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日々を記す#2
カレン [ 2006/10/24 0:24:32 ]
 *「日々を記す」#{184}の続きです。
 
冬を前に
カレン [ 2006/10/24 0:26:05 ]
 「学術調査? なんでいきなりそんな話になってんの?」

知り合いの魔術師から「化石の森」の説明を受けた後、彼の口から意外なことを聞いた。
もともとは、仲間を募って潜ろうと下調べをしていた場所だ。
しかし、文献調査を自分でするには割く時間がないので彼に頼んだのだ。
すると、彼が調べていく間に、過去の記録に行き当たったらしく、その記録によれば、過去に一度「化石の森」に調査の手が入ったとあったのだそうだ。
三角塔の魔術師、学生数人。そして、それを護衛する冒険者。
貴重な古代王国の遺産(彼らはそう考えていた)を調査できることに、期待は膨らみ意気揚々と「化石の森」に向かった彼ら。
しかし、彼らは帰ってくることはなかった。
調査に向かった調査団を捜索するために、魔術師ギルドは人を派遣したが、結果は調査団と同じに終わった。
三度、冒険者を捜索に出したのだが、やはり帰ってこなかった。
尊い犠牲を出しながら、結果を残せなかった魔術師ギルドは、この「化石の森」の調査を打ち切り、封印した。
これ以上の行方不明者を増やさないために。

「表向きそういうことになってるけど、ギルドの生徒の中には貴族や有力者の子息令嬢もいるからな。問題になっちゃ困るって理由もあったんだろう」
「それで? それがなんで、今になって調査を? いや、それ以前に、俺は文献調査を依頼しただけなんだけどな」
「だからさ、自分から行くって言う冒険者がいるなら、止める必要ないだろう。そこに何人か僕たちが入ればいいんだから」
「…………魔術師ギルドはスポンサーにならない? 行くなら行け。自分達はそれについて行くだけって? きったねー……」
「そうじゃないよ。結果次第で、報酬が増減するけど、現地で手に入れた情報や宝物を高値で買い取ろうって言ってる」
「金さえ払えばいいってもんじゃないよ。じゃぁさ、ギルドから来る生徒は護衛しなくてもいいってことかよ。…いいんだよな?
塔の中で研究三昧の青瓢箪が、過去に調査団が消息を絶った場所に赴いて、経験もないのに野外で調査しつつ自分の身を自分で守るってことでOK?」
「………カレン……」
「捨て犬みたいな目をするな。そのへんの契約をはっきりできないんなら、文献調査の代価を払って、仲間を募ってとっとと出発する。
どうしても一緒に来るというなら、何かあったときに最優先する事項を提示しろ。オマエ達の命か、宝物か。今の時点では、情報と宝物さえ持ち帰れば、俺たちは報酬をもらえるってことだぜ」
「……………僕たちの命だ。犠牲者を出さないことを優先する」
「危険手当を上乗せしろ」


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


家に帰り、資料をざっと読む。
場所は、レックスの西か……。内部でも外縁でもない。街道の更に西。エストンの山裾……。
そう遠いところでもない。
近隣には村が点在して。
そんなところで、調査団丸ごと消息を絶った。たぶん、全滅……だったと考えるのが自然か。
ふむ……。
この結果だけを伝えると、ユーニスは「遠慮します」とか言うだろうか。
それに、魔術師ギルドの意向もな……。
こりゃ、ラスも含めて、仲間集めはてこずるかもしれない。
冬篭り前にと考えていたけど、無難に春まで延ばそうかな。

「カレンー。それなに?」
「あ、それ。もしかして、前から調べてたアレか?」

そう言うなり、ラスは資料を引っ手繰って、ソファにもたれた。興味ありげに、ファントーも横から覗き込んでいる。

「…………………かなりヤバそう?」

ぼそっと感想を漏らす。

「いや、他にもヤバいことがあるんだけどな。………実は、三角塔のヤツが………」

気が重かったが、事の顛末は話さなきゃいけない。
明日は同じことを、ユーニスにも伝えるのか……。
 
いってらっしゃい
カレン [ 2006/10/26 22:59:47 ]
 ユーニスのいる宿に出かけようと部屋を出たときに、彼女からの手紙を受け取った。
手渡してくれたファントーのもう一方の手には、同じ封筒があった。
同じ家にいるのに、それぞれに手紙か……。

内容は、遠出をするので遺跡の話は遠慮するというもの。
ふむ…。
理由は…アレかな。
精霊使いとしての自分とファントーを比べて、やきもちなんか焼いてたから。
ちょっとした慰めなんかでは、拭いきれないんだろう。
頭では理解していても、気持ちは抑えられない、といったところか。
わかるわかる。そういうのは。
顔をあわせるのも複雑だし、彼女のことだから、自己嫌悪の念が強いんだ。
しばらくは、自分だけを見つめてくるといい。
悪いことじゃない。

ちょうどいいや。
遺跡の話も、これから揉めるはずだし。年内はもう無理かもしれない。
そのことは、帰ってきてから伝えてもいいだろう。


さて、と。
俺は俺でやることがある。
しばらく、神殿勤めを休もう。
 
森の言い伝え
カレン [ 2006/11/20 22:18:41 ]
 11の月の初頭、俺はオランを発ち、エストン方面に向かった。
蛇の街道を行き、レックスの手前で西に方向を変える。
整備された街道からはずれ、むき出しの土の道を行く。
その辺りには、村が点在している。目的地は、その村々だ。
魔術師ギルドの調査団一行と、その後派遣された冒険者達は、おそらくこの村を通っただろう。
「化石の森」に行くには、この近辺を拠点にするしかないのだから。


冒険者のうちのふたり、ジェイとリアスについては、ラスからの報告と、それをもとにしての聞き込みである程度わかった。
度胸はあるが、引き際を誤るジェイ。
猪突猛進で、視野が狭くなりがちなリアス。
ふたりとも、後方からの的確な指示がなければ、敵に側面を突かれようと引くことをしない男だったらしい。

「そういうのを片っ端から足止めしなきゃならなかったから大変だったよ。魔法は無尽蔵じゃないって、何度も言い聞かせたものさ。判断ミスで死んでしまっても不思議じゃない。
それでも、まぁ、オーガを倒せるくらいの力量、というか勢いはあったけどね」
「ひとりで?」
「まさか」

苦笑いを浮かべて、女精霊使いは肩をすくめた。


帰ってこなかった冒険者の腕前は、ある程度わかった。
彼らは三度目に送り込まれた冒険者だったはずだから、これ以上強い者はいないだろう。
目安は得られたので、ひとまずよしとしたかった。
が、それとは別に、現地に近い場所での聞き込みをしておく必要も感じた。
冒険者についてではなく、件の「化石の森」に関して。


宿場からいちばん近い村では収穫なし。
日を改めて、次の村へ。隣村から嫁いできたという女性に、昔から立ち入ってはいけないと言われている森があると教えられた。詳しいことは何も知らず、その言いつけをただ守っていたという。
次の日は、馬を借りて、またその隣の村へ向かった。もう、エストンが目前に迫るくらいの位置だ。
その村では、調査団と捜索隊の話を聞けた。村の長が止めるのも聞き入れず、森に入ったという。
村長は、俺が冒険者だと名乗ると眉をひそめ、「またか…」と呟いた。

「森に入ってはならん。あそこは恐ろしい場所じゃよ。森を守る魔法使いが、立ち入る者に罰を与えるからのぅ」
「魔法使い? そいつに殺されるのかい?」
「殺されるかどうかは知らん。わしが子供の頃も、わしの爺さんが小さい頃も、その魔法使いが恐ろしくて、誰も入っていかんかったからのぅ」
「じゃぁ、詳しいことは何も知らない、と?」
「わしが知っておるのは、あの森には魔法使いが住んでおって、森を守っておるということじゃな。その魔法使いはな、本当は心の優しいもんじゃったが、その昔、勝手に入り込んで悪さをした別の魔法使いに腹を立てて、仕返しをしたそうな。それ以来、あの森の魔法使いは、誰も森に入ることを許してはくれんのじゃ」
「それは……お伽噺では?」
「森に入っていった者達も、そう言って笑うておったな。じゃが、誰も帰ってこんかったのではないかな?」
「そうですね。誰も…」
「そうじゃろ? ………おお、そうさな。正確にはひとり帰ってきたんじゃったな」
「…え?」
「ひどく弱って、村の近くで倒れておったのを助けたんじゃが…………狂っとった。何かに取り付かれたように怯えてな……死におったよ」
「どんなヤツでした? 特徴は?」
「赤毛の男じゃ。よう覚えとる。わしの話を聞いて大声で笑うておったからな。ガタイのいい戦士じゃったよ」

赤毛というとジェイ、かな。他の赤毛かもしれないけど。
遺品はなかった。
助けた時点で、衣類以外の所持品はなく、森に触れたものの遺体を残すことを恐れた村人達が、全てを焼いてしまっていた。
しかし、はっきりしたことがある。
森から出られないわけではないのだ。狂い死にはしたけれど、ちゃんと出てきている。
それで全滅というからには、やはり危険な生物か魔獣か…もしくは遺跡か何かがあるということか…。
本当に魔法使いがいるのだとしたら、人間ではないだろうな。

「悪いことは言わん。関わるのはやめなされ」

村長の忠告に礼を述べ、俺は村を後にした。


冬の気配が痛いほど感じられるようになった頃、俺はオランへの帰路に着いた。
本当なら、しばらくあの村に留まって周囲の森を調べればよかったのだが、どうも野外は苦手……いや、俺の体質が限界に達しそうだった。既に山頂に雪を冠しているエストンから吹き降ろす風が厳しすぎた。
宿場で厚手の服と外套を調達し、オランへと足を進める。
その間、ずっと考えていた。
この家業に危険は付き物。今までも死にそうな目には何度も遭っている。今回のこの「仕事」は、今までの経験の範囲内なのか、それともはるかに危険なものなのか。どっちだろう。

「危険を回避する感覚が鈍いんじゃないのか?」

そんなラスの言葉を思い出した。
もし、それが当たっているなら……引き返そうとしない俺は、あの森で命を落とすんじゃないだろうか。
仲間を道連れにして……。


………おいおい、おかしなことを考えるな、俺。余計に寒くなったじゃないか。
 
暖炉と猫
カレン [ 2006/11/23 23:29:02 ]
 家に帰ってきてから、暖炉の前は俺の指定席になった。
床に羊皮紙を散らばせて、毛布を引っ被って、クロシェを抱きながら陣取る俺に、ラスは呆れ顔を向ける。
そこまで寒いなら、無理して行かなけりゃ良かったのにと言いながら、熱い茶の入ったマグを差し出してくれた。
それはダメなんだな。これからどんどん寒くなるんだから。

「で、さ。その、魔法使いだっけ? 具体的になんなんだよ」
「村長に訊いても、あまりピンとこなかったな。言い伝え…伝承としては、かなり古いみたいで」
「ふーん」(じー)
「こういうのに詳しいのは、吟遊詩人なんだろうな」
「まぁ、そうかな」(じーー)
「でも、極狭い範囲の伝承ってのも、彼らは知ってるもんなのかな。……知り合いがいないこともないし、ちょっと訊いて………ってなんだよ、じろじろと」
「無精髭、似合わねーな、お前」
「…………」

暖炉の前は、暖かくて気持ちがいい。
クロシェもふわふわで心地いい。
人を自堕落にするくらいに。
だけど、仕方ない。
久々に神殿にも行かなけりゃいけないし、剃っておこう。


あー、くそ。水場は寒いぜ。
 
お見舞い
カレン [ 2006/12/13 23:13:52 ]
 「おや、今日はどういった用向きで?」

マーファ神殿の施療院の玄関前で会ったのは、院長のヘルムート氏だった。

「チャザ神殿のほうから、何か……」
「いえ。真っ直ぐこっちに来たものですから、着替えていないだけです」

巨漢の院長は、神官衣姿のままの俺を見て、使者か何かかと思ったらしい。
ラスが運び込まれた直後に来たときは普段着だったので、今の姿が予想外、というような顔をした。

「ラスの傷の経過を聞きに来たんですが…どうですか?」
「傷口の辺りが腫れています。が、元気はあるようですな」

柔和な顔をくしゃりとつぶして笑う。
この表情は……今までに何度か見たことがある。いろんな人物がこんな表情でラスのことを話した。
いわゆるこれは苦笑いというヤツだ。

「あまり大人しい患者ではないんですね…」
「なに、施療院の寝台の上など、退屈なものです。とくにあのような若者では」

…あまり変わらない。もしかしたら、年上かもしれない、なんていうツッコミはしないでおく。

「アイツの治療は長くかかるかもしれません。あまり言う事を聞かないようでしたら…」
「いやいや、一度請け負った患者ですからな。責任を持って治療に当たらせてもらいますよ」
「そうですか。よろしくお願いします」

顔を見ていってください、とヘルムート院長は楽しげに言い残して本殿のほうへ去っていった。
ここが、過去にラスを看た医師とは違う。
手に負えなくて仕方がないというカンジじゃない。
アイツはきっと、どこに行っても普段どおりに、同じように振る舞い行動するだろうが、それをひっくるめて楽しんでいるというか……。
たぶん、減らず口も横柄な態度も、ヘルムート院長にはかなわない。そんな雰囲気を感じる。
うん…彼に任せておけば安心かな。
ここにはセシーリカもいることだし、いつもみたいに気を揉む必要もなさそうだ。
さ、見舞ってこよう。



寝台の上のラスは…………予想通り、仏頂面だった。
 
思考と感情(「辻斬りの正体」後日談)
カレン [ 2007/09/19 0:17:06 ]
 室内は静かだった。
細い雨が降り続いていて、雨だれの音が聞こえるだけだった。
見舞いに来ても相棒は眠ったままで、することもない。窓際に寄りかかって、外を眺めるだけの時間が過ぎていった。

考えていた。

彼は満足だっただろうか。
誰も彼もがわたしを責めないと叫んでいた彼の心は癒されたのだろうか。
責めることはできなかった。
傷ついた者をそれ以上責めてなんになるんだ。
そう思った。
だから気の済むようにさせようと……。

けれど、結局は、あの時の彼の本心を飲み込ませただけだったかもしれない。
どんな理由があろうと人を殺していいわけがない。どうしてわからない。
そう言っていれば、きっと何かが返ってきた…ような気がする。

ほんの短い時間だった。
理解するにも、心を変えさせるにも、あまりにも短くて、掴みきれなくて…。


『お前はあの者達を許せていないのだな』

うん。許せてないよ。

『彼の者が癒しの力を使ったのも、お前にとっては想像の範囲を超えていたな』

そうだね。意外だった。

『考えてみよ。罪深き己を罰せよと言う意味を。罪深き者を許すことの意味を。彼の者は罪人を癒すことで、自身をも癒し救われたのだ』

……うん。

『理解していながら、心が添わぬとは…不器用者よな…』

…………だれだ?

「カレン」

振り向くと、横たわったままのラスが、ひらひらと手を振っていた。

夢か…。
…びっくりした…。すっげーびっくりした。
そんなことあるわけないじゃないか。…なぁ?

「なにブツブツ言ってんだ。目が覚めちまったよ」
「…寝てたみたいだ」
「寝言? 独り言の次は寝言かよ。……変だぞ、お前」
「そうな…」

沈黙。

「見舞いに来たんじゃないのか?」
「…そうだけど?」
「じゃ、なんか喋れよ。具合はどう、とかさ。あんだろ?」
「……許すって、難しいよな」
「……………………………会話の脈絡とか段取りとか前置きとか、そういうのねぇの?」
「俺さ…アダルバートはドリーを殺すと思ってたんだよな。話を聞く限りでは許すはずないって。
ところがさ、落雷で重傷をおったヤツを、アイツは癒したんだ。放っておけば死んじまっただろうに。それが予想外でさ、信じられなかったよ。
アダルバートを捕まえてからだって、どうしようかって迷って、結局好きにしろって言ったんだ。止めるよりは、やらせたほうがいいんじゃないかって思って。でも、それだけじゃ、きっとダメだったんだよな。アイツにとっては、不本意だったのかもしれない。
そんでさ…なんていうのかな……俺、もしかしたら、自分で思ってる以上に、腹立ててたのかもしれない。だから……だからアイツに好きにしろって。殺すことを確信して、やりたいようにさせたんだ。たぶん。
でも、結果は違ったよ。殺すどころか、奇跡を願って癒しちまった。
間違ってたよなぁ…俺。しかも、今だって、どっか納得できてないっていうか、許せてないんだ…」
「…………」
「ダメだ。ごちゃごちゃしてて…。ごめん、見舞いだってのに、愚痴ってる」


いろんなことを吐き出してしまいたいと思った。
なのに、うまく言葉にならないのがもどかしかった。
 
響き
カレン [ 2007/09/24 23:16:20 ]
 左腕が痛い……ような気がした。
髪を切ってくれというラスが目の前にいる。
肩の下。
ついこの間まであったはずの左腕がない。髪を切っていると、どうしてもそれが目に入る。
見舞いに行ってからそうだったが、俺はラスの左腕を見ないようにしている。
…震えがくるから…。

「ファントー、俺の食えないもの入ってないだろうな」
「大丈夫だよー。薬草やなんかは使わないから」

台所ではファントーが、山で覚えたという料理を始めている。内容は教えてくれなかったが、材料を見た限りでは、ゲテモノは使ってない。普通に根菜類だの肉だのが用意されていた。
俺達に振舞うのが楽しみらしく、鼻歌交じりだ。
部屋の隅では、犬猫がじゃれあっている。
友人との再会というのは、人間じゃなくても嬉しいらしい。

くつろいだ雰囲気の中、目の前を揺れる金色の髪を見ていて……思い出した。
弟もこんな色だった。
綺麗な金髪だったから、汚れると途端にくすんでしまった。
弟は、近所の子供とよく取っ組み合いの喧嘩をした。原因はいつも俺だった。

「あいつらが悪いんだ。いつもアーサーの悪口を言うんだもの」

泣きながら両親にそう訴えていた。
両親は諌めもせず褒めもせず、ただ抱きしめて頭を撫でていた。

「なんでアーサーは黙ってるの?」

そう訊かれたこともあった。
やり返しても、何も変わらない。それがわかっていたから、黙ってる。
その答えに、弟は不満げだった。


『怒っていたのだろう?』

もちろん。

『あの子の怪我を癒そうとしたときも、奥底に怒りを抱えていたな』

…うん。

『お前は狭間にいたのだよ。怒りを抱える自分と、その自分を許さざるべきと考える自分との狭間にな』

……そうだったのかな…。

『そうなったのも、その子とお前の間に縁があったからだ。断ち切れるものではない。ならば、せめて自分を許せ』

………。

『何故、そうも追い込むのか…』

………だれなんだ。


「カレン、何やってんだよ!」
「どーしたのー?」

ファントーが台所から顔を覗かせ、トゥーシェとクロシェが丸い目を向けている。
そして、俺の手の中には、なんだか予想より長い金髪があった。

「………………ごめん。切りすぎた…みたいだ」
 
フルーツ
カレン [ 2007/10/07 20:35:42 ]
 神殿から帰ってくると、台所でファントーが格闘していた。果物相手に。
見ると、同じ果物が更に2つあった。

「なんだ、コレ」
「さっき市場でロビンに会ってさ、もらったんだ。ラスへの差し入れなんだって。でも、これ、すっごく皮が厚くてむきにくいんだよね。ナイフで切れ目入れても、なかなか剥がれないんだよー」
「ラスに差し入れねぇ。ロビンもなんだかんだ言って、ラスの腕のことが気になるのかね」
「そうなんじゃない? 手紙まで付けてきたんだよ」

その手紙を読んでみる。
内容は、一言だけだった。

「ふぅん。…そうか」



間もなく、ラスも帰ってきて、夕食となった。
食卓には、最近定番のファントー特製、山仕込みの料理。
そして、ラスの前にはたくさんの果物が並んだ。

「なんだよ、これは」
「ロビンからもらった果物だよ」
「果物はわかる。この量はなんだって言ってるんだ」

果物の盛られた皿は、溢れんばかりに積まれている。

「夢中になって、もらったの全部むいちゃった。ちょっと多かったかな」
「見りゃわかんだろ。しかも、なんで俺にだけなんだ」
「だってー、手紙にそう書いてあったんだもん。ラス一人で食べることって。ね、カレン」
「ああ。ロビンがオマエを気遣うなんて滅多にないぞ。怪しまないで食ってやれよ」

「……おまえらな……そりゃ、そういう意味じゃねーよ…」

そう言って、ラスは空ろに笑った。
 
休暇届
カレン [ 2007/10/10 23:23:55 ]
 「ああ、カレン。ここにいましたか」

穏やかな笑顔で現れたのはカールさんだった。
周囲に気を遣い、静かに向かい側の椅子に腰掛ける。
周りには、書物に囲まれ読書にふける者が十数名。俺達二人を気に留めることはない。

「明後日からの休暇届け、受理されましたよ。ノルドへは、さっき早馬を出しました」
「ありがとう。助かります」
「あなた一人ではなかったんですね。ラスも一緒に?」
「あぁ……いえ、ラスじゃないんですが…」

言いにくそうにしたのを、心得たとばかりに手で制して、「野暮でしたね」とにこりとする。

「この頃元気がないようなので、少し心配だったんですよ。ナイマン司祭も、お喋りの途中で、よくあなたが上の空になると気にかけていらっしゃって、休暇が必要なのではないかと口添えもされました。
どうしたんです? 何か悩みでも?」

悩みでも? と言われると、どう話せばいいのかわからない。
どう言い表せばいいのだろう。
アダルバートがドリーを癒したことが理解できない。復讐を遂げなかったというだけでなく、命を助けたことが…。
そのことでアダルバートが救われたのだということはわかる。頭ではわかっているつもりだ。
だが、気持ちがついていってない。
ドリーに対する怒りは、未だ俺の中でくすぶっている。まるで、アダルバートの復讐心が乗り移ったようだ。
そう…復讐心だけが…。
そして、あの「声」だ。
小さな子供に言い聞かせるように語りかけてくるあの声は、あの事件の直後から、ことあるごとに聞こえてくる。
そのことは、ラスにしか話していない。
ラスに話したのは、相棒だからだというだけではない。こういう不可思議なことを、深く突っ込んでくることはないと思ったからだ。

「悩みというほどのことではないですよ。ちょっと疲れてるだけです」
「…そうですか…? まぁいいでしょう。
それにしても、休暇で出向く地にノルドを選んでくれたのは嬉しいですね。彼らは元気でいるでしょうか…」
「今年のエールが、木造の酒場に出てましたよ。いい味でした。きっと、みんな変わらずに元気ですよ」
「おや、そうなんですか? 近々あの店に寄らなくてはいけませんね。向こうに着いたら、よろしく伝えてください。わたしも家族も元気だと」
「わかりました」

やけにいそいそと、カールさんは図書室を出て行った。
きっと、早く仕事を終わらせて、エールを楽しみに行くに違いない。



夕方、スラムに出向いた。
ヘザーを呼ぶ。
金髪が汚れていた。

「仕方ないだろ。もう川の水が冷たくてさ、洗えねーんだ」
「公衆浴場の使い方は教えただろう。…もしかして、お金が足りないか?」
「ううん。あるよ」
「なんで行かないんだよ」
「なんでも」

理由をヘザーは話さなかった。
時々、何故かこの子は頑なに口を開かなくなる。
仕方がないので、ノルド行きのことを話し、明日はその準備をし、明後日の朝、迎えに来ることを告げておく。


帰り道、ノルド村の風景を思い出す。
広がる大地と、山の稜線。人々の笑い声、酒場の陽気な歌。
力強くのどかなあの景色と芳醇なエールの味わいは、人を元気にする。
以前訪れたときは仕事だったが、今回は休暇だ。
ゆっくり気持ちの整理をして、心を洗ってこよう。
 
カレン [ 2007/10/15 22:48:24 ]
 オランの街を発って3日。
道中は何事もなく平和だ。
1日目の晩に泊まった宿で、ノルドへ向かう商人に会った。名はエド。
ノルドでエールを買い付け、パダまで運ぶのだと彼は言った。

「俺達もノルドに行くんだ。おっちゃん、一緒に行こうぜ。この兄さん、冒険者だから役に立つよ」

子供連れの冒険者一人が、なんの役に立つものか。
ヘザーを嗜め、目的地のことは関係なく、なんとなく一緒にエールを飲んだ。
エドは、俺とそう変わらない年だ。家はエレミアだそうだが、商売柄あまり帰れないらしい。ヘザーと同じくらいの娘がいると言って、目を細めて頭を撫でていた。
同じくらい、というと、たぶんヘザーよりは年下なのだろう。きちんと食べることができるようになったせいか、この1年でヘザーは背が伸びたが、それでも10歳程というにはまだ一回り小さい。
その晩は、エドが御伽噺などを話して聞かせ、ヘザーは深夜まで眠りにつかなかった。

次の日は……。
結局、エドの馬車に乗せてもらっていた。
遅くまで起きていたせいか、ヘザーは馬車の中でも寝ていた。
世話になりっぱなしというのも気が引けるので、午後からは手綱を取った。
本当のところ、エドも眠かったようなのだ。そりゃそうだ。子供相手に、何刻も喋りっぱなしだったもの。
馬車の中を振り向けば、エドとヘザーが眠っている。
ヘザーは寝相が悪いのか、時々エドを蹴飛ばして、その度に身じろぎの気配がする。
手綱を取りながら、なんだか可笑しくて笑ってしまった。

「親子じゃなかったのか。母親似にしても、まったく似たところがないなとは思ったけど。なーんだ。ははは」

ヘザーが孤児であることを話した時の彼の第一声だ。
それでも、一応親子と見ていたらしい。似ていないけれど、雰囲気は親子だった、ということだろう。

養父母を思い出す。
昔…子供の頃は家族でよく出かけた。街を離れ、小さな観光地に数日滞在することがあった。
そこには、見知らぬ人々ばかりで、俺が両親と血が繋がっていないことを気にする者はいなかった。
ちょっと毛色は違うけれど、ひとつの家族だと皆が見てくれた。
もしかしたら、父も母も、そんな時間が欲しかったのかもしれない。
ひとつの街に根を張った人達だから……逃げ出すことはできないから、ほんのひとときしがらみを避けて、家族だけで過ごす時間を求めて……。

『彼等は、常に考えていたのだよ』

なにを?

『好きことを…』

幽かに誰かが微笑んだような気がした。
高い、秋の空を見上げても、誰の姿も見えなかった。
 
歓待の夜
カレン [ 2007/10/18 23:55:35 ]
 ノルドに到着したのは夕方。
そろそろ、家々の竈から煙が立ち昇る頃だった。
エドと共に、村長に挨拶をして用向きを伝え、俺とヘザーは現在ノルドにいるチャ・ザの司祭の家へ向かった。

今、この村にいる司祭の名はアルバ。
若い頃からオランの神殿付の神官を務め、後に司祭の地位に着いた。更に上の位に推されたのを辞退し、この村に赴任することを自ら願い出て、今に至っているこの男の好物はエールである。

「もちろん、ノルドエールに目が眩んで赴任してきたんじゃないですよー。最高のエールを作っているのは、どんな人達なのだろうとか、その人達と接してみたいという理由もあるんですからねー」

アルバに会った最初の晩に、彼はそう言って笑った。
嘘ではないのだろうが、限りなく嘘くさく聞こえたものだ。
あれから2年。
久しぶりに会ったアルバは、少し太ったようだった。
「村人達との交流が楽しい証ですよー」と、相変わらず嘘くさい理由を述べて笑った。
しかし、実際のアルバは、面倒見がよく何事にも真摯に向き合う生真面目な男だ。間延びした口調が、本来の性格の角張った部分を柔らかく隠し、親しみやすさを生み出している。体型が丸みを帯びたせいで、更にその傾向が強くなったようだ。

夜には、早速アルバに連れられて、酒場へと赴いた。
商人のエドは、村長と共に既に出来上がっていた。その様子から、商談はとんとん拍子で進んだと推測できたが、あの回りようでは、明日の出立はたぶん無理だろう。
俺達が店内に入っていくと、すぐに喧騒の中心に3人分の席が設けられた。ヘザーも一緒だったからだ。
ヘザーの噂は、既に知れ渡っていたらしい。

「カレンさん、大変だよ。カレンさんに子供がいたって知って、リリィが荒れまくっちゃってさ」
「そーそー、今日はご機嫌伺いに行っておかないとまずいって」
「何がまずいって、当たられる俺達の体がね」
「ちょっと、そこー! おかしなこと言ってンじゃないわよ!」

怒鳴られて面白がる青年達の一幕があったり…。

「ヘザーっていうのかい? 可愛いじゃないか」
「見なよ、綺麗な金髪だこと。将来きっと美人になるよ」
「カレンさんの娘さんなら大歓迎だね。ウチの孫のお嫁さんにならないかい?」
「母さん、あんたの孫はひと月前に生まれたばっかりだっつーの」

おばちゃん達の取り沙汰に軽いツッコミを入れてみたり…。
酒場独特の他愛のないお喋りが、客人である俺達を中心に巻き起こり、いつ果てるともなく続いた。
そのお喋りに彩を添えるのは、もちろんノルドエール。そして、女達が持ち寄ったり酒場の主人が作る手料理。
2年前に記憶をなくすまで飲んだ、あの時のままの光景だった。


夜も更けて、ヘザーがとろとろとしだしたので、その日は先にあがらせてもらった。
まだ飲むというアルバを残し、帰路につく。

「ヘザー、大丈夫か?」
「…眠い…」
「ちゃんと歩けるか? おんぶしてやろうか?」

「ひとりで歩ける」と言って、ヘザーは首を振った。
出会った頃は、生意気なことを言って、打ち解けるまでに時間がかかったヘザーも、小さな仕事を頼むごとに「兄さん」と言って慕ってくれるようになった。飲み込みも早いので、頼む事柄も増えてきている。
会う機会が増えてからだろうか……少し気になることがあった。
生意気言って対等に喋ろうとするところは変わらないが、一時期のような、慕うような甘えるような、そんな態度が見られなくなった。頭を撫でられるのも、少し嫌がっているような気がする。
………反抗期、なのかな。
自分には子供がいないので、対処法がわからないが、この村には同じ年頃の子供がいる父親達がいる。
ちょうどいい。街ではおおっぴらに訊けないことだったから、彼らに訊いてみよう。

ずざっ。
突然、よろめいたかと思うと、ヘザーは地面に倒れこんだ。
もしかして、体調が悪かったのかと、抱き起こしてみると………寝ているだけだった。

そこまで眠いのに、なんで……?
 
10歳
カレン [ 2007/10/21 22:34:37 ]
 「鹿肉の燻製を作るんだってさ。兄さん、俺も見に行っていい?」
「ああ、いいよ。村の人たちの言うことを、ちゃんと聞いて置けよ」
「わかってるよー」

「よー」と言いながら、ヘザーはもう部屋を走り出ていた。
燻製を作るだけで、あんなに目を輝かせるのか…。
たぶん、燻製だからだろうけど。その日の食べ物にも困って空腹を抱えていた頃の名残のようなものだろう。
あとは、そう…燻製作りは子供達も手伝いをするからだ。
この村に来て数日。ヘザーはすっかり村の子供達と打ち解け、毎日誰かと一緒にいる。大勢で遊んでいたり、農作業を手伝ったり。毎日が楽しそうで、夜になるとやや興奮気味に、その日の報告をする。中でも、一番衝撃(?)を受けたのが、牛の乳絞りだろう。ぺたぺたして柔らかかったとか、生暖かいとか、蹴られそうになったとか。話の内容よりも、ヘザーの表情のほうが面白いくらいだった。

こんな毎日なものだから、俺のほうはかなり自由気ままに過ごしている。
時折、アルバの仕事を手伝い、それが終わると畑に出る。
仕事の合間の話題は様々だが、あまり子供の話は出ない。村の者同士、気遣いというものがある。
結婚してから5年経つのに、子供ができない夫婦がいるのだ。

「だから、一月前に子供が生まれたときも、あまり盛大にはできなかったんだ」
「あんまり気ぃ遣うのも逆効果だ。あそこんチに生まれたら、ぱーっとやろうや。それでいいんじゃねーか?」
「子供がいないのも、ある意味いいかもしれんぜ? うちなんか、もう膝にも座ってくれないよ。毎日一緒にいるのに、さみしいよなぁ」
「そりゃ、お前んとこは女の子だからのぅ。女の子は10歳にもなればいっぱしだ。嫌われとるわけじゃなし、子ども扱いせにゃいいこった」
「おやっさんだって、上の娘さんのときはしょんぼりしてたくせにぃ。親父から聞いたぜ」
「うるさいわぃ。おら、手ぇ動かさんかい。日が暮れるぞ」

……そんなものか。
一人前の女扱いしろ、と…。



夕方、帰ってきたヘザーは、体中から煙の匂いをさせていた。
肉と一緒に燻されたのかと思うくらい。
温泉に行こうかと誘うと、二つ返事で行くと答えた。
温泉は村のはずれにあるので、一人では行こうとしないが、どうやらヘザーは気に入っているようだ。

目的の温泉が見えてくると、ヘザーは駆け出した。
走りながら、器用にシャツを脱いでしまっている。
温泉近くに建てられている小屋に入ることもなく全部脱いで、脱いだものは適当に小屋の中へ放り投げ、「ひゃほぅ」と奇声を上げながら湯の中へ飛び込んだ。

「きーもちいいーぃ。さいこー。兄さんも早く来いよー」

そして、飛沫を上げながら泳ぐ。

いやぁ……あれは無理だろ。
どこをどう女扱いすればいいのか、皆目見当がつかない。
 
住人達の交流
カレン [ 2007/10/24 22:16:22 ]
 ノルドの村に、一人の職人がいる。
ルノーという40代の男だ。
もとはオランに住んでいたのだが、奥方が亡くなったのを契機に、以前から惚れ込んでいたエールの産地であるこの村に移住してきたのだという。
村の外れに、小さな家を建て、日々樽を作っている。もちろん、それはノルドエールを出荷するための樽だ。サイズは、大きなものから、片手で扱えるくらいの小さなものまで様々だ。そのおかげで、需要に応じて樽の大きさを変えて出荷することができるようになった。
ルノーの仕事はそれだけではない。村人に頼まれれば、桶から家屋まで、修繕をすることもある。忙しいときには、畑仕事もこなす。
要は、エールとこの村の全てをこよなく愛する人物だ。故に、村人達の受けもいい。
もともとチャ・ザの信者で、アルバとは気が合うのか、よく酒場で一緒に飲んでいる。


「カレンさん、ちょっと出かけてきますねー。洗い物を頼んでもいいですか?」
「ああ、やっておきますよ。今夜もルノーさんと?」
「いえ、今日はちょっと違う用向きです。集会ですよ」
「集会?」
「会議といいますかねー。村人達が集まって、意見交換などをするんです」
「へー。そんなことをやってるんですか」
「この村も、名が売れてきましたからね。足並みを揃えるために必要なんですよー。じゃ、帰りは遅くなりますからー」

そういえば、2年前に比べると、ノルドの人口が少しだけ増えたようだ。
以前はいなかった顔、建物。
あれは、最近移住してきた人々であり、彼らの住む家だったのだ。
新しい土地で暮らそうとする者にとって、村人達との交流の場を持つのは大切だ。
今夜の集会は、そういうものなのだろう。

「兄さんは行かなくていいのか?」
「俺は部外者だからいいのさ。余所者が村のことに口出しするものじゃない」
「リリィとケッコンしたら、よそものじゃなくなるんじゃねーの?」
「…………………馬鹿なこと言うな」


結婚だってさ。
びっくりするようなことを言い出すヤツだ。っつーか、誰が教えたんだ。
とりあえず、ヘザーには言い聞かせておこう。

「そういうことは考えてないから。俺に関して結婚だの嫁さんだの、あんまり……いや、絶対喋らないようにな」
 
夢の中で
カレン [ 2007/10/28 12:02:46 ]
 炎を見ていた。
風に煽られ渦巻き、外へ、天へと勢いを増す炎の中で、逃げ惑う人々を見ていた。
炎は灼熱の壁となり、行く手を阻む。全てを飲み込む。
この世のものとは思えない業火の中で、ちっぽけな人間はなすすべもなく倒れ、焼かれてゆく。
消えてゆく。
悲鳴も助けを求める声も……小さな泣き声も……。
残るものは、絶望感だけ。
自分の無力さを思い知らされ、立ち尽くす。膝を折る。
蹲って、助けを求めた。

「神よ。助けてください」


自分の声で目が覚めた。
ひんやりとした空気と薄闇がそこにあった。
こわばった身体をなんとか動かし、起き上がる。手が震えていた。呼吸がうまくできない。
息を吐き、何度か大きくゆっくりと深呼吸をする。

「…ヤな夢…」

無理やりしぼり出した声は、かすれていた。
なんで、あんな夢を見たのか…。
いや、わかるような気がする。
焼きついて消えないんだ。彼の…アダルバートの苦痛の顔が。ドリー・キリバスという下衆の非道さも。
許せていない…。



『彼の者の苦痛は、どこにあったのだろうな』

どこに?

『お前は炎の中で何を望んだ』

助けてって…。
みんなを死なせないでって…。

『そう。彼の者の懇願も祈りも、誰かの死ではない。苦痛はそこから発するのだ』

…………………。

『同じところで躓くとはな…。お前も長い年月を費やすつもりか?』


徐々に小さくなる声の持ち主の苦笑いをする姿が、目の前に一瞬だけ現れたような気がした。
その姿を追おうと、寝台から立ち上がり窓辺へと駆け寄る。
カーテンを開ける。
そこには、白く明けようとしている空と、力強い大地が見えるだけだった。
 
溜息
カレン [ 2007/11/08 22:31:24 ]
 人間は悩みがあると、明るく振舞うことが困難になる。
自然と顔が暗くなり、笑ってもぎこちない。食欲も落ちる。
生来明るい性格であれば、その差は顕著だ。わかりやすい。

「パン、残りましたね。レーズンは嫌いだったかな」
「好き嫌いはないはずですけど」

食卓をはさんで、アルバと首を傾げあった。
テーブルの真ん中には、夕方焼いたパンが5、6個、籠に収まっている。
どちらともなしに、ひとつずつパンを取り、口に運んだ。
冷めかけの紅茶をすする。

「ヘザーがいないと、静かですねー」
「…ええ、まぁ…」

だいたいが、普段食卓で喋るのは、アルバとヘザーだ。俺は相槌を打つだけ。
いつもの話し相手がいないと、アルバも会話の糸口が掴めないらしい。

この頃、ヘザーの様子がおかしかった。
そとで子供達が遊んでいるのに、部屋に閉じこもっていたり、話しかけても上の空だったり、いつもかっ込むようにして食べていた食事に時間がかかるようになったり…。それがついに、残すようにまでなってしまった。
そして今夜は、もう部屋にこもっている。
「おやすみ」と挨拶をした後についた、盛大な溜息も気になる。

「どうしたのかなー。何かあったんでしょうか。……聞いてませんか?」
「いえ、何も…」

「聞いてませんか」と言いつつ、アルバのその目は、「理由を問いただせ」と訴えている。
言われるまでもなく、そんなことはとっくに訊いている。けれど、本人が話そうとしないのだ。
俺だって、実をいえば困ってる。


今夜も飲みにいくというアルバを見送り、ヘザーの様子を覗いてみた。
毛布を半ば身体に巻きつけるようにして丸くなっていた。
しばらく眺めて、枕元を離れる。
そして、ふと思い出した。
昔、こんなふうに枕元に立っていた人がいた。
その人はシェイド。子供は、俺。
ドレックノールで過ごしていた頃は、ことさら沈みがちだった俺は、その理由をシェイドに話せなかった。
アッシュの嫌味攻撃だの、暗殺術の会得だの、それに伴って神の存在が遠のいていくことだの…。話せば、この人に見放されるんじゃないかと考えて、何も言えなかった。
彼は、あの時、困っていたんだろう。どうしたらいいかわからなかったんだ。今の俺と同じ。
じゃぁ、ヘザーが何も喋ってくれないのは、それと同じような理由なのだろうか。
……………いや。
そんな理由が成り立つ要因がない。……ないだろ? この平和な村で。


寝室を出ると、思わず溜息が出た。さっきのヘザーに負けないくらい深い溜息で、自分でも驚いた。
 
欲しいもの
カレン [ 2007/11/29 0:48:35 ]
 もう冬がそこまできている。
そろそろオランに帰ろうかと考えながら、連日薪割りをしていた。
そんな折、村の夫婦者が訪ねてきた。
なんだか妙におずおずとして、挨拶したあとの会話がつっかえた。
お互いに顔を見合わせていた夫婦者だったが、夫のほうが本題を口にした。

「ヘザーのことなんですけど…あの…」
「あぁ。アイツね…」

ヘザーは、結局あのあと寝込んでしまった。
変に口数が少なくなって、食が細って、食卓に着くことも拒むようになって……。2日前だったか、腹が痛いと言って動けなくなった。
あのこは呆れるくらい我慢強い。本当は、その前から痛かったはずなのに、倒れるまで何も言わなかった。こちらが気遣えば気遣うほど口をつぐむ。
俺が対処に困っているところに、これだ。
こんな経緯を夫婦者に話すと、何故か二人は狼狽した。
訳を訊くと、「すみません」と頭を下げた。

「実は…村の子供達と一緒に、ヘザーが何度か遊びに来たでしょう? その時に、こいつがが言っちゃったんですよ。うちの子にならないかって…。あ、でも、そんな強引な言い方じゃなかったですよ。話の弾みというか…つい口が滑ったっていうか…そんな感じだったんでしょうけど」
「その後からヘザーに元気がなくなって…外にも出てこなくなっちゃったから、なんだか気が咎めて…」
「はぁ…」
「ごめんなさい。わたし達のせいでヘザーが…」
「いえ、それが原因と限ったことではないし。もしそうだとしても、糸口が掴めたと思えば、対処はできます。心配しないでください。そのうち元気になります」

話していて思い出した。この二人には、子供がいない。



夫婦者が帰った後、薪割りを放り投げて、ヘザーのところへ行った。
シーツも毛布も乱れきった寝台の端っこに、ヘザーは丸くなっていた。よっぽど痛いんだろう。
でも、眠ってはいない。名を呼ぶと、蚊の泣くような声で返事をした。

「悩んでるんだったら、さ…相談してくれないかな」

違う。こんな言い方では、かえって逆効果だ。

「ヘザーが黙ったままだと、心配するしかできないんだよ」

馬鹿だなぁ。自分のことはどうでもいいじゃないか。

「…ぇ〜っと…」

間をおくな。

「オレ、兄さんと一緒がいい」
「え?」
「兄さんの仕事をしてるのがいい」

相変わらず毛布に包まって、背を向けたままだったが、ヘザーはきっぱりとそう言った。

「そうか…。わかった。じゃ、元気になったらオランに帰ろう。一緒にな」



その夜、近々オランに帰る旨と、ヘザーの体調不良の原因、経緯等をアルバに打ち明けた。
すると、今まで見せたことのない真面目な顔で、「あなたはダメダメです」と言い放った。

「カレンさん、あなたは肝心なところで回りくどい。どうしてそうなっちゃうんでしょうね。
まぁ、ヘザーが悩んだ理由がわからなかったのは、この際置いておきますがね。実際、本当の親でもわからないことは多いですから。しかし、原因らしいことがわかったのなら、もっと率直に、あなたのほうから歩み寄って行かないといけませんよ。
いいですか? こんなふうにして(と両手を広げて)、困っているなら神の元へいらっしゃ〜い。何でも聞いて差し上げますよ〜。…なんて言ってたって、だれもすがってきませんよ。でも、あなたがやったのは、まさにこれです。無視しないですがってきたのは、ヘザーのあなたに対する気遣いです。
人と交わるときに一定の距離を置くのはあなたの癖なんでしょうね。そういうことが必要なときもあります。それは認めます。が、全幅の信頼をおいてくれる相手にまでその態度は、いかがなものかと思いますよ」

そうだった…。
昔、俺がシェイドにかけて欲しいと思った言葉。そして最後まで得られなかった言葉。
彼は不器用で、子供との接し方を知らなくて、一緒にいたいと思っても、どこかで立ち入ってはいけないと感じていた。今、頼られる立場になって、俺は当時の彼と同じことをしてしまった。
アルバの言い分は、俺にとっては刃のようなものだ。鋭く突き刺さってくる。しかし、それは温かくもある。
だから、素直に「はい」と答えるしかできなかった。
 
覚え書き
カレン [ 2008/03/02 23:48:18 ]
 ヘザーの回復を待ってオランに戻ってきたのは、結局新しい年になってからだった。
ノルドのエール(1樽)は、その前にラスのところに送っておいたが、俺が帰った頃には既になくなっていた。あの家は客が多いし、なにより家主本人がよく飲む。想定内だ。
ヘザーはスラムに帰っていった。
暖を取りたければ木造の冒険者の店に行って、俺の名前を出して休ませてもらえと言っておいた。
フランツやハリートにも、そのことを頼んでおいた。
が、その後毎日店のほうに顔を出したけれど、一度もヘザーは来なかった。


オランに帰ってきてからは、主に神殿で寝泊りしている。
理由はいろいろあるが、主なところは…まぁアレだ。休暇が予想外に長くなったからだ。
カールさんから回ってくる調査依頼が多いのだ。どうやら正攻法では埒があかないものが溜まっていたらしい。(横領や紛失を装った盗難なんてものは、どんな組織にもあるものだ)
それをこなしつつ、信者宅を訪問し、帰ってくれば書類を作成し、夜はナイマン司祭に捕まって話し相手をする。
たまにレイモンド司祭にも声をかけられ、家に招かれる。彼はあの後、随分と人柄が丸くなった。「リンドの肖像画が届いた」と目を細めるほどに。肖像画といっても、羊皮紙に木炭で描かれた小さなものだが、それを額に入れて飾っている。

そんな神殿の用の合間を縫って、巣穴に顔を出せば、「仕事」を吹っ掛けてくるヤツも数人…。
全て断っているが、唯一スウェンの用だけは引き受けてやった。書類をラスに届けるだけだったからだ。

「あいつ、お前を使ったのか」

一言そう言って、ラスは書類を受け取った。
後日、稲穂の実り亭でスウェンに「酒を奢らせてくれ」と何故か必死の形相で言われたが、なんだか気味が悪いので丁重にお断りした。……泣きそうな顔してたけど、何があったんだか……。


そんなこんなで結構忙しい毎日だ。
何かを深く考える暇がない。寝台に横たわれば、すぐに眠りについてしまう。
夢も見ない。
ある意味、それは気が楽ではあるけれど、その反面、大事なことを忘れてしまいそうで怖い。

”ヘザー”、”アダルバート”

羊皮紙にその名を書き付け、懐にしまいこむ。
今はこれくらいしかできない……。
情けないことだ。
 
頼まれごと
カレン [ 2008/08/22 1:54:15 ]
 ………………………………誤診。
……誤診かぁ。
ラスから相談を持ちかけられ、その内容に少なからずがっかりしたことに、自分自身が少々驚いた。
自分の伴侶となる人のことではないにも拘らず、だ。
おそらく、俺の願望が強いせいだろう。
オランに来る前後だったろうか。子を成すことに、俺は漠然とした憧れのようなものを抱き始めた。
木造の酒場の主人だったマックスには子供がいて、店に顔を覗かせることがあった。
神殿では、カールさんから子供の話が聞けることもある。更には、レイモンド司祭からもシエラとリンドの近況報告が入る。
一緒に仕事もした仲のギグスに、子供が生まれたときには贈り物をした。
仕事で訪れた村や街、キャラバンの中の誰か。たった一度会うだけの人々からも聞ける、ありふれた話題。
みんな一様に幸せそうに笑って話すのだ。(例外もあるにはあるが…)
俺はその様子も空気も知っている。
懐かしい……。
その懐かしい空気を求めて、願望は年々強くなるのだろう。
ラスの子供とはいえ、長年傍らにいた相棒の子だ。自分の息子か娘ができるのと匹敵するくらい嬉しかったのだが……。
そうか……。誤診の可能性か……。
……………。
いや、自分のことはいいや。
それよりも、セシーリカの落胆した顔は見たくないなぁ……。
どう切り出そうか…。


ぽん、と背後から肩に手を置かれた。反射的に、腰に手をやりつつ振り返る。

「丸腰でしょう? ここは神殿ですよ、カレン」
「……あ、カール…さん」
「『さん』はいりません。他の神官や司祭でなくてよかったですよ。今の表情は、裏社会の顔そのものでした。……珍しいこともあるんですね、上の空で…」

「珍しい」と言われて、迂闊な自分を自覚し、「あー」とか、「うー」とか、不明瞭な返事を返して目をそむける。

「ちょっと話があるんで、部屋まで来てくれますか?」

俺の反応を見て、追求は無駄、または不必要と判断したようだ。切り替えの早さが、カールのいいところだ。



「昇進?」
「ええ。でも、急な話ではありませんよ。上のほうでは以前からあったんです。で、今回、ほぼ決定ということで…」
「ほぼ…?」
「満場一致ではないんです。位はそのままで本殿に残すことを望む人もいます。更に言えば、本殿配属で昇進という人もね」
「………それ、かなり含みのある人事では?」

苦笑いを返すカール。これは、肯定ととっていいだろう。

「昇進と同時に、本殿以外に配属です。場所はここ(と、地図で示す)。スラムが目の前ですね。礼拝堂と執務室、あとは私室として使える部屋があるだけという場所ですが…」
「なるほど」
「どうです? 受けるか受けないかは、一応本人次第なんですが」
「受けますよ。巣穴に近いんで、便利です」
「…………わかりました。そのように報告します。異動は9の月1の日です。それまでに、私物があれば運び出しておいてください」
「はい。…………カール…これってやっぱり、アレかい? 上のほうの目論見としては、左遷というヤツかな?」
「一概には言えないんですけど、目の上の瘤と思っている人はいるでしょうね。あなたも……わたしも、ね」


夕方、たいして多くもない私物を持って家に帰った。
「ただいま」と声をかけた目線の先には、青白い顔でソファに横たわるセシーリカがいた。
「おかえりなさい」と、顔だけをこちらに向ける。

「具合、よくない?」
「…うん…」
「腹、痛いか?」
「…ちょっと…」
「……熱はないみたいだけど……めまいとかする?」
「…少し…」
「吐き気は?」
「…する…」

風邪? 悪阻? どっちだろう…。季節柄、食中毒という可能性もあるし。
俺がここで質問攻めにしても、判断はできない。答えるセシーリカもしんどいだろうから、医者に診せることにした。
エーディト婆さんのところではなく、うちの信者が懇意にしている医者だ。
ラスから聞かされた婆さんの話があったからというのもあるが、それよりも、ヴェーナー神殿近くまで行けるような様子には見えなかったからだ。
エーディト婆さんに関することを話そうかどうか迷ったが、具合が悪いときに聞かせる話でもないだろう。診察が終わって必要なら、「ラスからの情報」ということだけ抜いて説明しよう。

医者に診せた結果がどうなるか、正直ちょっと気が重い。
っていうか、なんで俺がそんな心境?って感じなんだけどなぁ…。
 
靴底の少年
カレン [ 2008/11/21 0:30:47 ]
 スラム近くに住むようになってもう2ヶ月以上過ぎた。
ここへの使いの神官たちが被るスリの被害は、本殿では大きな問題となっている。その件で呼び出されること数回。
何度も繰り返し、やめさせろだのなんとかしろだの言われたが、治安維持は俺の仕事じゃない。スリを捕まえて「それは悪いことだからするな」と言うのか。言うだけなら簡単だ。だが、そのあとはどうする。そうしなければ食っていけない彼らを、生活の補償もなく、糧を得るための唯一とも言える手段を奪って放り出すだけか。
しかも、スリを働く連中の中には、それを生業とする猫がいる。れっきとした盗賊ギルドの一員だ。そいつ等の仕事の邪魔をしろと?
冗談じゃない。できるか。
せっかく自衛策を伝えてあるのに、見栄があるのか実践しようとしないから狙われるんだ。
挙句に「カミサマ」なんて揶揄されて……。


そんな日々の鬱憤をいつもの酒場で多少晴らした数日後のことだった。
「兄さんを探している人がいた」と、ヘザーが客を連れてきた。
アリュンカだった。

「靴底のヤツラのことなんだけどサ。ちょっと…ヤバそうなの見つけたんだよネ。一緒に来てくんない?」

よほど急いでいるのか、早口にそう告げると先に立って走り出した。
アリュンカの案内で着いた場所は、スラムの奥近くの狭い路地だった。そこには、成人したかしないかというくらいの少年が倒れていた。片方の耳が半ばちぎられていた。血にまみれ、もつれた髪の中に、中途半端に尖った耳が覗いた。蒼白な顔。呼吸はしているが、浅く弱々しい。抱き上げた身体は冷え切っていた。

「ソイツ、靴底の中でもかなり手練れですばしっこいヤツなんだけどネ」

捕まったのが不思議だという口調だ。
まぁ、いくらすばしっこいといっても相手が素人じゃなければ捕まる可能性はあるんだが…。
そこで数日前の酒場での会話を思い出す。

『シメといた方がいいならちゃんと「躾」施すぜ?』

…シタール…?
………………………。
いや、まさかね。
そんなはずはない。いくらパダ流の「躾」といったって、こんな瀕死に追い込むようなマネはしないだろう…。

「助けるの? 兄サンに迷惑かけてたヤツラの一人だヨ?」
「そういやオマエにとっても気に入らない連中だったっけな。…けど見殺しにはできないんだよ」
「助ければ恩に着てくれる連中でもないヨ?」
「だろうね。いいんだよ、それでも」

そう。どんなことだろうと、糸口にならないとも限らない。
それ以上に、この少年の有様を見ながら放っておいたら、俺は自分が許せなくなる。


暖炉の前で少年の身体を温め、手当てをしようと服を脱がせると、そこには信じられないほどの傷や痣が刻まれていた。火傷もある。スられた腹いせに殴ったというだけではなさそうだ。
とりあえず、数箇所の深い傷には”癒し”を施した。
気力も萎え、自分では手の施しようがなくなった頃、ラスが一冊の本といくつかの情報を携えて訪れた。
井戸や邪教徒の話を聞かされ、そろそろネタも尽きようかという真夜中。
珍しい客が現れる。
リヴァースだった。
 
カレン [ 2008/12/27 2:21:33 ]
 (注:続々・日常#{386}「最大限の努力」の続きです)


あの長い戦いの日から、俺はほぼ毎日「砂沸き」に通っている。
男爵の撒いたニルガルという種が、その後どうなるか見極めるためだ。
住民は貧しい中で自分達にできることを模索し、協力し合って懸命に生きている。多くの住民が集まって、話し合いも頻繁に行われている。意見がかち合うことはよくあるが、それが元で諍いに発展することはない。彼らは皆、人の意見に実によく耳を傾ける。
そして、ニルガルの名を口にする者は、いない。
不審な人物が潜伏している様子もない。

今日もそんな様子を見て胸をなでおろし、分神殿に帰る。

その途中。
「梟の足」の足を通りすがると、井戸の周辺で人々が騒いでいるのに出くわした。
喧嘩ではなさそうだ。
女子供が遠巻きに見ている。
聞こえてくるのは、「しっかりしろ」だの「聞こえるか」だの、病人に呼びかけるような……。
………病人?

もしや、最近流行ってる流感患者が出たのかと、輪の中に入ってみる。
そこには…。

「ラス……オマエ。どうした?」

返事はない。
全身が震えている。熱が高かった。
どうしてこんなに熱があるのに出歩くんだか…。
住民に話を聞くと、井戸の水の様子を見ながらエナンと喋っている時に、急に発作を起こして倒れたとか。…なんの発作だ。そんな持病持ちだなんて、今まで聞いたことはない。
とりあえず、住民には身体に異常があったときは、すぐに連絡するように言い置き、ラスを分神殿まで運んだ。

分神殿に着く頃に、ラスは一応意識を取り戻した。
事情訊くと、この頃ずっと体調は悪かったという。だが、仕事も忙しいので精霊力に働きかけて抑えていたらしい。
セシーリカが一緒にいるのに、何故なにも言わずに放っておくんだ。呆れたヤツだ。
「ゆっくり休め」と言って置いて、水を汲みに行く。

隣接した小さな礼拝堂には、ごく控えめな幸運神の像がある。
それを横目に見ながら通り過ぎる。
ふと、気配を感じた。
背後……。
いつもの、あの得体の知れない気配だ。
振り返ることはしない。
嫌な感じではないし、すぐにいなくなるから。
かまわずに中庭に出る。

『戻れ』

は?

『離れてはいけない』

……どういうことだ。今までこんなにわかりやすいことを言ったことはないぞ。
………………。
逡巡していると、建物の中、ラスが寝ている部屋から大きな音がした。
戻ってみると、ラスは床にうずくまっていた。
慌てて寝台に寝かせなおす。
意識があるのかないのかわからないが、今度は俺の服を掴んで離さない。
唇は動いているが、既に声になっていない。呼吸がおかしい。
普段のラスからは想像できないほどの力で暴れる。
押さえつけるのが精一杯だ。

『呼べ』

なんだ?

『我が名を』

…っ!?

『新たな力と共に、お前の祈りに応えよう』

背後に温かい空気を感じ、振り返ろうとした瞬間、暴れるラスに殴られた。
現実に引き戻される。
なんとかしないと……もしかして死んでしまう…?
頭の中に照れ笑いのセシーリカの顔が浮かんだ。

……わかった。力を貸してくれ。
オマエ……あなたの名は…。

――我が偉大なる幸運の神チャ・ザよ……――



「兄さん。にーさん! 起きろってば!」

激しく揺さぶられて目を開けると、ヘザーが心配そうに覗きこんでいた。

「どーしたんだよ、兄さん。ラスにーちゃん押さえつけたまんまずっと動かないから、オカシクなっちまったのかとおもったよ」
「…ああ、ごめん。ずっとってどのくらい?」
「わかんねー。オレが来たときから5分は経ってるから、たぶんその前からかな」

ラスの呼吸は落ち着いていた。
意識はまだ戻っていない。熱も相変わらず高いが、普通に眠っているように見える。
明らかに、さっきまでの症状が軽くなっている。
部屋の中を見回すが、オレとラス、ヘザーのほかには誰の姿もなかった。
空気もひんやりとして、温かみはわずかにも残っていない。
掌を見る。
流れ込んできた力の奔流。その感覚だけがその中に刻まれていた。


その後、ラスをマーファ神殿の施療院に運んだ。
チャ・ザ神殿より馴染みがあるし、そのほうがセシーリカも安心だろう。
今年は施療院の世話にならないと本人は決めていたようだが、それはもう諦めてもらうほかないだろう。
ラスのヤツ、目が覚めたら驚くだろうな…。