

“万物の根源たるマナよ”

 淡々と。朗々と。その一瞬毎に姿を変える詠唱。
 精緻に。大胆に。どの動きにも気が漲っている。
 潰さんばかりの力で握りしめられた杖が動く。
 一点へ集中。そして解放。上位古代語が締め括られる。

“錠となり閉じよ、鍵なる言葉は…”

 一瞬の逡巡。

“冒険者”

 ニコジームに油断があった。共犯のハマーが裏切るはずがない、という油断があった。これが成功したらそれ相応の立場を用意する手はずもあった。あくまで 自分の手駒の範囲内でだが、そうするつもりだった。だから、扉を閉じていた。
 その扉に音も立てずに鍵が掛かった。
 足音を立てずにハマーその場を後にした。その技術を教えてくれたのは今自分が閉じこめた男。感謝はしている。だが、自分を手駒のうちに終わらせることし か考えない相手なら、こちらから見限る。
 逸る気持ちを押さえ、静かに動く。だが、彼の師にはすぐに分かったらしい。異変に気付いたニコジームが扉を開けようとして、そして漸く罠に掛かったこと を知った。
 ハマーは走り出した。自分の逃走経路は用意して貰っている。そこへ走ればいい。
 背後から聞こえてくる罵声を振り切るように彼は走った。
 辿り着く。この穴を抜ければすぐ。
 穴を、抜けられれば。
 自分の姿とその穴とを見比べる。身体が抜けることは辛うじて出来る。だが、自分の手にある杖はどうか。魔術師の証、大振りな杖。
 舌打ち。そして歯軋り。無理と判断した。やはり、短杖でなければならない。
 導師に会おう。サイモン・イフに会おう。そして新たな発動体を頂こう。今度こそ冒険者となるために、師と同じ短杖を貰おう。両手で杖を持って、今一度彼 は思った。冒険者になろう、と。
 一度杖を見る。魔術師となってから、常に手元にあった杖。だが、これを魔術師として使ったことは殆どない。これは盗賊にとって都合の良い手駒としての 杖。
 彼は決別を決心した。
 杖を振りかぶり、そして渾身の力で地面へと叩きつける。
 痺れる腕。大きく乾いた音。そして砕けた証。
 二つに折れた杖の欠片を拾って腰に差した。
 決意する。冒険者になる、と。
 目の前に開いた暗い穴へと潜り込む彼の耳には、既にニコジームの声が聞こえなくなっていた

――――――――――――――――――――

 屋敷を脱したその足で、ハマーはサイモン・イフの家へと向かっていた。
 まだ冒険者になっていないこの身と、自らの手で折った杖を見たら、師は怒るだろうか。
 いや、怒りはしないだろう。常に冷徹に物事を見ていた師の姿を思い浮かべる。その場その場で適切な判断を下してきたことを知って貰えれば、褒めることは なくても認めてはくれる。
 そんなことを考えながら、彼は師の家を目指した。

 家に辿り着きノックをする。
 夜中とは言え、この時間に師が寝ているなどということはない。この時間が、師にとって呪文書を読み自らの魔術を確認している時間だということをハマーは 知っていた。魔術の実践は師の生きる証であり、そのための研鑽を惜しむ人ではなかった。よく自分に魔術を授けてくれたと思う。
 反応がない。没頭しているのかもしれないと思い、ハマーはもう一度ノックをした。
 やはり反応はなかった。
 気が急いていた。早く、早く冒険者になりたい。この街を離れ、遺跡へと向かいたい。今の自分には魔術だけではなく、盗賊としての技もある。ハマーにはど こに行っても歓迎される自信があった。
 扉を調べ、鍵を調べる。一般の鍵だ。今の自分には何の問題もなく開けることが出来る。
 咎めを受けても構わない。そう思いながらハマーは鍵を開けた。
 扉を開く。師との再会を彼は期待した。

 暗い部屋。ハマーは訝った。何故、魔術の明かりが灯っていないのか。その理由が分からなかった。
 思えば妙なことは他にもある。この時間、扉に“施錠”がかかっていないことなど3年半前にはあり得なかった。中に入ってから彼はそのことに気付いた。
 師はここを引き払ったのだろうか。そんなことを思いながら家の中へと一歩を踏み出した。人の気配はある。中の装飾も変わっていない。
 決して広くはないその家の奥、師の寝室の扉を彼は開いた。
 ベッドがある。人が寝ている。枕元に見えるのは師の短杖。ハマーは寝ているのが師であることを確信した。
 おかしい。師が寝ていることは彼の想像の範疇を越えていた。
 だが、彼は呼び掛けた。寝ているのが師であるのは、間違いなかった。
「先生、先生。ブレンディ・ハマー、ただいま戻りました」
 弟子として使いに出されていた時のように、ハマーは自らの帰還を告げた。
 呼ばれたことで、漸くベッドの上の人物が身体を起こした。彼は短杖に手を伸ばそうとして、止めた。
「杖は、どうした」
 淡々と聞いてくるその言葉に、ハマーは懐かしさを覚えた。この言葉で、師が自分を弟子として見てくれていることを知る。そして経緯を話した。
「明日、また来い」
 最後まで聞いてから、サイモン・イフはそう言った。
 違和感を感じたが、ハマーは口にしなかった。それを口にすることで明日ここに来られなくなることを彼は恐れた。
 そしてただ別れの言葉を口にして、ハマーはその場を去った。

――――――――――――――――――――

 翌日。晴れ渡ったセランの秋空を見上げて、ハマーは心の中の靄を振り払おうとした。
 昨夜は師の家を出た後、盗賊ギルドへと向かった。事の顛末を話して、彼は大量の金貨を貰った。それを借金の返済へと当てる。それでも幾ばくかの金が手元 に残り、彼は自由となった。
 だが手元に残った金を見る度に、ハマーの頭には昨日聞き流したニコジームの呪詛が響いた。まだ俺が自分の手駒だと思っているのか、と頭の中に残るニコ ジームへと答えを返す。ニコジームの呪詛は言葉になっていない。だが、それにハマーは苦しめられた。
 知るか、と思おうとする。計略を見抜けなかった時点で彼の失脚は決まっていたのだ。自分は巻き込まれないようにしただけだ。そのための方法を教えてくれ たのはあんたじゃないか、と思う。
「……冒険者となる」
 そして、昔から抱いていたその言葉を口に出す。
 そう、そのためには邪魔だったのだ。利害の不一致から決別したのだ。裏切り者という罵りはもう自分に届かない。自分は、自由だ。
 頭に浮かぶのはただ纏まらない考えだけだったが、手元に杖がないことで不安になっていたハマーには、それを振り切ることが出来なかった。
 ただ、彼が足を止めることはなかった。
 目の前には昨夜訪れた師の家がある。
 ノックをした。今度はすぐに返答があった。
「入れ」
 ノブを回して、ハマーは中へ入った。
 そして、愕然とした。
 中にいたのはローブを着た男、サイモン・イフ。そう、確かに姿形はサイモン・イフその人であった。だが、その目は澱み、頬は痩せこけている。活力に満ち たかつての師は変貌していた。
 挨拶もせずに、サイモン・イフは呪文を唱え始める。
 机の上においた小さな樫の枝へと向かい、自らの短杖を振る。
 昨日交わした約束のまま“発動体作製”が唱えられていく。
 これが使えるからこそ、導師は導師たりえる。
 これが使えない者には、人を魔術の道へと誘うことなど出来ないのだ。
 そう、使えなければ導師は名乗れない。

 魔術師サイモン・イフの呪文は、効果を表さなかった。

 無言で向き合う。昨日確認しなかったことをハマーは確認した。
「魔術師では、なくなったのですか」
 実践出来ない者となった師を見て、彼はそう尋ねた。
「一昨年に腕を折り、それが完治しなかった」
 魔術とは精密なものである。それは高度になればなるほどそうなる。魔力が漲っている者ならば省略出来る動作もあるが、自らの扱える最高の術となると、そ れは出来ない。そう、折れた腕が完治しなかったことは、魔術師にとって致命的なことであった。賢者の学院ならば何かしらの策を教えてくれるのかも知れない が、この市井の魔術師には、己の覚えている動き以外の魔術動作で“発動体作製”の呪文を唱えることは出来なかった。
「腕を折って実践出来なかった半年で、私の魔術は衰えた。導師は名乗れない。魔術師も疑わしい」
 いつもの口調で告げる師を見て、ハマーは恐れる。いつか自分にもこうなる日が来るのか、と。
 ハマーの様子を一瞥した後、サイモン・イフは自らの短杖を突きだした。
「冒険者となるのなら、授けよう」
 熱が、籠もっていた。
「なります。冒険者になります」
 宣言と共に、ハマーは師の形見を、杖と呪文書を受け取る。
 一度前を見据える。
 そこに、彼の師はもういない。ただの老人がいた。
 ハマーは背を向け、そして振り返らずに去った。

――――――――――――――――――――

 翌日、ハマーは冒険者となった。
 ニコジームとサイモン・イフ。
 2人の師が味わった失脚と魔術の喪失という挫折から逃げるかのようにセランの街を出て冒険者となった。
 二度とこの国には戻るまい。
 恐怖から出たその決意は永遠に達せられることとなるのだった。

 新王国歴502年、隣国ロドーリルに“鉄の女王”ジューネ四世即位。
 同年、セランの街を王都とするファノン王国は征服、併合されてその国の形を失った。

 バイカルでそのことを耳にしたハマーは、安堵と喪失感の中で2人の師に感謝を捧げ、そして初めて魔術師サイモン・イフと盗賊ギルド幹部候補ニコジーム、 2人の冥福を祈った。
 その後、夢に出てくるようになった2人の師の挫折は、彼への戒めとして役に立っていくこととなった。

 彼自身、幾度も挫折を味わいながら、それでもハマーは冒険者であり続ける。






  


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