一 寸昔の話(2004/07/11)
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作者
霧牙
登場キャラクター
スピカ



吹き抜ける風が、照りつける日差しが、生い茂る草の香りが、すべてが心よい。
 草原の国といわれるだけあって、ミラルゴの大草原はとても雄大で。こうして走り回っていると、全身でその息吹を感じ取れた。
「ここまでくれば、そう簡単には見つかりっこありませんわね」
 少女は立ち止まり、はぁはぁと荒い息を整えようと深呼吸した。日の光を反射して輝く長い銀髪。しなやかな肢体。そして優しさを秘めた表情。どちらかとい えば美人の分類に入るのだろう。
 あと十年もすれば。
「おとと、隠れなきゃいけませんわね」
 少女は、草原からいくつも突き出している大きな岩の陰にその身を潜めた。追われているのだ。遥か彼方には、彼女を追っているであろう小さな人影が見え る。
「スピカの奴ぅ、どこいったぁ? このココちゃんから逃げられると思うなよぉ」
 小さな人影の耳は、若干だが尖っていた。自らココちゃんと名乗った小さな人影が、グラスランナーであるという証だ。そしてまた、スピカと呼ばれた隠れる 少女も小さかった。
 グラスランナーの方は成長しても小さいのだが、少女の方は正確には幼かったのだ。まだ十歳前後だろうか。そしてよくよく見れば、美しい銀髪は今や土埃に まみれている。しなやかな肢体には擦り傷が見える。そして表情には、優しさ以上にやんちゃさが目立っていた。
「もうココったら、わたくしばかり追いかけて……足ではシェラに勝てないからって、ずるっこいですわ」
 岩陰に隠れて、ため息をつく。
 なんのことはない。少女たちは、この広い草原で子鬼退治と呼ばれる遊びをしているのだ。ゲームの内容は、鬼役に見つからないように身を潜めるか、もし見 つかったら逃げのびるか退治するかというものである。
 今回の場合、街の入り口からそこからちょっと離れたところにある綺麗な花を咲かせている低木のあるところまで。似たような低木二本に印をつけ、さらに街 の入り口にも目印を決めておいて、四点を結ぶと丁度真四角になる範囲に決めてある。
 その範囲の中には、生い茂る草原にそれを貫く街道、街道沿いには木が生えているし、ちょっと外れれば岩場や小川などもあり、意外に隠れるところはある。 だが、しょせんは草原。一度見つかるともう二度とは隠れられないだろう。
 そうなると、鬼からどうにか逃げ延びて、スタート地点においてある剣に見立てた何か(今回は棒切れを置いてある)を取らなければならない。すなわち、そ れが退治だ。
そして鬼役は敵を探し出すと同時に、その剣を死守しなくてはならず……なかなかの攻防戦になるわけだ。
 ということで、自然と足の速いものが有利に立てるのだ。かくいうスピカは、足が遅い。ましてや、グラスランナーの脚力に勝てる人間などいない。人間であ れば。
「よっし、スピカみーっけ!」
 そうこうしている間に、ついに見つかって追いかけっことなってしまった。こうなると勝ち目はないのだが。
 ドドドドド、という激しい地鳴りとともに、グラスランナーすら追い抜くスピードで風が疾った。
「悪いね。剣はもらったよ」
 ふふ、と笑ったこれまた小さな影。だが、それには四本の足があった。草原の民のひとつである、ケンタウロスだ。
「シェラ。助かりますわ〜」
 あやうく捕まりかけたスピカが、手を合わせてにっこりと微笑む。
「あちゃー。だからシェラ相手にしたくなかったんに」
「スピカばかりに固執したココの敗因だよ」
 あくまでクールに笑うシェラというらしいケンタウロスの少女。
ミラルゴのケンタウロスの部族は、人間たちと友好的な部族も多い。そして放浪の途中、たまに市を求めてグラードや他の様々な街に立ち寄る。
 そして子供同士になれば、こうして友人関係を築くこともあるのだろう、きっと。スピカもココも、いつから、どうしてシェラと友達になったのかは詳しくは 覚えていない。でもかなり長い付き合いなので、何も考えずごく自然に一緒に遊んでいるのだ。
 もっとも、草原中を放浪する民だけあって、遊べるのは年に数えるほどしかないのだが。
「んじゃあ、またココが鬼するから。はいはーい、隠れて隠れて」
 捕まれば鬼が変わるのだが、退治されると仕切りなおしである。
 スピカとシェラが方々に散っていく。
「次はもっとうまく隠れませんとね」
 そう呟きながら、街道沿いに走っていって、次は小川あたりに身を潜めようかと思っていたら――誰かと正面衝突していた。
「きゃ……!」
「おっと……」
 強かに鼻をぶつけたようだった。相手は、声から察するに若い男だろうか。鼻を押さえて蹲る。
「ごめんごめん。大丈夫だったかい、君?」
 自分が悪くもないのに謝罪しながら、男はしゃがみこみスピカを覗き込んだ。
「いたた……」
 打ち所が悪かったらしく、かなり痛い。ちょっと暖かいものを感じるあたり、鼻血が出てるのかもしれない。
「おい、小娘、このお方をどなたと……」
「いい。避けられなかった私も悪い」
 怒気をはらんだ声が聞こえたが、すぐさまそれは打ち消された。鼻を押さえながら、ようやく顔を上げる。
 一人の青年と、一人の老人がいた。あとは、その後ろに馬車が控えている。青年は端整な顔立ちで、旅装束だというのに気品を漂わせている。老人はこざっぱ りとしていて、いかにも執事でございといった雰囲気だ。旅行中の貴族だろうか?
「すまなかったね、君。だいじょ……いけない、鼻血が出ているじゃないか。それに擦り傷も。髪まで汚してしまったようだ……。申し訳ない、女性に対してこ んな」
 なにやら子鬼退治で汚れたり作った擦り傷を勘違いさせてしまっているようだ。しかもやけに大げさな物言いである。これくらい、草原で遊んでいれば日常茶 飯事だ。
「あ、あの……っ! わたくしなら大丈夫ですわっ、お気になさらないでくださいまし! それでは失礼いたします、ごきげんようっ!」
 慌ててその場から逃げ出す。大したことがないのは事実だし、何より鼻血をたらしている姿を見られるのが滅法恥ずかしかった。
 静止の声が聞こえてきたが、立ち止まらずに街まで駆け戻った。
「はぁ……びっくりしましたわ……」
 さっきの人たちはもう米粒ほどの大きさにしか見えない。
「それにしても、結構素敵な人でしたわ……ああ、恥ずかしい」
 街の入り口である申し訳程度の門に手を突き、はぁはぁと荒い息をついてそんなことを呟いていると。
「たーっち」
「………あら?」
 ココが満面の笑みを浮かべて、スピカのスカートをつかんでいた。
 ちなみに、剣代わりの棒は――手を伸ばせば届きそうな位置に転がっていた。

 数日後。
 今日はココもいないし、シェラの部族もまたどこかへ移住していった。一人ではやることが極端に少なくなる。
 暇をもてあましたスピカを見た母から、店の手伝いをしろといわれたのだが、それも嫌なのでこっそりと抜け出してきた。そして今は特にやることもなく街を ぶらぶらと歩いていた。
「あれ。君は確か先日の」
 するとなんとまぁ。以前、正面衝突したときの青年が街にいたのだ。旅装束ではなく、ごく普通のミラルゴでよく着られている普段着姿で。こんな簡素な服で も、着る人が着ればこれほどのものになるものなのか。十一歳の小娘でもそう思う程、この青年は格好良かった。
 近くでよく見れば、思っていたよりも若いだろう。十五〜十七くらいだろうか。二十歳には届いてないだろう。
 スピカはぼーっとそんなことを考えていたが、ふと我に返った。
「あ、あの……こんにちは」
 そんな挨拶しか口から出てこない。気恥ずかしさで逃げ出したくなる。
「ああ、こんにちは。前は本当にすまなかったね。平気だったかい?」
 そんなスピカの気持ちも露知らず、青年は笑顔で挨拶し、それから済まなそうに続ける。
「え、ええ。大したことはありませんでしたわ、わたくしは元気が取り柄ですから。わたくしこそ先日はどうも、なんだか逃げるようにいってしまって」
 顔を染めながらも精一杯の笑顔を作って、続けて謝罪する。
「いや、気にしないで。私も悪かったんだ、景色に気を取られていて、君に気づかなかった」
「いえ、わたくしこそ遊ぶのに夢中で」
 謝罪のしあい。しばらくそんなことが続いて、おかしくなったのだろう青年が吹き出した。
「ぷ。あはははは」
「うふふふ……」
 何だかつられてスピカも笑う。ひとしきり笑った後で、青年は目じりの涙をこすって、
「じゃあこれも縁だし、改めまして自己紹介させてもらおうかな。私はレオンだ」
「わたくしはスピカと申しますわ。レオンさんですわね」
 この頃は、スピカはまだ相手の名前に様をつけることはしていなかった。
「レオンでいいよ、私もスピカと呼ばせてもらうから」
「ええ……では、お言葉に甘えまして」
 加えて、今のような遠慮もあまりなかった。言われたら言われたとおり、レオンと呼ぶことに決める。
「ところで、スピカ。君はこの街の住民なんだろう?」
 自己紹介が終わり、レオンはそう聞いてきた。
「ええ。この街の商家の一人娘ですわ」
「そうか。なら、よければなのだが、この街を案内してくれないかい?」
「この街を、ですの?」
 ミラルゴの王都といっても、そう大した街ではない。もとは遊牧民のための市が開かれる場所だから、露店は多い。だが、神殿や賢者の学院は他の王都とそれ と比べると小規模だと聞いているし、観光名所と呼ばれる場所もない。
 しいて言えば、道中の草原そのものがミラルゴの名所なのだろう。
「一人で見て回るより、二人のほうがいいだろう? それに、土地勘がある者がいるに越したことはないからね」
 にこりと微笑み、手を差し出してくる。スピカはしばらく悩んだ末、頬をほのかに染めてその手を取った。
「では、わたくしがご案内いたしますわ」
 にっこりと負けないほどの微笑を浮かべ、自分の知っている限りの場所へと丸一日かけて連れ回したのだ。

 それからも、たまにレオンはふらりと街の広場に現れた。スピカは彼を探しに、暇さえあれば広場へと顔を出していた。それを知ってか知らずか、レオンはス ピカを見つけるやいろんな場所の案内を頼んできた。スピカも、嬉々としてそれを了承し、いろんな場所へとつれていった。
 そうするうちに、仕舞いにはレオンの方から雑貨屋を営むスピカの家に顔を出すようになった。買い物のついでだといっていたが、実際はどうなのだろうか。
 案内は街中に限らず、外へも連れて行った。ミラルゴの見所はやはり雄大な自然だろう。自分たちの遊び場になっている草原。以前の草原に流れていた小川の 本流である大河。
 一度ちょっと遠出をして森まで行ったときに、はぐれ狼に襲われてしまったこともあった。だが、レオンは剣技もなかなかのものだった。護身用に持っていた 鞘をつけたままの剣で、その狼を打ち倒したのだ。しかもぐったりとしたままだが、まだ息がある狼の傍らに持っていた干し肉を添えたのだ。
「腹が空いていたんだろう。そうでもなきゃ、こんな時間に一匹で人を襲わないさ」
 そういって、スピカを連れその場からそっと離れていった。剣術の腕もさることながら、そんな優しさをも持っているらしかった。
 そして、その優しさはすべての人に向けられる。困っている人がいればすぐに手を貸したし、自分の利益にならないことでも躊躇わずに行動を起こす。他人か らよく思われたいとかそういった邪念もなにもない、純粋な優しさ。
 長いようで短い時間しか一緒にいなかったが、そんな彼にまだ十歳であるスピカですら心惹かれていった。そして彼に並ぼうと、今まで以上に背伸びをして、 大人ぶるようになっていった。無理をするな、と笑いながらあっさり見抜かれてしまったが、今が幸せならそれでもよかった。
 だが、終わりというものはあっさりと訪れるものである。
「さて、今日はどこを案内してもらおうかな?」
「そうですわね。今日は……」
 いつものように広場でレオンの姿を見つけ、駆け寄り。いつものように話し始めたところで。
「レオン様! 今日こそは、もう爺は我慢できませんぞ!」
 不意に怒声が耳を劈いた。びくりとなって声のした方を向くと、初めてレオンに会った日に、彼の後ろに従っていた老人が立っていた。
 レオンの言葉も聴かずに、ずんずんとスピカに歩み寄る。
「小娘! いい加減にしないか。このお方をどなたと心得る!」
「やめろ、子供相手に大人気ない!」
 レオンが必死にその老人の肩をつかむが、勢いづいた老人は止めようともしなかった。
「このお方は彼のウィンドグレイス家の嫡男、レオン=F=ウィンドグレイス様なるぞ! 小娘のような下賎なものと話す言葉などないわ!」
 彼のウィンドグレイス家。といわれたところで、スピカには聞いたこともない名前だった。だが、その老人の口ぶりや態度から察するに、ただの人ではないだ ろうことは幼いスピカにも容易に想像がついた。
「もしかして……レオンは貴族かなにかだったんですの?」
 隣に立つレオンを見上げ、問いかける。
「無礼な! レオン様と呼べ! それになにかとは失敬な! オラン有数の先祖代々の貴族をつかまえてこの小娘は……」
 老人がいきり立つ。やはり、貴族だったのだ。そういわれれば、気品のある顔立ちも優雅な物腰も、そして剣術の腕前も俄然納得がいく。次期頭首に相応しい 人物になるため、見聞を広めるために各国を巡っている最中、ミラルゴにも立ち寄ったということを知ったのは、まだ随分先のことだった。
 だが、それよりもスピカにダメージを与えたのは、ほかならぬレオンの一言。
 子供相手に。
 やはり、レオンは自分を子供としか見てくれていなかったようだ。時を重ねるごとに、五歳くらいの年の差など世間ではよくある、などと年不相応のマセた考 えまで持つようになったのだが、所詮そんなものである。相手に気がなければそこまでだ。
「レオンは……子供のわがままにつきあってくださっただけですのね」
「だからレオン様と呼べと……」
「爺は黙っててくれ! そんなことはない。どうしていきなりそんなことを……!」
 レオンもそこで自分の失言に気づいたのだろう。
「いや、違う。あれは言葉のあやで!」
「いいんですの。わたくしも、ちょっと図に乗りすぎてましたから……こんなわたくしでも、ちょっとでも人の…あなたの役に立てると思いすぎてました わ……」
 いつからだろうか。最初は、人の役に立てることが純粋にうれしかった。特に今までがやんちゃのお転婆者で、人に迷惑はかけても役に立ったことなどあまり なかった。それが、いつしかレオンに惹かれ、慕い、恋愛感情にまでなったのは。
 ぐすっとすすり上げる。強がりなスピカは人に弱いところは見せたがらない。レオンにだけは絶対に見せたくはなかった。だが自然と涙があふれてくる。
「それは思い違いだ、君は十分私の役にたっている! いや、役に立つとかそういう問題じゃなく……私は君に仕方なく付き合っていたわけではない、楽しくて 自分が望んで一緒にいただけだ!」
 さすがのレオンも焦って、しどろもどろになっていくが、どうにか伝えたいことだけは伝えられた。だが、背伸びして大人びていても、スピカはまだまだ子供 だ。一度崩れた子供の心はどんなに繕おうとも、そう簡単に治るものでもない。
「レオン様は優しすぎます……優しすぎますから、どこまで本当のことなのかが、逆にわかりませんわ……うっく」
 ぼろぼろと涙をこぼしながら、無理やり笑顔を作る。まるでそれは、妖魔の子供がにやりと笑んでいるような顔だった。
 そのまま踵を返し、一目散にその場から逃げ出す。慌てて追いかけたレオンだったが、老人といつの間にか集まってきた、本来はレオンの護衛と思しき屈強な 男たちに羽交い絞めにされていた。
「レオン様、下賎な小娘など放っておきなさい!」
「うるさい、離せ、命令だぞ!」
「そればかりは聞けません。主様より道中、次期頭首としてふさわしいよう躾けるようにも仰せつかっております。そぐわない命には従う必要もないとも」
そんな言い争う声が聞こえてきたが、耳をふさぐ。レオンの制止の声すらも、聞かないようにただひたすら走る。息が完全に上がるが、走り続けて家の扉を乱暴 に開け、そのまま自室に飛び込む。
 ベッドに突っ伏し、力いっぱい泣いた。その嗚咽が誰にも聞こえないように、枕に顔をうずめて。夕飯時になって、母親が呼びにくるまで、ずっと。泣きはら して真っ赤になった目を見て、何があったかと聞かれたがずっと黙りとおした。
 その後、何度かレオンが店まで来たのだが、スピカは顔を見せることを頑なに拒否し続けた。
 一月のうちに、出会い、惹かれあい、恋に落ちる。使い古された恋物語が、現実にも起こりえるのかもしれないと夢想していた少女の想い。
 だが現実には。それは抱いてはならない想いだった。


 そしてついに、その日がやってきた。
 スピカがレオンから逃げ出したあの日から、すでに一月が経っていた。スピカの誕生日も過ぎ、十二歳になっていた。
「そういえば、レオンさん。もうオランに帰るんですってね」
 朝の食卓で。不意に母親がそんなことを話題にしてきた。母親は、レオンが貴族の御曹司などとはこれっぽっちも思っていない。母と父にとって、レオンはよ く店に来てくれるお得意様なのだ。
「そうかー。残念だなぁ、よくうちを使ってくれてたのに」
 レオンが、帰る。あれからもう一月も会っていないのだが、帰ると聞くと急に胸が締め付けられる。会うことを拒絶していても、心は常にレオンのことは想い 続けていた。だが、レオンはここ一週間は店にも顔を出していない。相手はすでに自分のことを忘れようとしているのかもしれない。
 それなら好都合だ。たとえ自分が想いつづけていても、それが叶うことはない。悲しいことだが、元から叶うはずのない想いだったのだ。大した違いはない。
 それでも。いざ帰るとなったら。もう会えないとなったら。少女の想いは押さえが効かなくなってくる。
お家柄を考えると、会わないほうがお互いのためになるのだろう。貴族と、商家の娘とはいえ一般庶民。豪商ならば可能性はあるのだろうが、普通に暮らしてい くだけに不自由しない程度の稼ぎしかない商家では、相手にされないだろう。
 抱いてはいけないと言い聞かせても、逸る気持ちは止まらない。
 気づいたときには、スピカは家を飛び出していた。
 路地を走る。広場に出る。レオンがいるはずもなく、広場を通り過ぎて、街の門をくぐる。街道に目をやると、見慣れた馬車があった。
「レオン!」
 力いっぱい、その名を呼ぶ。しばらくして、慌しくその幌から青年が顔を突き出した。レオンだ。
「スピカ!」
「レオン様! まだ性懲りもなく!」
 当たり前だが、あの老人も一緒だ。
「わたくし、あなたに言っておきたいことが……!」
「私も、君に謝らなければならないことがたくさんある」
 レオンが馬車から飛び降りる。慌てて、御者が馬車を止める。老人は急停車につんのめって、体勢を立て直そうとして馬車の中でひっくり返って、背中を強か に打ちつけていた。
「レオン様!」
「爺。少しだけ、時間をくれ。私なりにけじめをつけておかねばならないことだってあるんだ!」
 レオンの真摯な眼差し。老人はうっと呻いて、しばらく悩んだかとおもうと、おもむろに砂時計を取り出した。
「……わかりました。そこまでいうのなら、この砂が落ち切るまでのお時間をお与えしましょう。ですが、これが落ちきったらいくら話が途中であろうと、力ず くでもつれて帰りますぞ」
「わかった」
 コトン、と砂時計がひっくり返される。フン、とスピカを一瞥して、老人は馬車の中に引っ込んでいった。
「わたくし、わたくしっ……」
 時間に押されていることもあり、何からしゃべっていいのかわからなくなる。そうしている間にも砂は少しずつ落ちていく。
「落ち着いて。それからこれは、当日渡せなかったが……」
 懐から、小さな箱を取り出して蓋を開ける。中には鮮やかな真紅のリボンが入っていた。
「遅れたが、誕生日おめでとう。女性に贈り物をしたことがなかったので、随分悩んでしまったが……」
 そのリボンを手に取り、スピカの髪を不器用に結い上げる。それがまた嬉しくて、そして切なくて。それでもどうにか、落ち着きを取り戻すことができた。
「素敵な贈り物をありがとうございます。大事に致しますわ」
 軽くリボンに触れ、微笑む。
「わたくしも、わたくしなりにけじめをつけに参りました…」
 そして目を伏せながら、ようやくそう切り出せた。
「わたくしも、あなたと共に過ごせたこの時間がとても楽しかった。あなたはとても素敵な方で、本当に優しいいい方でした。ごめんなさい、あのときはあんな 風に言ってしまって」
 レオンの言葉に嘘などないことくらいは分かっていた。そして、その優しさを理由に逃げ出してしまったことを、あとになって死ぬほど後悔した。
「いや。私も君のことをわかってあげられなかったことを随分と後悔した。他にも、たくさん謝らなければならない」
 深々と頭を下げる。が、スピカがそれを制止する。
「謝らないでください。悪いのは、すべてわたくし。わがままなわたくしなんですから」
「君はわがままなんかじゃない。むしろ、この街にいる間は私のわがままばかり聞いてくれていた! 私のほうがずっと……」
 それを、再びスピカが制止する。
「それはわがままなんかじゃありませんわ。きちんとした理由があるんですもの。立派な貴族になるために。立派な頭首になるために。そして、これがわたくし なりのけじめですわ」
 一旦そこで、言葉を切る。
「どうか、その優しさで皆に慕われるよい領主になってくださいませ……レオン様」
 初めて、レオンをレオン様と呼んだ。レオンは目を見開き、何かいいたげにしていたのだが――
「スピカ、私はお前にレオン様とは……ッ!」
「レオン様。お時間ですぞ」
 言い終る前に、老人によって遮られてしまった。
「待て、もう少しだ! 私にはまだ言いたいことが!」
「約束は守っていただきますぞ」
 パチンと老人が指を鳴らすと、例の屈強な男たちがレオンを羽交い絞めにして馬車へ連れ込もうとする。
「待て、お前たち! 私は、スピカに!」
 形振り構わず、もがくレオン。
「大丈夫ですわ、レオン様」
 それをやんわりと、たしなめるように微笑むスピカ。もう、様付けを止めることはないのだろう。
「あなたの言いたいことはわかっていますから。ですけど、こればかりはわたくしのけじめです。さぁ、オランにお戻りくださいませ。わたくしは、いつでもこ の地よりあなたの成功を祈っていますから」
 微笑を湛えたまま、その瞳から涙がこぼれる。
「……わかった、私は皆に慕われるように努力する!」
「……はい」
 馬車に押し込められながら、レオンも声を張り上げる。
「いつかきっと、オランに来てくれ! 君なら歓迎しよう!」
「……はい」
 最後に老人が乗り込み、車を引く馬に鞭が当てられる。
「私は決して君のことを忘れはしない!」
「……わたくしも、決して忘れません。レオン様」
 無慈悲にも、馬車が走り出す。だが、スピカはもうそれを追いかけようともしない。
 はっきりと想いを伝えることは出来なかった。否、しなかった。レオンの成功を祈ることが、自分に出来る精一杯のことだと決めたから。抱いてはいけない想 いを抱いた故に。
 それでも、その想いは消しきることができなかった。
「レオン様……お慕い申しております」
 相手はきっとそこまでの感情はもっていないのだろう。だが、自分は確かにそう想っていた。
 その想いをかみ締め、いつまでも馬車を見送りながら、小さく呟く。その声は草原を吹きぬける風にかき消され、そしてまた別の声が重なってくる。

《人と人が出会い、交流と成す。出会いはいくつもの幸福を生む。そしていずれ来る別れ。それを不幸と取るか、新たな出会いへの道標と取るかは汝次第……》

 朧げながらに聞こえた声。スピカが神の声を聞く者として歩み始めた第一歩。
 だが、神官となったのはその三年後。そしてまた、そこでも想いを抱き続け。そこでの新たな出会いと別れを乗り越え。
 彼女はまた、オランで新たな出会いに巡り合う。


「おーい。スピカー、おきろ〜」
「……あら?」
 重たい頭を持ち上げると、そこは自室の机だった。どうやら、居眠りをしていたらしい。相棒のレイシアがにやにや笑いながら顔を覗き込んでいる。
「スピカも寝顔だけはアレなのよねー。ほら、よだれよだれ」
 寝ぼけ眼をこすって、慌てて口元もぬぐう。レイシアの前では、必要以上に緊張が解けてしまうから不思議だ。
「それって、去年のウィンドグレイス卿からでしょ?」
 はっとして、机の上に広げられた手紙に気付く。あんな夢を見ていた原因はきっとこれだろう。次期頭首も、今ではすっかり小さな領地ではあるが、その主 だ。それも、スピカが願ったとおり領民に慕われるよき領主になっていた。
 手紙と共に届けられたのは、チャ・ザ大祭のときに行われる舞踏会の招待状。去年も招待状を貰い、レイシアと共に参列した。今年はご丁寧に手紙で送ってき たのだ。
 宛名には、きちんとレイシアの名前も記してある。大切な相棒とまたお二人で来てください、と。
「今年は私も正式に誘われてるみたいだしねー。ドレスも新調しなきゃね。スピカも新調するでしょ?」
 うきうきと、スピカの手を取るレイシア。
「え、ええ。そうね。それよりも、今はお仕事が先ですけれど」
「そーだったねぇ。サファネお兄さんもくるみたいだし」
 お転婆娘だったスピカも、今では冒険者だ。行きつけの商店の護衛が今回の仕事だ。
 何だか、商家の娘という肩書きよりも、もっと相応しくない肩書きになっている。神官という肩書きが通用するにしても、在野の身だ。
「んじゃま、夏祭りの楽しみが増えたことだし、気合いれて仕事すっかぁ!」
「ええ。頑張りましょうね」
 愛用の斧に視線をやり、それからレイシアに微笑みかける。
 そして机に広げられた手紙を片付けながら、また夢を思い出しスピカは心の中で呟いた。
(わたくしが殿方を、未だにレオン様を慕っているなどとは……)
過去の話の片鱗すらも知らないレイシアは、まさか男に無頓着なスピカがそんな感情を抱いているなどとは、きっと夢にも思っていないだろう。
「うふふ……」
 微笑なのか、苦笑なのか。スピカは小さく笑った。
「なに?」
「なんでもありませんわ」
 レイシアが怪訝そうに首をかしげているが、微笑んでごまかした。とにかく今は仕事が最優先。約束は明日の早朝だ。
 スピカは短く切った銀色の髪を頭の横で一房だけ、古ぼけた真紅のリボンで結ってから、念入りに装備の点検をはじめた。




  


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