まだ幼い頃、父や祖父、兄や姉はよくボクに母の話をしてくれた、みんなが集まっているときは、
皆でよく母の思い出を語っていたものだ、だけどボクは母の話をしている時、自分一人だけ…ほんの少しだけと、仲間はずれになっている気分を味わっていた。
この家族の中で、ボクだけ母との思い出がなかったからだ。
母は体が弱く病気がちだったらしい、それでも4人も生んだんだ、たいしたものだと思うけど、ボクで力尽きたのかもしれない、ボクが3つになる前に病気で
亡くなった。
今思えば、家族が良く僕に母の話をするのは、物心の付かないうちに母を亡くしたボクに、少しでも母の事を知って貰いたかったからだったんだろう。
でもボクとしては、最初からいないも同然の母親の話は、ボクだけ母の温もりも優しさも知らないという事実を目の前に突き付けられている感じもした。
母親に憧れたことはある、遅くまで村の皆と遊んでいるとみんなの母親が迎えに来る、あれがすごく羨ましくって、ボクはたった一人になっても何時までも砂
浜にいた。
あの時は空の上の母親の代わりに姉がやってきて、しこたま怒られた、あの時の拳骨は痛かったなぁ。
まぁ結局ボクには、母親との思い出というのが一切ない、思い出のない人の形見は、なんというか、形見としてはとっても希薄で、あってもなくても同じよう
なもので…。
だから冒険者になると決めて家を出た時、一つも母の形見を持ってこなかった。
それどころか、それを何処にやったかさえ覚えていない状態だった。
「おーい、ミトゥはいるぞーって、何それ?」
ノックと同時に入ってきたボクの相棒は、ボクがベッドの上に放り投げているような形で置いてある物を指差して不思議そう
に訪ねた。
ここは流星の集い亭、冒険者も出入りするが、ラーダ神殿の近くにあるせいか神殿の人のほうが良く見かける、ここのマスターも無類の本好きと、頭でっかち
の人が集りやすい、まぁぼくのように考えるより先に行動なタイプは、ちょっと場違いな少しぼろっちぃ酒場兼宿屋。
で、ボク事、ミトゥ=シリンと、今ノックの意味なくはいってきた無作法もの、アルファーンズ=ロゥがいるのは、その建物の2階、つまり宿屋になっている
部屋の一室、ボクが普段から借りている場所だ。
早い話が、ボクの部屋。
「なにって、ほら、チャ・ザ祭にあわせてカミュが着たでしょ?その時に実家からボク宛に預かっていた物だって言って、置
いていったやつ」
カミュというのは、ボクの故郷の村に住んでいる幼なじみ、前にちょっとした事件があってオランにきた時に、カミュはアル
ファとも知り合った。
「祭りって、とっくに終わっているじゃねーか、いまさら見てんの?」
「うん、すっかり忘れていてさ」
アルファへの返事も適当にボクは品物を見ていた、元はきれいな銀色だったんだろう、すっかり錆びたブレスレット、凝った
彫り物がしてある、随分と使い込まれた木の小物入れ。
「なんか、お前とは少し離れている品物ばかりだな、アクセサリーは最近だろ?つけるようになったの、それで小物入れなん
か使わねぇよなぁ」
近くまで寄ってきて、一つ一つ品定めするように見ながら、アルファが無礼千万な事を言ってくる。その言い草だと、まるで
ボクの小さな頃はやんちゃで女の子らしくなんかないと言い切っているようなものだ、でもボクには言い返せなかった、図星だから。
でもやっぱりなんか悔しいので、足の甲を踏みつけておく。短い悲鳴が聞こえたけど、無視。
「これ全部ボクのじゃないよ、厳密にいえば今はボクのなんだけど、昔はボクのじゃなかったの」
「なんだ、ガキの頃に近所のガキから奪ったのか?」
その発言が言い終わるか否かの所で、さっき踏んだ足とは逆の足を踏もうとして、危険を察知されたのか避けられる、くそ。
「誰が人様の物を奪うかっ!全部母親のものだったんだよ、女の子なんだからこういうものの方がいいだろうって、10歳に
なるかならないかの時に、親父に渡されたんだよね」
さっきアルファが推測したとおり、一回も使わなかったけど。
「あ…じゃぁそれ、形見か」
「うん、そうなんだけど…」
アルファがいぶかしげな顔をする、多分今のボクは、とっても複雑そうな顔をしているんだろう。
「大切なものだから、実家においてきたわけじゃないよ」
別にアルファが何か言ってきたわけじゃない、でも勘違いされるのがいやで、ボクは自分から付け加えた。
「あってもなくても同じだから、置いてきたの、それどころか、何処にやったかさえ覚えてなかったし、こんな物があった事
すら、届くまで忘れていたんだよ」
「あってもなくてもって…、しかも忘れてたって、自分の母親の形見だろ?」
「そーなんだけどね、でも覚えてないから、顔も声も、どんな人なのかって、親父や祖父ちゃんや、兄ちゃん達の話を聞いて
『知っている』だけで…アルファっぽく言うんだったら、知識として認識はしているけど、記憶や思い出としての認識がないってやつ?」
多分、と付け加えてボクは口を閉じた、アルファは黙ったままボクの隣に座って、持て余した手を塞ぐように小物入れを弄っ
ていた。静かな時間。
その時、手を滑らしてアルファのやつ、小物入れを落としやがった。
ゴトッ!という少し大きな音に、ボクもアルファも我に返るようにはっとなって、落ちた小物入れに視線を奪われた。
「わっ、悪ぃ、落としちまった」
「あ、あー、別にいいよ、壊したわけじゃないみたいだし」
本当は形見なんだから怒るべき所なのかもしれないけど、わざとじゃないし、別にそこまでこの小物入れに執着があったわけ
じゃないからあっさり許す事にして、拾い上げる。
「あれ?」
落とした表紙で蓋が開いたようだ、開いた蓋からは羊皮紙が顔を出していた。
一緒に拾い上げてみると、それは手紙だった。ご丁寧に蝋で封がしてあり、そこには見た事のない繊細な筆跡で「私の愛するミトゥへ」と書かれていた。
アルファも一緒になって、その手紙を覗き込む。
「…カミュからのラブレターか?」
「形見の小物入れの中に?しかもカミュが?両方の意味でありえないよ」
筆跡は見た事がないけれど、多分家族の誰かだろう、まったくこんなところに入れて、気が付かない可能性は考えなかったのかなぁ。
心の中でボクは悪態を付いて、手紙の封を切り、中の手紙に目を通した。
『私の愛する娘、ミトゥへ
こういう形でしか、大きくなったあなたに言葉を残す事が出来ないのを、とっても悔しく思います。直接声を掛け、共
に同じ時間を過ごし、思い出もたくさん作りたかった―――。』
家族の誰の文字でもない、つうかボクが娘としての立場になる家族など、親父ぐらいだ、でも親父の字はもっと雑というか、
よく言えば達筆過ぎて読みにくいし、大体この内容じゃ、まるで死に逝く人だ…ん?
死に逝く人?
「もしかしてこれって……」
……母さんからの手紙?
ボクの独り言に、アルファが一瞬驚いて、手紙を覗き込んできた。
『あなたは生まれた時、兄弟達の誰よりも小さくて、病気がちで、ちゃんと大きくなってくれるかとても心配です、今こ
の手紙を読んでいるあなたはどうですか?元気ですか?いまだに病気がちではありませんか?』
「元気なら有り余ってるよなー、小さいのは変わりねぇけど」
「アルファ、ちょっとうるさい!」
からかった罰も含めて、裏拳制裁。
顔を抑えてうめいているアルファをよそに、ボクは手紙を読み進めた。
手紙にはボクが幼い頃、よく熱を出していた事や、そのくせして外で遊ぶのが大好きで、よく兄に相手してもらっている姿を寝室の窓から見ていた事とか、ボ
クがお腹の中にいる時に、街までいったさい露店で見かけた銀のブレスレットのアミュレットを、ボクに買ったのはいいものの、小さい内ではそれを口に入れよ
うとするから、もう少し大きくなってから渡そうと思っていた事など、ボクの覚えていない、母の中のボクの思い出が綴られていた。
『ミトゥちゃん、もう少ししたら私はあなたの傍であなたを見てはいられなくなります、幼いうちに貴女を置いていか
なくてはならない事を許してね。
きっと私が与えきる事ができなかったぬくもりや愛情を埋め尽くしてくれるかのように、きっとお父さんもおじいさんもお兄さんもお姉さんも、きっと貴女を
愛してくれます。
そしてもちろん私も、あなたを愛しています。傍でその愛を与えられなくなってしまうけど、あなたを愛する気持ちは生涯変わりません。それだけは信じてく
ださい。
あなたに出会えたことを、嬉しく思います、そして、あなたに母の思い出を置いていけない事を本当に悔しく思います、本当にごめんなさい。
そしてミトゥちゃん、あなたは出来うる限り長生きして、たくさんの出会いと、たくさんの幸せをその身に抱きしめて
ください。
辛い事も苦しい事もあるかもしれません、でもきっとあなたは乗り越えていけると信じています。
私はあなたを見守り、幸せを祈り続けています。
母、リヴェスより』
最後の分を読み終わったとき、ボクは知らず知らずのうちに、涙を浮かべていた。
思い出はボクの記憶に残らなかったかもしれない、でも、この人は本当にボクのことを愛してくれていたのだ。今までの時間を覆しきる事は難しいが、それで
も、ボクの中で母親というものが、少し変わったような気がした。
ボクは改めてブレスレットを見る、露店で買ったというからまがい物なんだろうけど、母の思いがこめられたアミュレットだ。
親父がこの小物入れとブレスレットをボクに渡した本当の理由がわかったような気がした、これは最初から、ボクへと母が用意しておいたものだったんだろ
う。ボクが何時まで経っても気がつかないうえに、どうでもいいと置いていった馬鹿娘だから、親父がとうとうボクの所に送ったのだろう。
でも親父だって悪いよね、この事言わない上に今更なんだから、まぁ多分、ボクが部屋のどっかに片付けてすっかり忘れていたものを、ここ最近になって姉が
掃除して発掘したんだろうけれどさ。
「あってもなくても同じだなんて、もう言うんじゃねーぞー」
さっきまで顔を押さえてうめいていたはずのアルファが、格好つけて言ってきた。
「格好つけているけど、鼻の頭赤くっていまいちだよ」
「うるへー、お前が裏拳食らわしたんじゃねーか」
「あはは、悪かった悪かった、仕方ない、お詫びにご飯おごってやるか、ただし一品だけね」
「飲み物もつけろ」
「ぇー、まったくもう足元見やがって…一杯だけだぞ、あ、そういえアルファ、あんた何の用事だったの?」
「あー?いいや、たいした用じゃねーし」
「ふーん」
アルファはアルファなりに気を使っているのかな?と思うと、なんとなく笑いがこみ上げてきた。
笑いながらボクは、小物入れに改めて手紙を仕舞い込んだ、今度はブレスレットも一緒に。
大丈夫、いろいろ大変だけど、ボクは幸せだよ。
そんな気持ちも、一緒に閉まった。
今度実家に帰った時、親父から母さんの話を聞こう。きっとあの希薄さも昔ほどじゃない、だって誰の口からでもない、直接
の母さんの言葉と気持ちがボクに届いたのだから。
一階に降りる前に、もう一度だけ小物入れをそっと撫でた、覚えていないはずの母のぬくもりを、一瞬感じたような、そんな
気がした。
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