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混ざりゆく川の記憶
リヴァース [ 2003/01/01 18:53:51 ]
 
綴じられた羊皮紙も、徒然なるままに、最後の一枚を追え、次を紐解く。
羊皮紙も決して安くはない。記録をつけ始めたのはいつからだったか。

一つは、覚えた字を忘れないようにするため。

字や言葉を覚える前は、いつも苦労する。新しい土地に行くと、頭の中に言葉は溢れるのに表現をする手段を持たない、子供のように無力化されることが悔しかった。
小さい頃は労せず頭に入ったものだが、長ずるにしたがい、なかなか覚えられなくなった。
東方語を覚えたときは、染料で左手の掌、甲、腕と所かまわず語句を書いていたので、左刺青などと呼ばれた事もあった。

もう一つは…めぐり行く季節と、行き交う人を、数えるため。

人も、物も、想いも、過ぎ行くものだけれど、記憶だけは過ぎ去る事がない。薄れても、不意に濃く、取り戻すことができる。記録は、記憶を、鮮やかにする。

言葉は、書くという作業により、広がりと奥行きを持ち、会わぬ者と会うことを可能にする、ということを教えてくれた詩人がいた。
以来、その土地では、その土地の言葉で、記録をつけることにしている。

といっても、旅中のこと。眠かったり、灯りが勿体なかったりで、おざなりになりがちである。記録というのは、忍耐を要する相当な作業だ。

それでも、すでに数冊を数え、荷物になるのであちこちに残してきたが、どこにいつの分を置いてきたか、もうあやふやだ。
虫食いだらけになって、とても見れたものではなくなっているかもしれない。

記憶を拾いに行くというのを、次の旅の目的に据えてみるのも、また、くだらなくて良いかもしれない…。

新たな冊子を紐解くときは、柄にもなく、緊張する。
このひと綴じは、何を混ぜ込むことができるだろうか。
 
境界の夜
リヴァース [ 2003/01/01 19:05:03 ]
 
ザインとエレミアの、国の境。ここから先の西側は、国も、言葉も、変わる。

国境。
人も、品も、風も、草木も、砂も、水も、ぐるぐると、混ざっている。道を辿り街に近づくにつれ、色づき、純化され、鮮やかに、その国の特色に染められていくが、ここは雑然としている。

その、渦を巻いていたものが、不意に息を潜める、時。…過ぎ越しの夜。

普段は、交易商人や役人達があわただしく縦横するここも、この日ばかりは閑散としている。国境管理の役人が暇をとるため、門が閉じられるということは、周辺の村々で聞いていた。

なのにわざわざこの日を選んでやってきたのは…

国の境目。
東方語と西方語の境目。
年の境目。

この符号の一致に、なんとなく惹かれたから。

…いろんな境目が重なるのだから、そこに人間とエルフの境目も、いてもいいんじゃないか。
ラス当たりが「そんなおセンチさとは無縁だ」と鼻で笑ってくれるような、感傷だ。

身を寄せた酒場の主は、妻子と死別し、晩年を独りで過ごしている、ネド親父。生まれ育った国境の町を離れることなく、狭い酒場を開きながら、ここで家族の待つ至福の島に召される日を待つ、老人。

慌しく行き来する者を傍らで眺めることを慰めとする中で、不意に、人の途切れた夜。
老人の目は、隙間風に、去った家族の顔を見ていた。

過ぎ越し。ひとつの巨人が孤独のままに死んだ夜。新年は、世界が生まれた日であるといわれている。この夜に、巨人を悼み、唄を謡い、律を奏でるのは、吟遊詩人の大切な役目である。

珍しく念を入れて調律した三弦琴に声を乗せた。巨人の寂寥を皆が感じ、家族、友人、恋人が共に過ごす夜であるけれど、結局、孤独な者こそが巨人の孤独を慰める、そういう主旨。

10の恋人達、100の家族の前で歌うよりも、ひとりのネド親父に聞いてもらった事が、巨人をいたわるこの夜にふさわしいと思った。

去年はオランで過ごしたせいか、ずいぶんと賑やかであったと思う。懐旧する表情のネド親父と、風の中に懐かしい者を見、憧憬する影を重ねることをおしえてくれたアイリーンが重なった。
時間までが、混ざる。

肉体があると不便だけれど、だからこそ触れ合えると彼女は言った。年若いのに、はっとする大切な言葉を持つ、不思議な少女だ。

あの時アイリーンに、混ざる者でいるだけではなく、いつか混ぜる者になる、と言挙げたが、ちっとも、達することはできてない。

触れ合う事を知らないと孤独も知らない。孤独を知らないと、混ざることもできない。
多分、孤独を感じられるだけ、孤独ではないのだ。
老人は、満たされているようにも思えた。

先の路を思う。
ザインはなおも不安定だ。内乱になれば、国境は閉ざされ、行き交う者はなくなり、このような酒場は行き場を失う。この老人が家族の元に召されるまではせめて、ここがこのままであれば良いと、思った。
 
目に見える風、手に入る風
リヴァース [ 2003/04/26 2:08:56 ]
 目の前の山脈からヤスガルンおろしが吹きつけてくる。
タラントとファンの国境あたりだろうか。西部諸国と中原の境目でもある。
狭い道をよじ登るたび、山肌を削るように走り降りてくる風に、からだが剥がされ、ふわふわと浮きそうになる。

ヤスガルンの岩肌は、神が戦のときに、竜の炎をも防ぐ盾とするために創ったのだ。そう、地元の部族が誇らしげに語っていた。だから今なお風は、この雄雄しいほどに急峻な山に立ちはだかるものは全て、なぎ倒さんとしている。
……神も、余計な事をしてくれたものだと思う。

この風があまりに凄いので、風の妖精が、風の精霊界と間違ってやってきたことがあるという。そのまま、元の妖精界への戻り道を探すために、谷筋をさまよっており、穀物を隠したり、子供の髪を切ったりと、悪戯をしているという。本当なら会ってみたい。

息を切らしながら急登を越えると、やがて山間に、猫のひたいほどの小さな村に辿りついた。
はずれで、子供らが、色鮮やかな風車を手にし、駆けまわっていた。
風車の動きはくるくると優美で、心踊るものだった。

よく見せてもらうと、風車の羽根の形も様々であった。波の形をしているもの、帆を重ねたようなもの、筒に無数の切れ目を入れたものなど、よく考えたものだと思った。
風を受ける羽根が小さいほど小気味よく回転し、羽根が広いほど、ゆっくりと回る。

子供たちに風車の作り方を教え、新しい形のものを試している男がいるというので、会ってみた。
笹の葉でさっくりと切ったような、すずしく深い目をした男で、デイという名だった。まだ若いだろうに頭は禿げあがって風を切っていた。

村の裏手は切りたった崖であり、井戸はなく、山が裂けたような絶壁を降りて、川の水を汲みにいかねばならない。滑落して死人がでることもある。
デイは、風車の回転する力で、谷底の川の水をくみ上げることはできないかと考えていた。

羽根を大きくすればするほど、回転は遅くなるが、受ける風の力は大きくなる。桶と綱をつけた軸に羽根をつければ、崖の上にいながらにして水をくみ上げる力になる。水を得るのに危険を侵さずにすむようになる。
けれど、風の向きや強さは一定ではない。適した羽根のつけ方や形、大きさが分からず、試行錯誤しているそうだ。

風の動きがもっと読めれば。
デイは言う。

風はみえない。
けれど、新緑の若木に吹けば、緑の風に。
蒲公英に吹けば、綿の乗り物に。
夕餉の煙に吹けば、天に行く道に。
そして、人の手に捉えられれば、物を動かす力になる。

見えない風の、見える姿に、不意に魅せられた。
デイの身体は、どちらかと言えばドワーフのように、ずんぐりとして重量感があった。
なのに、彼自身が、人間にまぎれてしまった風の妖精なんじゃないかと思えた。

風にやられてばかりも癪であったので、この風を利用してやる、というのは、魅力的な考えだった。気がついたら、何かできることはないかと申し出ていた。
風を捉え、力を得るために、風を読み解く。
それも精霊遣いの、一つの粋狂としては、ありだろう。

風のまにまに、しばし吹き溜まろかうと、気紛れが吹いた。