Man Eater(2004/03/11)
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作者
まーてぃ
登場キャラクター
ヘイズ



「……さて。」
 今となってはすっかり見慣れた仮住まいの中で、ある出来事を記録するのがぼくの今最も優先してすべき事だと感じている。羊皮紙と羽ペン、それから墨。こ れだけあれば、他は何も要らない。思うままに書こう。ぼくは早速記録の準備を整える。何事も、身辺整理からだ。満足行くまで掃除した綺麗な机の上で、追想 を始める。
 さて、この文章の書き出しは、どうしようか。
 おそらく、最初を書き出せば、後は記憶が記録する事を手伝ってくれる。さあ、書こう。早速、手が思い出の数々に誘っていく……。

 決してオランという街が嫌いではないという事を、まず先に記すべきだろう。
 ただ、冒険者になってからというもの、自分を見失う機会があまりにも多く、また、それは決してここにいては癒される事が無いように思えて仕方なかったか ら、この街を出て行ったというだけの話だ。何の事は無い、それは物の分別も出来ない新米冒険者の、大都市に対するささやかな抵抗の気持ちによるところが大 部分を占めていた。
 こんな思いを抱きながら、この大きな冒険者の闊歩する街の外に出て行きたいという些細な我侭に突き動かされるままに。尊敬する師匠に手紙を届けるように 言伝を残し、そして他は誰にも言わず。炎から現れる火蜥蜴のように、ぼくはオランを飛び出していった。
 オランから本格的に外に出たぼくは、多くの物を見た。それが熟達した冒険者にとって当たり前の事でも、通称「箱入り」のぼくにはまったく新鮮な事ばか り。
 そう、ぼくにとって、地平線まであろうかという長い長い道は生まれて初めて見るものであり、大切な人から聞いただけの夢物語に過ぎなかった。その夢物語 の中に、ぼく自身が立って、歩いているという実感は、とても印象的だった。
 ……二十一歳、それは冒険者を始めるにあたり、非常に中途半端な年齢かもしれない。そのせいもあったのだろう、右も左も解らないぼくに構う同業者は非常 に少なく、時として、オランの懐かしい酒場「きままに亭」の時の再現よろしく、聞くに堪えない失言で先輩格の同業者を激怒させ、大乱闘に発展した事もあっ た。どれもこれも、恥ずかしながら記憶に新しい。最初の内はそれに逆上して、さらに悪化させる事もあったが、一ヶ月もすればさしてそういう事態にも発展し なくなり、少しは自制心も付いた事をここで追記しておこう。大きな進歩だ、と一ヵ月経った当時のぼくがしんみりと考えていた事が、今でも鮮明に思い出せ る。

「……少し前の書き方と違うような気がする。」
 文体が少し変化を遂げている事に気付き、ぼくは一旦手を休める。ため息を付き、一度窓の外を見る。元気良く子ども達が石畳を駆けていく。そのほとんど が、知り合いだ。子ども達は意外といろんな事を見ていて、しかも、それを吸い込む柔軟性にも長けている。ハズレも多いが、意外と重大な事を知っている事も あり、あなどれない情報源。でも、ぼくにとってはそれ以上に面白い友達だ。
「これを書き終わったら、遊びに出ようかな。」
 そう呟いて、小さく微笑み、視線を再び羊皮紙に移し、ぼくは再び真剣に手を動かし始めた……。

 人というのは、衝撃的な事を長く記憶できない。ふと思い返してみれば、それは全く違うものに変質している事もざらだ。だが、ぼくが今まで体験した出来事 の中で、今から書く出来事は最もショッキングでありながら、忘れる事が出来ないものなのだ。実際のところ、ここに書いたその出来事が誰かに知れるという事 を、ぼくはこの上なく懼れている。人はおそらく、ぼくを軽蔑し、この家から立ち去るよう罵るだろう。失うものも計り知れないに違いなく、それは決して杞憂 でもないだろう。だが、書きたいと心のどこかが常に疼いている。だから、書くのだ。もう、これは止められない。
 事の始まりは旅をして二ヶ月経ったある日の事。ぼくは、旅先で踏み込んでしまった森で迷ってしまった。通過する日にちの計算も間違ってはいなかったし、 齧った狩人の知識による方向感覚はさび付いていなかった。保存食だって通過する日を考えて計算して持っていた。抜かりはない、と当時のぼくも思っていたも のだ。
 だが、それが逆に過信となり、奈落の底まで続く落とし穴に変貌したのだ。
 近隣に住む人は暗がりの森と呼び、踏み込もうとしないその森へ行く事について、他人の事ながら、誰も賛成はしなかった。それでも、地図に載らないほど小 さな森であると同時に、そろそろ帰ろうと思っていたオランへの近道になる森であると知って、ぼくはその森へと踏み出した。もちろん、当時のぼくは知る由も ない。それが、地獄の始まりになると、旅を急いでいたぼくが考えるはずもなかった。
 方向感覚はあいにくと踏み入った事のない森ではまったく働かず、予想以上の日が経過し、多めに持っていた保存食も切れ、食料になりそうな動物が通る気配 もない森の中で、ぼくはあっと言う間に追い詰められてしまった。迂闊だったと後悔しても、今更という話だ。日の光は妙に遠く、凍てつくような空気が肌を裂 くように感じられる。本当は、そんなに寒くもないのに。暗い森は、森乙女にとっては格好の遊び場であり、過ごしやすい家のようなものでも、人間にはぞっと する気配を常に漂わせている。時折ヒルが落下してくる事もあり、湿っている。きっと、エルフだっていないだろう。助けはまず来ないと、三日目経ったあたり から思い始めた。歩けば歩くほど、何処も彼処も似た風景は反復してぼくの感覚をますます狂わせ、押し潰されるような森全体の息吹はぼくの心の中の闇霊を呼 び覚まして止まない。一刻も早くと急げば急ぐほど、ぼくは間違ったルートを進み、錯覚はますます酷くなり、冷静になればきっと働いたであろう方向感覚も完 全に消滅し、食料は切れていないのに幻覚が見える始末。そんな中、この薄気味悪い森の中で、水乙女の住処である泉を見つけられたのは不幸中の幸いであっ た。
 こうして、そこを拠点として出口を探す日が始まった……。

「……ふう。」
 一息ついて、部屋を見回す。各所に埃が積もっている事に気づき、後で掃除をしようと固く決意した。片付けきれなかったこの家本来の持ち主の靴下が、また 転がっているかもしれない。折角だ、もし見つけたらルベルトにでも届けよう。多分、思い切り突っ込まれる事請け合いだ。
 オランに帰ってきたその日に、懐かしい料理を食べに、ぼくはきままに亭に向かった。そこで最初に再会したのが、彼、ルベルト・シュヴァイツァーであっ た。ぼくがお酒で羽目を外した時も、同席していた彼。久々に友人の声を聞いて、随分安心したのは事実だ。これから書く事は、そんな人物には、なおさら話せ ない。このまま、死ぬまでこの事は誰にも話してはならないという話だ。少なくとも、自分が平和でありたいなら。我ながら、気の長い話だとは思うが。
「さあ、続きを書こうか……。」

 食料は節約していても、やがて切れ、残る食料は所々に生えた食用にできる草と、泉の水だけであった。かろうじて、水乙女に呼びかけて浄化するくらいの精 神力は残っていたので、水には困らなかったが、徐々に周囲の食用に出来る植物も減って行き、ぼくの精神力も体力も限界に達していった。
 人は、絶対飢餓ともなると持つのはせいぜい一週間が限度らしい。それまでに、何としても出口を探さねば。気持ちは焦るばかりで結果を出さず、日に日に落 ちていく体力は心の何処かに死という言葉を投げかけてくる。もはや、体力をセーブしておく余裕はなかった。体力が保てたとしても、精神が死にそうだった。 基本的に、森や閉鎖された狭い空間が苦手なのだ、ぼくは。今すぐにでも、広い空間に出たかった。
 しかし、その状況が四日も続くと、もうどうでも良くなってきていたというのが実状で、とりあえず食べられる物は食べて、その場しのぎをする事が精一杯と なっていた。時間が経過するにつれて、徐々に物の判別がつかなくなり、挙句の果てに絶対食べてはならない毒草を食べ、一日動けない日もあった。意識が朦朧 としていく中、ぼくは絶望的な状況に立たされ、自分が冒険者としてどれほど甘かったかを噛み締めた。今頃になって、と嘲笑を浮かべたぼくの顔は、どれほど 虚しく惨めなものであったか。この頃には、もう何日経過したかなど覚えてはいなかった。手足の感覚も薄れ、今にも全てを投げ出しそうな有様だった。それな のに、この状況は今となってもはっきりと思い出せる。まだ、生き伸びられるという気持ちが多少なりとも残っていた、何よりの証拠だろう。
 それからどれ位経過したかはわからないが、不意にがさがさと茂みが揺れた。幻聴ではない。幻覚でもない。確かに揺れたのだ。渾身の力を振り絞って、大木 に預けていた身を起こす。茂みから現れたのは……ぼくと同じく、この森に迷った人間の男だった。だが、その目は狂気にぎらつき、手にした斧は錆びて使い物 にならないのに、何故か光って見える。落ち窪んだ眼窩の下から、その狂気に満ちた目が、こちらを睨んだ。それでも、怯むという心の余裕がとっくの昔に失わ れていたため、ぼくは何とも思わなかったが。
 その男は、ぼそぼそと何かを呟きながら、こちらに歩み寄ってきた。その声は聞き取れなかったが、少なくともぼくにとって良い言葉ではないだろうなと、ぼ んやりとそう思っていた。彼も、もちろんぼくの考えなど気にも止めないようで、こちらを見て不気味に笑っていた。
 斧が、ぼくに向けて振り上げられる。ぼくは、その様子に何をするわけでもなく、様々な事を思い返していた。走馬灯に浸って、死のうと思っていたのだろ う。
 例えば、それはアレンやホッパーと料理をした事、ランドルフじーちゃんとのチェスの事、あの時のぼくにとって難しい話をしていたラスの事などであり…… 冒険者となって知り合った人々の事。……また、ラテルとの約束の事であった。
 それを思い出した途端、意識が、がくんと揺れて現実に戻ろうとした。斧がぼくの頭目掛けて振り下ろされる寸前、ぼくは彼を見上げた。彼は、斧が重たいの か、少しよろけていた。錆び果てた斧の切っ先を見て、ぼくの意識は一瞬であれ、完全に現実へ戻った。
 ――――死にたくない。
 何がどうして、そんな事を考えられたのかは解らない。それは、ぼくが持っていた強運のお陰かもしれないし、ぼくでも知らない底力がまだあったからかもし れない。それが何かは現在でも解らないし、もう今となっては記憶も曖昧だ。……しかし、ぼくはその時、確かに聞いた。戦士としてのぼくではなく、精霊使い としてのぼくが最も聞きたかった、ぞっとするほど綺麗な女性の声を。
「――――――。」
 彼女が何と言ったかは思い出せない。しかし、それでぼくは勇気付けられた。ありったけの力を振り絞って、古い友人からの贈り物を引き抜く。もう、ブロー ドソードを抜く体力は無い。そんな時に、咄嗟にソードブレイカーの事を思い出したのは、ある意味の奇跡であった。ぼくは自分でも驚くほどの喚声を上げなが ら、全体重を掛けて男の身体にソードブレイカーを突き立てた。どさりと倒れる男の胸に突き刺さったその真ん中で、戦士の石がきらりと光ったように見えた。 きっと、幻覚だったのだろうけれど。
 そして、この時のぼくは無我夢中のあまり、全くその事の重さに気付いてはいなかった。自分は初めて、人を殺したのだと……。

「慣れないことを長時間するものじゃないな。」
 肩を回し、ため息を付く。日は暮れ、空には星が瞬き始めていた。温かな陽気が涼しい闇夜を連れ戻し、あたりは見る間に夜へと変わった。さすがに暗がりで は文字を書けないので、ぼくは冒険用に使うランタンを持ち出して、続きを書く事にした。目が悪くなるので、早めに切り上げようと思いながら。

 ……だが、自分に害を為そうとしたこの男を倒したところで、全ての力を使い切ったぼくは、それ以上何も出来はしなかった。身体を引きずり、再び大木に身 体を預け、森の音を聞く。何も聞こえないわけはないのに、何も聞こえなかった。おそらく、異様な耳鳴りに襲われていたからだろう。身体は自分の物で無いよ うに重く、冷たい。視界はぼやけ、何もかもが見えない。何も無いのだ、ここには。そう、水を浄化する力も残っていなければ、歩く体力も無い。それを回復す るための食料も……。
 ……食料。もう何事の判別もつかなくなっていたぼくに、それは唐突に舞い降りた。ソードブレイカーを突き立てられているこの男は、生きているとも、死ん でいるとも見える。ぼんやりとした意識の中で、ぼくはその男をずっと見ていた。そして、無意識に生唾を飲んでいた。そして、そのまま、理性が何処かに吹っ 飛んでしまったのだ。生きたいという本能が、理性を引きずり倒して暴走し、全てを凌駕してしまったのだ……。
 ……意識が戻ってくるにつれて、自分が仕出かした事に想像を絶する恐怖を味わった。血に塗れた自分の衣服、生臭い血の味が口に広がり、変わり果てた先ほ どの男の死体。まさかと思った。そして、その考えを必死に否定ようとした。それが嘘である事を証明するために、慌てて泉で自分の顔を確認した。だが、顔も 血で濡れていた。使っていなかったはずのブロードソードも血にまみれ、ようやく、自分がした恐ろしい事を認識するに至った。
 人は誰しも心に魔物がいると聞いた事があるが、ぼくの中にもそれはいたのだ。それは、ぼくの場合、ぼく自身が最も嫌うあの人食い鬼であった。それに気付 いた途端、震えが止まらなくなり、吐き気もしたが、それよりも先にこの顔と剣を洗いたかった。汲んだ水で顔の血はすぐに洗い落とせたが、二本の剣の血はい つまで経っても洗い落とせず、がたがたと震える手まで何度も切り、長い時間が掛かった。何故か怖くて替えの服に着替え、血まみれの服を袋の中にぐいぐいと 押し込んだ。男の見るも無惨に食い散らされた死体を、ぼくはどうしても片付けたいという衝動に駆られた。取り返しのつかない事をした、恐ろしいことだ、何 てことをしたんだ。後悔しても、意識はますます明瞭になり、現実をぼくに突きつける。やがて、逃げ場は無いのだという気持ちが、ぼくを徐々に奇妙な冷静さ に招いていく。
 ……そう、人を殺したのだ。しかも、食べたのだ。白い目がこちらを虚ろに見ている。何とも無機質な目だ。流れ出た血が気持ち悪いくらいに鮮やかな赤だ。 平面に広がっているはずなのに、立体に感じる。しかし、その本体からは、何も感じない。精霊の力もない、無機質で悪趣味な置物のようだった。だが……これ は、死体なんだ。ぼくの殺した、死体なんだ。妙に納得した自分が、そこにいた。もし、これで何事かがぼくを引き止めなければ、今頃ぼくはどうにかなってい ただろう。そして、その引き止めたものは、死にそうになった時に思った、大事な約束の事であった。
 しっかりした足取りで、冷静なまま、ぼくは森を歩いた。今まで以上に無い、自分でも不気味なほどの冷静さで。何がぼくを森から出してくれたのかも解らな いが、何者かに引っ張られるように、ぼくは夢中で歩いていった。そうして、意外とあっさりと出てしまった。見事、入ってきた方向とは反対側の出口へ。
 だが、ぼくはそこまでだった。急に力が抜け、森の入り口から少し歩いたところで、ぼくは倒れてしまったのだ。意識が、夢の中へと沈んでいく……。
 その後、ぼくは近くの村人に助けられ、一命を取り留めた。親切な人で、ぼくに食事まで分けてくれた。ぼくもその人のお陰で回復し、その人のために少しの 間ではあったけれど、働いた。喜んでくれる人の顔を見るのが、何よりも嬉しかった。だが、その人達がどんなに勧めても、一つだけぼくには出来なくなってい る事があった。
 口に入れるだけで、思い切りむせ返ってしまう。白い目が、変色した肌が、鮮やかな赤が、脳裏に焼き付いて離れてくれない。怖くて食べられないのだ。こち らを見て目を逸らさない、その鮮やかな赤にまみれた白く濁った目が怖くて怖くて、たまらないのだ。ぼくは、二度と肉の味を噛み締める事はないだろうと、確 信した。
 皮肉にも、同じ極限に立たされた迷い人にぼくは救われた。名前も知らないその人の死を持って、救われたのだ。もう、その命について、取り返しはつかな い……。

「…………。」

 今でも、彼の事は時折夢に見る。あの窪んだ眼窩から垣間見えた狂気の瞳を煌かせ、彼はいつもこちらを見ていて、にやりと不気味に笑って手招きをしてい る。気付けば、優しい朝の日差しがぼくを照らしてくれているが、前日の疲労感は決して癒されてはいない。人を刺したその手の生暖かさに、まさかまだ血がつ いているのではと、起きるたびに確かめてしまう。起きる度にブロードソードとソードブレイカーに、血がついていないか確かめてしまう。その度に、彼らは鈍 い鉄色の光をちらつかせて、それが幻覚であり、ただの夢だと知らせてくれる。ああ、大丈夫、何も無い……と安堵の笑みがこぼれる自分に、どこか寒気さえ感 じる今日この頃だ。
 この三ヶ月で、ぼくは自分の冒険者としての甘さを知った。この手で人を殺し、その死を見、自分の中に宿る狂気を見た。『生きる』という欲が、どれほどま でに底無しかを思い知った。そして、それがどんな理性や心さえも抑えこんで、恐ろしい事を平然とやってのけるかもだ。が、それで救われたのも事実であり、 その貪欲さに、ぼくは命を救われたのだ。その貪欲さでもって貪ったものに。それを忘れないように、ぼくは生き続けなければならない。人に話す事もなく、一 生人を殺してその血肉を食んだ加害者という重荷を背負って生きるのだ。
 命がどれほど大事なものか。それを忘れない限り、ぼくは名を持たないあの神に愛される事もなければ、その奴隷と化す事もないだろう。
 決して、忘れない。ぼくは断じてこの思いを忘れない。命を繋いでくれたあの人への感謝を忘れない。一刻一秒を生きる大切さを忘れない。ぼくは……これ以 上忘れない。そのために、強く生きなければならない。
 それが、せめてもの彼に対する謝罪であり、ぼくの拙い罪滅ぼしである。
 これが、ぼくをここに生かしてくれている真実を残す記録だ……―――――――。

「……終わった。」
 全てを書き終わり、ぼくは大きく背伸びをした。もう真夜中だ。そろそろ眠らなければならない。
 余談だが、先日、きままに亭で奢ってもらったシチューの内容が野菜ときのこであった事は不幸中の幸いだった。勘が鋭い人は、きっと肉を食べられなくなっ ている事をすぐに察してしまう。詮索をされたら、それこそ終わりだ。これからは、友人との間にも一つの壁を持っていかなければならない。絶対に話してはな らない秘密という苦痛が、これからのぼくに延々ついて回るのだ。いかに親しい人であっても、それは変わらない。そういう意味で、オランから出ていく前とは 少し違う人間関係になってしまった気がする。もし、誰かがこの事に気付いた時、その人はぼくを嘲るだろうか、罵るだろうか、それとも……いや、今日は早く 寝て、明日は子ども達と遊ぼう。久々に走るぬいぐるみのクッキーを食べたい。
 最後となったが、あの時、戦う勇気をくれた彼女は、また何処かに行ってしまった。もっと強くなって、次は…こちらから声を掛けられればいいなと思ってい る。しかし、それはきっともう少し先だろう。今は……この生きている幸福を噛み締めながら、安らかな眠りに付きたい。

 三の月、五日 ヘイズ著。






  


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