残されたもの
(2004/09/22)
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作者
松川彰
登場キャラクター
クレア、クレフェ
「却下」
クレフェにそう言い渡した時、私はにっこりと笑っていた。クレフェは少なからず気分を害したような、それでいて納得したような、そんな中途半端な感情を 私と同じように笑顔に変換していた。
「……そう」
「ええ。提出するレベルではないわね。あなたもわかっていることでしょうけれど」
そうね、わかっていた、とクレフェは肩の力を抜いた。
彼女と私とは不思議な関係だと思う。まず、私たちの間には口論が多い。特に1人の青年を巡っての諍いが少なからずあったりする。互いに互いの知識や感性 を利用する形で、共同研究をしたりもする。私は賢者の学院に籍を置く人間で、彼女は精霊使いであり、市井の学者でもあるから。もちろん、利用とはいえ、そ れは互いの持つ知識に些かなりと敬意を払っていなければ出来る類のものではないだろう。
利害関係が一致する時もあれば、まるで正反対になることもある。そうした様々なものを統括して、なるべく平易な言葉で私たち2人の関係を説明するなら ば、『友人』ということになるのだろうか。
ただ、その言葉のもつニュアンスだけを考えるならば、少々気恥ずかしくもあり、また時によっては、それを思い切り否定したい気分にもさせられるのだか ら、言葉というものは不思議なものだ。
先日まで私とクレフェが取りかかっていた論文は、現在のところ小休止の段階に入っている。幾つかの細かい論文は2人で分担して仕上げたものの、それをと りまとめ、学院に提出するための本論文を書くには、未だ物証が足りず、また資料も足りない。
私は魔術師という観点から、精霊の存在、また精霊力の発現の一端をマナの力が担っていることを理論として説明したかった。クレフェは精霊使いという観点 から、精霊力の制御及び、精霊の存在が精霊使いに及ぼし得る感覚的な現象を某かで説明したかった。互いに一致していたのは、互いの予想する答えが最終的に 覆されても構わないという思いだ。それはただ真実を知りたいと願う心。
クレフェは、空いた時間を利用して自分で別の論文を書いていたらしい。そのことに関して途中でいくつかの相談も受けた。先年、クレフェが行っていた遺跡 での体験をもとにしたものだという。生命の精霊に関するものであることも聞いていた。
そうして今日、彼女は出来上がった論文を下読みして欲しいと、私の前に羊皮紙を積み上げたのだ。
彼女の銀色の髪が肩先で揺れる。細い肩が柄にもなく緊張していた。
じっくりと時間をかけて論文を読む間、彼女は私の使い魔と戯れていた。……いや、戯れていると見せていただけだ。使い魔の視覚を通して見る彼女の顔は、 決して自信に満ちてはいなかったから。
羊皮紙の束の最後の1枚を読み終え、私はそれを紐で綴りなおした。クレフェが私の所作を見つめる。
どう、と聞かれる前に私は笑顔で返答した。
「わかっていたのよ。自分でもまとめきれていないことは明白だった。それでも貴女に読んでもらおうと思ったのは……ああ、うまく言えないわね、ただ……」
「指針が欲しかった? 違うわね、貴女には指針は必要ないもの」
立ち上がって、私はお茶を淹れようと台所へと向かった。書庫兼書斎兼寝室と、研究室兼居間兼食事室の二間しかない狭い住居は、いくつもの資料や書物で埋 め尽くされている。居間(であり研究室であり食事室)の片隅にある小さな台所にたどり着くまでも、3箇所ほど本の山を崩す羽目になった。
「そうね、欲しいのは指針じゃないわ。……おそらく、私は安心したかったのね。この論文では駄目だと言って欲しかった。私自身がこれでは駄目だと思ってい たのだから。……そう、私の意見を肯定して欲しかったのかもしれない」
お茶の葉を入れた瓶はどれだっただろう。試しに開けてみた瓶は何か得体の知れないものが入っていた。見なかった振りをして蓋を閉める。とりあえずポット を見つけたのは良いが、お茶の葉がどうしても見つからない。
「その論文がまだ提出レベルに達していないことは事実よ。けれど、その論旨自体は否定しない……否定するのなら、もっと最初から否定しているわ。
ねぇ、クレフェ。あたしは貴女がそれを書いている間に、いくつかの相談を受けた。本当に駄目だと思うのなら、その時点で貴女に書くなと告げていたわ。そ れに……貴女、そういったものを書き慣れているわね。無駄のない文章、異論を挟む余地のない展開、力強くそれでいて柔軟な論旨。申し分ないと思う」
「でも、貴女は却下したわ。私もこれじゃ駄目だと思った」
「ええ。その論文には決定的に欠けているものがある。貴女が論文を書き慣れているからこそのミス。……その論文はあまりに客観に過ぎるのよ。貴女自身の体 験が見えてこない」
「ちょっと待って。そもそも論文なのよ? 私の日記ではないのだから……」
「ええ、日記じゃないわね。けれどね、忘れていない? 貴女のしてきた体験そのものが、1つの実証であり結果なのよ。それは大切な資料だわ。知っての通 り、殆どの精霊使いは、自身の体験を文章として残すことはしない。それはおそらくはあまりに偏ったものだからなのでしょう。全ての精霊使いが理論を無視し ているわけはない。あたしはそう思う。理論や論理によって精霊に近づこうとするものは精霊に嫌われるなんていう言葉が罷り通っているようだけれど、決して そうじゃないと思う。体験した事実を文章に表しきれないのよ。……事実、あたしの知る精霊使いは、理論を蔑ろになんかしていない」
そうでしょう?と、見つめた先で、銀色の髪が揺れた。クレフェが肩をすくめたのだ。
「……クレア。お茶の葉なら先週私がここを掃除した時に捨てたわよ。だってカビが生えていたもの」
「…………まぁ、とにかく」
私は、せっかく見つけたポットをまた棚の上に戻した。
「貴女は貴女のしてきた体験を、きちんと資料として扱いなさいな。もちろん感情が先に立ってしまえば、それは論文と言える内容ではなくなるけれど、貴女の 持つ、自分を客観視する力はそこでも十分に発揮されると思う。その論文に、貴女という1人の精霊使いの体験的資料をくわえることが出来たなら、十分に学院 のお歴々に通用するものになると思うわ」
私の言葉を聞きながら、クレフェは床の書物やいくつかの資料を片付け始めた。何度も私の部屋に通い、泊まり込むことさえあった彼女は、今更私の確認をと るまでもなく、部屋を片付ける事が出来る。
「そうね……少し、こだわっていたのかしら」
ふぅ、とクレフェは小さな溜息をついた。そして、笑っていた。
「どんなこだわり?」
「ええ、生命の精霊にはちょっと……なんていうのかな、恨みがあるのよ」
「恨み?」
「うぅん……恨みというのは正確ではないわね。軋轢、しこり……やっぱりこだわり、かしら」
ばさり、と積み上げた本からわずかに埃が舞った。
──
旦那がね、いたのよ。
そう語り始めた彼女の口調は淡々としていて、時には嬉しそうに目を細めすらした。彼女にとってはそれは、哀しい思い出であることは変わりないけれど、そ れ以上に幸せな思い出でもあったのだろう。
「悔しかったわ。いつでも……そう、本当にいつでも私は糸を感じていた。息をするたびに、眠りに落ちるたびに、動くたびに、彼らの力を感じて、その糸を鬱 陶しく感じていた。所詮私たちは、彼らの操り人形でしかないのかと思った。なのに……いつだって、私たちを縛り付けるくせに、いざって時に一番大事な糸を あっさりと離すのよ。……意地悪にもほどがあるじゃない。だから精霊使いとしての力をきわめて、逆に彼らを糸で操ってやろうと思っていた。だからよ。一番 こだわってるのは……生命の精霊なの」
彼女の言う、こだわりの一端がわかったような気がした。そうして、私たちが『友人』でいられるのが何故なのかもわかったような気がした。
私たちは互いに、家族という名の愛する者を喪っている。
「糸の存在はあたしにはわからない。けれど……そうね、某かの力を欲する瞬間というものは……ええ、わかると思うわ」
「そうでなければ、私たちはこんな世界に住んではいないわね」
くすり、とクレフェが笑う。
こんな世界と彼女が評したのは冒険者の世界のことだろう。私は完全な冒険者というわけではないけれど、冒険者の仕事をすることもある。自身の興味が先に 立つか、経済的な事情が先に立つか……もちろん、その両方だったりもするけれど。
近づきたい。頂へと、少しでも近づきたい。自分の持つ力を突きつめたい。そんな人間にとって、冒険者の世界は住み心地が良いのだと思う。
「ねぇ、お茶の葉も見つからないことだし、外へ夕食を食べに行かない? そろそろコルクを抜いてもいい時間だわ」
私の誘いに、クレフェは頷いた。互いに独り身なのは、こういう時に便利で良い。まぁ、独り身とは言え、クレフェには『お友達』は数人いるらしい。おそら くは、恋人とはなり得ない、でも何かを許せる相手。そんな想像がついてしまうのは、私も同じだからだ。
彼女の過去を聞いた今では、それがより納得出来る。彼女が全てを許した相手は、亡き伴侶だけなのだろう。
「そうね、こないだは貴女の希望通り赤にしたのだから、今日は白にしてもらうわよ。そうなると魚料理ね」
「どこでも構わないわ。さてと、支度を……
万物の根源、万能なるマナよ、我が身我が姿を我が望むままに変えよ……
」
「……あらあら。変身の魔法で若く見せないと外にも出られないのかしら、お気の毒ね」
いつもの応酬が始まる。にこやかな厭味。ああ、これだから『友人』というのは不思議なもの。
「羨ましいって素直に言ったらどうなの? 厭味が過ぎると嫌われてよ?」
「いいのよ。私はまだ……あら、クレア? これは……どこに片付けたらいいの?」
彼女が手にしていたそれは、昨夜、私が引き出しの奥から出したものだった。遠い日の思い出に耽ったまま、片付けるのを忘れていたのだ。
「ああ……それは」
「綺麗な細工ね。これは……薔薇?」
窓から差し込む夕陽に、クレフェは手にしていた物をかざした。
それは、綺麗な円形に磨かれた水晶だ。正面から見ると円形だが、側面から見ると紡錘形になっている。大きさはちょうど手のひらで包めるくらい。岩妖精が 細工で作る凸型レンズに似ているが、レンズよりも中央部分の膨らみは大きい。クレフェが指摘したように、円形の中央には薔薇水晶が薔薇の形に象嵌されてい る。
「それは、ハンドクーラーよ。舞踏会に出る時に、手が汗ばんでいては台無しだわ。だから、それを防ぐのに壁際で待つ女の子はそれを握りしめているのよ」
「……舞踏会?」
「ええ。舞踏会」
髪を結い上げながら、私はクレフェに頷いてみせた。
「ああ……そういえば、貴女はそういう世界にいたんだったわね」
今じゃ想像出来ないけど、とクレフェが笑う。
以前に私が
話したこと
を覚えていたらしい。
橙色に染まり始めた陽の光が、水晶のハンドクーラーを通り抜けて床に薔薇の模様を描いた。それは、もう喪ってしまった家族が、私にくれた最後の贈り物 だ。
ダンスの練習を始めたのは13才になってからだった。
社交マナーを教えてくれていた家庭教師がそれも教えてくれた。ぎこちないターン、おぼつかない足取り。それでも、雇い主の令嬢を教師は褒めそやした。も うその頃には、それが世辞であることはわかっていたものの、何度も何度も言われれば、その気になってしまう。所詮はまだ子供だった。
あまり言葉を交わしたことのない……いつもただ畏怖と憧れを持って見つめるしかなかった兄が、教師が父に報告する言葉を聞いて私に穏やかな笑みを向け た。
「では、僕の練習相手になってもらえるかな」
どきり、とした。
俯いた私の顔は、おそらく赤く染まっていただろう。それを隠そうとすればするほど、今度は手のひらが熱くなった。汗が滲む。持っていたハンカチで何度ぬ ぐっても、火照りはおさまらなかった。
兄は半月後には、騎士見習いとして国境付近へと出かけることになっていた。数日後には、その壮行会が行われる。若い騎士や騎士見習いたちは、そこで貴族 の令嬢とダンスを踊るのだ。
では、私がハープを務めましょうと、教師が微笑んだ。
余計なことを、と。そして同時に、なんて気が利くのだろう、と。
兄と踊ってみたかった。兄の手に触れてみたかった。けれど、私は小さな少女でしかなく、兄と釣り合うような身長ではない。それにいくら教師が世辞を言っ たとて、所詮はまだ習い始めてひと月ほどしか経っていない。
ああ、でも差し出された兄の手は。
わずかな憂いを含むその微笑は、いつものように遠くから見るのではなく、今は間近から私に向けられている。
いつも、笑顔は遠かった。何かを諦めたような、物悲しげな瞳をしていた。いつも、それを慰めたかった。もしもその憂いの1つに、私が父に愛されていない ことが含まれているのだとしたら、そんなことはないと慰めたかった。私はそれでも不幸ではないのだと教えてあげたかった。
そして、出来るならば、貴方はどんな人生を望んでいたのかと、尋ねたかった。
それらの全てを呑み込んだまま、吐き出すことすらしない兄の笑顔は、それでも私を惹きつける。
今、差し出されているこの手を取れば。
憧れていた兄と上手に踊れたら。
私はひとつ大人になれるだろうか。せめて、彼の憂いを慰めてあげることが出来る程度には。
教師がハープを弾き始めた。ゆったりとした三拍子のリズムが流れ始める。
……大丈夫。教師は褒めてくれたではないか。
意を決した私は、差し出された兄の手を握ろうと、ゆっくりと手を伸ばしかけて……途端に、汗に濡れた手のひらが恥ずかしくなった。兄が壮行会で踊る相手 は、こんなにはしたなく手を火照らせてはいないだろう。
私の戸惑いを見透かすように、兄は自分から私の手をとってくれた。
「うまく踊れたの?」
白ワインの入ったゴブレットを口に運びながらクレフェが尋ねる。私は肩をすくめて笑った。
「そんなわけないでしょう。たかだかひと月しか習っていない、それも子供よ?」
「でしょうね」
「ええ。教師はさすがにプロだったわけよ。足を踏まれそうになると避ける。それはもう見事にね。けれど兄はプロじゃない。年齢の割には上手だったとは思う けれど、あの頃は兄も若かったのよ。足を踏んだのは、全部で11回。ターンをしそこねて体当たりしたのは2回」
海老のグリルをフォークに突き刺す。ハーブが効いていて美味しい。
「よく覚えているわねぇ……」
「そりゃあ覚えているわよ。最初で最後の、彼とのダンスだもの」
あの半月後、兄は戦場へ行き、そして帰らなかった。その後まもなく、私も家を出た。
結局、私は兄に聞けなかった。貴方が望んだのはどんな人生なのかと。憂いを吐き出させることも出来ず、慰めることもかなわなかった。
私が16才の誕生日を迎えたのは、学院の寄宿舎の一角だ。魔術の師から──いや、それは実は母からでもあったのだが、それは後で知った話だ──毎年、誕 生日にはプレゼントを貰っていた。そして、そのプレゼント以外には、私に贈り物を届ける人間などいなかった。何人かの友人はいたが、友人たちも私同様、勉 学にかける金銭だけで精一杯だったのだ。
だが、16才の誕生日に、とある有名な細工工房からの使いが、私の部屋を訪れた。この日にこれを届けろと言いつかっていたものがあると。
「それが、あのハンドクーラー?」
「ええ。戦地に行く前の兄が、工房に注文していたらしいのね。妹が16才になったら届けてくれって。自分の生死に関わらず、って。……硝子で作ればね、 もっと簡単だったらしいのよ。ただ、兄が水晶でなければ駄目だと注文をつけたらしいわ。『妹は水晶のように透明な名前を持っているのだから』って……馬鹿 みたいよね」
くすくすと笑った私に、クレフェも同意するように笑った。
「男はみんな馬鹿なのよ。馬鹿な、夢見たがり」
「兄は、16才になったあたしは社交界にデビューするのだと思っていたみたいね。……確かに、兄が生きていればあたしもそうしたかもしれないけれど」
帆立のムースは、少しだけ味付けが濃いように思う。辛口の白を開けたのに、これならロゼのほうが良かったかもしれない。
「……ねぇ」
ムースを睨み付けながら呟いた私に、クレフェが顔を上げた。
「なぁに。そのムースなら、私はちょうど良いと思うわよ」
「少し塩が効き過ぎてるわ」
「貴女は、自分では料理出来ないくせに、どうしてそう注文だけは多いのよ」
「ああ、まぁ、それはともかく。……ねぇ、クレフェ」
「何よ」
「思うんだけれど……貴女の旦那。彼は、貴女に救われていたのね」
「……どうしたの、いきなり」
口元に運ぶ途中だったゴブレットの動きを止めて、クレフェが少し驚いたような瞳を見せる。
「もちろん、あたしは貴女の旦那のことを知らないけれど。でもなんだかそう思うの。そうじゃなきゃ……あんな言葉残せないわ」
「……逆だわ、私が彼に救われてたのよ。いろんな意味でね」
クレフェがワインを飲み下す。
「貴女は彼に応えてた。そして今も応え続けているでしょう。それが……ううん、救われるとか救われないって話じゃないわね。多分、彼にとって貴女は全ての よりどころになってたんだわ。……ねぇ、いろんな想いが透けて見えるのよ。話を聞いただけのあたしにだってね」
そう、透けて見える。
──愛してる。だから後を追うな。死ぬな。
──愛してる。だから俺を忘れないでくれ。
それが悔しいのかもしれない。そして、羨ましいのかもしれない。私が憧れていた……いいえ、愛していた相手は。
「……クレア。貴女……聡明な女性だと思っていたんだけれど、意外と馬鹿なのね」
「…………喧嘩売ってるのかしら?」
待って、違うのよ、と言いながらクレフェはワインを注いだ。自分の杯にだけ。仕方がないので、ボトルを受け取って私も自分の杯に注いだ。
「あのハンドクーラー。貴女の名前を思って、お兄さんはわざわざ注文してくれたんでしょう? もう……一体あれは幾らぐらいするものなのよ。ああ、ええ、 値段のことはいいわ。けれどね、お兄さんが貴女の存在で何一つ救われなかったとでも思ってるの?」
「その通りじゃない。あまりに子供だったわ」
「子供だからこそよ。……多分、お兄さんにとって、貴女は薔薇だったのよ。透明な薔薇。そうでなければ、あんな凝った細工を注文するものですか。……馬鹿 みたい。私にも透けて見えるわよ。妹が16才になれば、どんなに鮮やかに咲き誇るだろうか、なんて想像しながら注文してたんだわ」
……そうなのか。
そうであれば嬉しいけれど……。
今でも時々、そのハンドクーラーを引き出しの奥から出して見つめてしまうのは……迷っているからかもしれない。兄は、父から自由であるというその一点で 私を羨んだ。だからこそ私はあの家を出た。自由になりたかった彼が、全てを持っていた彼が、私を羨んだから。だからせめて、私は兄が羨んだ通りに生きよう と思った。彼が願ったのは、私が彼の代わりになることではなかっただろうから。
けれど、ハンドクーラーを見ると、揺らぐ。彼が私に望んだのは別の道だったのかもしれないと思う。もっと違う……女性として穏やかで幸福な一生を願った のかもしれない。
そう言うと、クレフェは笑った。
「多分ね、何も望まなかったと思うわよ。貴女は、自由だったのでしょう? そして、お兄さんは、貴女が自由であるだけで救われていたと思う。それにね、今 更、やり直せるわけでもないわ。そのハンドクーラーに笑ってやればいいのよ。おあいにく様ってね」
──そうであればいい。何も聞けなかったけれど、私がいることで、某かの慰めになっていたのなら……どうせもう答えは聞けない。それなら、そう信じても 許されるかもしれない。
クレフェの言葉を信じてもいいような気になった。肩の力が抜けていくのがわかる。
私の欲しい言葉をくれるのは、そしてそれを信じさせてくれるのは、精霊使いの力なのだろうか。感情の精霊の力を多少わかってはいても、それは人の感情を 全て捉えられるということではないらしい。少なくとも書物にはそう書いているし、クレフェもそれを肯定している。けれど彼女は、まるで私の心を読んだよう に、私の欲しい言葉をくれた。
「……じゃあ、貴女は馬頭琴に笑うのかしら。自分は十分、楽しんでいるって」
「そうね。……本当は」
そう言って、わずかにクレフェが微笑んだ。哀しげに。
「その先は言わないのが、いい女ってものよ」
彼女の気持ちはわかる。同じ気持ちなのだからわかって当然だ。
「ねぇ……男って、どうしてこう甘えたがりなのかしらね」
困ったような、でも嬉しいようなくすぐったいような、それでいて哀しげな。全てがないまぜになった表情でクレフェが笑う。そしておそらくは私も同じ色合 いで微笑み返す。
「夢見たがりで、甘えたがり。でも……夢を見てくれるのも、甘えてくれるのも、嬉しいんだから仕方がないわね」
馬鹿みたい、と言ったのは2人同時だった。
本当は。
──本当は、生きてさえいてくれるなら、何も要らなかった。
私たちは、残されたハンドクーラーに、そして馬頭琴に、結局はそう告げるのだろう。そして同時に、それでも笑って『おあいにく様』と告げることも出来 る。それがたとえ強がりであろうとも、強がりを言えることもまた強さのひとつであるのだから。
私たちは、貴方たちが望んだ通りに。
自由に、生きてあげる。
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